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苦しみを共有する方法

作者: 白雪林檎




「あれ?鍵、閉めたっけ……」


胸の中にじわりと不安の種が広がる。1度広がってしまったらもう、手遅れなのだと知っている。気づいた時には血液のようにぐるぐると体内を巡り、僕の思考さえもあいつは持っていこうとするのだから。


「はあ」とひとつ大きなため息をこぼし、体をくるりと後ろへ向ける。そして錆びて茶色くなった階段をのそとそと、引きづられるように登るのだ。今日も、明日も、明後日も、そのまた次の日だって、きっと。



やっとの思いで玄関へと辿り着く。205号室、日当たりの良い角部屋である。

一人暮らしを始めて間もない頃は、この古びたドアノブが随分輝いて見えていたと思う。捻るだけで誰にも侵されることのない、自分だけの空間へと導いてくれるのだから、それはもう着飾ったババアがつけていたでっかいダイヤモンドや小さい頃集めていたキラキラ光る石なんかよりも輝いて見えたのだ。今ではもう、ただの古いドアノブでしかないけれど。


--ああ、やっぱり今回も僕の思い過ごしか。


心ではそう思ってもまだなんとなく気になってしまい、念のため2、3回ガチャガチャとドアノブを動かした。


大丈夫だ、大丈夫。

ちゃんと閉まってる。


自分を無理やり納得させ、大股で階段の前まで戻る。さっき確認したじゃないか。僕にはもう時間が無いだろ?そうだ、時間が無いんだ。鍵はちゃんと閉まってた。念の為戻って確認までしたんだ、平和ボケした全日本人に見習って欲しいくらいだよ、まったく。

そう自分でまくし立てながら階段を降りていると、あいつはまた僕と胸にすっと種をばらまいた。


理性では、分かっている。ここでまた戻るなんて馬鹿のすることだと。意味の無いことだと。なのにあいつはもう、体の中を巡りに巡って、残っていた僅かな理性さえも持って行ってしまうのだから、僕にはもうどうすることもできなかった。


降りた階段をまた、登った。


「くそっ、時間ないのに」


苛々をぶつけるように乱暴にガチャガチャとドアノブを引っ張っても、やはり鍵は閉まっているのだ。

それでもまだ、あいつは自分の中から消えてはくれない。


--3回だ。3回、ドアノブを右に回して、引っ張る。それで大丈夫だったら、ちゃんと鍵は閉まってるってことにしよう。


自分の中で無理矢理そう結論付け、素早くそれを実行する。


まずい、流石にもう向かわなければと思いながらも、右手に残る強烈な違和感を無視することはできなかった。

3回だけと決めたけど、右手を使ったら左手も同じように使わないと気が済まないのだ、僕は。

どうしても気になってしまって、結局左手でも同じような動作を3回繰り返す。


うん、大丈夫。鍵は閉まってる。

これで出かけている間に不審者でも入って部屋を荒らされることはないし、見知らぬ誰かに部屋で待ち伏せされることもない。


大丈夫だ、多分。







ああ本当に、馬鹿馬鹿しい。

分かっているのだ。きちんと鍵はかかっている事。

でもどうしても気になってしまう。

さっきの自分は鍵をきちんと閉めただろうか?閉めていたとしても、ちゃんと鍵がかかっていなかったら?

そんな少しの疑心を、あいつが見過ごしてくれるはずもない。すっと胸に入り込んできて、まるで自分の劇場であるかのように、部屋が荒らされたり、待ち伏せされて殺される僕の姿をはっきりと映し出すのだ。


--ああ、ここで引き返さないと、絶対後悔することになる。


思考も少しの理性さえも持っていかれた自分は毎回そう結論ずけて、降りた階段をまた登る。

心の中は自分自身の罵倒でいっぱいだ。情けないようなやるせないような。苛々してたまらなくて、泣きたくなる。

そんなことを毎日毎日繰り返してもあいつが離れることは無い。離れるどころか、自分の身を削り僕の中へと少しずつ、少しずつ入り込んでくるのだ。最近は儀式めいた事を達成して無理矢理あいつを引っ込めないと、家を離れることすらできない。



階段を駆け降り、見慣れた道を必死で走る。

家にこもりぎみなせいですっかり衰えてしまった筋肉は、少し走っただけできしきしと痛みを訴えかけてくる。

一歩足を踏み出すごとに上がっていく息が鬱陶しくて、振り払うようにわざと腕を大きく振った。

駅までは徒歩10分ほど。

全力で走ればだいたい7分くらいで着くことができる。


現在の時刻は午後12時34分。

約束の時刻は午後12時30分。


ああ。また遅れちゃったね。

そんな声が、遠くで聞こえた気がした。


駅の改札が見えてきて、徐々に走るペースを落としてゆく。

汗を拭いながら辺りを見渡すと、駅の前に併設されているパン屋の壁によりかかりながらスマホを弄っている、見慣れた顔の男を見つけた。

約束の相手だというのに声をかけるのが億劫になってしまって、思わずその場で立ち尽くす。


どうしようか、まずなんて声をかけよう。謝って、それから、それから……。そんなことを考えながら暫く見つめていると、そいつがふと顔を上げた。

俺のことを視界に捉えると嬉しそうに微笑み、こちらに手を振りながら近づいてくる。


「真琴!」


この男の名前は佐々木晃平。

大学時代からの友人だ。

卒業した後も交流が続いているのは、こいつくらいかもしれない。


時間に遅れたのにも関わらず嫌な顔一つせず真っ直ぐこちらを見てくる佐々木に申し訳なさが増して、少し目を伏せる。


「……ごめん」


「いいっていいって。」


佐々木は少し笑いながらそう言って、僕より一回りも大きい手で右の肩をポンポンと叩いた。


許してくれたことを嬉しく思いながらも、軽く叩かれた右肩に違和感が残っているのがどうしても気にかかる。


「それ、左もやって。」


「左も?」


「うん、二回ね。さっきと同じくらいの強さで。」


「あー、はいはい」


やれやれといった様子で僕の左肩もポンポンと叩いてくれた。


佐々木のこの寛容的な性格には本当に助かっている。

こんな意味の分からないこと、頼めるわけがないのだ、普通。もし、どうしようもなくて頼んだとしても、そいつに1から事情を説明するはめになってしまうだろう。

でも、僕はあまり症状については知られたくない。話したところで理解されるとも限らないし、自分が変人というレッテルを貼られるのはどうしても嫌だった。


その点佐々木は、深く踏み入ることはしない。一見図々しくも見えるが引かれた線を超えることは決してないし、佐々木自身もまた、固く線を引いている。

お互いにそれを理解しているし、それを分かっていて馴れ合っているのだ。


僕の症状は、自分だけでなく周りも巻き込む。


強迫性障害。

僕の日常を邪魔している要素全てがその症状の内に入るのかはよく分からないが、ドアノブの確認行為については間違いなくそれだろう。

精神医学に興味があった時沢山の本を読んだが、その中のいくつかに書いてあった。


生きにくい、と思う。


最近よく考える。

僕は昔から理に適っていない事が好きではなかった。

感情的に動いて結果的に遠回りになっている奴なんかを見るとイライラしてたまらないし、自分が正しいというのを今まで信じて疑ったことはない。

でも、僕のこれはなんだ。

自分では馬鹿らしいと思っているのに、なぜか強烈な不確実感を感じて、意味のないことの繰り返し。

僕が今まで見下し、嫌ってきたものは、僕の内に潜むあいつそのものなのではないか?と。


ぐるぐると自己嫌悪に陥っていると、横から佐々木がぐいっと顔を覗き込んできた。


「おーい。お前がじっくり考え込んでるのを邪魔したくはないけど、なんか今考えてる事はロクでもない事な気がする。

よく分かんないけど、やめとけよ」


佐々木の一声で、ぐるぐると渦巻いていたあいつが姿を消した。

あなたには言葉が足りない。親にも周りにも、何度もそう言われてきた。

それでも佐々木は、言葉にしなくてもいつも感じ取ってくれる。

僕がなにかを熟考しているときは決して邪魔はしない。けれど、良くない思考に陥った時はいつもそれを感じ取って、僕を引き戻してくれる。


あいつの存在が大きくなるにつれて、佐々木の存在もまた、僕の中で大きくなっていくのだ。


「うん、ありがとう。」


僕はいつもみたいに感情を悟られないよう、ふいっと横を向いた。







馴染みのカフェで腰を下ろし、僕はブラックコーヒーを、佐々木はオレンジジュースと紅茶のシフォンケーキを頼んだ。

駅から5分もたたない所にひっそりと店を構えているそこは、いわゆる穴場である。

店内にはいつも落ち着いた洋楽が流れ、客も常連ばかり。料理に関しては可もなく不可もなくといった具合だが、コーヒーだけは別格なのだ。


馴染みの空気に身を委ねながらコーヒーをすすると、佐々木は形のいい眉をくいっと上にあげながら言った。


「真琴ってさ、いつも両手で飲み物飲むよね。普段は大人びてるけど、今は逆に幼く見えるよ。」


「はあ?なにそれ、全然嬉しくないんだけど。」


恨めしそうに睨むと、佐々木はふふっと笑って机に頬杖をついた。


「褒めてるんだよ。その方が、親しみやすくていいと思うし。」


「……別に、親しみなんて持たれなくていい。」


「だってさー、真琴、俺以外に今仲良い奴いるの?」


「言う必要ないでしょ。」


「あらら?ツンツンしてるんだから。」


ニヤニヤとこちらを見てくる佐々木を無視して僕はまた一口、苦いコーヒーを啜った。


佐々木は僕と違って社交的でとてもフレンドリーな奴だ。

顔が広く大学内でも有名だったが、僕は一生こいつと関わりを持つことはないと思っていた。

何しろ騒がしかったし、確実に僕の嫌いなタイプの人間だと、あの頃は決めつけていたから。







大学に入学して間もない頃、僕には親しい友人がいなかった。

寂しくなかったといえば嘘になるが、下手に人に合わせて行動するよりかは、一人でいる方がいくらかましだった。


講義が終わり、その日もいつも通り図書室へ向かうことにする。


突き当たりにある1番角の席。

窓際なので日当たりがいいし人もあまりこないから、とてもお気に入りの席だ。

読書をし始めて何十分かたったとき、右肩にポンポンと誰かが触れた。

思わずビクッと過剰に反応する。

驚きすぎたせいで、心臓がどくどくと存在を主張してきてうるさい。


「あ、ごめんね。びっくりさせちゃったかな」


いやに耳につく甘ったるい声が聞こえ、左肩を自分で叩きながら後ろを振り返った。


「……何?」


「いや、あのね。柊くん、いつも1人でいるよね。学部も同じだし、折角だから仲良くなりたいなーと思って。」


「1人の方が何かと都合がいいからそうしてるだけだし、別に気にかけなくていいよ。」


「私が興味あるから話しかけたんだよ!柊くん綺麗だし。話題になってるの知らない?」


男に綺麗、なんてどうかと思うけど。

女は長く伸ばしている髪をくるくると指に絡めながら上目遣いでこちらを伺っている。

せっかく本に集中していたのに、最悪の気分だ。

さっき左肩を叩いた右手に違和感が残っていて、左手を少し強く握る。

たまにこういう風に興味本位で話しかけてくる奴がいて、心底うんざりする。


「ごめん、今忙しいから無理。他当たってよ。」


「嘘だあ!講義終わった後柊くんがここでずーっと本読んでるっていうの、結構有名な話だよ。」


女がさっきよりも少し距離を縮めてきた。

パーソナルスペースに無理矢理入り込もうとしているのが分かり、嫌悪感が増す。

別に、どこで何をしていようが僕の勝手じゃないか?

なんでこんなことでいちいち噂されなきゃならないんだ。


本当に、意味が分からない。


どう対応していいか分からず押し黙っていると、隣の席に座っていた男が急に立ち上がり、その女に声をかけた。


「ごめんごめん。こいつ、この後俺と飯の約束してるんだ。な?」


急に自分に話を振られたことに驚いてそいつを見上げる。目が合うと小さく頷いてきたので、助けてくれているのだということに気が付く。


「あ、うん、そう。だからごめん。」


「……へー、そうなんだ。こっちこそ急にごめんね。また今度よかったらお話してね。」


女は少し怪しそうにそいつを見た後、僕に軽く手を振ってから去っていった。

女が見えなくなるまで暫く固まっていたが、ハッとしてそいつに声をかける。


「あの、ごめん。助かったよ。」


「いいっていいって。それだけ顔整ってると、いろいろ大変だね。」


そいつは目を細めて、男に向けるには些か不自然なくらい優しい視線で俺を見た。

それが妙にくすぐったくて、僕は思わずそっぽを向く。


「いや……。別に。」


そう。これが佐々木との出会うことになったきっかけだ。

この後こいつに引きずられるようにあとカフェに連れていかれ、考え方もそうだが、読書などの趣味も合うことが分かった。


このことがあってから佐々木はしょっちゅう僕に構いに来るようになった。それが原因で佐々木の周りの奴まで引っ付いてきて、僕が平穏な大学生活を送ることは叶わなくなったのだ。

助けてくれたのには感謝しているが、このことに関して、僕は未だに佐々木を恨んでいる。





からかわれてムッとしていると、佐々木が少し呆れたように声をかけてきた。


「まーこと。機嫌直せよ。ほら、これ一口あげるから」


佐々木が頼んだ紅茶のシフォンケーキ。

結構美味しそうで、先程から視線で追っていたのを気づかれていたらしい。

ここで素直にもらってしまうのもなんだか負けのような気がして多少抵抗を感じるが、自分の中の欲望には逆らえない。

目の前に差し出されているケーキの乗ったスプーンを奪い取り、ばくっと口に含んだ。

ほんのりとした甘さと、紅茶の風味が口に広がって、少し気分がよくなる。


「あれ、食べさせてあげようと思ったのに。」


「子供扱いするな。」


再び不機嫌になった僕を見て、佐々木は目を細めてふふっと笑った。


その目は僕を見ているようで、見ていなかったけれど。






ばくばくとホールケーキを食べ進める。

生クリームの甘ったるさがしつこく舌に伝わってきて少し気持ち悪くなったが、気にせずに口に運ぶ。


「ちょっとちょっと、真琴さん。どうしたのさ。」


「別に。今は食べたい気分なの。」


あれから、ずっと症状が悪化している。

ドアの鍵の確認も前より時間がかかるようになったし、神経は無駄に研ぎ澄まされて、少しの衝撃でも気になってしまう。あいつはそんな僕に笑いながら声をかけてくる。前よりはっきりと、声が近くで聞こえるのだ。


外に出るのが億劫で、最近の行動範囲は前よりも狭く、狭くなっていた。

こういった理由から佐々木の遊びの誘いをことごとく断っていたところ、とうとう家に押しかけてきた。


「なんか、すごいストレス溜まってるよね?どうしたの。」


「なにもないよ」


佐々木の真っ直ぐな目線がなんだか痛くて、僕は目線を目の前のケーキに集中させた。

黙々と食べ進めていると、さっきまで騒がしかった佐々木が急に静かになった。

怒ったのだろうか?と少し気になって顔を上にあげると、僅か数センチの距離に佐々木の顔がある。

思わずびっくりして、後ろに思いっきり飛び退いた。


心臓がどくどくと煩い。

最近妙に過敏な神経は少しの衝撃にも耐えられず、驚くほど反応を示す。

その度に心臓が恐ろしいほどに波打ち、落ち着いたと思えば好機とばかりにあいつが囁いてくるのだ。


耳を塞ぎながら息を整えていると、佐々木がふっと立ち上がり、僕の目の前にしゃがみ込んだ。


「なあ、やっぱり前より酷くなってるじゃん、それ。」


「……それって何。」


「お前、びっくりし易いじゃん。ちょっと異常なくらい。

でも、前はもっとましだったよね。このくらいだったら驚きはしても、そこまで反応はしなかったはずだ。」


「で、それが何?別にびっくりするだけで、他に何かあるわけじゃないだろ。」


いつもみたいに穏やかな雰囲気ではない佐々木に少し怖気付いたが、悟られないように虚勢をはる。


「ちょっと危ないよ。このくらいでそんなに反応しちゃうんだろ?もっとびっくりすることがあったら、発作でも起きるかもしれない。」


「発作?そんなの起きないよ。神経がいつもより過敏になりすぎてるだけだ。時期に戻る。」


「自分でもいつもと違うって分かってるじゃん。なにか原因があるんだろ?」


沈黙が続く。どう返そうかと考えを巡らせていると、佐々木が再び口を開いた。


「なあ、真琴。ちゃんとこっち見て。」


先ほどよりもいくらか穏やかになった声に少し安堵して、恐る恐る視線を上に向ける。


「俺はさ、お前のこと結構理解してるつもりだよ。

でもさ、調子の悪さとか機嫌とかは汲み取ることがてきても、その原因まではお前から話してくれないと俺は分からないんだ。」


「……。」


「……心配なんだよ。

お前はちょっと自分に無頓着すぎる時があるから、本当に。」


「でも、大したことじゃないし……。」


話したくない。話したら、もっと自分が惨めになりそうで。

別に大したことじゃない。僕は普通だ。

そんな風に自分を偽っていないと、とても耐えられそうにないのだ。


「それでもいいよ。それでもいいから、真琴。」


佐々木が困ったように笑う。

--ああ、この顔は苦手だ。


僕が佐々木の過去に触れないのと同様に、佐々木も僕の過去には触れることはない。だが、僕が何かストレスを感じていたり困っているときは真っ先に助けようとしてくれる。

僕がいつも言葉にしようとしないから、佐々木に毎回こういう顔をさせてしまう。

この顔をこれ以上見たくなくて、結局いつも僕が折れることになるのだ。

佐々木はもしかしたら、僕がこの顔に弱いのを知っててやっているのかも知れないけれど。


「……たしかに最近、症状が酷くなってる。」


「それって、お前の確認癖のこと?あー、あと、左右差が気になるのとか?」


「うん。まあ。」


「じゃあ、俺からの誘いを最近ずっと断ってたのも、それが関係してる?」


「……うん。ドアの確認行為がやめられないから、家から出るのが億劫で。

色んなことが気になりすぎて苛々して、神経も前より過敏になってる」


佐々木が辛そうに、顔を顰める。

ああ、やめてよ。大したことないから、そんな顔をしないで。

心ではそう思っているのに、動き出した口は言うことを聞かない。


「馬鹿らしいでしょ、こんなの。

ねえ、佐々木もそう思うよね?」


佐々木はゆっくりと首を横に振った。


「思わないよ。」


「嘘だ。思ってる。」


「思ってない。」


「嘘。」


「嘘じゃない。」


そっと、両肩を掴まれる。

目は怒っているのに掴む力はとても優しくて、その気遣いに泣きそうになった。


「ねえ、佐々木。」


「なに、真琴。」


「僕、自分が分からない。

こんなことでいちいちダメージを受けている自分が情けないし恥ずかしいのに、誰かに知ってほしいと思ってる。

知ってほしいけど、なにも触れないでほしい。

変わらないで、いて欲しい。」


自分の口から、まるで洪水のように言葉が流れ出てくる。

自分でも何を伝えたいのか分からないけれど、言葉に出すという行為は、思いの外ストレス発散になるらしい。


「うん」


「矛盾してるよね。僕、そういうの大嫌いなはずなんだけどな。」


「真琴。人間ってそもそも最初から矛盾した生き物だって、俺は思うよ。」


「最初から?」


「うん、最初から。」


佐々木は僕の肩にあった手を頬に移動させ、いつの間にか頬をつたっていた涙を両手でぐいっとぬぐってくれた。

頬からぬくもりが消えて、少し物寂しく感じる。

ああ、人肌が恋しいってこういうことかな。

ふとそんなことを思う。

精神が弱っていると妙に感傷的になってしまって嫌だ。


「そういうよくわからないこと言われて納得しかけたの、初めてかも。」


「そう?まあ、たまにはいいんじゃない。」


そう言って肩を竦めながら、佐々木は微笑んだ。


佐々木の言葉は、一つ一つに重みがある気がする。

僕みたいにペラペラではない。

ズシ、ズシと、それが例え根拠のない発言だとしても、何故か説得力があるのだ。

脳ではこいつの言っていることは無茶苦茶だと分かっているのに、心がこの人を信じたいと、訴えかけてくる。

不思議な魅力があって、自然と人を惹きつけることができるのだ。僕にはそれが、たまらなく羨ましい。


「佐々木、僕、本当に外出れなくなったらどうしよう。」


「出なくていいんじゃない?外の世界は怖いよ。真琴は、それをよく分かってるだろうけど。」


佐々木の言葉に驚いて、思わず目を見開く。


佐々木は薄く笑みを浮かべてから立ち上がり、ベランダの方へ歩いていった。


「まあ、そうだけど……。

僕のこの症状も、外に対しての拒否感が起こしたことかもね」


サンダルを履いて外に出た佐々木が、柵に寄りかかってこちらを振り返った。


目を細め、優しそうな、それでいて危うい瞳が見え隠れしている。


--あ、まただ。


この目は、嫌な感じがする。最初の内はよく分からなかったけど、今でははっきり分かる。


この目線は、僕に向けられたものではない。



「……佐々木。お前は、誰を見てるの」


「誰って、そんなの真琴しかいないだろ」


佐々木は一瞬固まった後、わざとらしく微笑んだ。


「いいや、違うね。お前は前から、時々僕を誰かと重ねてるだろ」


佐々木が目を細めて僕を見るとき、その瞳は色を変える。

それは酷く危うくもあり、そして不自然な程の甘さを含んでいる。


「んー、そうか。そうかも、ね。」


「お前の事情はよく分からないけど、僕の知らない誰かと勝手に姿を重ねられていい気はしないぞ。」


「…はは!そうだ、そうだね。っごめん、真琴。」


佐々木は少し驚いた後、腹を抱えて笑いだした。瞳には涙さえ浮かべている。


「…なにがおかしいの。」


「いや、ごめん。真琴にはお見通しだったん

だなーって思ってさ。

真琴は、真琴だね。」


「当たり前だ。」


佐々木が何を言いたいのか理解できなくて、眉をひそめる。


「うん。そうだけどさ、その当たり前が崩れちゃう時って、あるんだよ。

脳って怖いからね。

穴が空いてしまった心をなんとか修復するために、新しい何かを当てがおうとする。

俺の場合、その"何か"が真琴だったってことだね。」


「ふーん。それは困る。」


「うん、困るでしょ。

真琴が今はっきり言ってくれたおかげで、目が覚めたよ。」


佐々木が揶揄うようにこちらを伺ってきてムカついたが、さっきの視線の面影はなくて、少し安堵する。


「……その顔やめろ。」


「ふふ、ごめんね。」


「……お前は、僕を誰と重ねてたのかは教えてくれないの。」


別に話したくないのなら構わないけれど、今まで散々あの視線に晒されてきたんだ。

俺にも知る権利くらいはある気がする。


佐々木は軽く眉をあげてから外側に体の向きを変え、柵に頬杖をついた。


「んーとね、真琴は女の子かと思ってるかもしれないけど、そいつ男なんだよね」


「男?いや、あれは男に向けるにしては甘ったるすぎる気がするけど。」


「んー、まあ、そうかも。付き合ってたから。」


窓から風が入ってくる音だけが響く。

佐々木の表情は外側を向いているから見えなくて、よく分からなかった。


「……そう。」


「あれ、驚かないの?」


佐々木がゆっくりと顔をこちらに向ける。


「まあ、意外ではあったけどね。好きだったんだろ?そいつのこと。好きになったのがたまたま同性だった、ただそれだけのことだ。」


これに関しては本当に、そう思う。

ノーマルではないというだけで未だに差別の対象とされることがあるのだ。

誰を好きになろうがどうでもいいはずなのに、社会はそれを許そうとしない。

自由を謳っておいて、なんて理不尽なことだろうか。


「はは、俺、これでも結構言うの緊張したんだけど。

すんなり受け入れられすぎて逆に拍子抜けだな」


佐々木は頬杖をついていた手を下ろし、少し安心したように両肩の力を抜いた。


「?別に、関係ないだろ。性別とか。

それに、お前にはお前の大切な人がいる。僕にはなんの影響もない。」


「……そうだね。お前が、そういう奴で良かったよ。」


佐々木が泣きそうな顔で笑った。

なんだかその顔は見てられなくて、僕はそっぽを向いた。


「ん、そっか。」


佐々木がサンダルを脱ぎ、開けっ放しだった窓をガラガラと閉めてから僕の真正面に座り込んだ。


「俺、今日はお前のことを解決しにきたはずなのにな。」


「……別にいいよ、そんなの。」


そっぽを向いたままボソボソと呟くと、頭の上にポンっと手が置かれた。


「お前には、外に出てもらわなきゃ困るよ。」


「さっきは出なくていいって言ったくせに。」


少し揶揄うように聞くと、佐々木は肩を竦めて眉をぴくっと動かした。


「おいおい、そんなこと言うなよ。分かってるだろ?」


そう。さっきの言葉は、きっと佐々木が僕と重ねていた奴に向けたものだ。

今どうなっているのかは知らないがそいつには随分とご執心らしい。


「……佐々木って結構、付き合うと面倒臭いタイプ?」


真面目に聞くと佐々木は一瞬ぽかんとした後、ぷっと吹き出した。


「はは!そうかも。俺、面倒臭い奴だったかもなあ。」


佐々木につられて、僕も思わずぷっと吹き出した。






こうして僕らはなんとなく事実を濁して、日常へ戻って行く。


そう、この距離感が心地いい。


大事な所に少し触れるだけで、核心には迫らない。


隠したい過去はベールに包んで、お互いに探りはしない。







苦しみを分かち合うにはこのくらいの距離が、1番丁度いい。



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