コヴェントガーデンの街角で(1)
コヴェントガーデンの街角で(1)
プロローグ
タロットカード
私が引いたタロットカードは、神と人の架け橋である「教皇」だった。神殿に座して金色に輝く冠を戴き、杖を手にしている。
カードは心と魂を表し、潜在意識のみならず、秘教的な宇宙の理、創造主の神秘が寓意画に込められているとアリスは言う。人生とは不条理な出来事の連続だ。人間が直面する試練や苦しみは一体どんな意味があるのだろうかと私は思い巡らせていた。
祐二は部屋の片隅の椅子に座ってマグカップになみなみと注がれた温かい紅茶をすすりながら、コヴェントガーデンにあるアリスの店内を興味深そうに眺めていた。コヴェントガーデン駅から徒歩十分ほどの好立地な場所にアリスのお店がある。コヴェントガーデンのマーケットは若者たちのショッピングセンターとなっていて、付近には多くのライブハウスや劇場があり、ロンドンの若者世代文化に触れることができる。石畳の上では大道芸人がパフォーマンスをして行く人々の目を楽しませている。
アリスの店内には、ハーブティーやアロマオイル、オーガニック化粧品などの物販をしている店舗があり、アルバイトの女性が店番をしていた。その隣には比較的こぢんまりとしていたが、タロットや各種占い、ヒーリングなどの施術部屋があった。壁一面は白く細かな花模様が施され、可愛らしくて清潔感があり、部屋には窓から西日が入り込み、暖かな雰囲気の部屋だった。それは予測を大きく上回るような演出だと言っていいくらいだった。タロット占いと言えば、多くは部屋の中は黒いカーテンで閉ざされていて、太陽の光が入らない程うす暗く、蝋燭が灯され、大きな水晶が飾られている・・・・・・といった想像を私はしていた。
祐二はロンドン留学中に出会った同じ大学の友達だ。アリスは祐二と同じフラットの住人で「コヴェントガーデンでお店を経営している女性だよ」と言って紹介してくれた。祐二はお調子者であるが親切でユーモアがある明るい男の子だ。アリスは金髪碧眼で背がすらりと高く、賢そうな感じの二十代後半の女性だった。私は顔周りにシャギーが入っているショートボブで、薄化粧で薄いブラウン色の口紅をつけている。身なりもカジュアルなパンツやジーンズにヒールの低いパンプス、あるいはスニーカーだったので、ボーイッシュな印象を与えていたのではと思う。
タロットカードは大アルカナと呼ばれるカードがあり、禺者、魔術師、女教皇、女帝、皇帝、法王、恋人、戦車、力、隠者、運命の輪、正義、吊された人、死神、節制、悪魔、塔、星、月、太陽、審判、世界の二十二枚で構成されている。天使のラッパ吹きや魔法使いの杖など、神秘的な絵札が何か予言めいたことを私に伝えているようだった。聖書に出てくる天使は神の使いであるし、魔法使いの杖は全知全能の神と権力を喚起させた。その他にも五十六枚の小アルカナがあり「貨幣、剣、聖杯、棒」四つの組からなって、各組にはペイジ・ナイト・クイーン・キングがいる。タロットカードにはさまざまな種類があり、正位置と逆位置、あるいは占う人によって解釈の方法が異なるので、必ずしもその予言通りになるとは限らない。人生の指針の一つぐらいに捉えている人が多いのだろう。もし占いの結果が悪くても、人生や運命は自分の手で作り上げていくものであり、自分次第でどうにでも人生を好転させていくことができる、とアリスは説明してくれた。
「今、悩んでいることあるの?」
「いえ、特にありませんが、将来の進路をどうしようか考えはじめました」
アリスに訊かれた私は少しどぎまぎしながら答えた。
「そう。でも、今は先のことを考えずに勉学に集中しなさい。教皇のカードは、自分の価値観の背景にあるものを見つめ直しなさいというメッセージでもあるの」と彼女は答えた。そして
「あとね、これから新しい友人が現れるわよ」とこちらの目を覗き込んだ。
「新しい友人ってどんな人ですか?」
私は興味に駆られた。
「グループ交際ね。だから、たぶん祐二と一緒にみんなで仲良くなるんじゃない?」
アリスの店を出たのは午後六時だった。九月だというのに日はまだ高く強い日差しが降り注いでいたが、爽やかな風が街路樹を吹き渡って木々の葉を揺らしていた。辺りは多くの観光客と通行人でごった返し賑わっていたため、人混みをかき分けて石畳の路地を通り抜けて駅に到着した。私は祐二と一緒に地下鉄に乗ってキングス・クロス駅まで行き、一緒に夕食をとることにした。
陰陽師の家系
「久美はアリスに占ってもらっていた時、将来の進路に悩んでいるって言っていたけど、今後どうするの?」
店内はポップミュージックが流れ隣のカップルが大きな声で談笑していて話が聞き取りづらかったので、祐二もかまわず大きな声で話しかけてくる。
「実は、うちの親戚や家族のことで進路をどうしようか考えはじめていたの」
それを受けて私も少しため息まじりに詳細な事情を返し始めた。
「私の家族は父が製薬会社に勤めている普通のサラリーマンだし、弟もいるから心配ないけど、親戚が代々神職なの。私の祖父の兄、つまり大伯父は元村といって京都の平安時代にさかのぼる陰陽師の本家なの。母は叔母と二人姉妹で、大叔父は跡取り息子がいなかったわけ。今はその叔母が元村家を継いでいるのだけど、叔母の息子が神職に就きたがらないの」
「京都の陰陽師の本家? なんか、ものすごい家系なんだね」
祐二はビールを飲み干した。
「私の再従兄弟は私よりも年が二つ下で十九歳なの。私たちと同じ大学生なんだけど、元村家を継がないで東京で働くって言ってるらしいの。そこで私に白羽の矢が立ったわけ!」
「じゃあ、日本に帰るの?」
「もちろん帰らないわよ。私には関係ないんだから! 私の祖父は分家だし、母も土方家に嫁いだのよ」
「そうだよな」
祐二も納得した顔で答えた。
私は祐二と会うたび、異国の地にいるからなのか、彼がだんだんと頼もしくなっていく感じがした。しっかりとした口調で意見を言ったり、こんな風に自分の相談にのってくれたりするようになったからだ。ビールジョッキを持つ大きくてごつごつした手が、自分とは違ってやっぱり男の子なんだと感じさせる。
「ところで、アリスさんって素敵な人だね。初めて会ったけど、とても優しくて親切な人だったわ。年齢は私たちより少し上みたいね。同じフラットの住人なんでしょう?」
「うん。困ったことがあると親身になって相談にのってくれるよ。いつもただで相談にのってもらうのは悪いから、お店に行ってきちんと料金を払うようにしたほうがいいと思ったから、今日久美をコヴェントガーデンの彼女のお店に連れて行ったんだ」
「フラットには他にどんな人が住んでいるの?」
私はスープを一匙すくって口に運んだ。運ばれてきたばかりのポタージュスープのカップからは湯気が立ち上っている。
「フラットは築五十年とロンドンにしては比較的新しい煉瓦造りの地下一階、地上三階建ての建物で、二階部分に住んでいるんだ。ほかの階の人たちとはほとんど親交がないけど、アリスの他にはジェレミーという医大生がいる。ジェレミーとはすれ違っても挨拶する程度であまり話したことがないんだ。きっとシャイなんだろう。もう一部屋あるけど今は空き部屋なんだ」
「フラット生活は慣れた?」
「まあね。でも、やっぱり気になることはあるけど」
「気になること? そう言えば以前、フラットで幽霊を見たって言っていたよね。それからどうなの? 今でも心配?」
私は突然思い出して言った。
「いや、おかげさまで幽霊には遭遇しなくなったよ」と言って祐二は苦笑いをした。
「私の叔母が巫女だし親戚一同が神職だから、幽霊の存在については不思議じゃないけど・・・・・・実際に目撃したら恐怖かも」
「とにかく、エッセイが終わって夏休みを満喫したし良かった」
祐二は安堵の表情を浮かべた。
「そう言えば、エッセイのことで血相を変えていたもんね。政治哲学って難しそうね」
「ああ。今はアリストテレスのことを研究しているんだ」
「で、どんな内容だったの?」と私が訪ねたので、祐二はエッセイの内容を詳しく話してくれた。
ルネッサンス期のイングランド王国と文学や思想の関係を深く掘り下げてみた。中世ヨーロッパ全土に広がったルネッサンスとは再生を意味する。
それまで神を中心としていた思想を、キリスト教以前にあった人間を中心とした古典的な考えに立ち返り、シフトさせた。人間中心主義では、芸術、音楽、文学、哲学、科学などの分野で新しい意識が生まれ目覚めた。宗教と科学の関係が緩やかになり新しい考え方やあり方が生まれたのは、まさにコペルニクス的転回だった。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは神の存在があることを前提としていて、人間には生まれつき理性が備わっていると説いた。そして感覚や知覚を通して物事を認識すると考えた。つまり、鉱物、植物、動物、人間など自然界のすべての事物や現象は、人間の魂の中にあるものが反映していて最高の現実であると。
正直、多くの人間は神の存在について懐疑的であるけれど、キリスト教と哲学は重なり合う部分が多くあり、信仰と理性はお互いを補完しあいながら二つの道をそれぞれ一つの真理を目指して辿っているのではないかと感じ、ルネッサンスは抑圧された人間性の解放だと祐二は熱弁を振るった。
プラットフォーム9と3/4番線
祐二と食事を終えてお店を出ると、空はまだほんのり茜色に染まっていた。ヨーロッパの夏は午後九時頃まで日が落ちない。日中はまだ真夏のように暑いが、日が暮れると急に気温が下がって肌寒く感じる。私は長袖の軽い薄茶色のジャケットを羽織った。いつものようにタイトなジーンズに、背が高い私はぺったんこの黒いバレエシューズという出で立ちだった。
私は寮に帰るので駅でそのまま祐二と別れた。キングス・クロス駅構内を少し足早に歩いていると、右手には長蛇の列ができていた。映画の撮影で使われた大きなカートと「プラットフォーム9と3/4番線」と書かれたプレートが壁に飾られている。記念撮影に多くの人だかりができていて、警備員が一人一人に声をかけていた。ついでに記念撮影をしようかと思ってしばらく足を止め様子を眺めていた。するとそのとき、目の錯覚じゃないかと思える現象が飛び込んできた。目を大きくあけて私は瞬きもせずその壁を凝視した。
ある青年がその撮影現場である壁に向かって歩き出したのだ。黒髪で中肉中背、同じ日本人のように見えたが遠くからだったので顔はよく見えない。周りの人たちは、その青年の存在など気にもしていない、というより、まるでその存在に気づいていないかのようだった。空気のように実体のない感じに見えた。私はハラハラしながら唇をきっと結んで青年の足取りを目で追った。青年は生気を奪われ、エナジーを失った透明人間のように見えた。その場にピーンと張り巡らされた重苦しい空気のようなものが感じられ、突然鳥肌が全身を駆け巡った。首筋がぞくぞくして冷気が全身をまとい、夢幻のような不思議な錯覚を目の当たりにした途端、後味の悪い嫌な気持ちになり、妖気が身に迫るような感じがした。青年はそのまま真っ直ぐ壁に向かって一歩一歩歩を進め、そして、そのまま壁に吸い込まれるようにして姿を消した。私は幽霊か何かを目撃してしまったと感じた。
二週間後、私はまたキングス・クロス駅を訪れた。キングス・クロス駅は、祐二やアリスの住んでいるセント・パンクラス駅と隣接している。今日は二人に会いに遊びにきたのだ。先日目撃した青年やプラットフォーム9と3/4番線の壁のことが気がかりで後ろ髪を引かれる思いがしたが、メモを片手に駅を抜けて横断歩道を渡ってフラットに向かって歩き出した。
駅から十五分ほど歩くと赤茶色した煉瓦造りのフラットが見えてきた。フラット周辺は会社や商業施設も多いが、大通りから何本か離れた通りに建っていたため思ったよりも静かだった。
フラットに到着すると、アリスがこちらの方を眺めながら出迎えてくれた。「私の部屋にいらっしゃい」と言ってアリスはにっこり笑った。私はアリスの後をついてフラットの二階へ上がった。階段を上がると正面を挟んで二部屋ずつ配置されていた。右手一番奥がアリスの部屋だった。アリスの部屋の隣はジェレミーで、中央を挟んで左手に祐二、左手一番奥が空き部屋のようだったが、どうやら新しい住人が引っ越ししてきたようで、部屋の扉は開いたままでちらほら人が出入りしていた。
「今日、祐二は引っ越しの手伝いをすることになっていて今手が離せないの。十日前に入居してきたばかりの男の子で、まだ大きな荷物などあるから祐二が手伝っているの」
アリスは含みのある表情を浮かべ私の顔を観察しながら言った。
「そう言えば、空き部屋があるって言っていたけど、新しい人が入居してきたんですね」
「祐二や久美と同じ日本人みたいよ。祐二はその子と意気投合して仲良くなったみたい。久美もきっと一緒に友達になれるわよ」
アリスが微笑んだ。それは含蓄のある響だった。
「も、もしかして、先日話していた新しい友人が現れるって・・・・・・」
私は驚きを隠せなかった。
「もしかしたらね」
しばらくすると、部屋から祐二が顔を出して叫んだ。
「久美、新しい入居者なんだ。今手伝いをしていて忙しいから後で声をかける。アリスの部屋でお茶でも飲んでいてくれ」
祐二は汗を拭い、部屋の中にそそくさと戻った。
三十分ほどすると祐二がアリスの部屋をノックした。私はアリスと一緒に部屋を出て、祐二と言葉を交わした。
「今、一段落ついたから。良ければ久美にも新しい友達を紹介するよ。同じ日本人なんだ」
「少しだけアリスから話しを聞いているわ。私たちと同じ大学で年齢が一つ下の二十歳の男性。祐二とは共通点も多く話が合うみたいね」
「ああ、そうなんだ。本当、びっくりすることが多くてね。今、ジョウに声をかけるから待っていて」
そう言うと祐二はジョウに声をかけた。
すると、部屋の中からジョウが照れくさそうに出てきた。黒髪で背丈も体重も標準的。口数が少なくシャイな性格みたいだった。ジーンズに清潔感のある白いシャツの袖を腕まくりしていた。
「一年前に日本からロンドンにやってきた。当初、大学の学生寮に入っていたんだけど色々あってフラットに移ることにしたんだ。よろしく」
ジョウが照れくさそうに話した。
彼は幼少期にイギリスに滞在していたことがあり、海外生活が長かったので「ジョウ」と呼ばれていた。
私は呆気にとられて暫く声が出なかった。時間にして数十秒、いや、もっと長かったかも知れない。しばらくジョウのことを凝視していた。様子がおかしいので祐二が、「もしかして、知り合いだったの?」と声をかけてきたが、「ううん。気のせいよ。ちょっとね・・・・・・」とかわした。なぜだか万感胸に迫ってきた。
アリスは少し奇妙な雰囲気を一掃させるかのように弾んだ声で「みんなでコーヒーでも飲みに行かない?」と言った。
ジョウと祐二の共通点
私と、アリス、祐二、ジョウの四人で近所のスターバックスに足を運んだ。店に入るとコーヒーの香ばしい匂いが立ちこめていて、多くの人たちが新聞や雑誌を読んでいたり、音楽を聴いていたり、リラックスしながら休日を満喫している様子だった。九月下旬にしては天気が良く暖かかったので、四人は外のテーブル席に座ることにした。
「今年の夏は天気がいいわ。九月も下旬だというのにまだ夏みたいな日が続いているからね」アリスがコーヒーを飲みながら話を始めた。
「え、そうですか? 今頃だと日本ではまだ暑いし、真夏みたいな日が続いていますよ。ロンドンは過ごしやすくていいですね」とジョウが答えた。
「いつもこんな感じじゃないから。肌寒い夏もあるのよ」とアリスが口を挟んだ。
「祐二とジョウさんの共通点って?」
私はジョウの顔を見ると少し声がこわばり、ためらいながら話しを進めた。
「さん付けしなくて、ジョウで構わないです」
「ありがとう。それじゃあ、ジョウ。祐二とは何がきっかけで意気投合したの?」
「祐二も俺と同じように、学生寮での生活が肌に合わなくて大学からこのフラットを紹介してもらい引っ越してきた。俺たちは日本人で言葉が通じ合うことは当たり前だけど、実は俺と祐二には奇妙な似通った体験があるんだ。祐二から聞いていると思うけど、彼は以前フラットで幽霊を見たことがあると言っていた。実は俺も度々そういった不思議な体験をしていて、体に異変を感じていたから祐二とは色々と話しが通じた」
ジョウは祐二の方を振り向くと、祐二は頭を縦に何度か振った。
「そうなんだ。なかなか理解してもらえない話だからね」と言って、祐二は安心した顔つきになった。
「自分の体から魂が抜けたような感じになって、眠っている自分を天井から見下ろしていたことがあった。その後、天井を突き抜けて大空を舞い、キングス・クロス駅構内の壁からどこか真っ黒なトンネルを貫通して墓石が立ち並ぶ緑の牧草地に舞い降りた。結局夢だったんじゃないかと思っているけど、妙にリアルな体験だったよ」とジョウは言った。
「キングス・クロス駅?」
私は動揺を隠せなかった。
「うん」とジョウが答えた。
「私だってそういう奇妙な体験はあるのよ・・・・・・」
私は心の中に芽生えたわずかな恐怖心と戦っていた。
「みんなで理解しがたいことを共有し、理解し、話し合える仲間ができて良かったじゃない」アリスは物事を前向きに捉える女性で、多くの人たちにとって良き理解者、助言者だった。
「そう言えばアリスのタロット占いすごいですね」
私は感心したように言った。
「え? タロット占い?」
ジョウは興味津々の様子だった。
「つい先日、アリスにタロットで今後のことを占ってもらったら、新しい友人ができるって言われたの。それってきっと・・・・・・ジョウのことだったのよ!」
「そう言えば、そんなこと言っていたな・・・・・・」と祐二も呟いた。
「そうなんだ! で、なんか自分のこと悪く言ってなかった?」とジョウが声を上げた。
「大丈夫よ。何も言ってないから」
アリスはくすっと笑った。
四人はカップに注がれた残りのコーヒーを一気に飲み干して、ジョウの引っ越しの手伝いをするためにフラットへ戻った。
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? 神秘と異次元への扉
セント・パンクラス 共同フラット
二0XX年十一月二十三日
ジョウは今朝も不思議な夢で目が覚めた。正直なところ、これが夢なのか現実なのかよく分からなかった。昨晩もいつものようにくたくたに疲れた体を引きずってフラットに戻った。鉄の塊の足、顔には疲労の色が濃く現れていた。そそくさと部屋で寝巻きに着替えてベッドの中に潜り込んだ。うとうと眠りに落ちかけていると、ざーっという大きな耳鳴りがした。そして次に、風船が破裂するかのような大きな音が突然耳をつんざくように鳴り響いた。すると次の瞬間、ジョウは、突然、全身が氷のように固くなった。
「体がカチカチに硬直して動かない。おまけに声も出ない。なんてこった。これじゃあまるでレミュエル・ガリバーじゃないか! 体をぐるぐる巻きにされたみたいでまったく身動き出来ないよ!」と、ジョウは心の中で張り裂けんばかりの声を上げた。それから恐怖のあまり気を失ってそのまま深い眠りに落ちた。
ジョウは二0XX年の夏、留学生として日本からイギリスにやって来た。当初は大学の学生寮に入居していたが、寮で大勢の学生と共同生活するのに嫌気がさし(真面目な学生もいたが、ジョウと同じ寮生だった男はいつも部屋でガンガンに音楽をかけ、夜な夜な友人を招いてはパーティーに明け暮れ、酒を飲んで大騒ぎしていた)ジョウは寮を出て大学からほど近いフラットに移り住むことにしたのだ。安い賃料の寮生活から民間経営のフラットに引っ越したため毎月の出費は親からの仕送りだけでは厳しくなった。そこでジョウは学業に支障が出ない程度にアルバイトを始めた。大学構内にある学生バーでバーテンダーのバイトを週三日、夕方五時から夜九時まで始めたのだ。異国での留学生活、学業、バイト。ジョウの体は気苦労から疲労が蓄積し悲鳴を上げていた。
ジョウの新しい住居はセント・パンクラス駅から歩いて十五分ほどの好立地にある。新天地の住人は同じ日本人の祐二、医学生のジェレミ―、それからセラピストのアリス。新居は築五十年とロンドンにしては比較的新しい物件だ。地下一階地上三階建の煉瓦造りの建築物で、近くには大英図書館や大英博物館、大学、病院、ホテル、チューブと呼ばれる地下鉄。それからセント・パンクラス駅に隣接してキングス・クロス駅もあり、いつも多くの乗降客で賑わっている。ジョウたち四人は建物の二階部分に間借りして住んでいた。共同フラットと言ってもそれぞれ個別の部屋を与えられているのでプライバシーは守られている。最初は住人同士お互いに警戒心があり、言葉を交わすことも少なかったが、だんだんと挨拶や軽い立ち話をするようになった。
ジョウが最初に仲良くなったのは祐二だ。彼とは同じ日本人だし、お互いに不思議な体験を共有していたことから話が弾み、気が合ったのですぐに打ち解けることができた。アリスとは祐二を介して知り合った。社交辞令であるイギリスの天気の話から始まり、だんだんと自分たちの個人的なこと、つまりロンドンでの大学生活や彼女の仕事の話などをした。彼女は現在コヴェントガーデンでセラピストとして店を開業し、アロマやハーブを使った施術やオーガニックの化粧品、健康食品なんかも販売していると話していた。アリスという女性はセラピストだけあって人を和ませるのが上手で社交的で明るい人だ。副業でタロットや各種占いをやっているから、ここではみんなの相談役になっていた。ジェレミ―は真面目そうな風貌の医大生で、大学を卒業したばかり。シャイな性格なのか彼の方からジョウに話しかけてくることはめったになかったが、こちらから話しかけるときちんと対応してくれる。親切で頭脳明晰、ウィットに富む魅力的な男性だ。
ジョウはここの生活で、人懐っこい陽気な性格のアリスや祐二と仲良くなった。いつかジェレミーとも仲良くなれたらいいなと思っている。いい住人たちに巡り会え、幸先の良いスタートを切ったかと思えた共同生活だが、どうやらジョウはここに住み始めてから、たびたび金縛りに遭うはめになった。せっかく学生寮の喧騒から離れて静かなフラットに落ち着き、しっかりと勉学に励み、イギリスでの生活を満喫する予定だったというのに・・・・・・。新居での生活も毎晩寮で開かれるパーティー騒ぎと引けをとらないくらいジョウを苛立たせた。
イアン
「それで、今日で何回目?」
イアンが何一つ表情を変えず俺に尋ねた。
「あのフラットに引っ越して来てからちょくちょく金縛りに遭ってるよ」
ジョウはぶっきらぼうに答えた。
大学のカフェテリアは昼食時でいつものように大勢の学生でごった返していた。ジョウとイアンはサンドイッチを頬張り、時々、温かい淹れたてのコーヒーを口に運んだ。イギリス人は確かに紅茶好きではあるけれど、いつも紅茶ばかり飲んでいるわけではない。いつだかジョウがイアンに「ミルクティー飲まないの?」って尋ねたら、「いつも英国人が紅茶ばかり飲んでいると思ってたの? あはは。ステレオタイプで人をカテゴライズしちゃだめだよ」と一笑に付された。確かに、ジョウも毎日緑茶や味噌汁ばかり飲んでいるわけじゃない。
十一月も下旬になると日没は午後四時ぐらいで、すぐに辺りは暗くなる。さすがに寒くてしっかりと冬のコートを着込んでいる。イギリスの天気は変わりやすく、年間を通して肌寒い日が多い。イギリスは年中雨が降っているが、冬はそれに拍車をかけるように鬱々とした、どんよりした鉛色の雲がロンドンの上空に低く垂れこめている。
「イアンは不思議だと思わないのかい?」
ジョウはイアンの顔を覗き込み、意外だなとでも言わんばかりの表情を浮かべながら話していた。
「いやあ、金縛りなんて特別なことじゃないからさあ。それにロンドンじゃ、幽霊が出ることも珍しくない」
イアンは相変わらず表情を変えずに淡々と答えた。
「見たことあるのか?」
「ないが、不思議だよ。目撃者はちらほらいるのに何世紀にもわたっていまだに幽霊の謎が解明されていないんだぜ」
「そうだよなあ。きっと何かあの世に意図があるんじゃないか?」とジョウは仮説を立てた。
「お化け側にも諸事情があるんだよ。きっと! 俺が解明してみせる」と言ってイアンはドンドンとテーブルの上を叩き、笑いだした。
イアンはジョウと同じヨーロッパ史を専攻するクラスメイトだった。彼はイギリス人だけれども正確に言えばスコットランド人である。イアンもそれでロンドンでは多少疎外感を感じているように見えた。
ジョウは子供の頃、父の仕事の関係でエジンバラに五年ほど住んでいた。父は大学教授で、エジンバラ大学では歴史学の研究員として暫くこちらに席を置いていた。そのおかげでジョウは英語にはあまり苦労していない。というより帰国子女だから英語はむしろ得意だ。そんなことから言葉の面でクラスメイトとの意思の疎通で困ったことはほとんどない。だからスコットランド人のイアンとはすぐに意気投合した。ジョウが「以前スコットランドに住んでいたことがあるんだ」と話したら、イアンは同郷の友人でもあるかのようにジョウのことを気に入ってくれた。
イアンは中肉中背で赤毛の青年だ。スコットランド訛りがあるのですぐにイングランド人ではないと分かった。初めてイアンと出会った時、彼もジョウと同じようにロンドンでの生活に馴染むのに苦労していたように思えた。それは日本にいてもイギリスにいても、地方出身の学生が生まれて初めての都会暮らしに面食らうのと同じことだった。しかもロンドンは非白人の数の方が白人よりも多いので、大学の学生も大半がアジアやアフリカ系、もしくは欧州からの留学生だった。ジョウはアジア人だし言葉の問題がなかったので大学のクラスにはすんなり溶け込めたが、意外にもイアンはそうでもなかったみたいだった。だからジョウは勇気を出して声をかけてみて良かったと思っている。今では無二の親友みたいな仲だ。
「俺はイギリスに来てからたまに寂しくなって日本に帰りたいと思うことがあるけど、イアンはロンドンで暮らしていて心細くなったり、古い友達と連絡を取ったり、急に会いたくなることってあるかい?」
「ジョウの場合、海外からの留学生だからこっちに長くいるとホームシックになることもあるだろうけど、俺はないよ、今のところはね」とイアンが言った。
「でも、イアンみたいにスコットランド人がわざわざイングランドの大学に来るって珍しくないのかい? スコットランドだったら大学の授業料フリーでしょ?」
「そうだね。俺の地元の友人はほとんどスコットランドの大学に進学しているよ。でも、俺みたいにロンドンで暮らしてみたい若者も多いし、就職もロンドンに住んでいた方が色々と選択肢が広がるだろうし、そういったわけで俺はスコットランドからロンドンに進学したんだ」
イアンはそう言うと、サンドイッチを頬張り、クリスプも口の中に放り込んで、パリパリと音を立てた。
「イギリスの大学って、大きな講堂で行われる大人数のレクチャーと少人数制のセミナーがだいたいセットになっていて、授業時間が長いよなあ。今日の午前中の授業は眠たくってほとんどノート取れなかったよ。講義も板書じゃなくてスライドだから、どんどん説明が進んで行くからさあ」
ジョウは溜息を洩らした。
「でも、後日授業内容のスライドがネットにアップされるから心配することはないさ」とイアンが言った。
久美と文学
ジョウはイアンに「じゃあ、また」と言って別れた後、まっすぐ大学のライブラリーに足を運んだ。来週の授業までに読んでおかなければならない本を借りに行くためだ。
大学付属の図書館はジョウたちのいた本館とは別の棟にあるため、一度外に出なければならなかった。本館を出てまっすぐ五分ほど歩くと、すぐに大きな近代的な建物が目に入った。正面玄関にある近未来を思わせるような大きなガラスの自動ドアは、ロンドンの古い町並みとは違って、まるで異次元の世界に踏み入ったみたいだった。
建物の中はコンピューターやコピー機が何台も設置されていて談話室や喫煙室もあり、地下一階地上五階建ての大きな施設だった。館内にはちらほら学生がいて本を読んだり、パソコンで検索したり、あるいは何か書きものをしていた。
ジョウは入口で図書館の司書に大学の学生証を見せて中に入った。館内は飲食、私語厳禁だったので水を打ったような静けさが漂っていた。
ジョウは館内に設置してある大きな案内版に従って階段を上って行った。歴史関係の本は二階にあった。天井にまで届きそうな高くて大きな本棚に、たくさんの書籍が行儀よく並んでいた。ジョウの探していた古代ローマの歴史書は、著者の名前順に収められていたのですぐに見つかったが、古代文明や神話の専門書はすでに貸し出されていた。どうしようかとしばらくその場で考え込んでいると、背後から突然、「ジョウ!」という声が聞こえた。振り返るとそこには久美がいた。
「ジョウ、久しぶり。最近学校で見かけないけど、どうしたの?」
久美が小さな声で話かけてきた。彼女も同じ日本からの留学生で文学部の学生だ。
「あ、久美! 久しぶりだね。元気?」
ジョウは思わず大きな声が出てしまった。すると久美が人差し指を唇に当てて「シ―」というジェスチャーをした。
ジョウは急に我に返って「ごめん、突然だったからびっくりして思わず大きな声が出ちゃったんだ」と言った。
「ずっと見かけないから心配していたのよ」
「あ・・・・・・ここで話すと長くなりそうだな。それに、まだ借りたかった本があったんだけど、あいにく貸し出し中でさあ」
ジョウと久美が世間話をしていると近くにいた学生がわざとらしくエチケットを促すように咳払いをした。すると、「駅前のカフェで一緒にお茶しない?」と久美が誘ってくれたので、一緒に図書館を出ることにした。
外に出ると重苦しい雲の合間から薄日が差し込んでいた。少しだけ初冬の暖かい日差しが二人の頬を照らした。久美のショートだった髪の毛は少し見ない間に肩まで届く長さになっていた。そしてジョウと同じように冬のコートに身を包んでいた。久美は紺色のピーコートを着て、ジーンズを履き、真面目な留学生という感じだ。
「私はまだこっちの天候になれないわ。鬱々としちゃってね」と言って、久美は両手をコートのポケットに突っ込んだ。
しばらく歩くと、赤い看板のコスタが見えたので店内に入った。久美はイングリッシュティー、ジョウはカフェラテをそれぞれ注文して席に着いた。二人はリュックサックを床におろしてコートを脱いだ。久美はティーカップにミルクを注いでいた。ジョウはラテに砂糖を入れてくるくるとスプーンでかき混ぜた。
「それで、さっきの話の続きなんだけど、あのフラットでの幽霊騒ぎは治まったの? 以前、祐二も幽霊を見たことあるって言ってたけど」
久美は冷たくかじかんだ指を温めるように大きなカップを手のひらで包み込んだ。
「この前、また金縛りに遭ってね」
「なんだか・・・・・・深刻そうね」
久美は心配そうに答えた。
「いや、あまり気にしないようにしているけど」
ジョウは心配をかけまいと平静を装って言った。
「それならいいけど」
「それより、久美の大学生活はどう? 勉強は大変なの?」
ジョウは話題を変えるかのように話を振った。
「英語は難しいし大変だわ。それに文学部だから、ドロップアウトしちゃう学生も結構多いのよ」と久美が説明してくれた。
「どんなモジュール取っているの?」
「私は神話やファンタジーに興味があって児童文学を専攻しているのよ。ジョウは興味ある?」久美は目を輝かせて話した。
「本音を言えば、コナンドイルのようなミステリー小説が好きなんだけど、興味はあるよ。久美は具体的にどんなのが好きなの?」
ジョウは久美の話に熱心に耳を傾けていた。
「私は、アーサー王伝説やロード・オブ・ザ・リング。あれらはケルト神話が元になっていて、独自の世界観で物語が構築されているから読んでいてワクワクするわ」
「そもそも久美はどうして神話に興味を持ったの? やっぱり文学を通してだったの?」
ジョウは次から次へと矢継ぎ早に質問した。
「私の場合、最初は日本神話が始まりだったの。私が子供の頃、叔母が巫女だったからね。うちに遊びに来るとよく話を聞かせてくれたのよ」
「へー、そうだったんだ。興味深いね。そういう土壌が小さい頃から培われていたんだね」
ジョウはちょっと意外に思って感嘆した。
「イギリス人って大人から子供まで、神話や伝説、ファンタジーが好きな人多い気がするな。魔法とか呪文とか非現実の世界。日本だったらアニメや漫画みたいなサブカルチャーだよね。海外でもデス・ノートは人気だよ」
「そうね。それにイギリスでは、観光名所にミステリーツアーみたいなものがあるから、生活の一部になって溶け込んでいるのかも知れないね」
久美の口元は緩み、笑みがこぼれた。
「ミステリー」とジョウは感慨深げに言葉を漏らした。「俺は歴史を専攻しているから久美の話はとても参考になるよ。歴史と文学って密接な繋がりがあるからさ。トルストイの『戦争と平和』は歴史小説だし。登場人物がやたらと多くて、しかも聞き慣れないロシア人の名前でしょ。読んでいるうちにこんがらがって話が分かんなくなっちゃったよ」と言って苦笑し、下をペロッと出した。
店内の時計に目をやると時間はすでに午後四時を過ぎていた。空には雨雲が垂れ込めて、辺りはすでに日が暮れて暗く、気まぐれな冬の暖かな日差しは陰に身を潜め、ぽつぽつと雨が降り出して地面を濡らしていた。
古代ローマとケルト人
ジョウはフラットに戻ると、大学の図書館で借りた古代ローマの歴史の本を読むことにした。授業の予習のために借りたのだが、個人的にカエサルを通してケルトの文化や伝説にとても興味を引かれ、もっと詳しく知りたいと心を突き動かされた。
ケルトはもともとヨーロッパの先住民で、オッピドウムと呼ばれる遺跡がヨーロッパの各地で発掘された。古代ケルト人はインド・ヨーロッパ語族の一派として認識されている一部族に過ぎないが、彼らは長い間「幻の民」と言われてきた。それは、彼らが文字を持たなかったため、ギリシャやローマの文献にしか資料が残っていないからだ。
ブリテン島に住んでいたケルト人は言語的、文化的に追いやられてしまったのだが、それでもケルトの芸術文化が生き残ったのは、ケルト人が信奉していたドルイド教といわれる多神教とキリスト教との融合がうまく図られたからであった。
ドルイドを含むケルト人の信仰に関して重要な資料は、カエサルの『ガリア戦記』第六巻の中に見られる。
6・13「ガリアを通じて民衆はほとんど奴隷に等しいと見られ(中略)これに対して、尊敬され名誉を得ている人間は二種類である。一つはドルイド僧であり、もう一つは騎士である」
ジョウは古代ローマ帝国に心を惹かれていたので、カエサルの『ガリア戦記』やその本の中で証言されているケルト人に対して深く興味を抱き傾倒していった。
異次元への扉
その日、ジョウはバイトが入っていなかったので、大学の授業が終わるとそのまま図書館へ直行して参考文献を読み漁り、学校帰りに近所のスーパーへ立ち寄って夕飯を買い、フラットに到着した。すると、ちょうどアリスも仕事を終えて帰って来たばかりだった。「ハイ」とジョウが挨拶すると、アリスも「ハイ、元気?」と言ってにっこり笑った。「今日はちょっと用事があって、いつもより少し早めに仕事を切り上げて帰ってきたの」と彼女は話していた。アリスはジョウの顔をじっと見つめ、「なんだか疲れているみたいね」と言って体調を心配してくれた。
「最近、眠れないんですよ・・・・・・」とジョウは口を濁した。
「悩み事があるなら私に相談しなさい。私はセラピストだからね」と言って彼女は軽くウィンクした。
ジョウはアリスに「ありがとう」と言って、玄関の前で別れた。
ジョウはお腹が空いていたのでまずは空腹を満たすことにした。キッチンでお湯を沸かしている間に緑茶のティーバッグを食器棚から取り出してマグカップに入れた。そして近所のスーパーで買ったスシのテイクアウェイの包装を外し、醤油をかけた。ありがたいことにロンドンのような大都会では日本食が簡単に手に入る。ジョウはほとんど毎日外食かテイクアウェイだが、お金がピンチになるとたまに自分で簡単なものを作って食べるようにしている。でも、滅多にない。料理と言ってもお粗末なもので、スーパーで買ってきた生野菜にマヨネーズをかけて食べたり、果物を洗って食べたりしているだけだ。
ジョウは食事が済むと、少しベッドに横になって音楽を聴いた。裕福な学生じゃないから部屋にテレビはない。でも、音楽と本があれば生きて行ける。
ジョウはパソコンの電源をオンにしてCDをインサートした。CDを聴きながら雑誌に目を通していると、次第にうとうとと眠気が襲ってきた。ここのところの寝不足がたたって疲労が蓄積していたが、眠い目をこすりながら必死に眠りに落ちないように何度も顔を手のひらで叩いた。半ば朦朧とした状態が続いていた。そして、まぶたが重力に負けて重みを増し、閉じかけようとしていた。
眠りに落ちかけた瞬間、ジョウは、自分で自分を眺めていることに気がついた。疲労と睡魔に負けてベッドの上で大の字になって眠っている。それなのにもう一人のジョウは、客観的に自分を観察している。そう、天井から。辺りを見回した。部屋は殺風景で何もない。壁は白いコンクリートがむき出しのままだし、花瓶一つ部屋に置いてなかったが、机の上にはキングス・クロス駅構内の写真が木のフレームの写真立てに収められていた。これは映画『ハリー・ポッター』に使われた有名な撮影場所(プラットフォーム9と3/4番線)だった。ジョウはその写真を暫く眺めていた。何か奇妙なざわめきを覚えたからだ。テレビもない部屋の中は音楽を聴いている時以外はとても静かだが、リズミカルなドラムのサウンドが流れてきた。
机の上にはラップトップのパソコンと図書館で借りてきた歴史関係の本と筆記用具が置いてあった。ベッドの脇に置いてある小さな四本脚の丸テーブルの上には今さっき食べたばかりのスシのケースとマグカップがそのまま置かれていた。ベッドの足もとには黒いコートが無造作に置かれたままで、ジョウが履いていた靴はきちんと玄関にそろえて並んであった。
ジョウが窓の外に目をやると辺りはすっかり暗くなり、さっきまで降っていた小雨が止んでいた。すると次の瞬間、彼は天井を突き抜けて大空を舞う鳥のように両腕を広げ、優雅に気持ち良く眼下に広がるテムズ川を眺めながら飛行していた。
タワーブリッジを通過すると、やがて目の前には大きくそびえ立つゴシック建築のビッグベンやウェストミンスター寺院が目に飛び込んで来た。ぶつかりそうになって思わず目を閉じ、体をひねって逸らすと、ジョウはあのプラットフォームの壁の中をすり抜けて小高い丘の上に佇んでいた。
辺りには何もなく、だだっぴろい牧草地が無限に広がっていた。ロンドンの大都会の喧噪から離れて、自然豊かな緑の丘陵地にタイムトラベルしたみたいだった。
なだらかな起伏が続く丘に立ちすくんでいると、「ジョウ」と自分のことを呼ぶ声が遠くから聞こえた。声から言って若い女性みたいだった。だんだんと女性の声がはっきりと耳元で聞こえたかと思うと、目の前に突然女性が現れた。動揺して声を失い、呆然自失になっていると「怖がらないで。私はブリジット」と彼女が言った。彼女の髪は手入れの行き届いた綺麗な金髪で一つに束ねられ、透き通るような青い目でジョウを見つめていた。背後の暗闇とは対照的に彼女の頭上には光輪が輝いていた。
「どうして俺の名前が分かったの?」と尋ねると「私は占い、予言が得意なの」と言ってほほ笑んだ。呆気にとられて無言で立ちすくんでいると「私、そろそろ戻らなければ……」とブリジットが言った。ジョウが「どこに?」と不思議そうな顔つきで尋ねると彼女は、「深い森の奥に住んでいるの。森は私たちにとって聖なる場所なのよ」と答えた。そしてあっという間にジョウの目の前から姿を消してしまった。
ジョウは仕方なく丘の上をブラブラと歩きまわることにした。すると、広々とした草原の遥か向こうには巨大な石柱や石でできた十字架が見えた。近づいて目を凝らして見てみると、十字架には中央に円環が施されていた。ジョウはすぐに「ケルト十字架」だと分かった。以前、本で読んだことがあったからだ。「一体ここはどこなんだろう?」と不思議に思いながらまたしばらく歩いて行くと、要塞のような遺跡が見えた。入口からしばらく中の様子を伺っていたが、特に危険な様子でもなかったので中に入ってみることにした。
息を殺して漆黒の闇の中に入っていくと、ひんやりした冷気があたりを漂い、無音の静寂な世界が広がり、前方がまったく見えなかった。時々、自分の唾を飲み込む音や足音が響くだけだった。ジョウが壁伝いに少しずつ進んでいくと何やら前方に光が差し込んでいるのが見えた。ジョウはその光目指してさらに歩を進めた。
すると・・・・・・ジョウは駅のプラットフォームに出た。しばらく駅構内の電灯の光が眩しすぎて目を開けることができなかった。煌々とした白熱球の光が、ジョウの目を容赦なく突き刺すように感じられた。目が光に慣れるまで時間がかかった。しばらくしてから目を細めて微かにまぶたをこじ開けて後を振り返ると、漆黒の暗闇はすでに閉ざされていた。壁には「プラットフォーム9と3/4番線」と書かれていた。ジョウは自分が今、キングズ・クロス駅にいると悟った。そう、机の上に飾ってある写真の場所だ。ジョウは奇妙な金縛りや霊現象とプラットフォームとの関係性を考え巡らせ、複雑な思いが脳裏をかすめた。
きっと部屋の中には霊的な力が作用しているのだろう。ジョウに襲い掛かり、体を硬直させて異世界へ連れ去った後、不思議な旅をし、漆黒の闇から現実の世界へ連れ戻された。そして「プラットフォーム9と3/4番線」はこの世とあの世を繋ぐ異次元への扉みたいだった。
駅にはまだ乗降客がたくさんいて賑やかだった。海外からやって来たと思われる外国人旅行者が大きなスーツケースを抱えて右往左往していたり、頭上の電光掲示板を見上げて電車の時刻を確認している人や、駅のベンチに座って電車を待っている人たちが大勢いた。
「やれやれ、とにかく無事に戻って来れて良かった」
ジョウは天井を突き抜けて大空を舞い、キングス・クロス駅構内の壁をすり抜けて墓石が立ち並ぶ緑の牧草地に降り立った。タイムトラベルをしてキングス・クロス駅に戻ってくると、疲れた体を引きずるようにして駅を出て、横断歩道を渡っていつものようにフラットに歩いて帰った。フラットに戻ると、ジョウはそのまま倒れ込むようにしてベッドに入り、ブランケットを頭からすっぽり被って翌日の昼頃までぐっすり眠り続けた。
アリスの仕事
ジョウは目が覚めると、のどが痛くて背筋にぞくぞくとした寒気を感じた。熱っぽいし、くしゃみが何度も出た。どうやら風邪を引いたみたいだった。昨晩、コートも着ないでロンドンの町を空中散策し、丘陵地に出かけたからかなと思ったが、これが現実なのか夢なのか分からなかった。机の上には電源がつけっぱなしのラップトップがじりじりと小さな機械音を立てていた。眠たくて電源を落とし忘れただけなのか・・・・・・。考えれば考えるほど、ジョウの頭の中にある現実感が乖離していった。それは少し恐怖心を植え付けた。
しばらくすると玄関を「ドンドン」と叩く音が聞こえた。そして「ジョウ。私、アリス」と大きな声が廊下に響いていた。ジョウはベッドから体を起こしたが、寝起きでまだ頭が朦朧としていた。「今、ドアを開けるから待って」と言ってドアノブをぐるりと回した。するとアリスが「昨日、体調悪そうだったから心配して様子を見に来たの」と言ってドアの前に立っていた。ジョウが「ありがとう」と少し鼻声で答えると、声の調子から体調を察して「風邪引いたの?」と彼女が言った。ジョウは昨晩の奇妙な体験を話すべきかしばらく考えていたら、彼女の方から「昨夜、薄着で出かけなかった?」と心配してくれた。ジョウはどう返答していいか分からず苦笑いしてどうにかその場をやり過ごした。
「風邪を引いたときは、とにかく睡眠と栄養よ。私、ジョウの風邪に効くとっておきのハーブティー作ってあげるわ。ちょっと待っていてね」と言って、一旦アリスは自分の部屋に戻り、ハーブティーを作ってくれた。
「飲み慣れないと最初は苦く感じるかも知れないけれど、体のためには毎日飲むといいわよ。私、風邪気味のときはいつでもブレンドして飲んでいるの。野菜嫌いの人にもビタミン不足の補給になるから」と言って、アリスはマグカップを差し出した。カップからは淹れたての熱い湯気が出ていて、薬草の独特な匂いがジョウの嗅覚を刺激した。
「一体どんなものをブレンドしたんですか?」
「エキナセアとエルダーフラワーとカモミール。特にエキナセアはあらゆるハーブの中でも効果があると言われているの。免疫賦活作用、抗ウイルス作用があるから、免疫力が低下して風邪を引いたときに飲むといいわ。あと、抗菌作用もあって下痢や膀胱炎の緩和にも役立つのよ」 アリスはまるでお店でお客さんに接客しているかのような業務的な感じで、一通り丁寧に説明してくれた。
「あ、俺もたまにエルダーフラワーはスーパーで買って飲んでいますよ」
「エルダーフラワーのコーディアルは甘くて美味しいわね。くしゃみや鼻水、のどが痛いときにとてもいいわ」
「アリスは仕事柄ハーブのことにとても詳しいんですね」とジョウは感心して言った。
「一応、メディカルハ―バリストという資格を持っているの。アロマセラピストの資格もあるのよ」
「仕事はやりがいがあって楽しそうだけど、薬剤師みたいに化学のことも勉強しないといけないから難しそうですね」
「そうなのよ。資格を取って実際にお客様にハーブの効能を説明したり、アロマテラピ―でマッサージなどの施術を行うから理論もきっちり勉強させられるの。でも、一般の人は効能さえ分かって楽しんで生活に役立てればいいから」
「日本では中国から伝わった漢方が人気あります。西洋ではハーブなんですね。でも、根本は同じ薬草だから共通した原理ですね」
「そうね。でも、風邪を治すには睡眠が一番。次に栄養。きちんと眠れないって昨日話していたから少し心配していたの。最近ストレス溜まっているんじゃない? 何か心配事があったら私に話して。以前話していた幽霊騒動のこと?」
アリスの声はジョウの心の中のモヤモヤを敏感に感じとり、実際に自分の身に起った怪奇な現象をすべてお見通しのような口調だった。ジョウは躊躇いながらも、このフラットで起った珍現象を詳細に説明した。話しても笑われるか頭がおかしいと思われるのが関の山だと思っていた。しかし、ジョウの予想に反してアリスの答えは意外なものだった。
「これが本当に現実に起きたことだったのか夢だったのか判断がつかなく混乱している。前にもそう言っていたよね。ジョウは信じるかどうか分からないけれど、私たちの体は肉体と幽体というものが重なり合っている。通常、人は眠っているときに肉体は休んでいるんだけど、幽体は肉体から離れて幽界というところに行ってエネルギーを補填し、またこの世に戻ってくる仕組みなの。昨夜に起きた出来事は、つまり、「幽体」のジョウが、「肉体」のジョウを見ていたわけ。意味分かる? 本来なら意識がなくなって自分の幽体が離脱しているところを自覚することはないんだけど、一部の特殊な能力を持った人やたまたま偶然そういった体験をする人がいるの」
「俺の体に、実際にそんなことが起きていたなんてびっくりです! でも、これは絶対に夢じゃないっていう自覚も一方ではあるんです。アリスに言われてみて少し実感が湧いてきました」
「夢で見ている映像は、幽界に行っているときの映像と一緒なの。つまり、一般的にみんなが夢と認識している事象は幽界での出来事なの」
「実は、幽体離脱をしていたときに不思議な女性に出会ったんです。若い女性で名前はブリジット。占いや予言が出来るって話していました。それじゃ、俺は彼女に実際に幽界で会っていたんですか?」
ジョウはブリジットという不思議な女性についてアリスに意見を求めた。
「そうね。もし何か必要があって彼女と幽界、つまり夢の中で会っていたのなら、また再会出来るかも知れないわね。占いや予言ができるなんて……きっと彼女は神話か何かに登場するブリジットじゃないかしら? 私も詳しいことは分からないけれど」
アリスはジョウのことを優しいまなざしで見つめながら話した。
「イギリスは日本と違って地震がほとんど起らないから、古い建物が何百年も残って、町並みもあまり変化していないでしょ。だから浮遊霊や地縛霊がずっと建物に住みついていたりするのはざらよ。まったく信じていない人も多いけど、私の部屋にもときどき悪戯しに来る霊がいるから困っているの」
アリスは霊の存在を当たり前のように思っていた。
「え? それじゃ、アリスも幽霊がいるって信じているんですか? 実際に見たことあるんですか?」
ジョウは驚きで声が裏返った。
「うん。なんか、そういうのを引き寄せちゃう体質みたいなの」と言ってアリスは溜息を洩らした。
「俺はまだ半信半疑なんです。体が硬直してしまうのは疲れのせいかなって思っているし。昨夜のことは夢の断片としてどうにか辻褄を合せて自分を納得させることが出来ましたが、魂とか霊とか実際に見たことがないし信じられないんですよ」
「それはそうよね。科学ではまだ証明されていないし、姿形をみたことないんだから、信じろって言われても難しいわね。でも、言葉では説明できない不思議な出来事が世の中にはあるということを頭の片隅に入れておいても損はないわよ」
「そうですね」
「英国は心霊研究の盛んな国でね、多くの心霊研究団体が存在しているの。心霊現象を科学的に解明しようとしていたり、ミーディアムやヒーラー、幽霊の出る名所も観光ツアーになっていたりする。そういう土地柄だから、きっと霊の方からジョウに何か伝えたい思いやメッセージがあるのかも知れないわね」
「え、えー!?」
「また何かあったら教えてね。その時はその幽霊に説教してあげるから!」と言ってアリスは苦笑いした。
「また何かあっても困るんですが・・・・・・」ジョウは顔を歪めた。「でも、アリスに相談出来て安心しました。一人で色々考え込んでいると憂鬱になってくるんです」
「特別に何かなくても、悪天候のせいで鬱気味になってしまう人も多いから無理もないわ。でも、そのうちイギリスの天気にも慣れると思うからあんまり心配しないでね」と言って、アリスは医療従事者らしくジョウの体をとても気遣った。そして、「それじゃ、私そろそろ出かけなきゃならないの。またね」と言って彼女は手を振り、ドアをバタンと閉めて部屋を出て行った。
アリスが部屋から出て行った後、ジョウは朝から何も食べていないことに気づき、急に空腹感に襲われた。シリアルをボウルに入れてたっぷりのミルクを注ぎ、トーストを食べた。それから、アリス特製のハーブティーを飲んで、午後から授業の準備にとりかかることにした。
毎週木曜日は大学の講義が入ってなかったので、遅めのブランチを取った後、午後はずっとパソコンの前にかじりついて課題に取り組んだり、たまに息抜きでネットサーフィンをしていた。
パソコンの前で色々と考察していると、突然、机の上に置いてあったカップがカタカタと音をたてて揺れ出して、カップの中に入っていたスプーンがくるくると回転しだした。ジョウはこの奇怪な現象を実際に目の当たりにして狐につままれたような顔をしていた。すると、今度はパソコンの電源が急に切れて画面が真っ暗になり、座っている机の背後にある玄関のドアがガタガタと鳴り出した。恐怖で声が出なかったが恐る恐る後ろを振り向くと、玄関の脇に見知らぬ女性が立ってジョウの方をじっと見つめていた。
神話と伝説
ジョウと久美はある冬の昼下がり、トラファルガー広場で待ち合わせをしてマルの通りを歩きながらセント・ジェイムスパークに入り、のんびり園内を散策した。園内は見渡す限り緑が広がっていた。ロンドンは冬でも緑豊かなオアシスが広がっている。季節はすっかりクリスマスシーズンを迎え、夜になるとクリスマスツリーがロンドンの街を美しくライトアップする。
「冬は日本に帰国するの?」と久美が言った。
「俺はアイルランドに旅行へ行こうかと考えているんだ。大学の授業で古代ローマの歴史に関して調べていたんだけど、その時にケルトの文化や歴史に触れることがあってとても興味が湧いたんだ。確か久美はケルト神話が元になっているアーサー王伝説とか好きだって話していたよね。だから色々と話を聞きたいと思って連絡したんだ」
「うん。アーサー王伝説に出てくるケルト神話の運命の石とか知ってる? 物語の中で『わが名はエクスカリバー 正しき王への宝なり』ってセリフがあるんだけど、選定の剣エクスカリバーが突き立てられていた石が、ケルト神話の運命の石っていう伝説があるの。その石の由来はエドワード一世がスコットランドに遠征したときの戦利品として持ち帰ったと言われている」
久美は話題が文学に及ぶと一転して楽しそうな表情を浮かべてジョウに話を始めた。
「ああ、その話は聞いたことあるよ。運命の石は返還されて今エディンバラ城に展示されているんじゃないかな?」
ジョウは小さい時に両親に連れられて見に行ったエディンバラ城の記憶を、必死に手繰り寄せながら言った。
「ケルト神話にダーナー神族という人たちが出てくるんだけど、彼らは四つの道具を持っている。魔剣、槍、釜、そして運命の石。これらには魔力が宿っているの。それから、ドルイド僧と呼ばれる人たちがいて彼らは魔法使い、アーサー王に出てくるマーリンはドルイド僧だという説があるの。あとね、これは作り話なんだけど、ストーンヘンジの巨石はマーリンがアイルランドから魔法で運んで来て、ペンドラゴンの墓にしたんだって。私もケルト神話や伝説についてはアーサー王の物語を通して少し知識があるだけで、詳しいことはこれ以上分からない」
「ドルイド僧って、ケルト人が信仰していたドルイド教の人たちのことだと思うよ。彼らはカエサルによれば今で言う宗教家だった。当時のケルト人社会は、ドルイド、騎士、平民の三階級に区分されていたんだ」
ジョウは自分の知りうる限りのケルトに関する知識を総動員して久美に話した。
「あら、ジョウもかなり詳しいのね」
久美の顔は「見直したわ」と物語っているかのようだった。
「いや、俺もカエサルやローマの歴史・文化を通して少しケルトのことについて知っていただけなんだ」
そして、ジョウはさらに話を続けた。
「それじゃ今度は日本の言い伝えのことで質問させてもらうよ。ロンドン塔のカラスは守り神みたいに思われていて重宝されているけど、日本とは真逆だよね。日本のカラスは真っ黒で不吉だと思われている。不思議なんだよね。やっぱり民族的な考え方の違いだろうか?それとも何か昔から言い伝えがあるのかな?」
「カラスね。でも、日本神話でもヤタガラスは導きの神として知られている。特に和歌山県から三重県南部にまたがる熊野地方は熊野信仰があって、修験道者の修行の場なの。そしてヤタガラスは熊野大神のお遣いだと言われているのよ。ちなみに、日本サッカーチームのユニフォームにはカラスのエンブレムがついているでしょ。あれはヤタガラスのことで『ボールをゴールまで導く』って願かけしてあるのよ」
久美はジョウの疑問を振り払うかのように理路整然と話をしてくれた。彼女は頭の中でカラスのことを思い巡らせながら一つ一つ思い出すかのように話していた。
「一般的には、旧約聖書のノアの方舟の話から来ているのよ。ノアの方舟から放たれた鳥は、洪水で死んだ死体を啄んでいた。それで鳥は動物の死を望み不気味な声を上げて鳴くと言われている」
「なるほどね。さすが文学を専攻しているだけあって聖書のことも詳しいんだね」
ジョウは久美が物知りなんだと分かって尊敬に近い眼差しで見つめた。
「ジョウ、意外と信心深いのね・・・・・・お化けとか怖いの?」
久美がくすっと笑った。
「時と場所による。また、人柄じゃなくて幽霊柄にも! 久美は怖くないの? 夜中に急に目の前に現れたら誰だって怖いと思うよ!」
「私も幽霊柄によるわ。でもイギリスのお化けは、日本のお化けみたいに変にちょっかい出したり滅多に人に対して取り憑いたりしないから大丈夫よ。日本の幽霊は依存性が高いのね」
「そうなの!?」
ジョウは大きな声を上げて驚嘆した。まさに寝耳に水だった。
「以前、私の叔母が巫女だって話をジョウにしたことがあったかしら? その叔母から日本の幽霊について不思議な話をよく聞かされたの。叔母は京都のとある神社に仕えていて、私の家系の先祖は平安時代に占い、祓い、祭りを執り行っていた陰陽道に従事し、子孫代々その教えを受け継いできたらしいんだけど、後継ぎが途絶えて一度廃絶してしまった。しかしその後、地味ながらも京都で細々と神職の仕事に従事しているわ」
「もしかして、安倍晴明が先祖なの?」
「残念だけど、安倍家の血筋ではないらしいわ。どうやら安倍本家の分派でさほど名家でもなかったらしい。それに陰陽師はのちに世襲制になってしまったから。けれど叔母が陰陽師だった安倍晴明にまつわる話をよくしてくれた」
「それで、どんな話だったの?」
ジョウは興味津々で久美を急かした。
「当時、平安京では貴族たちが怨霊や物の怪、鬼に怯える生活を送っていたの。特に一条戻り橋は出没スポットだった。そこで安倍晴明は式神とよばれる精霊を使って怨霊を沈めたり、鬼を祓ったりしていたと。『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』には、晴明が式神という目に見えないものを使って、蔀戸や門を開閉させていたという逸話が登場する」
「怨霊や祟りって・・・・・・」
ジョウは一瞬青ざめ、絶句した。
「こういった概念は日本独特のものらしいわ。天皇の後継者争いや次期政権争いにおける暗殺や島流し、左遷された人たちが死後、怨霊となり祟ったと。祭りは本来、死者の怒りや疫病を起こす霊を鎮めるためのものなのよ」
「祭りの由来ってそうだったのか」
「学問の神として菅原道真を祭る天満宮も、本来は道真の祟りを鎮めるためだった」
「日本の幽霊は人を恨んだり祟ったりするんだね。これって日本人本来の性格や気質もあるんだろうな」
「イギリスの幽霊は英国人らしく個人主義みたいよ」と言って久美は白い歯を見せた。
「それじゃあ久美も、イギリスに来てから幽霊を見たことあるの?」
「私は日本にいた時に何度か幽霊のようなものを見たことがあった。でも、その時は気のせいかなって思っていた。でも、イギリスに来てから私も幽霊に遭遇したことがあったの。それで幽霊は存在するって確信に至った」
久美は少し顔を強ばらせていたが、快活に答えた。
アリスも久美も、霊の存在や神話・伝説などきっと特別なことではないのだろうとジョウは感じていた。日常のありふれた生活の一部として折り重なって、ごく自然に、以前からそこにずっと存在していたかのように、でもひっそりと、時には大胆に存在感を示すことがあると彼女たちは確信しているに違いない。日常に潜む非日常の神秘というか不思議な出来事を、ジョウはいまだにどう捉えていいのか頭を悩ませていた。
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? ケルトの地
エマとB&B
二0XX年十二月七日
ジョウ、祐二、久美はロンドンのヒースロー空港から一時間半ほど飛行機に乗ってダブリンに到着した。ジョウを悩ませていたフラットでの幽霊騒動は頭の片隅に追いやられ、冬のクリスマス休暇のことで心が弾んでいた。クリスマスの予定のことをフラットの住人のアリスに話すと、彼女の知り合いがダブリン近郊でB&Bを経営していて紹介してくれたのでジョウたちはお世話になることにした。留学仲間の祐二と久美は日本に帰省しないでロンドンにいると話していたのでジョウが誘ってみたら一緒について来た。
ジョウはポケットに手を突っ込んでアリスから手渡されたメモを取り出し、待ち合わせ場所に向かった。空港内はヒースローほどではないにしても、クリスマス休暇で訪れた人たちや帰省客でごった返していた。
到着ロビーを抜けると黒髪の女性が自分たちに気づき、「日本から来たジョウですか?」とアイルランド訛りの英語で話しかけてきた。イギリス英語とアメリカ英語をミックスしたような独特の響きだった。イギリス英語のように母音を伸ばし気味で鼻にかかった独特の話し方でもなく、そうかと言ってアメリカ英語の特徴である巻き舌でもなかった。それらがちょうどよい具合に混ぜ合わさった感じである。細身のジーンズに厚手の赤い上品なニットを着て、手には車のキーを握りしめていた。
ジョウが、「君がアリスの知人のエマ?」と聞き返したら「そうよ。初めまして」と言って笑みを浮かべながら手を差し出してきた。ジョウはエマと握手を交わし、簡単な挨拶をして空港の外へ出た。ジョウに続いて久美と祐二もエマと挨拶した。
ダブリンは年間を通して冷涼な気候で、ロンドンよりもさらに風が頬を突き刺すように冷たく、雨雲が低く垂れ込んで空を覆い、寒くて身震いした。
ジョウたちは空港の外に止めてあったエマの車のトランクにスーツケースとリュックサックを入れ、車に乗り込んだ。久美はエマの隣の助手席に座り、ジョウと祐二後部座席に座った。エマがシートベルトを締めてエンジンをかけ、空港から海岸線に向かって車を発車させた。日本やロンドンと同じ左側通行で交通量はさほど多くなく、海岸沿いに出ると風が強く吹き荒んでどんよりした空模様だった。
「アリスとは以前から知り合いだったの?」
久美は、アリスとエマの繋がりを不思議に思いながら尋ねた。
「実は、アリスが経営しているお店で一緒に働いていたことがあるの」とエマが快活に答えた。
「現在エマは家業の手伝いをしているの?」
ジョウも会話に加わった。
「ゆくゆくは家を継ぐことになると思う」とエマが答えた。
車はダブリンの東側の海岸線を走り、静かで穏やかな表情のアイリッシュ海上空にはカモメが飛び交っている。彼らは海岸上空に飛び交うカモメをぼんやりと眺めながら、ゆったりとした時の流れに身を任せた。
しばらくするとジョウたちはエマの家族が経営しているB&Bに到着した。最寄り駅から徒歩十五分ほどだし、海岸にも車で五分もあれば出られる絶好のロケーションだ。B&Bとは、家族経営しているリーズナブルな朝食付きの宿泊施設で、民家をそのまま利用している所が多い。
エマの家族のB&Bは、正確に言えばゲストハウスと呼べる大きさで、部屋数も十部屋ほどあった。広い敷地に地上三階建ての煉瓦造りの建物で、一階のダイニングルームからは手入れの行き届いた庭が見え、綺麗な花々が咲いていた。
ジョウたちは車から降りてトランクから荷物を取り出し、玄関のベルを押した。ロンドンと同じように家の玄関はその家々によって色が違い、とてもカラフルだ。エマの家はアイルランドらしい緑色だった。
アイルランドの国旗は三色旗で、緑はカトリック、オレンジはプロテスタント、中央の白は平和を表している。また、アイルランドの国花はシャムロックと呼ばれる三つ葉のクローバーで、アイルランドがエメラルドの島と言われる所以である。しばらくするとエマの両親が僕らを笑顔で出迎えてくれた。
「ジョウ、祐二、久美だね? 会えて嬉しいよ。日本からわざわざアイルランドまで来る観光客は珍しいんだ。色々と日本の話を聞かせて欲しい。その前に、とりあえずエマに部屋の案内をさせよう」
エマのお父さんは顔をほころばせた。
「その間に、おいしい紅茶とビスケットを用意しておくわ」
エマのお母さんもにっこりした。
エマの両親はとても感じの良い優しい雰囲気の人たちで、ジョウたちは少し安堵した。少し太めのお父さんは、昔はスポーツで体を鍛えていたと思えるがっしりした体格だった。初老にさしかかった黒髪に白髪が少し混じっていた。
エマのお母さんは家庭的な感じで、可愛らしい花柄のエプロンを着けてキッチンやダイニングルームをせわしなく行き来していた。今は冬の休暇だから、旅行客の毎日の食事の仕込みに忙しそうだった。
ジョウたちはエマに案内されて二階へ上った。
「ここは家族経営だからリフトがないのよ。大変だから荷物運び手伝うね」とエマが言った。
ジョウは「大丈夫だよ」と言って、祐二や久美と一緒にエマの後をついて行った。
建物自体はまだとても綺麗で、築十数年ほどしか経過していないようだった。室内の壁紙は温かみのあるベージュで統一されていた。絨毯は上品な感じのするワインレッド色で、階段の手すりは重厚な感じのするマホガニーだった。階段を昇ると、エマが通路の右手側の一番奥の部屋とその隣の部屋を指さした。
「ここが祐二とジョウのスタンダードツインルーム。その隣が久美のシングルルームよ。トイレとシャワーが共同で、この通路の突き当たりにある」とエマが説明した。
エマがジョウたちを部屋の中に案内した。室内は簡素な感じがしたけれど、広々としていて、シングルベッドと机と椅子、クローゼットが置いてあった。机の上にはポットとマグカップ、インスタントコーヒーが用意してあり、部屋は無線LANが完備されていた。ジョウと祐二は「また後で」と久美と言葉を交わした。久美も「また」と言って自分の部屋へ入って行った。
祐二はベッドの端に腰を下ろし、しばらく窓の外を眺めていた。向い側の通りには宿泊施設が何件か立ち並んでいるのが見えた。小さなスーパーマーケットや銀行、レストラン、パブ、カフェなどがエマのB&Bから歩いてすぐ近くのところにあって、多くの人々が通りを行き来していた。
ジョウはスーツケースを開けてジャケットやジーンズ、シャツなどを部屋のクローゼットのハンガーに掛けてタオルや歯ブラシ、洗面用具などを机の上に広げた。機内に持ち込んだ小さなPCをリュックサックの中から取り出して机の上に置き、アダプターをコンセントに差し込み充電した。そしてアイルランドのガイドブックを手に取り、ペラペラと本をめくった。
今回ジョウがダブリンに来た理由は様々あるが、カエサルやローマの歴史を通してケルトの歴史や文化に興味を持ち、惹かれたからだ。
ジョウの提案で久美や祐二も一緒にクリスマス休暇にアイルランドを訪れることになった。久美はもともと文学や神話に興味を持っていたし、アイルランドに行ったことがないからどんな所か尋ねてみたいと話していた。
ジョウはガイドブックを手にして祐二と一緒に部屋を出た。一階のダイニングルームにはエマの両親がテーブルを囲んで彼らを待っていた。久美の姿はまだ見えなかった。
祐二が「すいません。お待たせして」と言うと、エマのお母さんは笑顔で受け止めてから「祐二とジョウは紅茶にミルクと砂糖を入れるのかしら?」と尋ねた。
「はい。お願いします」と二人が返事をすると、大きなトレーに、白い陶器のティーポットとカップ、砂糖、ミルク、ビスケットをのせてテーブルまで運んでくれた。
「今、午後の二時を過ぎて一段落ついたところなんだ。他の宿泊客はみな外へ観光に出かけている。昼食済ませたのかい?」とエマのお父さんが尋ねた。
「はい。飛行機の中でサンドイッチを食べました。お気遣いありがとうございます」とジョウたちは言った。
「ここはB&Bだから基本的に朝食しか提供しないんだが、追加料金を払えば夕食もここで食べられる。その場合、前日の夜までに連絡をして欲しい。まあ、この近辺にはたくさんレストランやパブ、カフェなどあるから食事に困ることはないだろう」
そう言うと、エマのお父さんがダブリンの観光マップを手渡した。
「俺もガイドブックを持ってきたんですけど、こちらの地図の方が詳細だし、この近辺のレストランやショップも載っているので助かります」
ジョウたちがエマのお父さんと話をしていると、エマや久美も急ぎ足でやってきて席についた。彼らと同じように久美にも紅茶が運ばれた。久美がティーカップに紅茶を注ぐと熱い湯気が立ち上った。
「ジョウたちはロンドンに留学しているの?」とエマが尋ねた。
「俺たち三人は同じ大学に通っていて、おまけに俺と祐二は同じフラットの住人なんだ。学生寮からフラットに移ってそこで知り合ったのがアリス」
「アイルランドは初めてかい?」
エマのお父さんは、彼らが日本人ということで興味津津の様子だった。
「はい。建物や気候などはイギリスと似ていますね。けれど、アイルランドにはケルトの歴史や文化が根付いていて、イギリスとは異なると本を読んで知りました。とても興味深いです」とジョウは答えた。
「日本の神道や仏教は、ケルト文化と共通した考えを持ち合わせています。日本人は、万物にはすべて霊魂が宿っていると考え『八百万の神』と呼ばれる多くの神々を祀ってきました。また六世紀半ばには仏教が伝来し、輪廻転生という思想も広まりました」
久美は優等生らしい顔つきで話を始めた。
「ケルト人も、人は何度も生まれ変わるという信念を持っていた。そして、この世と直結している目に見えない世界や存在を信じ、人間と深い関わり合いがあると思っていた。それは今日でも私たちアイルランド人に受け継がれている」
エマのお父さんは感慨深げにジョウたちに話した。そして
「エマ。明日、ダブリン観光を兼ねて大学の図書館にジョウたちを案内したらどうだい? 色々と参考になるかも知れない」
エマのお父さんは彼らにとても親切にしてくれた。
「どうぞそんなに気を遣わないで下さい」
久美は申し訳なさそうに答えた。
「忙しいのは午前中だけだから気にしないで大丈夫。それにエマもジョウ、祐二、久美が来てくれて喜んでおる。滞在中はエマに時々観光案内をさせよう」
エマのお父さんの提案で、ジョウたちは明日エマと一緒にダブリン市内を散策することになった。
ケルトの歴史と文化
翌日の昼過ぎ、エマ、久美、ジョウ、祐二は電車に乗ってダブリン市街地へ行った。タラ・ストリート駅で下車すると、駅の目の前はリフィ川が流れていた。リフィ川の向こう側には大きな建物の税関が見えた。税関の中央にはドームがあり、その上には女神像が立っていて、大空から僕らを見下ろしているみたいだった。
ジョウたちはタラ通りを歩いてトリニティ・カレッジに向かった。トリニティ・カレッジはアイルランド最古の大学で、一五九二年にイギリスのエリザベス一世によって創立された。ガイドブックに目を通すと、ジョナサン・スウィフトやオスカー・ワイルド、サミュエル・ベケットなど世界の名だたる文豪がこの大学から輩出されたと書いてある。
通りを歩いていると、アイルランド銀行のすぐ向い側にトリニティ・カレッジの正門が見えた。建物は重厚な石造りで荘厳的な佇まいを見せ、由緒ある大学の風格が見て取れた。正門をくぐると眼前に鐘楼、右手奥に細長い建物のオールド・ライブラリーがあり、約五百万冊もの蔵書数を誇っている。
アイルランドに最初のケルト人が渡って来たのは紀元前三百年頃。ケルト人はローマ人の進出によって中央ヨーロッパから西へ追いやられ、最後にアイルランドに辿り着いた。
ケルトの起源は、オーストリア中北部とドイツのバイエルンを中心に栄えたハシュタルト文化まで遡ることができる。これは大陸のケルトと呼ばれ、スコットランドやウェールズ、アイルランドなどにもたらされたものは島のケルトと呼ばれている。ローマ人の勃興によってケルト文化は衰弱していったが、アイルランドだけはローマ人の攻撃を受けなかったためケルト伝承が残った。
発掘された出土品の遺跡によると、ケルト人は気位が高く派手で、宝石や黄金などの装飾品を所有していた。また獰猛な気質で戦を好み、生命は万物に宿り、輪廻転生を信じていたがゆえ死を恐れていなかったという。
四人が到着すると、すでに多くの観光客が長い行列を作っていたので、一時間ほど列に並ぶはめになった。彼らと同様に多くの観光客はケルト美術の最高峰である『ケルズの書』や、現存する最古の『ダロウの書』がお目当てみたいだった。
暫くすると彼らは館内の主要図書館であるロングルームの展示室に入った。ロングルームは天井が高く、室内の両側には大量の蔵書が天井まで届きそうな高さの書棚に収められていて、大理石でできた胸像が通路に向かって並んでいた。通路中央には展示ケースが設置され、アイルランド最古のハープも展示されていた。
ロングルームにはケルズの書、アーマーの書、ダロウの書などがガラスケースの中に収められていた。これらの書は豪華な装飾が施されていて、聖母子像やシンボル、渦巻文様、人や動物の絵などが描かれていた。ケルトの写本は、渦巻文様、組紐文様、動物文様の三つの特徴がある。
ケルズの書とは、マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝が収められている四つの福音書のことで、アイルランドの宝の一つとされ、聖コルンバの偉業を称えるために制作された。九世紀はじめ、ヴァイキングの襲来でスコットランド西部の島からダブリンへ避難してきた修道僧が、アイルランドのケルズ修道院でケルズの書を完成させ、トリニティ・カレッジの図書館に三百年以上にわたって保管されてきた。
ダロウの書は、修道士の写字生によって写本されたもので、羊皮紙や顔料などを使い、労力を要して制作された。この写本は聖なる修道院の権威の証でもある。キリスト教の布教とともに聖書の装飾写本は発達し、ケルトの美術芸術とキリスト教の聖書の様式が発展していった。
「ダロウの書のヨハネ福音書には動物文様の装飾が施されているね。キリスト教では羊などが神に仕える動物だとされていて、それ以外の動物はみな悪魔とみなされているのよ。だから、この書は反キリスト教的とも言える。ケルトとキリスト教の融合かしら」
エマが写本に目を凝らしながら話した。
「この文様だけど、日本の家紋みたいなものかも知れない」とジョウが続いた。
「文字の頭に人間や動物が描かれている装飾文字。きっと人間や動物に対する深い意味が込められているのね」と久美は答えた。
「アイルランドにはもともと土着のケルト信仰があった。しかし、四三二年に聖パトリックがアイルランドにキリスト教を布教するためイギリスから渡ってきた。アイルランド人は、その当時異教であったキリスト教を排除せず、ケルト信仰の中にキリスト教を上手に取り込み、独自の文化を作り上げていったのよ」とエマが説明した。
「それで、妖精などのケルト的な信仰がいまだに残っているんだ」
祐二は点と点が線で繋がって、納得したような顔つきをしていた。
「自分のガイドブックにも、『妖精に注意!』っていう標識がアイルランドにあると掲載されている」
感心しながらジョウが言った。
四人は神秘的で謎に包まれたケルト信仰に胸を衝かれ、話に実が入った。
「アイルランドの詩人で作家のイエーツは『ケルト妖精物語』を執筆している。確か・・・・・・彼は、神秘主義や心霊学の研究にも打ち込んでいたはずよ」
久美が意気揚々と話をはじめた。久美はこういった類の話が好きみたいで、オカルトといった下世話な話にとどまらず、信仰や哲学に強い関心を寄せていた。
それから四人は、ケルトの話を交えながらざっと館内の見学を終えて、トリニティ・カレッジを後にした。館内はケルト文化の貯蔵品がたくさん展示してあって、古代の人々が何か意志を持って我々現代人に語りかけているような気がしてならなかった。
腕時計に目をやると時刻は午後三時半。彼らはグラフトン通りを突っ切ってセント・スティーブンス・グリーンのベンチに腰掛けたが寒くて身を縮めた。公園内は、乾いた北風で緑の芝が舞い上がり、大海原を波打っているみたいだった。ベンチに腰を下ろしていると、彼らの近くで歓声を上げて駆けずり回っている子供たちがちらほら見えた。
「グラフトン通りとリフィ川を渡った先にあるオコンネル通りには、観光客向けの各種ショップがたくさんある。帰る前に一度立ち寄ってみるといいわよ」とエマが口を開いた。
「どんなものがあるの?」
ジョウはエマの顔を覗き込んだ。
「アイルランドで有名なお土産と言えば、ウォーターフォードのクリスタル製品、アラン諸島のアランセーター、ゴールウェイのクラダリングね」
「エマ、俺にも何かお勧めはある?」
「そうね……。ギネスビールはどう?」と言ってエマが吹き出した。
「いいね! 今夜はパブに行ってギネスビールを飲むよ」祐二も笑いだした。
ジョウたちは身を切るような寒さの北風を避けるため、グラフトン通りを折り返してリフィ川南岸の石畳が敷き詰められているテンプル・バーへ向かった。この地区は再開発され、若者の芸術や文化の発信エリアとなっていて、パプ、レストラン、カフェ、クラブが所狭しひしめいて活気に溢れていた。
四人はテンプル・バーにあるパブに入った。店内は少し込み入っていた。店内の照明は落され、正面カウンターではバーテンダーが忙しそうにビールやカクテルを作っていた。店内の奥では伝統的なアイリッシュ音楽の演奏が行われていて、常連客と思われる人たちがお酒を酌み交わしながら盛り上がっていた。
ジョウと祐二は早速ギネスビールを注文した。大きなジョッキにきめの細かい白い泡と黒ビールが注がれた。久美とエマはアルコールがだめなのと言ってレモネードにした。
メニューに目を通すと、ロンドンと同じようにフィッシュ&チップスもあったが、祐二はビールと一緒にアイリッシュ・シチューを注文した。ジョウはラム肉のグリル焼き、久美とエマはサーモンのバター・ソテー。彼らはそれぞれ食事を注文し、飲み物を手にして席についた。
「黒ビールはラガーに比べて苦味が強いけど美味しいよ」と言って、ジョウがビールを口に運んだ。
「このジョッキにアイリッシュハープがプリントされているね。今日も展示室で見かけたけど、アイルランドとどういった関係があるの?」
祐二は不思議に思ってエマに聞いた。
「詳しいことはよく分からないけど、ケルト神話にオィンガスと呼ばれている愛と美の神がいて、彼が竪琴を奏でるとその美しい調べにみな心を奪われたと言われている。ボイン河のほとりの妖精の丘に住み、王になった」
「妖精の丘?」
ジョウは好奇心に溢れていた。
「うん。ダブリンの北西にニューグレンジという世界遺産があるの。そこはボイン河流域の丘陵地帯で巨大な古墳がある場所なんだけど、同時に妖精の丘とも言われてきた。戦いの女神モリガンの舞台でもあるそうよ」
「女神に妖精・・・・・・。ケルト神話の舞台だなんて不思議な場所かも知れないな」
ジョウたちは好奇心に突き動かされ、これから色々と探究してやろうと意気込んだ。四人が話に花を咲かせていると、注文した食事がテーブルに運ばれてきた。
妖精の丘
「ジョウ、祐二到着したわよ。起きて!」エマと久美が二人の肩を揺さぶり声をかけた。
「ごめん。疲れていたから車に乗ったらすぐに眠り込んじゃったみたいだ」
祐二はあくびをしながら言った。
「アイルランドに来てから俺たち毎日観光しているから。少し疲れが溜っているみたいだな」ジョウも眠たそうな目つきをしていた。
ジョウたちは先日パブで話をしていた妖精の丘と言われているボイン河流域にやって来た。車から降りてガイドブックで確認すると、ここはモナスターボイスという場所だった。アイルランドの天候はイギリスと同じように変わりやすくて肌寒く、一年を通して雨がよく降るので、四人はフード付きの雨具を頭からすっぽり被って着込んだ。予想通りこの日は曇り空で肌寒く、時折ぽつぽつと雨が地面を濡らしていた。
辺りを見渡すと、牧草地帯の緑の田園風景が眼前に広がっていた。以前ジョウが夢で見た場所とそっくりだった。エマがガイド役を務めてくれてジョウたちは彼女の後をついて行った。特に目立った建物はなかったが、しばらく歩くと多くの墓標が見えてきた。その中に、ひときわ目立つハイクロスが立っていた。今にも泣き出しそうな低く垂れこめた曇り空となだらかに続く牧草地、そしてケルト十字架。天地とケルトの神々が、彼らを神秘的なケルトの物語に誘っているみたいに思えた。ケルト文化圏の修道院や町を歩いていると、ハイクロスをたびたび見かける。ケルトのハイクロスは上部中央に円環を配している石造十字架で、古代のケルト人が石を神聖なものとみなし崇拝していたということが伺える。モナスターボイスのハイクロスは、アイルランドで有名な十字架の一つであるとエマが教えてくれた。
「十字架の中央の円環に聖人、柱状部分には東方の三賢人、モーゼ、アダムとイブなど聖書の物語のレリーフが施されている。ここにもケルトとキリスト教の融合が見られるね」とエマが言った。
「それに石への信仰心も厚かった」とジョウは返した。
「ケルト文化、キリスト教、石・・・・・・」
久美がハイクロスを見上げながら呟いた。
「神話、聖書、神・・・・・・とも言える」
祐二はジョウと久美の方を振り向きながら言った。
「キリスト教を布教した聖パトリックは、シャムロックと呼ばれる三つ葉のクローバーを用いてキリスト教の三位一体を説いたの。父と子と聖霊。どうもケルトは三という数字にこだわりがあったみたいね」とエマが続いた。
「へえ・・・・・・」祐二は何度か頷いて、関心を払いながら言った。
「アイルランドにはブリジットという太陽の女神がいる。ケルト神話に出てくるダーナー神族の王ダグダの娘で、ダグダには三人の娘がいてみな同じ名前だった。それから、戦いの女神モリガンも三人重なっている。三という数字が全てを包括していることを示しているのよ」
「え? ブ、ブリジット? いやあ、まさかあ・・・・・・」
ジョウは大事なことを急に思い出したかのように我に返り、独り言を言いながら口籠った。
「どうかした?」
久美が不思議そうな表情でジョウを見ていた。
「ほら、例の幽霊だよ。俺のフラットにたびたび出てくる女性。彼女の名前、確か、ブリジットなんだよ!」
ジョウは興奮気味に言い放った。そして
「そういえば、あの時、彼女と遭遇した場所もこんな感じだった。ケルトの十字架があって、牧草地帯が広がっていた!」
ジョウはデジャブだと悟った。
「何かあったの?」
エマは話を理解できず、きょとんとした様子だった。
「うん。ちょっと・・・・・・。俺が見た夢というか、遭遇した幽霊というか・・・・・・。彼女、深い森の中に住んでいて、占いや予言、詩作が得意だって・・・・・・」
ジョウは絶句した。
「きっと、キルデアの聖ブリジットのことね。聖パトリック、聖コロンバと並んでアイルランドの守護聖人とされているのよ。ブリジットは四〜五世紀頃のアイルランドで活躍した修道女。ケルト神話の女神ブリジットとキリスト教の聖ブリジット。古代ケルト宗教がキリスト教に取り込まれた形で発展していった。」とエマが説明してくれた。
「エマ! ジョウって、とっても怖がりなんだよ!」祐二はからかうような顔つきをして笑いだした。
ジョウは何かを思いつめたように真剣な表情で顔を強張らせ、その場から逃げるようにして小走りで車へ引き返した。この世の次元や認識を超えた奇妙な体験にジョウはどう対処すればいいのか分らず、頭の中に残っている残像を手掛かりにして謎を解明し、恐怖心から解放されたい一心だった。この世は都合などお構いなしに、無秩序に混沌としていて、悪魔的な呪わしい場所なのではないかとさえ思えてきた。久美、祐二、エマは嘲笑するかのように大きな声でジョウの名前を何度も背後から叫んだ。
次にジョウたちは車でニューグレンジへ向かった。世界遺産だけあって巨大な古墳の前には多くの観光客が群れをなしていた。ツアーガイドが見学グループの人たちに大きな声で遺跡を説明していた。
この巨石は五千年以上も前のものだと言われているが、どのような意図で誰が造り上げたのか依然謎のままである。そしてここにも謎の渦巻き模様が施されている。
分っていることは、新石器時代以前、ヨーロッパ南部から移住してきた人々がここで暮らしていたらしい。そして古墳の構造から、かなりの天文学の知識を持ち合わせていたと考えられている。というのも、一年で最も日の短い冬至の日、太陽光がニューグレンジの中へ繋がる通路にまっすぐ届くように設計されているからだ。
ケルトの土着信仰でも太陽神を崇拝するドルイドの教義があり、自然や天体、人間の魂など霊的な力を持っていると捉えていた汎神論的な民族であった。
エマ、久美、祐二がツアー見学に参加しようかどうか話し合っていた。ジョウはこの巨大な遺跡を目の前にして奇妙な感覚を覚えた。それは圧倒的なものが、何の前触れもなく、急に、襲いかかってきて、覆いかぶさるみたいな感じで、窒息しそうだった。
雨は相変わらず降ったり止んだりして、外気が俺の肌を突き刺しているみたいで肌寒く、背筋にぞくぞくとしたものを感じ、身震いした。ジョウはいくらかやつれ気味でどこか落ち着かない様子だった。
陰惨とした空模様に謎の巨石と渦巻き模様。辺りは牧草地が果てしなく続き、まるで古代にタイムスリップしたみたいな錯覚に陥った。ジョウは神妙な顔つきをして立ち竦んでいた。すると、突然、耳鳴りがした。それは耳の中をつんざくような大きな音だった。ジョウの心臓は異常な早さで鼓動し、呼吸は荒く、動揺を抑えることができなかった。
上空を見上げると、漆黒の不気味なカラスが大きな鳴き声をあげながら、まるでジョウを嘲笑うかのように、低く垂れこめた憂鬱そうな表情の鉛色の空を、大きな羽を広げてくるくると舞っていた。すると、突然、天空にゴロゴロと大きな音が鳴り響き、少し遅れてから大きな花火が打ち上げられたかのようにピカッと稲妻が走った。
ジョウは全身の体の力が抜けるような感覚に陥り、めまいがして地面に倒れ込んだ。祐二、久美、エマが遠くから叫んでいる声が聞こえた。どうやらジョウのそばに駆け寄って心配そうに何度も声をかけていた。耳元で必死に叫んでいた三人の声は、やがて、だんだんと遠のき、顔が滲んでぼやけ、ジョウの意識は混濁した。
ブリジット
あの日と同じようにジョウは大空を舞っていた。眼下に広がる群衆と田園地帯が連なる緑の丘を上空からぼんやりと見下ろしていた。ジョウの周りには人だかりが出来ていた。ジョウはもう一人の自分を気に掛けながらもブリジットと一緒に空の旅に出た。彼女の名前はブリジット。そう、ジョウのフラットにたびたび姿を現していた女性だ。
「どうして俺の部屋に姿を現すの?」
ジョウはブリジットに尋ねた。
「伝えたいことがあるからよ」と言って、ブリジットはジョウの手を優しく握りしめ、それから彼女は人差し指を西の方角に向けて指示した。
ジョウの体は肉体から離脱して存在感を失くしたみたいに薄っぺらい幽体だけになって、軽くてふわふわしていた。心の中に占めていた恐怖心は不思議と払拭され、冒険心から胸を弾ませた。
心の中で行きたい場所を念じると、すぐにその場所に飛んで行けた。ジョウは「こんな魔法がいつでも使えたらいいのになあ」と思いながら、約束の地を求めて西の海を目指した。
ブリジットによると、ケルト人には二つの異界への入口がある。一つは妖精の丘、もう一つは西方の海。ケルト人は妖精の丘にある地下の異界だけでなく、西方の海底にも異界があると信じていた。
ブリジットはジョウをアイルランドの西海岸に案内した。そこはモハーの断崖絶壁で、息を呑むような大きな波しぶきが岩肌を叩きつけていた。自然の驚異の力は人間を圧倒し、畏敬の念を抱かせた。力を緩めることなく規則的に雨風と共に長い年月をかけて岩を侵食していた。雨は細かい霧雨だったが、視界がひどく悪く、強風と断崖にたじろぎながら、ジョウはブリジットの話を聞いた。
「ケルトには独自の航海譚があって、異界の入口である西の海を旅する物語なの。『聖ブレンダンの航海』は、ゴールウェイ地方のクロンファート修道院長だった聖ブレンダンと修道僧たちが、聖人たちのいる約束の地を旅する話よ」
ブリジットが優しい眼差しでジョウを見つめ、ゆっくりとした口調で話を始めた。
「不思議な物語なんですか?」
ジョウは唾を飲み込んだ。
「そうね。巨大な魚や果物、鳥の楽園、地獄の淵や悪魔の山などを巡り、約束の地に到着する」
「ほ、本当に、異界の入口ってあるんですか?」
ジョウは気が急いだ。
「あるわよ。あなたがそれを信じていればね。ジョウが気を失った妖精の丘、あそこも異界の入口だった。だからあなたは今私と異界の旅をしているでしょ」
ブリジットはジョウに言い諭すように話した。
ジョウはキングス・クロス駅の「プラットフォーム9と3/4番線」のことを思い出した。やっぱりあそこは、この世とあの世を繋ぐ異次元への扉なんじゃないかという考えが頭をよぎった。
それから、ジョウはブリジットに連れられてシャノン河を訪れた。強風は治まったが、幻想的な靄に包まれて冷たい霧雨が断続的に降っていた。
ブリジットによるとケルト世界では、泉、井戸、川、湖など水にまつわる信仰も強かったと。そして水を司っている女神を称えて祀り、病気治癒のため聖地を訪れる巡礼者が後を絶たないと教えてくれた。太陽と岩山、泉や井戸など水への厚い信仰心。三位一体。
フランス南西部のピレネー山脈麓にあるルルドの泉は、聖母マリアの出現とともに奇跡の水が湧き出る聖地としてカトリック教会の巡礼地となっている。この泉は病気を治癒する不思議な力があるという。
今、ジョウが空から見下ろしているリムリックのシャノン河は、女神シャノンが由来で、幸運をもたらす女神や水の精が住んでいるとブリジットが話していた。ニューグレンジに沿って流れているボイン河には、女神ボアーンというように。
「水には人間の人知を超えた不思議な浄化作用があるんですね」
ジョウは眼下を流れるシャノン河を見つめながら言った。
「水は生命を育み、浄化、再生を促す。海を含め、泉、井戸、川、湖などはすべて異界へ繋がっている。それなのに現代を生きる人間は自然や神に対する敬いを欠いて、環境破壊を続けている」
ブリジットの顔は悲哀に満ちていた。そして
「古代ケルト人は神に対する畏怖の念を抱いていて、泉に馬を生贄として捧げ、剣や盾などを投げ入れていたのよ」
「今日では泉にコインを投げ入れます」
ジョウはその時、現代と古代の風習の共通点に気がついてはっとした。
「昔の風習の名残でしょうね」
「俺はいつか、カエサルの地、ローマに行きたいと思っているんです。ローマにあるトレヴィの泉では、後ろ向きでコインを投げ入れると再びローマを訪れることができるって言われています」
「ローマやギリシャに行く時は気をつけなさい。あそこは人間関係というか・・・・・・神々の関係がとても複雑だから・・・・・・。まるで昼ドラの世界よ。お酒で人を陶酔、狂乱させるディオニュソスや災いをもたらすパンドラがいる」
ブリジットは機知に富み、半ば冗談気味にジョウを和ませるように言った。
「分かりました」とジョウは言い、ブリジットの顔をみつめてにっこり笑った。
「うん。でも・・・・・・、妖精や女神って本当にいるんですか?」
ジョウは不信感を抱きながらもそうあって欲しいと願わずにいられなかった。
「もちろん。妖精は異界の住人だから」
「でも、俺には妖精が見えません」
「普通の人には視えないのよ。それに、本当は姿や形がないの」
「はあ・・・・・・」
ジョウは肩すかしをくらい、少し納得のいかない様子で溜息を洩らした。
「妖精は気が小さくて怖がりだから、めったに人間の前には現れないの。たまに自分の存在を分かってもらいたくて姿を現すこともあるけれど」
異界の住人
エマ、久美、祐二の話によると、ニューグレンジでジョウは三十分ほど気を失っていたという。三人が心配してしばらく様子を見ていると、時々ジョウは何か言葉を発していたらしいが、意味不明で理解できなかったと言っていた。そのうち何もなかったように意識が戻ったそうだ。彼らからその話を聞かされると、ジョウは意識を失っている間、異界でブリジットと旅をしていた時のことが脳裏をよぎった。
ジョウはアイルランドの妖精伝説を調べるため、「アイルランド 妖精」とパソコンに打ち込んだ。
アイルランドの妖精は大きく二つに大別できる。群れをなして暮らすものと単独で暮らすもの。群れをなすものは妖精の丘や海に住み、陽気で温和な性格だが、単独で暮らすものは人間に対して悪意を持っていたり気味が悪い姿で、恐ろしい性格だと分かった。
ドンドンと部屋の扉をノックする音が聞こえた。ジョウは急いでパソコンの画面を閉じ、「ちょっと待って下さい」と言って応答した。扉を開けるとエマのお父さんが立っていた。
「何か調べものでもしていたのかな?」
「あの・・・・・・、アイルランドの妖精についてです。本当に妖精っていると思いますか?」
ジョウは勇気を振り絞り、思い切ってエマのお父さんに尋ねてみた。
「もちろん。みんな信じているよ」
エマのお父さんはジョウの思いとは裏腹に驚きもせず淡々と答えたが、ジョウは子供じみた質問をして急に恥ずかしくなり、顔を赤らめた。
「もしかして、妖精の仕業だと思ったのかな?」
エマのお父さんが意外な言葉を口にした。
「実は、ニューグレンジに行ったとき意識が朦朧として倒れました。もしかしたら、妖精の悪戯じゃないかと思たんです」
ジョウは意を決して胸中を吐き出した。
「なるほど。あり得る話だな。あらゆる病気は超自然的な原因で起こるという思想が古代にはあった。近代になって医学が確立されるとそういった思想は廃れたが、それでもいまだに病気は神の劫罰と捉えている人々もいる。そういった話は枚挙にいとまがない」
エマのお父さんは頷いて答えた。
「え? そうなんですか?」
ジョウは思わず大きな声を上げ、驚きを隠せなかった。
「アイルランド人は高い精神性を持ち合わせている民族でとても信仰心が厚い。キリスト教は一神教だけれどもケルト信仰も持ち合わせているからな。今後は興味本位で妖精に近づかない方がいい。それから、ジョウの気の弱さに付け込んでいるのかも知れない。弱みを見せると悪意で悪戯をしかけてくるから、気丈に振舞いなさい」
エマのお父さんは少し厳しい表情をしていた。
「具体的に、どうやったら妖精が悪戯をやめてくれると思いますか?」
ジョウは藁にもすがる思いで、不安に満ちた顔つきをしてエマのお父さんに尋ねた。
「誠心誠意、詫びること。そして、興味本位で妖精を呼び出したりせず、また二度と近づかないことだ。妖精の中には人間を困らせ、悪戯をする低級自然霊がいることを心に留めておきなさい」
エマのお父さんは一通り話を終えると祐二の部屋から出て行った。ジョウはエマのお父さんに言われたように自分の未熟な行為を反省した。そして、二度とこのようなことが起こらないように願った。
聖地巡礼
ジョウはエマのお父さんと話を終えると部屋を出た。一階にあるダイニングルームの中へ入って行くと、エマ、祐二、久美がジョウに気づいて手を振り呼び寄せた。ジョウは部屋の隅にある窓際のテーブルに腰を下した。午後の暖かな薄日が西の窓から差し込んでいた。
「ジョウ、最近部屋に引きこもりがちだけど大丈夫?」
久美がジョウの顔を心配そうに覗き込んだ。
「ジョウのこと冷やかしたりして悪かった」
祐二は悔恨の念にかられていた。
「大丈夫。きっと旅の疲れが出たんだろう」
ジョウは二人に心配かけまいとして気丈に言った。彼らがテーブルに着いて話を始めると、エマのお母さんがいつものように紅茶とビスケットを運んでくれた。ティーカッブに紅茶を注ぐとダージリンの芳ばしい香が嗅覚を刺激した。ジョウはしばらく立ち上る湯気を鼻に近づけ、その香を楽しんだ。砂糖とミルクをカップに注いで一口飲むと、まるで緊張感から解放されたみたいに、心の重荷が少し軽くなったような気がした。
「エマ、久美、祐二に聞いてもらいたい話があるんだ……」
ジョウは真剣な顔つきをして話を切り出した。
「真面目な話だから茶化さないで欲しい」と一言告げると、祐二は申し訳なさそうな顔をしていた。久美は話を聞くために体を乗り出して真面目な表情を浮かべていた。
「祐二には少し話をしたんだけど、俺はロンドンのフラットに引っ越してからたびたび金縛りに遭っていた。ある晩、夢というか幽体離脱のような不思議な体験をした。その時にブリジットという女性に出会った。ニューグレンジに行って俺が気を失った時、実は、ブリジットと夢の中で再会していたんだ。その時俺はブリジットから色々とケルトの話を聞かせてもらったよ」
ジョウは大きな深呼吸をした。
「そ、それで?」
エマは驚きの表情を隠せなかった。
「ブリジットによると、アイルランドのボイン河流域や西方の海は異界の入口で、女神や妖精などが住でいるという。俺は運が悪く、どうやら、悪戯好きの妖精と出会ってしまったらしい」
ジョウは話を終えると、彼らがどう感じているか見落とさないように目を凝らして三人を見つめた。彼らは、さもありなんといった様子だった。
「原因不明の病気って、たまにこういったことが原因であると噂に聞くし、アイルランド人にとって妖精の存在は子供のおとぎ話ではなく、本当に人々の心の中に根付いているの」
エマの顔は真剣そのもので、ジョウを安心させるかのように力強く言った。
「俺もそう思っている。あの時はジョウにちょっと意地悪しただけで、自分も霊や妖精の存在は否定していない」
「ありがとう」とジョウは言った。彼らに理解してもらえて安堵の表情を浮かべた。
「ジョウは穢れを祓う必要があるわ」
エマがきっぱりした口調で言った。
「どういうこと?」
ジョウがエマに尋ねた。
「ケルトの世界では、水は神聖なものなの。泉、井戸、川、湖など水にまつわる信仰も強く、病気治癒のため聖地を訪れる巡礼者が後を絶たないのよ」
エマは急に堰を切ったように話しだした。
ドルイド
翌日、エマ、祐二、久美、ジョウの四人は車で一時間半ほどかけてウィックロウ県にあるグレンダーロッホに向かった。グレンダーロッホは「二つの湖の谷」という意味だ。緑深く美しいウィックロウ山脈の山道を縫って走っていると、めくるめくような素晴らしい景観が次々と目の中に入ってきた。
ジョウは眼下に広がる牧歌的な丘陵地を眺めながら、まるでアルバムに収められている写真のような、ひっそりと森の中に佇む、神秘的な石造りの初期教会群を見つけた。かつては七つの教会の町として有名だったアイルランドの聖地である。四人は車を駐車場に止めて辺りを散策することにした。
付近一帯はウィックロウ国立公園になっていて、多くの観光客の姿が見られた。彼らは遺跡を見るため、石積みの門と呼ばれる自然石を前後二重に積み上げたゲートを通った。中へ入っていくとひときわ目を引く石造の高い塔が見えた。この塔はラウンドタワーと呼ばれ、もともと鐘楼として建てられたが、ヴァイキングが来襲した際にこの中へ入って避難し、宝物庫、目印として多目的に使用された。
彼らは塔を見上げながら歩を進め、やがて遺跡中央にある大聖堂に到着した。大聖堂といっても屋根もなく崩壊が激しかったが、グレンダーロッホ最大の代表的な教会だった。大聖堂のすぐ近くには石積みの聖ケヴィン教会があって、煙突のような円塔と急勾配の屋根が特徴的だった。遺跡内はモナスターボイスと同じようにケルトの象徴であるハイクロスが林立していた。
「モナスターボイスを訪れた時と同じように、遺跡内にはたくさんのケルト十字架や教会跡があるの」
エマが確認するかのようにはっきりした口調で言った。
「人里離れた深い森の中で聖ケヴィンは静かに祈りを捧げていた。この地を拠り所としていた」
ジョウがガイドブックを眺めながら言った。
「ケルト神話のドルイドたちも深い森の中に住んでいたと言われている。森は聖なる場所なんだろう」と祐二が言った。
「森と湖に囲まれたウィックロウ山脈一帯は聖なる地。針葉樹林の緑の天蓋の中に青々した二つの湖が形成されている。幻想的で素敵な所ね」
久美の目は生き生きとして輝いていた。
「ドルイドは死後の世界や霊魂を信じ、豊富な自然科学的な知識も持ち合わせていた。この森の中もまるでドルイドが神聖視していた森と樹木のようだわ」とエマが言うと、祐二が清々しい木立に囲まれた森の中で大きく深呼吸した。
「この森の中に足を踏み入れてから、言葉ではうまく説明できないけど、普段とは違う空気が辺りに流れているような気がしてならない」
祐二と同じように、ジョウも幻想的な森の中を散策しながら、神々しい畏怖の念を感じ取っていた。
太陽の暖かく優しい光がジョウたちを照らし、清々しい緑の香りに包まれた。そして暫く歩くと、目の前に、美しい雄大な渓谷とロウアーレイクが姿を現した。この湖は氷河によって削られ形成されたものだ。
彼らは湖畔にしばらく無言で佇み美しい湖を眺めていた。透明で底が見えそうな湖面に浮かび出されたジョウの顔は、ほっと胸を撫で下ろした表情をしていた。顔を上げて周りを見渡すと起伏に富んだ山々が連なっていた。ジョウはポケットに手を突っ込み、コインを取り出した。そして大きく腕を振り上げてコインを湖に投げ込んだ。
祈りと信仰
ジョウはコインを湖に投げ入れた。それから、柏手を二回打って両手を目の前で合わせて静かに目を閉じた。西洋のやり方が分からなかったのだが、真摯に祈ればどんな方法でも神に通じるだろうと考えた。そして、心を込めて神や妖精の怒りが静まることを祈った。
ジョウはアイルランドに来てからケルトの伝統的な文化や歴史、信仰に触れて、日本と形式は違うにしても似通った考え方があると感じていた。例えば太陽や自然を敬う気持ち、輪廻転生説。大いなる自然の中に身を置いていると、自分たちを生かして下さっている自然の摂理や神の恵み、エネルギーを感じたような気がした。
聖地は異界への入口。この世と折り重なってあの世への架け橋となっているに違いない。あのプラットフォームのように。
霊的な世界へ通じる扉を古代の人々は大切に守るため、祈りや儀式を執り行ってきた。しかし、現代人は古代人から受け継がれてきた精神性をどこかへ置き去りにしてきたような気がする。
物質文明の中で心と体を酷使し、生産性や効率化を追い求め、精神的に疲弊し、「なぜこの世に生まれ存在しているのだろうか、なぜ生かされているのだろうか」といった人生の目的や意義に疑問を持つこともなく、ただ濁流に流されるが如く、毎日精彩を欠いて死んだような虚ろな目をして生きている。そんな疲弊した魂の行き着く先は……。人間は永遠の魂の旅を続ける霊かも知れない。