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8 珠玉の過去

 珠玉の過去






(・・・・・)


 涼介は煙草を吸える一号車の窓側で考えていた。


 湿った心に情熱という火を付ける為に涼介は恋愛の理想と〝まゆみ〟という女性との現実を何度も何度も心の中で擦すり合わせていた。しかし心の中から取り出したい好きという気持ちと、好きになろうとする気持ちは幾いくら擦すり合わせても斑むらなく混じり合う事はなかった。


(何が不満なんだ・・・俺は一体何を望んでるんだ・・・素晴らしい女性じゃないか・・・この出会いを恋の始まりだとして、愛が生まれて育つ様な事をやるべきなんじゃないのか?・・・じゃぁ何故なぜキスなんかしたんだよ・・・彼女にしたいって思ったからだろ?・・・)


 涼介は左手で玩もてあそんでいた携帯電話を開いた。




    ■新規メール作成■宛先■まゆみ■


    お疲れ


    食事の時に僕は恋に落ちた。


    路上のキスで少年に戻った。


    タクシーの中でときめいた。


    改札の前で、まゆみが恥ずかしがる


    エッチをワイルドにしたいと思った(笑)




    じゃ、また。


    おやすみ^^


    ■SUBMENU■編集■戻る■11:27■




(・・・これでいいのかよ・・・いや、これでいいんだよ・・・)


 涼介は圧力で軋きしむ窓の外で緩ゆるやかに流れる町の灯あかりに焦点を合わせられないでいた。


(ときめいた、か・・・)


 メール画面に目を落とした涼介は送信ボタンを押す前に、少しだけ躊躇ためらう素振そぶりを自分に見せた。


「相変わらずぬるいな」


 涼介は携帯電話の電源を切った後、そう声を出して自身の行動を自虐的じぎゃくてきな客観で振り返り、切り捨てた。それは美化され続ける珠玉だった日々を思い出す為のルーティンの様にもなっていた。そして小倉駅に着く迄の20分間という、絶妙な間合いと独特な静けさが与えてくれる孤独の中で、涼介はまた何時いつもの様に〝マキ〟という理想の原点を振り返ろうとしていた。




              ▽




 梅雨明けを知らせ様とする雷雨がバブル景気の香りが残る元町を激しく叩き付けていた。


 1991年、横浜に夏が来ようとしていた。


「お疲れさん!」


「お疲れです」


「おっ、今昼飯か?」


「はい、今日ラスト迄なんです」  


 勢い良く休憩室に入って来た店長は食事中の涼介に二、三言葉を投げて窓の方へ歩いて行った。


 外は滝の様な雨が降っていた。遠くで雷が砕くだける音も聞こえていた。


 4月、レストラン事業を全国展開している食品会社に大学新卒で入社していた涼介は、関内にある本社の企画開発部に配属され、その年の6月1日から現場での接客サービスのノウハウ、関連業者との取引形態、パートやアルバイトのシフト調整や商品管理システムを研修する為に元町に在る直営レストランで勤務していた。


 涼介に割り振られたレストランは、雰囲気の良い、美味しいイタリア料理のランチやディナーを気軽に堪能出来たんのうできる店として石川町や元町商店街で働く人達から愛されていた。


「すげぇ雨だな」


 店長は二階にある休憩室の窓から裏通りを見ながら涼介に言った。


「そうですね」


 涼介は箸を止めて返事をした。


「もう仕事には慣れたか?」


「はい、大丈夫です」


 涼介は元町店で1ヶ月半を過ごしていた。


「そうか」


 店長は外を見たまま満足そうに頷いていた。


「佐久間、明日バイトが三人入るからよろしくな」


 店長は自分のデスクに戻りながら、落ち着いた声で涼介にそう言った。


「色々教えてやってくれ、それが佐久間の為にもなるから」


 椅子に深く腰を下ろした店長は、そう付け加えた。


「はい、分かりました」


「頼むぞ」


 店長は涼介に期待していた。


「はい」


 何時もなら夕日が差し込んでいる筈はずの窓の外は夜の様に暗く、街路樹は強風で乱舞らんぶしていた。


 涼介は残りの賄まかないを黙々もくもくと胃の中に掻かき込んでいた。


 雷のフラッシュが時折音もなく窓を明るくしていた。




(やべぇやべぇ)


 取引先との電話応対で朝礼に少し遅れた涼介は、昨日の店長の言葉を思い出しながら小走りで列の一番後ろに付こうとしていた。


 朝礼は店長の何時もの訓示が終わり、フロアスタッフのアルバイト募集で採用された三人の女性の簡単な自己紹介が始まっていた。


(マジかよ・・・)


 採用されたスタッフが全員女性だとは思っていなかった涼介は、列の一番後ろで彼女達をチラッと見た後、そう心の中で呟いた。


(やり難にくいよなぁ・・・)


 涼介は顔を俯うつむかせたまま、彼女達が働き易やすい様にサポートして行くにはどうしたらいいかを考え始めていた。


〝じゃ、どうぞ〟


(・・・・・)


 涼介は顔を上げた。それは店長が最後に残った女性に挨拶を促うながす声だったが、涼介はその声が自分に向けられたかの様に反応し、その女性に視線を向けた。


〝山崎マキです。宜しくお願いします〟


(・・・・・)


 涼介はマキの顔をじっと見つめていた。


〝・・・はい、始めてですけど、早く仕事を覚えて・・・〟


(・・・・・)


 店長と言葉を交わしているマキから涼介は視線を外せなかった。


 涼介は雷に打たれていた。一人の女性が放つ、全てを焦がす雷の様な強い力に体を縛しばられ、胸を射抜いぬかれ、呼吸を止められていた。


(・・・・・)


 涼介はマキを強烈に見つめ続け、その瞳はマキの姿を全身に取り込み続けていた。


 一瞬にして恋に落ちていた。


 想像を遥かに越えた一目惚ひとめぼれだった。


(・・・・・)


 涼介は瞬まばたきを忘れ、挨拶を終えたマキを見つめ続けていた。




 山崎マキは山手に在るフェリス女学院大学の二年生だった。19歳の半ばを迎えた、細身で、日焼けした肌に艶つややかなショートの黒髪と奥二重の大きな瞳が印象的な女性だった。


 マキはスケジュールの空いた時間を上手く利用して働いていた。ランチタイムの時だけもあれば、ティータイムからラスト迄働く事もあった。


 マキに仕事を教える涼介は充実を感じていた。


 マキは仕事を教わる涼介に対して屈託くったくがなかった。


 涼介はマキの全てが好きだった。呑のみ込みの早いクレバーな仕事振りも、媚こびを売らないスマートな言葉も、仲間同士で交わすエッチな話題にもセンス良く付き合うバランス感覚も、時折見せる茶目ちゃめっ気けや誰にも融合しないクールな思考も、自信と不安が混在する主語のない会話も、そしてそんなマキのベースとなっている大らかさに涼介は魅力を感じ、舞い上がり、心を揺さぶられ続けていた。


 涼介はマキと出逢って恋愛に求める理想という不確定要素の多い概念を初めて具体的に認識していた。


 マキは予感していた。


 二人が出逢った朝、マキは涼介の純粋で力強い視線を心にしっかりと感じていた。マキはそんな涼介の視線に込められた思いを何時か必ず全身で受け止める事になると予感していた。


 マキも涼介に一目惚ひとめぼれをしていた。マキが自身の心に結論付けていた〝予感〟という感覚は、言葉も交した事のない男性を恋する事に躊躇ためらう心が自分に対して最大限譲歩して導き出した言い訳に過ぎなかった。


 引き付け合う二人の恋心は、取り巻く全ての人に対する優しさや思い遣やりという前向きな感情となって発散されていた。一つの出逢いに因よって引き出された健全な精神は理屈や定義ではない、人間として誰もが持っている〝愛〟という概念の本質を二人に見つめさせる機会を与えていた。そしてその愛はお互いを見つめ合う〝恋〟という激しい感情と融合し始めていた。


 マキと涼介は、そうなる事が当然の様に8月の頭には恋人同士となっていた。


 二人は人生の中で二度は無い様な相思相愛という、誰もが一度は描き求める理想の下もとで、尽つきる事のない愛情を注ぎ合おうとしていた。




              △




「・・・終っちまうなんて・・・」


 涼介は新幹線の中で過去の恋愛を今更ながら嘆ねげいた。


 涼介の心の中で封印され続けているマキとの想い出は、樽の中で熟成されるワインの様に長い年月をかけて極上の風味を付けていた。そしてそのワインは、昔、最も愛した恋人を思い出す時に感じる切ない色ではなく、今でも愛しい人を想う時に感じる哀しい色を付けていた。


(付き合って直ぐだったんだよなぁ、車無かったし買うつもりだよってマキに言ったら、ヤツ、セリカが好きだって言うもんだから結局セリカになっちまってさ、参ったよなぁあの時は・・・そうだよ、八月に下田まで泊まりに行ったんだよそのセリカで・・・プライベートビーチの雰囲気良くてさぁ、ビーチパラソルの中でヤツがサンオイル塗ってて、黒のビキニがたまんなくて、寝たふりしながらチラチラ見てたんだけどヤツは俺が寝てるって勘違いしててさぁ、そっと俺のサングラス外してキスしやがったんだよ・・・束ねた髪、色っぽかったなぁ・・・あれ以来だよ、マキの着替えとか小物が俺ん家に増えて来たのは・・・石川町の駅裏にある炭焼き屋にもよく行ったなぁ・・・ヤツのバイトがラストまでの時は必ず行ってたもん。仕事中、廻りの皆にバレない様にサイン送ってさ・・・擦れ違う時なんか〝タワーレコードで待ってるねっ〟ってヤツが耳元で囁ささやいてさ・・・ベイブリッジの上でキスした事もあったなぁ・・・十月だったかなぁ・・・思い切って車停めて、橋の上に降りて夜景見たんだよなぁ・・・そうそう、会社の飲み会でよく冷やかされてたんだよ・・・〝お前達付き合ってんのかよっ!どうよ山崎!そうなの?なぁ、佐久間、言っちゃえよ、俺、山崎の事好きなんだからさぁ〟とか酔った先輩に言われちゃって、一緒に居た皆からも集中攻撃されたんだよな・・・飲まされてたもんなぁ、調理場の人達なんかに〝彼氏いんの?いないの?やっぱ佐久間なの?〟とかしつこく突っ込まれちゃってて、冷々ひやひやしながら見てたもん・・・あの時は俺も会話に入って行けなくてさ、ただ飲むばっかで、しかしよく耐えてたよな・・・そうそう、その後だったんだよ、トイレに行った筈はずのマキが戻って来ないもんだから心配になっちゃって覗のぞきに行ったら、通路の横に隠れてやがってさ、ガバッって抱き付いて来て〝来てくれると思った〟だもん・・・まったく意地らしくて可愛くて、抱きしめて思わずキスしちゃったもんなぁ・・・)




    ♪風に戸惑う 弱気な僕


     通りすがる あの日の幻影


     本当は見た目以上


     涙もろい過去がある




                      “TSUNAMI”  by Southern all stars




 涼介は本牧一丁目にワンルームを借りていた。マキは根岸が実家だった。仕事先のレストランがある元町と二人の家は一本の道路で繋がっていた。涼介にとってマキとの恋愛は、ロケーションまでも人生の中で二度は無い様な珠玉しゅぎょくだった。


(・・・・・)


 涼介は流れ去る町の明かりを穏おだやかな微笑ほほえみで眺ながめ、珠玉しゅぎょくの過去を顧かえりみ続けていた。


(そう言えば最初のクリスマス、あいつ、俺の部屋でずっと待っててくれたんだよなぁ・・・残業終って店から持って帰ったケーキとシャンパンを〝ただいまっ〟って渡して〝どっか行く?〟って聞いたら〝何処どこにも行かないっ〟って笑って〝ねぇ、座って〟って、俺をソファー代わりにテレビ見始めちゃってさ・・・髪の香り良かったよなぁ・・・あの時の月も忘れらんないなぁ・・・正月休みだったっけかなぁ、寒い夜だったんだよ・・・俺ん家からビデオショップまで歩いて行ってさ・・・ヤツは俺の左腕を抱え込む様にぴったりくっついててさ・・・綺麗きれいな月が出てたんだよ〝寒いね〟とか言い合いながらさ・・・まったくほんとに昨日の様だよ・・・中華街で二人だけのお疲れさん会もよくやったなぁ・・・あの時はチャーミングセールが終った次の週だったんだよ、俺が思いっきり酔っちゃって、ゲームセンターでUFOキャッチャー意地になっちゃって、ヤツがビーサンの片方一発で取っちゃうもんだからさ・・・結構注けっこうつぎ込んでやっともう片一方取って・・・〝あれ?いねぇな・・・何処行ったんだ?〟ってキョロキョロ探してたら、ヤツは道路の向かいっ側にあったベンチに座ってて、スニーカーちょこんって置いてて、アイス食いながらビーサン履いて両足を振ってたな・・・まったく小癪こしゃくだったけど、可愛かったなぁ・・・)


 涼介は座席に深く凭もたれていた。


(俺が四月に本社へ戻った時、ヤツ、何だか悲しがってたんだよなぁ・・・〝本社って言っても関内なんだからそんな顔すんなよ〟とか〝このまま一緒の職場に居るよりは健康的じゃん〟とか言ってさ・・・俺ん家だったなぁ、あの時・・・)


 頬杖ほおづえを付いている涼介の顔は柔らかい笑みが浮かんでいた。


(12月27日なんだよなぁマキの誕生日・・・最初の誕生日は俺ん家だったし、だから二度目は最高のクリスマスと誕生日にしようって約束してたんだけど小っちゃな事で揉もめてさ、何だか23日の夜に俺とどっかの女性が関内のBARで飲んでたって美由紀に見られちゃってたんだよな・・・〝何でそんなBARで二人なの!?〟って、あんなに機嫌の悪いマキを見たのは初めてだったな・・・最高のイブにしようってしてた日にだもん・・・馬車道のレストランで、ディナー用のローソクがテーブルの上で燃えてて、もう直ぐアペリティフが来るって時だったんだよ・・・〝同僚の相談に乗ってただけだよ!〟って言ってんのに全然信じて貰もらえなくてさ・・・〝帰る!〟とか言い出しちゃって、こっちもマジになっちゃって料理そっちのけで一から詳しく説明してさぁ・・・ヤバかったよなぁ、あの時・・・その後、山下町にあるヤツのお気に入りのBARに連れてかれてさぁ・・・言わされたんだよ〝愛してる〟って・・・〝ごめんなさい〟って・・・〝私はもっと愛してんだから〟って・・・おまけに〝今日は酔うからね〟って・・・何だか怒った様な、してやったりの様な、そんな顔してたなぁ・・・今思えばヤツの計算通りだったのかなぁ・・・)


 涼介の胸は想い出に捩ねじられ、締しめ付つけられていた。


(クリスマスの次の日に二人でプレゼント買いに行ったんだよな・・・〝まーだ買ってなかったの!〟とか言いながら嬉しそうでさ・・・雨降ってたんだよ、ヤツの傘小っちゃくて〝俺、雨嫌いなんだよ〟って言ったら〝私は雨もリョウも好きよ〟って、まったく普通の顔しやがったままでさ・・・しかしあの時はヤツの方が一枚上手うわてだったんだよな・・・Paul Smithのピーコートだよ・・・紺がいいって・・・懐かしいなぁ・・・前から欲しがってたやつだったんだよなぁ・・・ほんとヤツの方が上手うわてでさ・・・店から出て来ないんだよ・・・〝どうしたんだろう〟って戻ったら、左手で俺の袖口掴そでぐちつかんで右手をコートに伸ばして〝これ、着て〟だもん・・・〝ねっ〟ってさ・・・嬉しそうに俺の手を引っ張ってレジまで持って行っちゃったもんな、あいつ・・・〝私、ステンカラー好きなの・・・リョウ、似合うよ〟ってさ・・・最初のクリスマスの時もヤツが意表いひょうを突く様にペアリング買って来てたしな・・・時計を右腕にする様になったのもヤツなんだよな・・・下田からの帰りに〝やっぱ右だよね〟って、ヤツが右腕に付け替えたのがきっかけだし・・・その時初めてヤツも右腕に時計してんの気付いてさ・・・)




    ♪止めど流れる 清か水よ


     消せど燃ゆる 魔性の火よ


     あんなに好きな女性に 


     出逢う夏は二度とない




                      “TSUNAMI”  by Southern all stars




(ザ・ヨコで祝ったマキの誕生日、最高だったなぁ・・・内緒にしてたんだよ、前の日に誕生日は俺ん家でいいねって言ったら、ちょっとムスッとしちゃってさ・・・喜んでたなぁ・・・窓の外はランドマークから大桟橋から真下は山下公園だし、氷川丸もベイブリッジもキラキラ光ってて、マリンタワーまで何だか新鮮に見えたもの・・・ルームサービスでシャンパン頼んでさ・・・でもケーキ忘れちゃってたんだよな・・・しょーがねぇーなぁみたいな感じで買いに行ったなぁ、二人でコンビニまで、ピース売りのやつ・・・ローソクもワンパック買ってさ・・・ケーキにヤツがローソク一本ずつ立てて〝リョウ大好きっ!〟とか言っちゃてさぁ・・・酔っぱらって、明るくなって素直になって無邪気むじゃきでさ・・・忘れらんないよ、まったく・・・)










※ぬるい恋愛は「」カクヨム kakuyimu.jp に移動中です。


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