絶望の海に光りし“優しさ”
「早く帰らなきゃ。雨が降ってくるわ。それにこんなに暗いし」
そう言いながら、両手に荷物を抱えて一人の若い女性が走り出した。彼女がいるのは、東京ではない、とある政令指定都市の、中心部から外れた住宅地である。その時の彼女は、派手なドレスを身にまとい、足下には派手な柄物のタイツを着用していた。その上で、慣れた足さばきで工事中の道をハイヒールで走っていた。雨粒が落ちてきたのに気づいた彼女は、さらにスピードを上げたが、悪路でも転けることなく、住んでいるアパートにたどり着いた。
「ふう、助かったわ。雨に濡れず……。いつもなら店から家のそばまで送ってもらえるけど、道路が工事中だから、しばらくは仕方ないわね……。何分かは歩くことになるけど。どうやら、今日は転ばずにすんだわね。たまに何でもないところで転けてしまうからね、アタシって。こないだも顔をケガしたし……。メイクでカバー出来るからいいようなものだけどね……。“あの事”もばれずにすみそうだし」
などと言いながら、自分が住む部屋に向かった。その時、玄関のすぐ脇にあるゴミ箱で、一人の男性が横たわっていた。
「大丈夫!? こんなところで何してるの……。ちょっと大変、熱が出てるわ! 今アタシの部屋に入れるから……」
そう言いながら、女性は荷物をおろし、部屋の鍵を開けた。男性は意識ははっきりしていたものの、一歩も動けなかった。仕方がないので、女性は彼を抱えて部屋に入れた。それから、置いてあった荷物を中に入れ、鍵を閉めた。
「……救急車、呼ぼうかしら……」
女性は、横になった男性にこう問いかけた。見たところ、初老と呼ばれる年齢位の体つきである。そんな彼は、
「……大丈夫……だ。腹が……すいただけだ」
と答えたが、声には力が感じられなかった。
「本当に大丈夫なの!? 朝になったら病院に行こう。とりあえず布団引くから。それと服を着替えて。コンビニ弁当あげるから食べて」
彼女は、飲み物と買ってきた弁当を男性に渡した。彼は、飲み物を飲み干したあと、弁当をむさぼり食べた。そして、
「……ありがとう……」
そう言ったあと、その場で横になった。
「……仕方ないわね。アタシの前の彼氏の服を貸してあげる。処分に困ってたところだし」
と言いながら、タンスの前に置いてあった服を男性に貸した。その際、男性と一緒に風呂場に向かった。
「だけど本当によかったわ。あのまま命を落とさなくて……。まだ寒い季節じゃなかったから助かったかも知れないけど。本当は風呂に入ってほしいけど、熱が出てるから、とりあえず辛抱するわ」
そう言いながら、彼女は男性の着替えを手伝った。この日は10月の中頃で、日中はそれなりに暑かったようだが、夜はこの時期らしく冷えていた。
「どう? その服」
彼女は男性に問いかけた。すると彼は、
「……ありがとう……」
小声で話したが、
「……聞こえないわよ。何て言ったの!?」
彼女には聞こえなかったらしく、少し怒り気味に言葉をぶつけるように言った。その様子に驚いたのか、
「あ、あの……、ありがとう……」
言葉につまる感じになってしまった。彼女は、
「感想にはなってないわね……」
半ばあきれるような仕草を見せたあと、
「とりあえず布団で横になって。これ以上体調を崩したら大変だから……。それとぼろぼろの服、ゴミに捨てるわよ」
と言いながら彼を起こして、一緒に布団を敷いてある部屋に向かった。そして男性を寝かせたあと、ぼろぼろの服を袋の中に入れて、口を結んだ。
「ねぇ、アンタ、どうしてここにきたの?」
女性はこう問いかけた。男性は、
「……もう、食べるものがなくて……。お金もないし、おとといから……、なにも……」
そう言ったあと、何も話さなくなった。彼女はため息をついたあと、
「……仕方ないわね。アタシがしばらくの間面倒見てあげる」
と言った。彼は必死に起き上がって、
「……ありがとう……」
お礼を述べたが、またすぐに横になってしまった。その様子を見つめていた彼女は、
「無理しなくていいわ。休んでて」
と彼の頭をさすった。そして、
「アタシはレイナ。キャバクラ嬢をしてるの。夕方から仕事で、大体今の時間に帰ってくるの。今日は休みだから、一日中アンタの相手をしてあげられるけど」
簡単な自己紹介をした。
「……レイナ、ちゃん……」
男性は、はっきりとしない口調でこう言った。レイナは彼の態度に困惑しながら、
「……ちょっとどうしたのよ!? これじゃアンタと全然話が合わないわ……。もうちょっとはっきり話して」
いらだつように話した。すると男性は、またもや黙りこんでしまった。そこでレイナは、
「ねぇ、アンタ名前なんていうの?」
男性の名前を聞いた。すると、
「名前は……、わからない……」
意外な答えが返ってきた。
「それ……、本当……!?」
レイナは、半ば呆然とした表情で確認した。
「……ああ、ええ……」
男性は考え込みながらも、思い出せずに言葉を濁した。そんな彼に対し、レイナは顔つきを変えて何か話そうとしたが、やめた。そして、
「……わかったわ。アタシが名前をつけてあげる」
そう言ったあと、
「アンタはね、今日から“アツシ”と呼ぶわ。いろんな意味でアンタによく似てた人の名前で、何か放って置けない人だったの。だから……、え~と……、とにかくよろしく……」
最後は言いたいことが出てこない感じになっていたようで、ちょっと頭を抱える仕草をしていた。彼女の話を聞いた男性は、言葉を話さずただうなずいただけであった。そんな彼に対しレイナは、
「……それじゃ、握手でもしましょう、アツシ」
と言いながら、右手を差し出した。アツシは、
「こんな、私でも……、いいのか……」
何かためらうような感じで、右手を揺らしながら言った。
「いいわ。しばらくの間、一緒にともに過ごすから。それに、アタシと同じような匂いがするし、アンタを放って置けないから……。だから……」
こう話しながら、レイナはアツシの右手を持って軽く揺らした。ここに、大きく年が離れているであろうカップルが誕生した。そして、後にこれが、二人や他の人たちの運命を変えることになるとは、この時点では全く想像がつかなかった。
「それじゃ、体を休めて。アタシはこれからすることがあるから」
レイナは、アツシの頭に冷やしたタオルを当てて、自分の部屋に向かった。それから、風呂に入ってメイクを落としたり、寝る準備をしたあと、アツシのもとに寄って、
「おやすみ……」
彼の顔をやさしくさすったあと、すぐに眠りについた。時計はまもなく4時を迎えようとしていた。
「あれ? もうこんな時間!? ちょっと遅いわね」
レイナが目覚めた時、時間は10時を過ぎていた。昨日は、来店客や自分を指名する客がいつもより多かったこともあり、帰りは遅かった。とは言え、いつもなら9時過ぎにはすでに起きているため、あわてて彼女は自分のスマホを確認した。案の定、9時半前に2件の電話が入っていた。いずれも店の女の子からだった。彼女が電話をかけると、
「レイナさん、どうしたの!? 二回かけたけど全然出ないし。私今日のこと忘れてると思ったわ」
こんな話が返ってきた。レイナは、
「ごめんね、志織ちゃん。今日急な用事が入って行けなくなったの。だから、また今度ね」
志織という女の子に、断りの連絡を入れた。志織は、
「……そう、残念ね。アンタがふられたっていうから、せっかく励まそうと思って誘ったけど……。いいわ。また今度、一緒に買い物に行きましょう。実力No.1のレイナさん」
レイナにこう伝えた。彼女は、
「ありがとう、志織ちゃん。今回は気持ちだけでも受け取っておくわ。後でまた連絡するから」
そう言ったあと、電話を切った。それから、
「言ってくれるわね、志織ちゃんも。だけど彼女が、あの時のぼろぼろのアタシに、今のキャバクラに誘ってくれなかったら、アタシは今頃……」
昔を思い起こすかのようにつぶやいた。そして、
「そうだわ。アツシは起きてるかしら……」
と言いながら、アツシのもとに向かった。
「おはよう、アツシ」
レイナはアツシを見ながらあいさつした。彼は、
「おはよう……、レイナ、ちゃん」
少したどたどしい感じであいさつを返した。レイナは少し考え込んだあと、
「……ひょっとして、会話がダメな方……?」
彼にこう問いかけた。すると彼は、
「……もう……、何ヵ月も、誰とも話をしてない……」
思いもよらぬことを口にした。その言葉を耳にしたレイナは、
「……嘘、でしょう……!? 信じられないわ、そんなこと。コンビニとかによるでしょう。店員と何か話すでしょう? ……まさか、コンビニを知らないってことはないでしょうね……!?」
アツシにこんな言葉をぶつけた。彼は、
「コンビニくらいは、知ってるよ」
首を横に振りながら答えた。そして、
「……正直いって、何を話していいか、わからないのだ……」
と言った。レイナは思わず言葉を失った。
(……この人、本当に会話出来ないようね……。昔のアタシに似てるわね)
しばらく沈黙が続いたあと、レイナが、
「ちょっと遅くなったけど、朝飯、食べない?」
こう問いかけた。彼は、
「……食べるよ」
と答えた。
「それじゃ、早速作るわね」
そう言って、レイナは台所に向かった。
それから20分ほどがたち、
「出来たわよ、アツシ。すぐに持っていくから」
レイナは、アツシに朝食が出来たことを知らせた。それから、アツシがいる和室に料理を持っていった。部屋にあるテーブルに料理を置くと、アツシの頭をさわった。
「熱は下がってるみたいね。体は大丈夫?」
アツシにこう問いかけた。彼はうなずいたあと、布団から起き上がり、
「……これ、食べて、いいの……」
レイナにこう聞いた。彼女は、
「いいわよ。ちょっと多めに作ったから」
と答えた。そしてその場に座り、
「じゃあ、食べようか。もう11時になるから、昼飯といった方がいいのかも知れないけど。いただきます」
と言いながら、遅い朝食を食べ始めた。少したったあと、アツシも朝食に手をつけた。
「うまいね、これ……。こんなものを食ったのは、もう何年ぶりか……、わからないくらいだ……」
アツシは、ゆっくりかみしめながら、料理を食べた。その言葉を耳にしたレイナは、
「え……? アタシの料理って、そんなにおいしかったの!?」
なぜか驚いた表情を浮かべながらこう言った。それから、
「アタシの料理って、まずいってほどじゃないけど、特に“おいしい”っていうほどでもね……。でもうれしいわ、アツシ。まだ残ってるから、どんどん食べて」
と言いながら、アツシにおかわりをすすめた。彼は、レイナにすすめられるまま、おかわりをした。そして気がつけば、レイナの分まですべて食べてしまった。これには彼女も、苦笑いしながら見守るほかなかったが、彼が食べ終わったのを見計らって、
「ありがとう、アツシ。きれいに食べてくれて」
笑顔でお礼の言葉を述べた。自分の分まで食べられたのを気にせずに……。そんな彼女の姿を見たアツシは、
「……ありがとう、レイナちゃん……。これだけ腹一杯食べたのは、もう何年ぶりか……」
そう言ったあと、今度はおわんをじっと見つめながら、何か物思いにふけっていた。
「ねぇアツシ、どうしたの?」
レイナは首をかしげながら問いかけた。アツシは、
「……いや……、何でもない」
こう答えながら、残りのごはんを食べた。そして、
「ごちそうさま」
と言った。それから、皿を持ってうろうろしていると、
「あ、皿は下げなくていいわ。アタシが片付けるから」
レイナがアツシに伝えた。彼は皿をテーブルに置くと、その場に座った。
(アツシって、よほどおなかすいてたのね……。そりゃ、アタシの家の前で空腹で倒れるくらいだからね……。って今何やってるの? アツシって。まさか……)
アツシが“朝食”を食べたあと、改めてレイナは、テーブルの上を片付けてから昼食を作り、台所で食べた。それから食器を洗い、アツシのもとへと向かった。その時彼は、落ち着きのない子どものように部屋を見回していたが、レイナが入ってくると、彼女をじっと見続けていた。
「どうしたの? アタシに虫とかついてるの?」
レイナは首をかしげながら問いかけた。アツシは、
「……いや、夜の時の、レイナちゃんが、きれいだったから……。夜の時とは、全然違う人みたいだった……」
たどたどしい感じで答えた。するとレイナは顔色を変えながら、
「……アツシ……、言っていいことと悪いことが……」
と言おうとしたが、途中でやめた。そして顔を横に振りながら、
(……怒ってはダメよ。彼は会話が苦手なんだから……)
改めて彼を見つめた。それから、
「アツシ、きれいと言ってくれるのはうれしいわ。だけどね、人と話す時はね、そのまま思ったことを言うのは考えた方がいいわ。アタシもね、会話が出来なかった時は、思ったことをそのまま話すことがあったの。これはアタシが会話が出来るようになってから気づいたことなの。だから、アタシで会話の練習しよう」
と話した。アツシは、
「……わかった……」
と答えた。
それからしばらくたって、レイナが、
「ひとつ言っておくわ、アツシ。アタシに言いたいことがあったら、はっきり言って。少なくとも、アタシの家の中ではアツシには怒らないから。よほどのことがない限りはね」
アツシにこんなことを伝えた。彼も二度三度うなずいた。それから、何かに気づいたか、
「そう言えば、さっき『アタシが夜の時とは別人だ』って言ってたわよね、アツシ」
と彼に聞いた。彼はただ大きくうなずいた。レイナは、
「その理由はね、アタシがキャバクラで働いてるからよ。キャバクラではね、深夜家に帰った時のように、ああいった衣装で着飾る機会が多いの。それにいろんなお客さんと接するから、やっぱりおしゃれには気を使うわ。だから、店で働く時と素の時で、全く違う感じの女の子もいるわね。ところで、今のアタシはどう思う?」
彼に今の自分を聞いてみた。すると彼は、
「……今のレイナちゃんも、かわいいよ」
と答えた。レイナは“も”の答えに若干の不満の表情を見せつつも、
「ありがとう、アツシ」
と言った。その間、彼がずっと自分を見つめていることに気づいた彼女は、
「どうしたの? ずっとアタシを見つめて……」
首をかしげながら問いかけた。彼は、
「いや、……何でも、ない」
と答えた。レイナは、
「せっかくだから、アタシに教えて。アタシも聞いてみたい」
というふうに、彼に誘うような感じの声で迫ってみたが、彼は何も答えなかった。仕方ないわね、といった表情を見せたレイナは、
「ねぇ、アツシ、今何してるの?」
と聞いていた。するとアツシは、首を横に振りながら、
「いや、何もしてないよ」
と答えた。レイナは、
「そうなの……。ところでアツシって、年はいくつなの?」
今度はアツシの年齢を聞いた。彼は考え込みながら、
「ええと……、何歳か……、忘れた……」
と答えた。その言葉にレイナはまたもや耳を疑った。
(『名前も年齢も忘れた』って、まさかアツシは認知症なの……!?)
こんなことを考えていた彼女だが、気を取り直して、
「それじゃ、小さい時何か大きな出来事があったとか、そういったのは覚えてる?」
こう問いかけた。すると彼は、
「……ああ、私が小さい時、まだ小学校に入る前だったかな、オリンピックで盛り上がってたのは、ずっと頭に残ってるな。あの時は本当にすごかったよ。町中が熱狂にあふれててね……」
天井を見つめながら答えた。その話を聞いた彼女は、
「ありがとう、アツシ。大体の年齢はわかったわ。それって、東京のことでしょう? だとすると、現在は……」
と言いながら、頭の中で計算を始めた。そして、
「ってことは、アツシって、50代半ばから後半になるわよね。それじゃ、今働いてないということは……」
というふうに話を進めていると、なぜかアツシの表情が曇ってきているのに気がづいた。
「どうしたの? アツシ……」
と彼女が問いかけると、彼は、
「……実は……、高校を、中退してから、一度も……」
下をうつむいたまま、小さい声で話した。彼女は、
「アツシ、もっとはっきりと言って。ここはアタシの家だから、何を言っても怒らないわよ」
そう言いながら、彼の背中をさすった。彼は、
「本当に、怒らないのか……? 以前にも、そう言われたあと、何か話したら、怒られたり、冷たく扱われたり……、他にも、いろいろあったから……。だから……」
レイナの言葉を疑うように話した。そんな態度をとられながらも、
「大丈夫よ。アタシそんなことには慣れてるから。いろんな変わったことを言うお客さんとも接してるから、改めて高校中退のあとの話を続けて」
彼女は笑顔でアツシに頼んだ。その表情を目にした彼は、
「……レイナちゃんが、そこまで言ってくれるのなら……。あの人によく似てる、レイナちゃんに……」
と言ったあと、
「私は、家の事情で高校を中退したあと、今まで一度も働いてないんだ……」
こんなことを口にした。あまりにも衝撃的ともいえる彼の話に、レイナはただ言葉を失い、動かなくなった。
「レイナちゃん……、あ、あの……」
突然のレイナの態度の変わりように、彼はただおろおろするばかりであった。そして、
「……レイナちゃんも、これまでと、同じだったんだ……」
そのままうなだれた。数分後、我に返ったレイナは、
「アツシ、さっきのは、いくら何でも嘘でしょう……? 『高校中退してから一度も働いてない』って……。実際は『1年のうち何ヵ月かバイトして、残りで全国を旅する』とか、『昔は働いてたけど、現在はホームレス』だとか、そういったことでしょう」
と聞いた。しかしアツシは、首を横に振り続け、
「残念だけど、さっき、言ったことは、本当なんだ……」
こう答えた。
「ええ!? それじゃどうやって暮らしてたのよ、今まで……。働いてないから、お金稼げないでしょう? まさか……」
レイナは問い詰めるように、彼に迫った。それに対し彼は、
「……私は、盗みとかは、やってない。いろいろなところに入って、山にも、海の中にも、入った……」
こんなことを口にした。
(……本当に!? 事実だったら、40年以上こんな生活してることになるわ……。服とかどうしたのかしら……。それに寝るところは……、いや寒い時期とか、凍えたりしなかったの……。アタシには本当に信じられないわ)
いろいろと考えていたレイナは、
「それじゃ、これまでアツシは働こうとしなかったの?」
こんな質問をかけてみた。アツシは、
「いや、私も、働く意欲は、あったんだ……。だけど、何を話して、いいのかわからず、他人との会話も、ままならず、結局は今に至るまで、履歴書一枚すら、書いたことがないまま、ここまで、来て……。働く機会も、全くなく……」
そう言ったまま、下をうつむいてしまった。その話をじっくりと聞いていたレイナは、
「実はアタシもね、高校を中退したの。それからいろいろと苦難を味わってきたから、そういう人たちがいれば、協力は惜しまないわ。だけど、アツシのような人は初めてよ。病気やけがでもないのに、40年以上働いてないなんて……。ちょっと信じられないわ」
こう話した。それから、
「アツシ、その辺のこと、もう少し詳しく話して。分かる範囲でいいから。少しでもアツシのことを知りたいから……」
意を決するようにアツシに頼み込んだ。その姿を目の当たりにした彼は、思わず、
「こんなことを、言ってくれるのは、中学校時代に優しくしてくれた、“あの人”以来だ……」
こんなことを口にした。レイナが、
「え!? あの人って、一体……」
アツシに問いかけたが、彼は、
「レイナちゃん……、これから、話そう……」
レイナの問いをスルーしながら、話を始めた。
「私は、高校を中退したあと、周りから、いろいろと、文句を言われ、また、自分たちを見る目が、急に冷たくなった……。私は、高校は卒業したい、と言いたかった、けど、それを言い出せず、家も、お金が払えないから、仕方なく、学校をやめることに……。それから、しばらくして、家を追い出され……、何をしていいのかわからず、他人と話すのも、何か苦しい感じがしたのだ。それでも、働く意欲はあったんだけど、最終的には、誰も、助けて、くれなくて……」
この後彼は、自分が知っている範囲の言葉で、今に至る状況を、思い出せるだけ語った。その内容を一言でいえば、「よくぞそこまで一個人に、次々と不幸が振りかかるものだな」、あるいは、「まさに死んだ方がましだ」と表現するしかない位、悲惨な状況であった。話した本人はもとより、レイナも、あふれる涙が止まらなかった。
(アタシも高校を中退して、生きるために夜の仕事を始めてからしばらくは、何度も“ひどいこと”をされたわ。あの頃は、お金がなかったから仕方がなかったけど、病気までうつされ、寒い冬の夜に、複数の店の客から犯された上に、意識を失ったまま外に放り出されて命を落としそうになったこともあったわ。だけどアツシは、そんなアタシ以上に苦しんでたのね……。アタシには、志織ちゃんという、“命と心の恩人”がいたから、今では人気のキャバ嬢になることが出来たけど、アツシには、誰も味方になってくれる人がいなかったから、ずっと一人でたたかうしかなかったのね)
レイナには、彼にかける言葉が見つからなかった。彼女自身、高校中退後、夜の仕事でひどい目にあわされ、命を落としかけたことがあったが、そんな彼女ですら、彼の半生が、自分が負った不幸をはるかに上回るほど、想像を絶するものだとは思わなかった。そこで彼女は、ハンカチで涙をぬぐったあと、
「アツシ、アタシが抱いてあげるわ。こっちへおいで」
うつむいているアツシを呼んだ。彼は言われるがままに、彼女のところに向かった。すると彼女は、
「アツシ、アタシが味方になってあげる」
そう言いながら、ふんわりと彼を抱いた。ところが、彼はすぐに振りほどき、少し後ずさりした。
「どうしたの!? いきなり逃げて……」
彼女は首をかしげながら聞いてみた。彼はその場で震えながら、
「……ちょっと……、すまない……。他の人から、さわられると、つい……、こうなって……」
力なく、たどたどしい感じで答えた。彼女は、
「そうだったの……。ゴメンね、アツシ」
と言いながら、深く謝った。その姿を見た彼は、
「……そんな……、私の、ために、そこまで……」
どう答えていいかわからず、おろおろしていた。彼女は、
「心配しなくていいわ。それだったら、まずはアツシが先にアタシをさわって。顔でも胸でも構わないから。そのままさすってもいいわよ」
そう言ったあと、左手で彼の右手を握った。そして、自分の大きな胸に彼の手のひらを当てた。彼は彼女に言われた通り胸をさすった。
「どう? 気持ちいいでしょう?」
レイナは軽く、そして優しく問いかけた。その問いに彼も、
「……ああ、この肌触り、あの頃に戻った感じだ……」
と言いながら、顔つきが穏やかになった。彼女は、
「“あの頃”って、いつのことなの……?」
首をかしげながら聞いた。彼は、
「それは中学校時代のことだ……」
と答えた。それから、
「……実は、こんな私を気にかけてくれた人が、一人だけいたんだ。家族や親戚とかではなく……」
レイナの胸から手を離して、こんなことを言った。彼女は、
「……アツシにも、味方はいたのね……」
ただ一言つぶやいた。彼は、
「……そうだ。いじめられていた私を、助けてくれた、由香という名前の女性だ」
と言ったあと、話を始めた。
「中学校時代、私は、誰とも会話が出来ず、いじめの対象になってた。そんな時、1年の途中に転校してきたのが、他ならぬ由香だった。会話が出来ずに、ずっとひとりぼっちだった私を見て、いろいろと気にかけてくれたんだ。どんなに話が通じなくても、彼女だけは、何も言わずに聞いてくれて、文章や手紙を書いて私と会話をしてくれた……」
アツシは、ここまで話したあと、
「……のどが、渇いたから、何か、飲み物が、ほしい」
レイナに飲み物を頼んだ。彼女は、
「何がいい?」
と聞くと、彼は、
「……水でいい……」
と答えた。
「わかったわ」
そう言った彼女は、早速台所に向かい、コップに水をついだあと、彼のもとに戻った。そして、彼にコップを渡すと、彼はそれを受け取り、一気に飲み干した。すぐに、
「もう一杯……」
と言いながら、彼女にコップを返した。彼女はすぐに水をついで戻ってきたあと、再び彼に渡した。彼はまた一気に飲み干した。そして、
「ありがとう」
と一言お礼を言った。レイナは、
「いいわよ。ほしいものがあったら、ぜひ頼んでね。出来るだけ出してあげるから」
笑顔でこう伝えた。その表情をじっと見つめていたアツシは、
「……やっぱり、由香によく似てる……」
こんなことを口にした。すると彼女は、
「……その、由香さんという、女性の名前ははっきりと覚えてるのね……。自分の本当の名前は忘れても……。それほど、アツシにとって大切な人なのね、彼女は」
と言った。その言葉に彼もうなずいた。それから、
「ねぇ、アツシ、続きを聞かせて」
早く話すようにうながした。それからすぐに、彼の話が再開した。
「由香がこちらに転校してから数ヶ月、私は徐々にではあるが、話が出来るようになった。まだ彼女とだけ、という制限はついてたが、ね。それでも、彼女と一緒にいる時間は、本当に心が休まる一時だった。このまま、一緒にいることが出来れば……」
こう話すと、彼の目から不意に涙があふれてきた。レイナは、洗濯して、積まれていたフェイスタオルのうちの一枚を、彼に手渡した。それから、
「そんなに仲がよかった二人が、どうして……」
顔を曇らせながら、彼に問いかけた。彼は、渡されたタオルで顔を拭いたあと、
「……実は、由香が家庭の事情で、遠くの街に転校することになったんだ……。その日、互いに『手紙を送ろう』という約束を交わしたのが、彼女と会った最後の日になってしまったのだ……。それからすぐに、私もいろいろな事情で高校を中退せざるを得なくなったあと、家族から責められた上に家を追い出されたから、残念ながら、今までに手紙一通すらもらってないのだ……」
と答えた。レイナは、
「手紙ねぇ……。今だったらスマホがあるから、電話やメールとかで話をすることが出来るのに……。アドレス交換すれば、いつでも“会話”は出来るのに……。時代とはいえ、本当に何ともやりきれない話ね……」
首を横に振りながら答えた。そして、
「……でも、そんなアツシを追い出すなんて……、アタシ許せない。人間として、その時のアツシの家族を……!」
怒りに震えながら、テーブルを叩いて声を荒らげた。その剣幕に、アツシはただおろおろするばかりであった。その様子に気づいた彼女は、
「……ゴメン。あまりにもひどい話だったから……」
そう言いながら、すぐに気持ちを落ち着かせた。そして、
「アツシほどじゃないけど、アタシもね、何度か命を失いかけたの。高校を中退したあと、アタシもアツシ同様家を追い出され、夜の仕事で働くしか生きる道がなかったわ。アタシの場合はね、お金がなくて家賃や学費が払えなくなったからということだったけど……」
こんなことを口にした。彼は黙ったまま彼女の話を聞いていた。それから彼女は、
「ちょっと飲み物をついでくるね」
と言いながら、その場を立ち上がった。そして、二人分の麦茶をコップについだあと、和室に戻った。コップをテーブルの上に置いてから、話を再開した。
「生きるためとはいえ、アタシもいろんな男に、自分の体を差し出すことになったの。ひどい人になると、アタシに病気をうつして逃げたりしたわ。もちろん、治療代はアタシ持ちで。こんなことが続いて2年ぐらいがたった時だったか、店の客と一緒に帰った時に、睡眠薬か何かを飲まされた上に、複数の人から犯され、物を取られてタイツ姿で外に放り出されたことが2、3度も……。いずれも“もう少し発見が遅れてたら、命に関わっていた”と……。その時アタシは『もうこれ以上生きていけない』と、自殺まで考えたわ……」
話の途中で、今度はアツシが、
「……こんな由香のようにかわいくて、優しい女性に対して、なんということを……! ここまでむごいことをするなんて……」
全身を震わせながら、怒りを込めて言った。レイナはあわてて、
「アツシ、落ち着いて。その気持ちは本当にうれしいわ。だけど、ここで叫んだら、周りが驚くでしょう? それと心配しなくていいわ。アタシはそれを乗り越えてきたから……」
こう言いながら、彼を止めに入った。そして、ふんわりと抱きながら、頭をなでた。彼が落ち着いたあと、また話を再開した。
「アタシが自殺まで考えるほど、心身ともにぼろぼろになった頃ね、ふと一人の女性が、アタシに対して、『私の店に来ない?』って誘ってくれたの。あの時のアタシはもう誰も、何も信用出来ない状態だったから、初めは断ったわ。だけど、その女性はね、『アンタが落ち着くまで、心が癒えるまでしばらくの間一緒に住んであげる。何かあったら、私がアンタを守るわ』と何度も言ってくれて、アタシのためにカウンセラーも用意してくれたの。それでアタシは決心したわ。『その女性の働くキャバクラに移ろう』って」
レイナはここで一旦自分の心を落ち着かせた。それから、
「もっとも、アタシを性犯罪に巻き込んで、その上でアタシを殺そうとした人たちは、許すことが出来なかったわ。ぼろぼろにされてから2年ほどは、復讐を考えたことも度々あったの……。ドラマじゃよくあるパターンだけどね」
と言ったあと、麦茶を飲んだ。アツシは、
「……それが出来るなら、すればよかったのに……。もし、私に、出来る、勇気があれば……」
いきなりこんな言葉を口にした。レイナは、彼の思いもよらぬ言葉に、ただ呆然とする他なかった。それから、
「あのね、アツシ……、いくらなんでも、それはないわ……。ドラマでもそうだけど、人を殺して得るものなんて何もないわよ」
少し言葉を強めながら、彼に説明するように言った。彼は、渋い表情を浮かべながらもうなずいた。それから、
「……レイナちゃんを、助けてくれた、相手は……誰?」
と言いながら、逆に彼女に問い返した。すると彼女は、
「……その人はね、志織ちゃんという、アタシの店の仲間なの。彼女はね、ぼろぼろになって誰も信じられなくなったアタシを見守って、アタシを大切な友達のように扱ってくれたの。それがアタシが21くらいの時かな。そこで、アタシの“才能”を見抜いて、いろいろと教えてくれたわ。アタシがいろんな人と話しても、物怖じしないという“才能”も、志織ちゃんが見いだしてくれたものなの」
と答えた。更に、
「もしかしたら、アツシには信じられないかも知れないけど、アタシもあんなつらいことがあったから、志織ちゃんという、大切な仲間を得られたわ。だから、アツシも、必ずそういった人は現れるわ」
アツシを励ますように話した。しかし彼は、
「……レイナちゃんも、由香と、同じなんだね……」
と言ったきり、黙りこんでしまった。彼女は、
「どうしたの? アツシ」
彼の肩を何度も軽く叩きながら問いかけたが、返事は返ってこなかった。
(当然かも知れないわね。何度も殺されかけ、ひどい目にあわされるほど苦しんだといっても、アタシはせいぜい5年くらい、かたやアツシは40年以上も多くの仕打ちを受けてたわ。家族からの分も含めて……。だから、そうとう他人に対する不信感は根深いみたいね……。少なくとも、由香さん以外に対してはね……)
レイナは、アツシが受けた苦しみのことを想うと、涙が止まらなかった。その間、二人は何もしないまま、時間だけが過ぎていった。しばらくして、彼女は、
「ねぇアツシ、せっかくだから、アタシの働くキャバクラに来てみない? ちょうど明日は、昼間にも店を開ける日なんだ。アタシのところでは、月に数回“昼キャバ”を行ってるの。主にお年寄りとか、夜に行けない人たちのために、交流の場をもうけてるの。お酒は置いてないから、結構話好きな人とか、女の子を口説く若い人たちとかが来てるわね……。もちろん、お年寄りの方もいるわ。近所じゃ、ちょっとした話題になってるわ」
こんな感じでアツシを誘った。ところが彼は、首を縦には振らなかった。その様子を見ていた彼女は、
「……明日はね、アタシの他に、アタシを救ってくれた志織ちゃんも、昼からいるの。これから電話をかけて、アツシのことを知らせてあげるわ。大丈夫よ。彼女ならアツシに優しくしてくれるわ。あ、お金のことなら、全然気にしなくていいわ」
彼にこう伝えた。営業目的とは無関係に、ぜひ自分が働くキャバクラに来てほしい、といった感じであった。そんな彼女に対し、彼は、
「……なぜ、こんな私に、ここまで……。もう、生きる意欲まで、なくなった、私に対して……」
顔をうつむきながら問いかけた。彼女は、
「アツシのこと、アタシは放っておけなかったからよ。深夜帰った時に言ったでしょう? 『あなたと“同じにおい”がする』って」
こんなことを口にした。その言葉を耳にした彼は、
「……そこも、由香と同じだな……。今まで、由香以外、誰も信じることが、出来なかったが……、いや、今では由香でさえも……、か……。だがレイナちゃんは、違うのかも知れないな……。少なくとも、私と、一緒にいてくれた、“あの時の彼女”に似てるな……」
と言ったあと、
「……そうだな……。レイナちゃんに、そこまで、言われれば……、か……。とりあえず、レイナちゃんを、信じよう……。だから、連れていってほしい……」
たどたどしい感じだが、レイナの誘いに乗った。すると彼女は、
「ありがとう、アツシ♪ アタシたちがサービスしてあげるわ♪」
笑顔で彼の両手を握った。それから、
「ねぇ、アツシ、風呂に入ろうか」
と言った。彼は、
「……今から……!? まだ入るには早い、のでは……」
戸惑い気味に答えた。彼女は、
「大丈夫よ。ほら、体をキレイにしよう。着替えはアタシが用意するから、ね。それに、汚れたままだと、お客さんにも嫌な思いをさせてしまうからね……。今風呂のお湯を沸かすから、ちょっと待っててね」
そう言ったあと、着替えを取りに行き、それから風呂場に向かった。そして、軽く浴槽の掃除を済ませてから、風呂にお湯を入れ始めた。そのあと、彼のもとに向かうと、彼は部屋の物を手当たり次第取りながら、じっと眺めていた。気になったレイナは、
「どうしたの? アツシ……」
首をかしげながら問いかけた。彼は、
「……、レイナちゃんって、恋人が、いたんだ……」
と答えた。すると彼女は、
「アツシ、人の物を勝手に触っちゃだめよ」
とたしなめた。それから、
「……見ちゃったのね……。元カレの写真」
少し顔を曇らせながら言った。そして、
「その人ね、アタシが好きだった人なの。互いに結婚まで考えてたほどで、付き合いは2年近く続いてたわ。だけどね、いきなり彼氏がアタシをふったわ。『お前とは結婚出来ない』ってね……。理由も言わずに。そんな仕打ちにアタシはショックを受けたわ……」
部屋の天井を見つめながら、こんなことを口にした。その目には、涙が浮かんでいた。そんな彼女を見ていたアツシは、
「……こんな優しくて、人気もある、由香のような人をふるなんて……。なんということを……」
なぜか怒りを込めて話した。レイナは涙をぬぐい、
「……アツシ、落ち着いて。今はショックもいえてるから……。あれから考えてみると、ふられたのも仕方ないと思ってるわ。確かに彼とは、非常に気が合って、一緒に過ごした日々は楽しかったわ。だけど、今にして思えば、根元の部分で噛み合ってないところがいくつもあったわ。だからね、あれでよかったと思うの。ありがとう、アツシ。あなたも根っこは優しい人なのね」
そう言いながら、アツシを抱き締めた。それから、
「本当にアツシって、“由香さんのことが好きで、大切な人だ”って、思ってるのね。彼女によく似てるというアタシに対して、ここまでしてくれるぐらいだから……。出来れば、あなたに逢わせてあげたいけど、アタシその人が誰だか知らないわ。残念だけど」
こんな話をしていた時、風呂が沸いたことを知らせる音が鳴った。
「アツシ、風呂が沸いたわよ。早く入ってね」
レイナは、アツシに風呂に入るように言った。彼はその言葉を聞いたあと、すぐに風呂場に向かった。それを確認した彼女は、早速スマホを手に取り、電話をかけた。
「もしもし、……あ、レイナさん。どうしたの?」
相手は志織であった。レイナは、
「ねぇ志織ちゃん、明日の昼ね、どうしても店に連れて行きたい男性がいるの。アツシっていう、50代の人なんだけど、アタシね、彼のために何とかしてあげたいの。協力してくれる?」
志織にアツシを連れて行きたいことを知らせた。すると彼女は、
「……そうね、アンタがそこまで言うんなら、私としても協力しないってわけにはいかないわね……」
と言ったあと、
「そういえば数日前、アンタの元カレっていう男が店に来てたわね。なんでも、『もう一度よりを戻したい』ってね……。アンタを傷つけたことを悔やんでたみたいよ」
こんなことを話した。その話を聞いたレイナは、
「志織ちゃん、アタシね、もうあの元カレとは二度と付き合わないことにしたの。ふられたあと、ショックが収まってからアタシのなにがいけなかったのか、ふと考えてみたんだけど、どうも根元の部分で合わないところがいくつもあったの。だからね、今は彼がアタシをふってくれて、むしろ感謝してるくらいなの。それに、あの男に付き合ってほしい女の子がいるから、明日もし昼から元カレが来るのなら、その女の子に相手をしてもらうことにするわ。そしたら、きっと上手くいくと思うの。志織ちゃん、これどう?」
「元カレとは二度と付き合わない」と宣言して、他の女の子に任せることを志織に伝えた。彼女は、
「……確かに、やってみる価値はあるわね。一度その女の子とアンタの元カレが店で話した時、私も『この二人、結構相性いい感じね』って思ったわ。あれから、その女の子はずっと彼のことが忘れられないみたいだから……。わかったわ。私も協力してあげるわ」
と言いながら、レイナの誘いに乗った。彼女は、
「ありがとう、志織ちゃん♪ 明日楽しみにしてるわ。後でメール送るから」
そう言ったあと、電話を切った。そして衣装などが置いてある部屋に向かった。
「明日、何を着ようかしら……。店に置いてある衣装じゃ、ちょっとね……。あ、これこれ。例のエリートの役人がアタシにくれた、ブランド物のドレス。これを着ていこう。これならアツシも喜んでくれるわ」
レイナはそこで、明日店で着る衣装を決めた。それから、早めに翌日の準備をしている最中、アツシが風呂から上がってきた。その様子に気づいた彼女は、
「アツシ、風呂はどうだった?」
と言いながら、彼のもとに向かった。彼は、
「ありがとう、レイナちゃん」
と答えたあと、二人一緒に和室へと向かった。
(感想になってないみたいね……)
レイナは、こんなことをつぶやきながらも、笑みを浮かべていた。
和室に入った二人は、なぜかしばらく互いを見つめているだけだった。しかしその表情には、“固さ”は見られなかった。それからしばら くしたあとレイナは、
「ねぇ、このままじゃあれだから、テレビ見よう」
と言いながら、テレビの電源をつけた。その時テレビでは、少子化に関する話題が上っていた。二人でテレビを見ていたが、しばらくして、いきなりアツシが、
「……なぜそんなことを……」
怒り出すように叫んだ。突然の変わりように気づいたレイナは、
「ちょっと何があったの!? アツシ……」
と言いながら、彼のもとに駆け寄った。すると彼は、
「どうして、子供たちやその親を追い詰めるようなことが出来るんだ。子供は未来にとって大切な存在じゃないか……。なぜ、そういった人たちに対して、冷たい行動が取れるんだ……!」
こんなことを口にした。彼女は、
「落ち着いて、アツシ。アタシもあなたと同じ意見よ。これじゃアタシのキャバクラの方がましね」
こう言ったあと、彼の背中をさすった。そして、
「アタシが働くキャバクラでは、子供を持つ女性にも安心して働いてもらえるように、保育士の資格を持つ方を常駐させてるわ。店の女の子たちも、子供の世話に回ることがあるけどね。月に3回くらい、1時間ずつね。アタシ自身はね、子供はまだいいと思ってたけど、あなたの子供に対する気持ちを見て、考えが変わったわ」
こんな話をした。アツシは、なんのことだかわからず、考え込んでしまった。そんな彼をじっと見ていたレイナは、
「アツシって、子供思いで優しいのね……。自分がどれだけひどい目にあわされても、そういった感情はしっかり残ってるのね」
感心するように伝えた。すると彼は、
「……わからない、んだ……。だけど、子供のことに、なると、つい熱くなることが……」
こう答えた。彼女は少し考えたあと、
「アタシ決めたわ。子供を持つことを」
意を決したようにこう言った。彼は、
「……レイナちゃん……、それは……」
と言ったあと、続きを話すのをためらった。彼女は不思議に思いながらも、
「相手はすでに決まってるわ」
笑顔でこう話した。そして、
「その後押しをしてくれたのが、アツシよ」
彼の手を握りながら言った。彼は恥ずかしいといった表情を見せつつも、レイナの手を握り返した。彼女は、
「ありがとう、アツシ。それとちょっと早いけど、今日の晩ごはん何がいい?」
と聞いた。彼は、
「……食べたい、物……」
と言いながら、頭を抱えていた。
(……そういえばアツシは、『これを食べたい』なんて言ってられる状況じゃなかったわね……。それに、彼がどんな食べ物が好きなのかわからないから、何を作ればいいのかしら……)
レイナも、何を作ろうか悩んでいた。そして、
「ねぇ、アツシ、アタシが行き付けの定食屋さんがあるの。後でそこに連れていってあげるわ。そこの店は、おかずの種類がいっぱいあって、ほしいおかずを自分で取って食べるの。そこだったら、きっとアツシの好きな食べ物があると思うわ」
アツシに一緒に食堂に行くことを伝えた。彼女の誘いに対して彼は、
「……定食屋か……。わかった……」
一度うなずきながらそう言った。
「それじゃ、決まりね」
レイナはそう言ったあと、身の回りの片付けや、残っていた家事を済ませてから、しばらくアツシと一緒に和室で過ごした。それから、別の部屋に向かい、着替えやメイク始めた。それらが終わったあと、再び和室に戻って、
「お待たせ、アツシ」
アツシに優しい感じの声をかけた。そんな彼女の姿を目の当たりにした彼は、
「……レイナちゃん……、美しい……。私が倒れてた時に、目にした、その時の、ような、姿だ……」
思わず彼女に見とれていた。彼女は、
「やだ、アツシ。そんなにじろじろ見て。アタシはアツシに見てもらってうれしいけど、店の中でそれをやると、周りからは変な人だと思われるわよ。周りをキョロキョロするのも、やめた方がいいわね」
軽くたしなめながらも、表情には笑みがこぼれていた。そして、
「もう少ししたら、出かけるわよ、アツシ」
と言った。彼も一度うなずいたあと、レイナが出るのを待った。しばらくして、準備が整ったと見えて、
「行こう、アツシ」
レイナがアツシの腕を握り、玄関へ連れて行った。そして一緒に彼女の家を出て、定食屋に向かった。
「いらっしゃい。……ああ、レイナちゃんか。今日も仕事かい?」
ここの定食屋の店主が、レイナに声をかけた。彼女は、
「いえ、今日仕事は休みなの」
首を横に振りながら答えた。ちょっと食事時の時間より早めに来ていたのか、お客さんは少なめだった。
「アツシ、おかずを自由に選んでいいわよ」
レイナは、アツシに食べたい物を取るようにすすめた。彼はその言葉にしたがって、おかずを取りに行った。一方の彼女は、
「アタシはね、いつもの定食をお願いするわ」
店員の女性にこう伝えた。ここの店では、ほしいおかずを取るセルフスタイルの他に、数種類の定食も置いてあり、レイナはいつも定食を取っている。しばらくして、アツシが戻ってきた。そして、テーブルの上におかずを置いたあと、再びおかずコーナーへと向かった。
「アツシ、まだ食べるの?」
レイナがこう問いかけたにもかかわらず、彼はそのまま一直線にコーナーに進んだ。すぐに店主が、二人分の水を持って彼女のもとに来て、
「レイナちゃん、あの人は誰なんだ?」
アツシに視線をやりながら、レイナに聞いた。彼女は、
「……実は彼ね、自分の本当の名前さえも忘れてるの。それに深夜の帰りに、アタシの家の前で倒れてたわ。もう何十年も働いてない上に、誰も身寄りが無いっていうから、しばらくの間、アタシが彼の世話をすることにしたの。アタシは彼のことを“アツシ”って呼んでるわ」
こう答えた。店主は「本当に?」といった表情を浮かべながら、
「いや、私は君が親を連れてきたのかと思ったよ」
と話した。その言葉を耳にした彼女は、少し顔を曇らせた。その顔を見た店主は、
「ん? どうしたんだ、レイナちゃん」
首をかしげながら問いかけた。
「……何でもないわ……」
レイナはうつむきながら言った。その表情から店主も、
「そうか……、わかった。それじゃ、定食が出来るまで待ってくれ」
それ以上は聞かなかった。しばらくすると女性店員が、
「お待たせしました、煮魚定食です」
と言いながら、定食を持ってきた。レイナは、はしを取ってから、手をあわせて、煮魚定食を食べ始めた。
「いつもながらおいしいわ、これ。アタシね、他の女の子にすすめてよかったわ。そうよね、店長さん♪」
彼女は笑顔で店主を見つめながら話した。彼も、
「レイナちゃんの言う通りだよ。君がその定食をすすめてくれたおかげで、お客さんが今までより多く来てくれるようになったよ」
うなずきながら、こう話した。その時、アツシが立ち上がって、おかずコーナーへと向かった。そして何皿か取って、急ぐようにして食べ始めた。その様子を目にした店主は、
「レイナちゃん、お連れの男性、よく食べるね……」
感心しながら言った。レイナは、
「ええ、彼にはね、色んなことがあってね……。話したら長くなるから、簡単にまとめるけど、彼はね、アタシと同じように高校を中退したの。それから40年あまり、一度も働くことが出来ずに、今日の仕事帰りに、アタシの家の前で倒れてたわ。アタシに助けを求めるようにね……。誰も味方がいなかったみたいだし、多くの不幸に見舞われても、今まで盗みもせず生きてきたというから……。それと彼は、子供のことになると、何か感情を大きく表に出すわ。おそらく彼、本当は優しい人だと思うの。だから、子供のために働ける場所があれば、と思うわね」
こんな話をした。その話を聞いていた店主は、
「レイナちゃん、それなら君のキャバクラで、その人に子供たちの世話をしてもらえばいいんじゃないかな? ここに食べに来る女の子が昨日、『店長が子供の世話人を雇いたい』っていう話をしてたね」
昨日、店の女の子がしていた話をレイナに伝えた。彼女ははっとしながら、
「いいアイデアありがとう、店長。それにしてもうかつだったわね。キャバクラの店長が、そんな求人を出してたなんて。アタシ、アツシに聞いてみるわ。後でね」
店主にお礼を言いながら、再び定食を食べ始めた。そして数分後、
「ごちそうさま」
定食を食べ終えた。それから、
「アツシ、ごはん食べた?」
と聞いた。アツシは、
「ありがとう、レイナちゃん」
と答えたあと、残りのおかずを食べ終えた。そして、
「ごちそうさま」
彼も食べ終えた。するとレイナは、
「本当によく食べたわね、アツシ」
感心するように言った。そして、
「お代はアタシが全部出すわ。それまで入口で待っててね」
アツシに外で待つように言ったあと、二人分の食事代を払った。そして、
「お待たせ、アツシ」
と言ったあと、
「これから公園に行こう」
と言いながら、二人で公園に向かった。
公園でベンチに座ったあと、レイナは、
「アツシ、話があるの。聞いてくれる?」
と言った。アツシは、何も言わずただうなずいた。その様子を見た彼女は、
「わかったわ。それじゃ、早速始めるわね」
と言ったあと、
「ストレートに言うとね、アタシの店で働いてほしいの。店で働く女の子や女性たちが預けてくる子供の世話をする仕事を、アツシにしてほしいの。アタシが志織ちゃんに話をしておくから」
彼にこんな話を持ちかけた。
「働いてほしい」
彼の目から、不意に涙があふれていた。これまでの人生で、そのような言葉をかけてもらった経験が無かったからだ。そのためか、
「レイナちゃん、その、話、本当、……?」
なぜか話がぎこちない感じになってしまった。彼女は、
「アツシ、ハンカチ渡すから、顔をふいて」
と言ったあと、
「今の話は本当よ。あなたにこそ、店に来てほしいわ」
笑顔でこう話した。彼は、受け取ったハンカチで顔をふいたあと、
「……そうか……、わかった……。私もレイナちゃんの店で、働きたい……。ありがとう……」
自分なりに、レイナにお礼を言った。彼女は、
「そうと決まったら、早速……」
と言いながら、カバンの中に手を突っ込んだが、
「……あれ? アタシのスマホがない!? たしかここに入れたはずなのに……」
入れたはずのスマホが入っていないことに気付き、慌てだした。急いでスマホを探したが、見つからなかった。
「アツシ、さっきの定食屋に戻るわ」
と言いながら、アツシと一緒に定食屋に戻った。
「すみません、店長、アタシスマホ忘れてませんでした?」
レイナが店主にこう問いかけたが、彼は、
「いや、スマホはここにはないよ。もちろん誰かが持っていったということもないよ」
淡々と答えた。彼女は、
「ありがとうございます」
と言って、定食屋を後にした。そして、
「アツシ、家に帰ろう」
と言ったあと、二人は急いでレイナの家に戻った。
「あった……! よかった、どこかになくしてなくて……」
家に帰ってからすぐ、台所のテーブルに置いてあったスマホを見つけたレイナは、ほっとした表情で、自分のスマホを手に取った。そしてすぐに、メールを打った。
ー志織ちゃん、大事な知らせがあるの。詳しいことは明日話すし、志織ちゃんも今日忙しそうだから、用件だけ伝えるわ。朝に紹介した50代の男性、アタシはアツシと呼んでるけど、その彼が「アタシのキャバクラで働きたい」と言ってたの。志織ちゃん、明日店長に話をしたいから、協力の方お願いねー
メールの入力が終わったあと、すぐに送信した。それから彼女は、
「アツシ、店には明日伝えるから、楽しみにしてね」
そう言いながら、彼のもとに向かった。そして、
「ねぇ、アツシ、もしアタシの店で働けるようになったら、何か似合う物を買ってあげるわ。その時はね、一緒に買い物に行こう」
こんな話をした。アツシは、
「……ありがとう……」
本当は、他にも言いたいことがあるような感じではあったが、どうもうまく言い出せないのか、一言お礼を言ったきり、また黙りこんだ。その様子を見た彼女は、
「とりあえず、明日着る服を用意しよう」
と言いながら、彼と一緒に衣装部屋に向かった。
「これね、アタシの元カレが置いていった服ね。アツシが今着てる物の他に、いくつかそのままにしてたものもあるわ。選んでみて」
レイナはアツシに、彼女の元カレが置いていった服から、自分の着たい服を選ぶようにすすめた。彼はあれこれ悩みながらも、一着を選び、袖を通した。レイナは、
「よく似合うわ、アツシ。これならどこへ行っても通用するわ」
笑顔でこう言った。その言葉を耳にしたアツシも、表情が緩んだ。それから彼女は、彼に袖を通した服を脱いでもらって、彼が翌日着る服をたたんでテーブルの上に置いたあと、
「アツシ、風呂に入らない? 今から風呂沸かすから」
と言った。彼は一度うなずいたあと、
「レイナちゃん……」
彼女に呼びかけた。彼女は、
「何かあったの? アツシ」
彼のもとにかけよりながら、こう聞いた。だが、
「……いや、もう少し……、そばに、……」
彼は、はっきりと自分がしてほしいことを言い出せなかった。そんな彼に対して、彼女は何も言わず彼を抱き締め、まるで子供をあやすかのように、頭や体をさすった。しばらくすると、彼は気持ちがよくなったのか、彼女の胸元でうとうととしていた。
「あらら、アタシの胸がそこまで気持ちよかったかしら……? 仕方ないわねぇ。アツシが起きるまで、膝枕でもしてあげるわ」
レイナは、横座りに座り方を変えて、アツシの頭を自らの膝に乗せた。そして気持ちよく寝た彼を見つめながら、スマホをいじっていた。しばらくして、彼が起き上がった時、彼女は、
「アツシ、風呂が沸いたわよ。着替えはアタシが持っていくから、入っておいで」
彼に風呂に入るようにすすめた。彼はレイナの言う通りに、風呂場に向かった。それを見届けた彼女は、すぐに着替えを風呂場に持っていった。それから、
「あ、そういえば、昨日お客さんからもらったプレゼント、まだ開けてなかったわ」
と言いながら、衣装部屋に向かった。ここには、自分がキャバクラで着る衣装の他に、彼女に会いにきた男性から贈られたプレゼントなども保管されている。改めて彼女は、昨日もらったプレゼントの中身を確認すると、
「うわあ、このネックレス、アタシ欲しかったの。それにこれって……、アタシお酒飲めないけどね……」
などと言いながらも、笑みを浮かべながら、プレゼントの仕分けを行っていた。
「これだけプレゼントをもらったんだもの、アタシもキャバ嬢の地位を上げるくらいもっと活躍しなきゃ……!」
レイナは、自分を鼓舞するように、こんなことを口にした。そんな時、
「レイナちゃん……」
アツシの声がした。彼女は、
「風呂出たんだ、アツシ」
と言いながら、彼のもとに向かった。ところが、
「きゃあ!」
いきなり彼の目の前でつまずいた。そして二人は、もつれ込むように倒れてしまった。
「大丈夫!? アツシ……、きゃあ!」
倒れた弾みで、アツシの顔がレイナの股間に入ってきた。どうやら倒れる際、顔面をテーブルからかわした時に、顔がそこに来たと思われる。彼は、すぐに顔をあげたあと、恥ずかしいといった感じの表情を浮かべながら、顔を反らした。レイナは、彼に一発ビンタをお見舞いしようとしたが、こちらもすぐにやめた。そして、
「……よかったわね、アツシ……。アタシの股間に顔をうずめて……。それであなたの命が助かったし……。アタシも、アツシにひどいことをせずにすんだから……。アタシね、あなたがテーブルの角をよけるために、アタシの股間に顔を向けようとしたところが見えたの。心配しなくていいわ。ごめんね」
彼に謝った。すると彼は、
「……こんな、ところも……、由香と同じなんだね……」
こんなことを口にした。さらに、
「彼女は、私が、失敗や変なことをしても、怒らずに私を見守ってくれた。レイナちゃんも、同じような性格をしてるんだな……」
こんな話もした。レイナは、
「……由香さんねぇ……」
と答えたあと、
「アツシ、写真撮影させて。アタシが由香さんに会わせてあげる」
と言いながら、スマホを取りにいった。そして、戻って撮影を始めようとした時、彼は、
「レイナちゃん……、それで、写真、撮れるの……!?」
驚きの表情を見せながら言った。彼女は、
「そうね……、アツシはスマホを知らなかったわね……」
と言ったあと、
「アツシ、携帯電話は知ってるわよね?」
アツシにこう問いかけた。彼は、
「携帯電話は、一応使ったことが、あるから……。知ってるけど……」
と答えた。彼女は、
「スマホはね、簡単に言うと、電話やメールだけじゃなく、色んなことが出来る、携帯電話を進化させた、今の時代に欠かせないアイテムなの。これ一つあれば、仕事や勉強からゲームや創作活動、友達作りなど、本当に多くのことが出来るわ。もちろん、撮影もね」
と言ったあと、
「アツシ、カメラ撮るから、こっち向いて」
彼にスマホを見るように伝えた。彼は言われた通りに彼女のスマホをじっと見つめた。彼女は、
「アツシ、そんなにガチガチにならなくていいわよ」
優しい声で呼びかけた。彼の緊張が解けたのを見てとった彼女は、スマホのカメラで彼を撮影した。そして、
「ありがとう、アツシ。これで由香さんが気づいてくれれば……」
そう言いながら、スマホをいじった。しばらくして、
「これでよし、っと」
スマホをスカートのポケットに入れたあと、
「アツシ、あなたのこと、アタシのブログで紹介しておいたわ。由香さんが見てくれたらいいわね」
と言った。
「ありがとう、レイナちゃん」
アツシはお礼を言った。レイナは、
「アタシもね、もうすぐしたら風呂に入るけど、いい?」
彼にこうたずねた。すると彼は、
「……レイナちゃん、もう少し、そばに、いてほしい……」
と言いながら、彼女のそばに寄り添った。そんな彼の姿を見た彼女は、
「仕方ないわね。まるで子供みたいね、アツシ」
ちょっぴりため息をつきながらも、表情は穏やかであった。そして彼を抱いて、赤ちゃんをあやすように、頭や背中などをさすった。すると、気持ちがよくなったのか、しばらくすると、彼は再び眠りについた。
「あらら、気持ちよく寝てるわね、アツシ。アタシがそばにいると安心するのね……」
レイナはそう言いながら、しばらくの間、彼のそばに居続けた。そして、なぜか自分の脚を見ながら、
「そういえば、アツシって、先程アタシの脚に顔をこすったりしてたわね。そんなにアタシのはいてるタイツが気になるのかしら……。確かに、今はいてるタイツは、お気に入りの柄物だけど……」
首をかしげていた。それから数分後、
「今のうちにアタシも風呂に入ろう。もう暗くなったし」
彼女も風呂に入る準備を始め、それから風呂に入った。ゆっくり時間をかけ、風呂から出た時には、夜の8時を過ぎていた。それからは、アツシと一緒にテレビを見ながら過ごした。そして10時を過ぎた時、
「レイナちゃん、今日はもう、寝るよ」
アツシがこう言った。その言葉を受けてレイナは、二人分の布団を敷いた。そして、
「アツシ、寝床を引いたわよ」
と言ったあと、彼を和室に連れていった。そこで、
「アツシ、今日は……」
と、彼に問いかけようとした時、彼は、
「レイナちゃん、ありがとう……」
いきなりレイナに抱きついた。
「きゃあ!」
突然の彼の行動に驚いた彼女だったが、
「アツシ、本当に甘えたかったのね……。アタシのお客さんにも、そういった人は何人もいるからね。何かの弾みでいきなりアタシに抱きつく人は……」
などと言いつつも、笑顔で彼をさすっていた。そして、
「おやすみ、アツシ。明日店で楽しみに待ってるわ」
彼にこう伝えた。その言葉を耳にした彼は、
「……そうだった。明日から、働けるかも知れないからな」
こんなことを口にした。彼女も、
「そうね。アツシと一緒に働くの、楽しみにしてるわ。実際には、店で働けるとしても、明日はさすがに無理だけどね」
と言いながら、彼が寝るのを確認した上で和室を後にした。そして、衣装部屋に行った彼女は、自分のスマホを見た。すると、
「あれ? アタシのブログに何かメッセージが入ってる。えーと……、ええ!? 嘘でしょう!? そんな、まさかあの人が……」
自分のブログのフォロワーの名前に驚いたレイナは、戸惑いを隠せなかった。
(……本当に、あの人が、あのトップデザイナーが、アツシが言ってた由香さんと同じ人なの……!? このことを明日、アツシに伝えていいのかしら……?)
しばらくの間、彼女はアツシにメッセージのことを伝えるべきか悩んでいた。そして、
「明日このメッセージのことを、アツシに伝えるかどうかを決めよう。今日はもう寝るわ」
そう言いながら、スマホを充電器に差し込み、電気を消してから眠りについた。
次の日、いつも通りの時間に起きたレイナは、顔を洗いに風呂場に向かった。すると、すでにアツシが起きていて、テレビを見ている最中であった。
「おはよう、アツシ」
彼女があいさつをしたが、彼はそれに気づかないまま、じっとテレビを見ていた。
「アツシ、聞こえてる?」
彼女はこう問いかけたが、
「アツシって、誰……? それと、君は……、誰だ?」
頭を押さえながらこんな答えが返ってきた。彼女にとっては思いがけない答えであった。いや、彼女に限らず、普通こんな状況は考えないだろう。まさに“前日の夜のことをすべて忘れてしまった”というような感じの状況が起きていたからである。彼女は、
「いやねぇ、アツシ。冗談言わないでよ。アタシはレイナよ、レ・イ・ナ。あなたが『由香さんと同じような人』だと言ってた……」
と話した。すると彼は、いきなり思い出したかのように、
「ああ、レイナちゃんか……。おはよう。昨日は、いろいろと、ありがとう……」
と言いながら、レイナに抱きついた。彼女は驚きながらも、
「ちょっと、アツシ……。もう甘えてばかりね……。でもアタシのこと、思い出してくれてよかったわ。“由香さん絡み”というのが不満だけどね……」
アツシの背中をさすりながら言った。すると彼は、
「……この感触……、レイナちゃんだ……。あの時の由香と違った、“別の優しさ”を、感じる……」
こんなことを口にした。
「ありがとう、アツシ」
彼女は優しい声でお礼を言った。そして、
「これから着替えて朝飯を作るわね」
と言いながら、衣装部屋へと向かった。それから着替えたあと、すぐに朝食づくりに取りかかった。しばらくして、
「アツシ、ごはん出来たわよ」
朝食が出来たという合図であった。その声を聞いたアツシは、すぐさま台所に向かった。彼女は、
「あらあら、あっちで待っててよかったのに……」
そう言ったあと、
「今日はここで食べようね。早く座って」
彼にイスに座るように伝えた。彼はゆっくりイスに座った。彼が座ったのを見た彼女は、
「いただきます」
と言ったあと、食べ始めた。彼も後を追うように食べ始めた。
(……どうしようかしら、昨日のブログの件……。アツシに話してもいいのかしら……。……いや、やっぱり話しておくべきね。どのように思われても……。だけどアツシはこの話を信じてくれるのかしら……)
レイナは、朝食を食べながらも、昨日のことが頭から離れなかった。彼女は、そんな迷いを振り払おうと、
「ねぇアツシ、アタシね、昨日思ったんだ。『もしお互いの年が近かったら、結婚してたかも知れない』って……。それくらい、アツシとは相性が合ってると思うの」
突然こんな話を始めた。その言葉にアツシは、
「……レイナちゃん……、優しいんだね……。あの時の由香も、そこまでは、言ってくれなかった、から……」
こんなことを口にした。その言葉を聞いた彼女は、
「ありがとう、アツシ」
と言ったあと、
「それとねアツシ、大切な話があるの。聞いてくれる?」
彼にこう問いかけた。彼が何度かうなずいたのを見て、
「実はね、由香さんと思われる人から、アタシのブログに連絡が入ってきたの。近いうちに会いたいって……」
連絡が入ったこと伝えた。それを聞いた彼は、
「……由香が……、私に……」
なぜか顔を曇らせていた。その様子に彼女は、
「どうしたの? アツシ。あなたが大切に思っている由香さんと会えるのよ?」
首をかしげながら問いかけた。すると彼は、
「……由香は、現在、世界的な、トップデザイナーに、なってる、というのに、私は、私は……、今日まで、一度も働けないまま……、ここまで……」
こう言いながら、うつむいてしまった。その目からは、涙があふれんばかりにこぼれていた。そんな彼の姿を目の当たりにしたレイナは、ただただ黙るしかなかった。世界的なデザイナーにまでのぼりつめた女性と、これまで一度も働いた経験さえ無く、数十年にわたり味方も身寄りもいない男性、あまりにも残酷といえる、二人の人生のコントラストが、否応なしに映し出されていた。そしてアツシは、
「こんな、私を見たら、どう思うの、だろう……。もう、私なんか、頭の中に、残って……」
そう言ったきり、動かなくなった。レイナは、
「……それは会ってみないとわからないわ。だけどね、アタシのブログには、『あの人にお会いして謝りたい。出来ればあの人には、何らかの手助けをしてあげたい。それが、私個人の“責任”です。それが出来る機会を与えてくださって、ありがとうございます。結城さん』というフォローが入ってたわ。おそらく、アツシのことだろうとは思うけど。それでも、あなたに対する気持ちは本物だと思うわ」
彼にこんなことを伝えた。その話を聞いた彼は、
「……レイナちゃんって、“ゆうき”っていう、名字、だったんだ……」
なぜかレイナの名字のことを話した。彼女はそんな彼に対し、
「ええ、そうよ。アタシは結城レイナっていう名前よ……って、そっちの方を気にしてるの……?? アツシ、アタシの名字よりも大切なところがあるでしょう? 由香さんは今でも、あなたのことを思ってるのよ。アタシも協力するから、あなたの思いを由香さんに伝えてあげて……」
由香に自分の思いを伝えるようにすすめた。彼は、
「……わかった……」
と言ったものの、その表情には、疑いの感情が込められていた。彼の表情を見つめていたレイナは、何かを言おうとしたが、やめた。
(……由香さんと別れてから、40年ほどたってるのよね……。アタシも大きな苦しみを味わったけど、せいぜい数年……。それほどの年月の間、苦しみを味わい続けたら、無理もないわね。そんな簡単には他人を信じられるようにはなれないのは……)
それから二人は、無言のまま朝食を食べ、食べ終わったあと、レイナは食器を片付け、そして洗った。アツシは、ふたたび和室に向かい、テレビをつけた。レイナはその後、洗濯物を干したり、掃除を行うなどして、家事をすませた。それから、
「アツシ、もう少ししたらアタシ着替えるから、着替えたら一緒に店に行こう。アツシも今から着替えてね」
彼に着替えるように伝えた。しかし何も反応が無かったので、彼女は和室の様子を見に行った。ところが、彼はそこにいなかったので、
「アツシ、トイレに行ったのかしら……」
と言いながら、トイレに向かったが、ここにも彼はいなかった。
「どこに行ったのかしら……、まさに外に出たの……!?」
今度はベランダの様子を見ると、彼がいた。その手には、一枚の写真があった。その写真を目にしたレイナは、
「アツシ、ダメよ! どこからその写真持ってきたの!?」
すぐにアツシから写真を取り返した。
「レイナちゃん……、どうしたの、いきなり……」
彼はきょとんとした表情を浮かべながら、彼女に問いかけた。彼女は、
「見ないで、これは……。これは、アタシが苦しんでた時代のものなの……」
顔をうつむきながら、かすれたような声で言った。その表情には、うっすらと涙が浮かんでいた。しかし彼には、
「……え? 私は、全くの別人の、写真かと……。レイナちゃんの、友達、とか……」
彼女の言葉が信じられないといった感じであった。すると彼女は、
「……アツシには、信じられないと思うけど……、これ、今のキャバクラで働く前の、今の顔に整形する前の、アタシなの……」
こんなことを口にした。そして、
「おかしい、よね……。アタシ以前はとても不細工で、これで小さい頃からたびたびいじめられたわ。こんな昔の写真を今でも持ってるなんて……、どうしてなのかしらね……。こんな姿のせいで、命まで失いそうになったのにね……」
何か自分を見失っているような感じで、言葉に力がなかった。そんな彼女を間近で見ながら、彼もどうしていいのかわからなかった。
「……出ていって……。ベランダから……、出て、いって……!」
彼女は、ただ大きな声で、アツシにベランダから出て行くように叫んだ。この時の彼女には、周りを気にする余裕などなかった。すると彼は、何も言わずに、いきなり彼女を抱き締めた。
「離して! アンタ何やってんの!? アタシから離れて!」
彼女は必死になって振りほどこうとしたが、彼は顔を横に振りながら頑として離さなかった。そして、
「レイナちゃん……、その、写真……、私には、レイナちゃんの、優しい心が、見える……」
と話したあと、
「こんな優しい、レイナちゃんを、“私の、味方の”、レイナちゃんを……、不細工だからいじめた、人なんて……、えーと……、何だ……、思い出せない……」
なぜか話の途中で、言葉に詰まってしまった。すると、その様子を目の当たりにした彼女は、
「どうしたの、アンタ。その先はなんて言うのよ……!?」
怒り気味に彼に問いかけた。彼は、何かを思い出したように、
「そうだ……。レイナちゃん……、君を、いじめた、人を……、許せない、んだ……。何年も、君を、いじめた、人を……。整形したかどうか、って、関係ないよ。優しい心は、変わらない、から」
こう話した。彼の気持ちに気づいたレイナは、我に返り、
「……アツシ、取り乱してごめんね……」
彼に謝ったあと、
「アタシね、整形したって、誰にも言いたくなかったの。知られたくなかったの。そのことを知ってる志織ちゃんを除いてね……。整形については、志織ちゃんのすすめもあってすることになったわ。最初はためらってたけどね。それからは、これまでのアタシと違ってね、自信も人気もついてきて、今のキャバクラで志織ちゃんとトップを争うまでに成長したの。だから、本当は知られても構わないはずなんだけどね……」
こんな話をした。それから、
「アツシ、本当にありがとう。これで吹っ切れたわ」
と言いながら、アツシを抱き返した。しばらくの間、お互いに抱き合ったまま、時間が過ぎていった。そして、時計を目にしたレイナは、
「アツシ、そろそろ時間だから、アタシ着替えるわね。アツシも着替えてね。着替えは用意してあるから」
そう言ったあと、衣装部屋に向かった。すぐに彼もベランダを出た。
衣装部屋に向かったレイナは、整形する前の自分の写真を見ながら、
「……アタシはね、昔の自分がイヤだった……。それで、自分の外見を変えたくて仕方なかった。命を守るためにもね……。だけど、志織ちゃんが説得してくれるまでは、あんな外見でも、変えるのが怖かった……。変えたのを知られたくなかった……。そんな“恐怖”が、今まで奥深くには残ってたのね……。だけど、アツシのおかげで、その恐怖もなくなったわ……。だから、今日は“あれ”を着るわ。昨日、エリートの役人がくれたブランドものを着る、って決めてたけど、今回はやめにするわ」
こんなことを口にしたあと、タンスの中から、服を取り出した。そして、その服に着替えてからメイクを行い、部屋を出た。そして、
「お待たせ、アツシ」
彼の目の前に向かったあと、
「ねぇ、アツシ、今日の服装はどう?」
こう問いかけた。彼は、
「えーと……、レイナちゃん、なら、どれでも、似合うよ……」
と答えた。彼女は、ちょっと複雑な表情を浮かべたが、
「アツシ、これはね、アタシが不細工だった時代に着てた服なの。正直に答えてほしいの。『ダサい』という感想でも構わないから」
と話した。しかし彼は、
「……私は、そういった、ものには、詳しくない、から……。だから、そう言われても……」
困惑しきりであった。彼女は、仕方ないわね、という表情を浮かべながら、
「……わかったわ。それじゃ、出掛ける準備はいい?」
彼にこう呼び掛けた。彼は、
「大丈夫……」
と答えた。その様子を見た彼女は、
「行きましょう。アタシの店に」
こうして12時、二人はレイナの家を出て、キャバクラに向かった。
「ここがアタシの働くキャバクラよ。ちょっと待ってて。開店の準備をするから」
と言いながら、店に入った。既に店の前には、数人の客が並んでいた。
「ここの女の子って、話しやすいね。それに、いろいろと元気づけられるよ」
「こんなキャバクラだったら、会話の授業とか、カウンセリングとか行ってもいいと思うけどね……」
などといった話が飛び交う中、アツシはイスに座って待っていた。そして1時を迎え、店が開いた。
「いらっしゃいませ」
入り口では、レイナと志織が出迎えていた。ここのキャバクラの“ツートップ”と呼ばれている二人である。数人の客とともに、アツシも店に入った。そして彼は、手近な場所にあるイスに座った。
「こんにちは、アツシ」
レイナは、早速アツシのもとに向かった。そして、
「お店の雰囲気、どう?」
こう問いかけながら、水の入ったコップを置いた。彼は、辺りを見渡しながら、
「……何か、レイナちゃんが、いつも、働く時間帯とは……、違う感じ、だ……」
こう答えた。彼女は、
「そうよ。昼間はこんな感じで、お酒は出さないの。代わりに、お茶やジュースを夜間より多く置いてるわ。それと夜間に比べて、料金はリーズナブルになってるわ。ただ基本的には、夜間と違って延長は出来ないわ」
店についての説明をしたあと、
「それじゃ、他の人に変わるわね」
こう言いながら、一旦後ろに下がった。そして、
「志織ちゃん、あそこにいるのがね、アタシが昨日電話で紹介した、アツシさん。彼はね、『ここで働きたい』って言ってるから、後で面接してあげて。履歴書が無くても大丈夫よね? “アタシが紹介した”と店長に言っておけば……。もしあれだったら、アタシも付き添いに向かうわ」
こんな話を志織に伝えた。彼女は、
「確かに、レイナさんの紹介なら、店長も面接を組んでくれるわ。履歴書が無くても大丈夫よ」
こう答えた。そして、
「私がアツシの相手をするわ。アンタは、店長に彼のことを話してあげて」
と言いながら、アツシのもとに向かった。そして、
「こんにちは、アツシ」
志織は、アツシに軽く一礼をしながら、丁寧に呼び掛けた。彼は、
「えーと……、こんにちは……」
口調が、何かたどたどしい感じの受け答えになっていた。その口調を耳にした彼女は、
「あらあら、どうしたの? 緊張しなくていいわよ、アツシ。レイナさんがあなたのことを、『根は優しい人』だって言ってたわよ。私にもその感じが見て取れてるわ」
彼の手を握りながら言った。そして、その手を軽くさすった。するとアツシの緊張感が解けたのか、
「……ありがとう……」
志織にお礼を言った。彼女は、彼の隣のイスに座ったあと、
「そういえば、アツシは、子供のことが気にかかる性格みたいね。話題が子供のことになると、結構熱くなるって、レイナさんから聞いたわよ」
こんなことを口にした。それに対し彼は、
「……私は、子供のことを、大切にしない人が、いると、どうも、何かイヤな、気持ちに、なるんだ……。それに、子供が集まって、楽しく遊んでる、ところを目にすると、なぜかホッと、するんだ……」
手振りを交えながら、こう答えた。その言葉を聞いた志織は、
「なるほどね……。アツシの気持ちは私にも伝わったわ。だけど、話し方に難があるみたいね。それだったら、アツシが話せるように、私も協力するわ。子供に対する気持ちは本物だと思うから、話せるようになれば大丈夫よ。アツシならきっと、託児ルームの子供の世話をこなせるわ。いえ、子供たちに好かれると思うわ」
彼の右肩を軽くポンと叩いた。彼は、
「……これで、働ける、ように、なるんだ……」
彼なりにうれしそうに言った。すると彼女は、
「まだ正式に決まったわけじゃないわ。後で面接があるから、その時まで待っててね。いえ、それまでは、私や他の女の子たちと一緒にお話しましょう」
面接が始まるまで一緒に話をしたいと伝えた。彼は、何も言わずに一度だけうなずいた。
アツシと志織が話をしている時、
「ゆうちゃん、今日はいる?」
一人のイケメン男性が、店の中に入ってきた。
「あら、レイナさんの元カレね。どうしたの?」
ここは志織が応対した。レイナの元カレは、
「ゆうちゃんはどこ行ったんだ? オレは彼女に謝りたい。そして、もう一度やり直したいんだ。今日ここにいるんだろう? 早く彼女を呼んでほしい。それまではオレは諦めないぞ……」
こんなことを言いながら、空いているイスに座った。そして考え込んだ志織に構わず、
「ゆうちゃん、こっち来て」
と何度も繰り返し叫んだ。その声に、早めに切り上げて店を後にする客まで現れた。志織が注意しようと彼のもとに向かった時、
「ちょっと、ケンタ何やってんの!? もうアタシをふったんでしょう。何でここに来てるの?」
レイナが奥から現れた。その姿を見つけた元カレ、ケンタは、
「なぁゆうちゃん、オレが悪かったから、もう一度付き合おうよ。必ずお前を幸せにするからさ……」
こう言いながら、レイナのもとに近寄った。すると彼女は、
「ケンタ、アンタの気持ちはありがたく受けとるわ」
こう答えた。ケンタは、
「それじゃ、オレと結婚してくれるんだ」
と言ったあと、レイナの手を握ろうとしたが、
「ケンタ、お客さんに迷惑をかける人とは付き合わないわ。むしろ、あの時アンタがふってくれて感謝してるくらいよ」
と言いながら、軽く彼の手を払った。そして彼女は、
「代わりに、アンタにお似合いの女の子を紹介してあげる」
少し地味目の女の子をケンタの目の前に連れてきた。その女の子を見た彼は、
「えー、この女の子……!? あまりおもしろくないし、話が合わないぞ。お前、いったいどういう真似だ!?」
いぶかしげな表情を浮かべながら、レイナを問い詰めた。彼女は、なぜか笑みを見せながら、
「ケンタ、もう一度あの子と話をしてやって。話せばわかるわ。以前の彼女とは違うから」
こんなことを口にした。すると女の子がケンタの目の前に来て、
「ケンタさん、私とお話をしましょう」
と言いながら、彼に何かを見せた。すると彼は、
「何だよ、これ!? ただのペンダントじゃねぇか。こいつをどうするんだ? お前も何考えてるんだ!? ふざけんな」
女の子に悪態を突くような感じで、怒りをぶつけた。志織が止めに入ろうとした時、女の子は、
「ケンタさん、これ、私の手作りです。大好きなあなたにつけてもらいたいと思って、作ってみました。一度つけてみてください」
と言いながら、いやがる彼にペンダントをかけた。その様子を目にした客の一人が、
「あのペンダント、その男に似合うよな。本当にあの女の子が作ったのか?」
こんなことを言い出した。志織も、
「本当に似合うわね。あの子って、そんな技術持ってたのね」
感心しながらこう言った。当のケンタも、
「……これ、お前が……!? オレのために……」
驚きの表情を見せていた。ところが、なおも、
「こんなもん、オレには似合わんぞ。話も合わないお前なんかと、誰が……」
こんな感じで抵抗を図ろうとした。しかし、
「もうケンタさん、素直じゃないんですね。私と一緒にあちらに座りましょう」
そう言いながら女の子は、半ばケンタを強引に客がいない端のテーブルに案内した。そして、
「ケンタさん、あなたの積極的なところが好きです。それといろいろ話が上手いところも……。だから、私と付き合ってください」
いきなりこんなことを言い出した。その勢いに圧倒されたのか、ケンタは、
「……以前会った時とは違うな……」
と言ったあと観念したのか、
「わかったよ……。お前と、付き合うよ。その様子じゃ、オレが何度も断っても諦めない、みたいだな……」
先程までとは違い、小さな声で話した。
「ありがとう、ケンタさん♪」
女の子は彼の手を握りながら、うれしそうに言った。すると周りから、二人を祝福するかのように声が上がった。その声が耳に入ったのか、後ろから、
「どうしたんだ? この騒ぎは……」
店長が現れた。レイナは彼に、
「店長、何でも……、いえ、お客さんの一人が、店の女の子と付き合うことになりました。それで、他のお客さんが二人を祝福するように、いろいろと声をあげてて……」
こう話した。その様子を見た彼は、
「……あれ? あの男、確か君と交際してたよな? 結婚しようかというところまで来てたはずだが……」
レイナにこんな疑問を投げかけた。すると彼女は、
「その通りです、店長。だけど、彼とはね、根本的なところでずれてたみたいです。彼からふられたことで、それに気づいたわけです。だから、そこの彼には、ふってくれて感謝してます」
こう答えた。その表情は、さばさばとしていた。
「しかし、クルミちゃんもずいぶん変わったな……。ここの店に入ってから、あそこまで成長するとはね……。レイナちゃんの愛想のよさと優しさが、クルミちゃんをここまで導いてくれたんだね」
店長も感心しきりの表情で、こうつぶやいた。そして、
「レイナちゃん、話は変わるが、今度うちに面接を受けたい人は、どこにいるのかね?」
レイナにこう問いかけた。彼女は、
「あそこで志織ちゃんと話してる、50代の年配の方です。アツシと言います。彼は子供に対して優しい方です」
アツシの方を手のひらで指さして、こう答えた。店長は、
「……感じは悪くないな。ただ50代というのが少し気になるが……。まあ、レイナちゃんがすすめるのであれば、面接をしないわけにはいかないね」
うなずきながら、レイナに面接を行うことを伝えた。彼女は、
「ありがとうございます、店長」
店長にお礼を述べた。彼は、
「それじゃ、近くにある託児所に、彼と一緒に来てほしい。今から1時間ぐらい後にね」
そう言ったあと、後ろに下がった。レイナは、すぐにアツシのもとに駆け寄り、
「アツシ、ここの店長が面接してくれるって。1時間後にアタシと一緒に託児所に行こう。ここから歩いて10分弱のところにあるから」
彼に面接を行うことを告げた。すると彼は、
「……これで、ようやく、働けるのか……」
彼なりに、よろこびの表情を見せながらこう言った。レイナは、
「ウーン、まだ決まったわけじゃないけどね……」
考え込みながら、こう言った。
一方その頃、クルミたちのいるテーブルでは、二人の話が弾んでいた。そしてクルミがおもむろに、
「ケンタさん、今度私とデートしましょう。私ケンタさんと一緒だと、いろんなペンダントのデザインのアイディアが浮かんで来るんです。だから今後も、私と一緒にいてください。出来れば、その先も……」
ケンタに告白した。彼は、
「……お前と、結婚……!?」
驚いた表情を浮かべながら、こう言った。そして、
「ちょっと待て、お前、オレよりも積極的じゃねぇか……? 一体何がどうなってるんだ……!?」
テレるような感じで戸惑いを見せた。そんな彼を尻目にクルミは、
「もう、素直じゃないんですね。私と付き合うんでしたら、そう言ってくださいよ。ケンタさんがそう言ってくれれば、私も喜んで付き合います。私はいつでも待ってます」
こんなことを口にした。もはやクルミのペースであることは、誰の目から見ても明らかであった。ケンタも、
「……わかったよ、クルミ。番号とアドレス、交換しよう。で休みはいつなんだ? その日にデートしようか」
そう言いつつ、クルミに連絡先の交換を打診し、デートの日を聞いた。彼女は、
「私は、あさってが休みです。もちろん、ケンタさんとは喜んで連絡先を交換します♪ デート、楽しみですね。それといずれ授かることになるケンタさんとの子供もね」
そう言いながら、連絡先の交換を行った。それから、
「今日はありがとう、ケンタさん」
彼の手を軽く握って、別のテーブルに向かった。その時、
「よかったわね、ケンタ。アタシが言った通り、アンタにお似合いだったでしょう? クルミちゃん。彼女とならアタシ以上にうまくいくわよ。彼女アンタのこと、本気で考えてたんだから。アンタもね、彼女と一緒に今後のこと、考えてあげよう」
レイナがケンタにこう話しかけた。彼は、
「アンタにはやられたよ……。すでにあいつがあそこまで考えてたとはね……。もう逃げるわけにはいかないよね……。オレも覚悟は決めておかないとね……」
そう言いつつも、表示は穏やかであった。レイナは、スカートのポケットの中を探りながら、
「ケンタ、クルミちゃんを頼むわね。アンタなら、必ずや彼女の力になれるわ。実はね、アタシも彼女のペンダント、持ってるの。いつも、その時着てるスカートのポケットに入れてるわ。ちょっとした“お守り代わり”にね……」
ケンタに、スカートから取り出したペンダントを渡した。そのペンダントを、手に取って見つめた彼は、
「これもクルミが……。すげえやあいつ……。これ、ネットで売り出せば、売れるんじゃねぇか?」
感心するようにつぶやいた。レイナは、
「そうねぇ、アタシもね、そのことは一度クルミちゃんにすすめてみたの。だけどその時は、ちょっと乗り気じゃなかったけどね。あ、そうだ、アンタが打診してみれば? 今だったら、喜んで話に乗ると思うわ」
ケンタにこんなことを伝えた。彼も、
「そうだな、あいつに伝えてみるか」
と言ったあと、
「ゆうちゃん、ありがとうな」
レイナにお礼を述べ、ペンダントを返した。それからすぐに、クルミのもとに向かった。その様子を見ていたレイナは、
「……もう、あいつと会う気はなかったけどね……。まあいいわ。今回は、クルミちゃんとのいいカップルが誕生したし、二人を祝ってあげなきゃね」
そう言いながら、アツシたちのいるテーブルへ向かった。そして、
「志織ちゃん、アツシはどう?」
こう問いかけた。志織は、
「ウーン、彼は優しい感じではあるんだけど、どうも会話が苦手みたいね……。面接の方、ちょっと不安になりそうだから、アンタ、彼についてあげて」
このように答えた。レイナは、
「もちろんよ。アタシが責任持って彼のフォローを務めるわ」
力強く言ったあと、
「アタシは、他のお客さんの相手をするわ」
別のテーブルに向かった。それからしばらくたって、他の客の相手を終えたレイナが腕時計に目をやると、
「あ、もうすぐ面接の時間ね」
時刻は2時を少し回っていた。そこで彼女は、アツシのもとへ向かい、
「アツシ、面接の時間よ」
彼に面接が始まることを告げた。ちょうど女の子が彼のところを離れていた状況であったので、彼も、
「わかった……」
と言いながら、すぐに立ち上がった。そしてレイナは、
「志織ちゃん、これからアツシの面接に一緒に行くから、戻ってくるまで、店の方を頼むわね」
志織にこう告げたあと、アツシと一緒に一旦店を後にした。
それから数分後、託児所の前に着いた二人は、その場に立ち止まった。そしてレイナが、
「ここが託児所よ、アツシ。“託児ルーム”と呼ぶ女の子たちもいるけど、それは人それぞれね。ここで、主に店で働く女の子や女性たちの子供の世話を行うの。もちろん、それ以外の人の子供も預かってるわ」
簡単な説明をしたあと、
「行きましょう、アツシ」
そう言いながら、アツシと一緒に託児所に入った。
「……子供たちが、いるんだな……。楽しそうに……」
アツシがそうつぶやいた。レイナは、
「そうね。ここがあるおかげで、シングルマザーの人たちも安心して店で働けるわ」
と言ったあと、とあるドアの前で立ち止まった。そして、
「ここが園長室よ。ここで面接を行うわ。実はここね、アタシのキャバクラの店長が園長をしてるの」
アツシにこう伝えた。彼は無言のまま、ただうなずいた。その様子を見た彼女は、
「緊張してるのね、アツシ……。大丈夫よ、アタシがついてるから」
彼の肩を軽く叩きながら、優しい声でこう言った。そして、園長室のドアを軽く二度ノックして、
「店長、彼をお連れしました」
そう言いながら、中に入っていった。すぐにアツシも、彼女の後を追った。
「店長、こちらの方が、面接を受けにきたアツシです」
レイナは改めて、店長すなわち託児所の園長に、アツシを紹介した。ところが彼は、
「えーと、アツシといいます。お願い、します……」
緊張していたのか、ぎこちない感じ話し方になってしまった。彼の様子を目にした園長は、
「レイナちゃん……、本当に大丈夫かい?」
レイナに心配そうに問いかけた。彼女は、
「……彼は優しい人なんです。実際に子供に会ってみれば、分かるはずです」
と答えた。
「……まあ、とりあえず、子供たちに会わせてみよう。実際に子供たちと一緒になった時に、子供たちが受け入れてくれるかどうかが重要だからな」
そう言いながら、園長はアツシに対して、
「それでは、子供たちのところに向かおうか」
と呼びかけた。彼は、園長の呼びかけに応じて立ち上がった。そしてレイナを含む3人は、園長室を出て、キッズルームへ向かった。キッズルームに入って子供たちに近づくと、彼らの何人かが、アツシのもとへとやってきて、
「ねえ、おじさん、一緒に遊ぼう」
アツシに声をかけてきた。彼は、
「……私と……」
と言いながらも、子供たちと一緒に遊んでいた。しばらくすると、子供たちの表情が変わり、楽しそうにしていた。アツシの表情も穏やかになり、次第に雰囲気もよくなってきた。
「いや、すごいな……。子供たちがあれだけ……。アツシっていう男性は、子供たちに好かれる人みたいだな……」
園長は、感心しきりといった様子であった。そして、
「レイナちゃん、彼を世話係として雇うことにしよう。本当は今すぐにでも、と言いたいくらいだが、しばらく待ってくれないかな。早いうちに働けるようにするから」
と言った。レイナは、
「ありがとうございます、店長」
深々と頭を下げながら言った。それから、アツシのもとへ向かおうとしたが、
「あ、しばらくそのままにしておいてくれないかな。子供たちが楽しそうにしてるみたいだし、後で呼ぶから心配しなくていいよ。店に戻ってね、レイナちゃん」
園長が彼女にこう告げた。彼女は、
「わかりました」
と言ったあと、一度託児所を後にした。そして店に戻り、
「志織ちゃん、アツシね、ここで働けるようになったの。しかも、今子供たちは楽しそうにアツシと遊んでるわ」
うれしそうに志織に報告した。彼女も、
「よかったわね、レイナ。私も、彼が受け答えが出来るかどうか心配してたわ。だけど、その様子じゃ、心配はいらなかったみたいね」
うなずきながらこう答えた。
「ところで、クルミちゃんはどうしてるの?」
レイナは志織に問いかけた。彼女は、クルミがいるところを右手で指し示したあと、
「彼女ね、うれしそうに接客してるわ。今日は彼女に集まる人が多いということもあるけど……。それとケンタはすでに店を出たわ」
こう言った。レイナは、
「そうなの。だけど、これでいい形でアイツを送り出せたわね」
こんなことを話した。すると、レイナの服装に疑問を持った志織は、
「あれ? レイナ、その服って、確かこっちに来たばかりの時に着てたやつでしょう?」
こう問いかけた。レイナは、
「……志織ちゃん、アタシね、整形したこと、初めてあなた以外の人に話したの。今まで、他の人には知られたくなかったことだけど、アツシはね、アタシの不細工時代の写真から、”優しい心“を見てくれたの。それで、整形なんてどうでもよくなったわ。彼のおかげで吹っ切れたわ。だからブランドものじゃなく、あえてダサい服を着たの。アタシの心の中の“恐怖”を断ち切るためにね」
ゆっくりとしながらも、最後の方は力強く志織に話した。彼女は何度かうなずきながら、
「アンタがそう言ったのなら、私も言わなければいけないことがあるわね」
と言った。そして、
「私実はハーフなの。それも、父親は勝手に向こうに帰ってしまったから、私なりに苦難を味わってるわ。本当は早くに言っておくべきだったけど、なぜか言い出せなくてね」
こんなことを口にした。それに対しレイナは、
「そう……。アタシも初耳ね、その話。だけど、今のアタシたちには全く関係ないわ。それにアタシはね、キャバ嬢の地位を上げたいと思ってるの。アタシを助けてくれた人たちへの“恩返し”としてね」
首を横に振ってから、こんな話をした。志織は、
「ありがとう、レイナさん。改めて私の名前を言うわ。私の名前は、志織・ベルザード。やっぱりアンタはすごいわ。キャバ嬢たちのことを考えてたとはね……」
感心しながら名前を名乗った。レイナは、
「ええ。だからアタシは公式ブログを立ち上げたわ。それと今ね、キャバ嬢たちによる会議を計画してるの。彼女たちの地位と質の向上を図るためにね。今ね、周りのキャバクラに呼びかけてるの」
こんなことを話した。志織は、
「……面白い提案ね。私たちのためになるのなら、ぜひとも協力するわ」
快くレイナの提案に応じた。彼女は、
「ありがとう、志織ちゃん♪」
喜びながら言ったあと、
「そろそろ仕事に戻ろう」
と、志織に呼びかけた。その直後、二人はそれぞれ別の客のもとへ向かった。
それから時間が過ぎ、17時になった。
「今日の『昼キャバ』に来て下さって、ありがとうございます」
この店の“ツートップ”が、残った客をすべて送り出し、昼の部が終了した。そしてレイナが、
「志織ちゃん、アタシ一旦家に戻るわね。アツシを帰らせないといけないから」
と言うと、志織は、
「わかったわ。今日は夜の9時開始だから、いつもと違うわよ」
とレイナに開始時刻を伝えた。それを聞いた彼女は、
「ありがとう、志織ちゃん」
そう礼を言ったあと、すぐに託児所へ向かった。それから中に入って、
「アツシ、帰るわよ」
アツシを呼んだ。すると園長が現れて、
「レイナちゃん、ありがとう。子供たちも男性も生き生きとしてたし、これで解決したようだ」
レイナにお礼を述べた。彼女は、
「店長、アタシはただ、彼のフォローをしただけです。それでも彼が生き生きとしてたことは、アタシにとってもうれしい限りです」
こう返事した。園長は、
「もちろん、これからもここで働いてもらうよ。今日の様子を見て、十分わかったよ」
と答え、
「アツシ君、レイナちゃんがお呼びだよ」
アツシを呼び出した。その言葉を耳にした彼は名残惜しそうに、子供たちのもとを離れ、レイナのところに向かった。そして、
「……ありがとう、ございます……」
園長にお礼を述べた。帰ろうとした彼らを、子供たちも「まだ遊びたい」という表情を見せながら見送った。レイナも、
「また来るね。楽しみにしててね」
と言ったあと、アツシと一緒に託児所を後にした。帰りに立ち寄ったスーパーで買い物を行い、アパートに戻った。
「よかったわね、アツシ。アタシと一緒に働けるから」
レイナはそう言ったあと、部屋の鍵を開けて中に入った。すぐにアツシも荷物を持って中に入り、ドアを閉めた。
「ありがとう、アツシ」
レイナはアツシにお礼を言ったあと、
「すぐ晩飯を作るわね」
と言いながら、台所に向かった。アツシはその間、和室でテレビを見ていた。しばらくして、
「アツシ、出来たわよ」
レイナはアツシに夕飯が出来たことを伝えた。その声を耳にした彼は、すぐさま台所に向かった。そして彼がイスに座ったのを見計らってから、
「アツシ、子供と一緒にいてどうだった?」
レイナはこう話を切り出した。アツシは、
「……楽しかったよ、レイナちゃん」
表情をほころばせながら答えた。その表情を見つめていた彼女も、
「本当によかったわね、アツシ。“居場所”が見つかって」
うれしそうに話した。そして、
「それじゃ、晩飯食べましょう。いただきます」
と言ったあと、二人同時に夕飯を食べ始めた。しばらくして、二人とも食べ終えたあと、レイナは片付けを行った。それから、
「アタシはまた店に戻るから、一人になるけど大丈夫?」
アツシに尋ねた。すると彼は、不安そうな表情を見せた。それを見た彼女は、彼のもとへ来て、
「大丈夫よ。ちゃんと戻るから」
と言いながら彼を抱いて、頭をさすった。それはまるで、母親が息子に対して行うような感じであった。彼は何も言わないまま、ただ彼女の胸の辺りを触っていた。すると彼女は、顔を赤らめて、
「もう、アツシ、そんなにアタシの胸が好きなの? もうすぐ店に戻るから、明日の朝にして」
彼から離れながらこう言った。そして、
「アツシ、布団は敷いてるから、寝たい時に寝てね。それと、衣装部屋には勝手に入らないで。少なくともこれは絶対守って。約束よ」
など、いくつかのことを彼に伝えた。彼がうなずくと、
「それじゃ、行ってくるわね、アツシ。鍵は閉めておいていいわよ」
そう言いながら、レイナは家を出た。その様子を見送ったアツシは、すぐに玄関の鍵を閉めたあと、台所にある冷蔵庫を開けて、中からジュースを取り出した。そして、和室に行ったあと、テレビを見ながらジュースを飲んだ。ところが、しばらくテレビを見ていた時、気分が悪くなったのか、急いで洗面所に向かった。そしてそこで何度も吐いた。
(どうしてだ……、さっきまで何事も、なかったのに……。いや、一晩寝れば、大丈夫だ……。せっかく、レイナちゃんと一緒に、働けるように、なったんだ……。“病気”なんかに……)
吐き気が収まったあと、アツシは水を流して洗面所をきれいにし、すぐにテレビを消して、布団で横になった。それから数時間後、レイナが店から帰った時、家に入った彼女は、
「あれ? なんで電気がついてるの……?」
首をかしげながら、いつものように客からもらったプレゼントを衣装部屋に置いて、和室で寝ているであろうアツシの様子を見た。彼は何事もなかったかのように、ぐっすりと眠っていた。
「よかった……。ぐっすり寝てるわね」
ほっとしたあと、いつものように風呂に入ってメイクを落とし、風呂場にあった洗濯物を洗濯機に放り込んだ。そしてパジャマに着替え、眠りについた。時刻は3時を回っていた。
「あら、激しい雨ね」
レイナが起きた時、雨の降る音は大きかった。改めて彼女は、ガラス越しに外を見ると、水溜まりが出来るほど雨が降っていた。その状況を確認した彼女は、衣装部屋を出た。ところが、辺りを見回しても彼の姿が見えない。そこで、テレビがある和室をのぞいてみると、アツシが寝ていた。
「あれ? 今日は起きるの遅いわね……」
彼女がふすまを閉めようとした時、
「レイナちゃん、おはよう……」
アツシが目を覚ました。彼女は、
「おはよう、アツシ」
と答えたあと、
「昨日、どうだった?」
彼に感想を聞いてみた。彼は、
「本当に、楽しかった……。これほど、いい一日を、過ごせたなんて……。子供たちも、楽しそうだった……。あそこなら、私もやっていけそうだし、本当にありがとう、レイナちゃん」
一語一語を、じっくり噛みしめながら答えた。
「よかったわね、アツシ。これからは、働きながら資格を取らなくちゃね、保育士の」
彼女は、彼に資格を取るようにすすめた。彼もその言葉にただうなずいた。そんな彼を見た彼女は、
「今日は買い物しようか、アツシ。就職が決まったお祝いに」
と話した。その話を聞いた彼は、笑顔を見せた。それを見た彼女は、
「それじゃ、朝飯を作るから、待っててね」
こう言いながら、台所へ向かった。彼女が台所に向かったのを見た彼は、なぜか右手で軽く胸を押さえながら、自分の体に目をやった。表情を曇らせながら、下を向いていた。
それから朝食をとって、しばらくたって、
「アツシ、着替えた? もうすぐ行くわよ」
玄関付近にいるレイナの弾む声が響き渡った。ほどなくアツシが玄関に来たが、彼の足取りがこれまでとは違う感じだった。
「どうしたの? アツシ」
彼女は心配そうに問いかけたが、
「大丈夫だ」
と答えるだけであった。彼女は何か疑問に感じながらも、
「買い物に行こう」
と言ったあと、彼が出たのを確認して鍵を閉め、家を後にした。朝激しく降った雨は、いつの間にか止んでいた。
「レイナちゃん、いつもと着る服が違うね……」
中心部へ向かうバスの中で、アツシがこう聞いた。彼の隣に座っていたレイナは、
「アタシもね、休みの日にはカジュアルな服装で過ごすわ。ただ、店の女の子からは、『ダサい』なんて言われたりすることもあるけどね」
こんなことを話した。すると彼は、
「そんなことないよ、レイナちゃん。十分オシャレだよ。由香ほどじゃないけど……」
フォローのつもりで言った。ところが、彼女は顔を曇らせてしまった。その様子になぜか彼も頭を抱えながら、下を向いた。それが数分間続き、彼女は、
「……由香さんなら、仕方ないわね……。彼女は世界的なデザイナーだし、オシャレの部分じゃかなわないから……」
と言ったあと、
「それでもアツシ、気持ちはうれしいわ」
彼の肩を叩きながらこう伝えた。そして、
「アツシ、服装のことで話したいことがあるの」
なぜかこんなことを口にした。彼が起き上がると、彼女は一呼吸置いて話す準備をした。しかしその時、彼女たちが降りる予定の停留所を知らせるアナウンスが聞こえたので、彼女は、
「アツシ、次で降りるわよ」
と言ったあと、バスが止まるのを待って、二人一緒にバスを降りた。
バスを降りた二人は、目的地のデパートへ向かっていた。レイナは、
「アツシ、アタシがね、なぜほぼ毎日、今日みたいにストッキングをはくのか、わかる?」
いきなりこんなことをアツシに聞いた。彼は当然のごとく考え込んだ。彼女は、
「わからないのも当たり前よね……」
ため息をつきながら言ったあと、
「その理由はね、よく転けてけがするからよ。アタシね、小さい頃からけっこうドジ踏んできたの。ほら、おとといアツシの顔が、アタシの股間に当たったことがあったでしょう?」
理由などを話した。その話を聞いた彼は、思わず顔を赤くしながら、右手で顔を押さえた。
「あんなことが何回もあったから、外に出る時は、学校行く時も含めて、ストッキングやタイツをほぼ欠かさずにはいたの。季節に関係なくね……。いじめられた時やドジを踏んだ時に、少しでもけがを軽くするために、というのもあったわね……」
彼女は、そんな彼の状況に構わず話を続けた。彼は、
「レイナちゃん……。どうして、私にそんなことを……」
首をかしげながら問いかけた。すると彼女は、じっと上を見つめながら、
「アタシにもわかんないけどね、なぜかアツシに、この話を聞いてほしいと感じたわ。そうするとね、アタシもまた強くなれると思ったの。あなたと会ってから、少しずつだけど、アタシの心の中に残ってた昔の“苦難”を克服出来てるわ」
このように答えた。彼は、
「私も、レイナちゃんに助けられてから、やっと、由香と同じような人に……、いや、彼女とは違った優しさを持つ人に出会えたのが、本当によかった……。これで……」
なぜか話を途中で止めた。彼女は、
「どうしたの? アツシ」
考え込みながら問いかけた。彼は、
「……いや、何でもないよ、レイナちゃん」
首を振りながら答えた。彼女もそれ以上何も聞かなかった。というのも、目的のデパートに着いたからだ。そして、二人は中に入った。
デパートに入った二人は、早速男性衣料売り場に向かった。
「アツシ、着たい服を選んで」
レイナはアツシにこう呼びかけた。彼は、
「本当にいいのか……、こんな私のために……」
と、少し不安そうに問いかけた。すると彼女は、
「もちろんよ♪ アツシの“初めての就職祝い”だから、気にせずに自分の着たいものを選んで」
笑顔で答えた。その言葉を信じるかのように、彼は服を選び始めた。しばらくして、
「……レイナちゃん、これはどうかね?」
試着した服を彼女に見せた。すると近くで見ていた女性店員が、
「なかなかお似合いですね」
と声をかけた。その声を耳にしたレイナは、
「へぇ、アツシって意外とセンスいいのね」
感心するようにつぶやいた。それから彼は、何着か試着を重ね、自分が着たい服を選び、買い物かごに入れた。
「アツシ、似合う服を選んでるのね」
レイナがアツシにこう声をかけた。彼は、
「……そう、なのか……」
「自分はそんな意識は……」といった感じで話していた。それから二人は、服の他にカバンや小物を買った。その後、最上階に近いレストランに入った。その時二人は、両手に買い物袋を抱えていた。すぐに入口近くに開いていた席に座った。それから荷物を置いて、
「アツシ、食べたいものを頼んで」
レイナはアツシに料理を注文するように言った。メニューを見ていると、ほどなくして店員が来たので、二人はそれぞれ、
「今日はトンカツ定食で」
「私はトンカツ定食を……」
注文の品を店員に伝えた。店員は、
「かしこまりました」
注文の品をメモしたあと、カウンターへと向かった。
「アツシと重なるなんて偶然ね」
レイナは、笑みを見せながらこう言った。アツシも、彼女の表情につられたのか、表情をほころばせた。それから彼女は、
「そういえばアツシ、昨日子供たちと一緒になって、どうだった?」
こんなことを聞いてきた。すると彼は、
「レイナちゃん、それ朝に話したけど……」
自分の頭をさすりながら話した。彼女は、
「あ、そうだったわね……。ごめん」
苦笑いしながら言った。それからしばらくたって、
「お待たせしました。トンカツ定食です」
店員が二人分のトンカツ定食をテーブルに置いた。そして、
「何か注文などがありましたら、お気軽に声をかけてください」
と言いながら、他の場所へ行った。すぐにレイナが、
「アツシ、早く食べましょう」
と呼びかけた。その呼びかけにアツシはうなずいた。その様子を目にした彼女は、手を合わせながら、
「いただきます」
と言ったあと、定食を食べ始めた。彼も同じように食べ始めた。その間、二人は料理の話以外はせずに食べた。そして、
「ごちそうさま」
レイナが食べ終えた時、アツシは、まだ半分近くが残っている状態であった。
「どうしたの? アツシ。どこか悪いの?」
彼女は心配そうに問いかけた。彼は、
「いや……、おいしかったので、ゆっくり味わったんだ……」
一呼吸置いてこう答えた。彼女は、
「そう、じゃ、アツシが食べ終わるまで待つわ」
と言ったあと、
「ちょっとトイレに行くから、アタシが戻るまで待っててね」
そう言いながら、立ち上がってトイレに向かった。彼はその間、しきりに水を飲みながら、少しずつ食べていたが、ちょっと残したところでやめた。それからほどなく、レイナが席に戻ってきた。
「あれ? 少し残ってるわね」
彼女は首をかしげながら聞いた。するとアツシは、
「いや、朝食べ過ぎたかな……」
少しのろけながら、こう言った。彼女は、
「そうだったの……。次からは食べ過ぎないように気をつけてね、アツシ」
彼に言い聞かせるように伝えた。そして、
「そろそろ行きましょう。荷物を持ってね」
こう言ったあと、レジへと向かった。彼もすぐに後についていった。彼がレジに来たところで、レイナは食事代を支払った。その後二人はデパートを出て、近くの公園に行った。
公園のベンチに座った二人は、しばらく体を休めていた。その時、
「ごめん、ボール取って!」
サッカーをしている男の子が、二人にこう叫んだ。アツシがボールを取って、その男の子をめがけてボールを投げた。ボールはそのまま、ダイレクトに男の子のもとにかえってきた。
「すごーい、おじさん。一緒にサッカーしよう」
男の子はこう言いながら、アツシを誘った。彼は男の子に言われるままに、一緒に遊び始めた。すると、あまり時間がたたないうちに、子供たちに溶け込んでいた。その様子を目にしたレイナは、
「アツシって、子供たちに好かれる才能があるのね……」
笑みを見せながら、こうつぶやいた。そしておもむろにスマホを取り出し、画面を確認してみると、LINEに友だちになってほしいというメッセージが入っていた。名前を見ると、由香と書かれてあった。
「……本当にあの人から……!?」
疑問に感じたレイナだったが、とりあえず、
ーもしかして、あの由香さんですか? アタシは結城レイナです。とりあえず、友だち登録をしておきますー
このメッセージをLINEで送った。すると、
ーあなたが、ブログに彼の写真をのせた人ですか……。あなたの想像通り、私はデザイナーをしております。今回は所用で、モデルの娘と一緒にあなたの住む街に来ております。もちろん、あなたのことは友だち登録をしております。明日、あなたの家をお訪ねしたいのですが、よろしいでしょうか?ー
こんなメッセージが返ってきた。レイナはすぐに、自分のスマホのアドレスを送り、以降はそこにメッセージを送るように伝えた。ほどなくして、由香から、
ーお気遣いありがとうございます、レイナさん。まずは私のプライベートのスマホのアドレスを登録してください。それと“恩人”の彼、八郎には、お会いした時に伝えたいことがありますー
こんなメールが返ってきた。早速レイナは、由香のスマホのアドレスを登録し、
ー彼の名前って、八郎というのですね。アタシは彼の名前がわからなかったので、とりあえず彼のことをアツシと呼んでました。由香さん、彼のことをアツシと呼んでいいのでしょうか? 実は彼、本当の名前を覚えてないのです。残念ながら……。ですが、由香さんのことは詳しく覚えてます。それほど、由香さんのことを大切に想ってたのでしょう……。由香さん、ぜひ彼に会ってください。アタシも出来る限り協力しますー
このあと、自分の住む場所と、最寄りのわかりやすい場所を記して、由香にこのメールを送った。ほどなくして、
ーそうだったのですか……、それほど私のことを……。あの時以来私は、はっちゃんのことが、どこか心の片隅で気になってて……。レイナさんにはお伝えします。私の作品は、「あの時、私のことを気にしてくれてたはっちゃんのために」、というのが、原点のひとつとなっております。詳しいお話は、明日実際にお会いした時に行います。ところでレイナさん、翌日の11時前に、あなたの家にお伺いすることは出来るのでしょうか? 娘のカンナも一緒に連れていきますー
というメールが入ってきた。レイナはすぐに、
ーもちろん大丈夫です。由香さんが来てくれれば、アツシもきっと喜ぶと思いますー
由香にこのメールを送った。
(どうしよう……、アツシに由香さんが来ることを知らせようかしら……。いや、ここは明日のお楽しみにしましょう、“驚きの就職祝い”として。そうすれば、アツシも喜んでくれると思うわ)
レイナは、アツシに「由香が翌日自分の家を訪ねる」ことを言うのをやめた。“とびきりのプレゼント”として、彼に喜んでほしいと考えたからだ。そんなことを考えていると、
ーわかりました、レイナさん。その時間に家を訪ねます。それまではっちゃん、いえ、あなたにとってアツシでしたね。彼のことをお願いしますー
というメールが入ってきた。そのメールに目を通したレイナは、
「アツシ、そろそろ帰るわよ」
と、サッカーをしているアツシに呼びかけた。その声が聞こえたのか、彼は一緒に遊んでいる子供に、
「私も、そろそろ戻らなければいけないみたいだ……。すまないね、君たち」
こう伝えた。子供たちは、
「ありがとう、おじさん」
などと、口々にアツシにお礼を言った。彼も子供たちに、
「ありがとう」
頭を下げながらお礼を言った。その表情は、会話すらままならない時の自分とはまるで違う、どこか自信を感じさせるものであった。
それから、バスに乗って家路についた二人は、家に入ったあと、荷物を和室と台所に置いて、テーブルのイスに座った。しばらくしてレイナが時計に目をやると、
「あら、もう3時を回ってたのね。あっという間に時間がすぎていくわね」
などと言ったあと、
「アツシ、デパートで買った服、着てみて」
と言いながら、和室へと向かった。すぐにアツシも後を追った。それから彼女は、和室にあった袋のひとつを彼に手渡した。彼はそれを受け取ると、中身を取り出し、その服に着替えた。彼を見つめていた彼女は、
「本当に似合うわ、アツシ。それだったら、どこに行っても大丈夫よ♪」
笑顔でこう言った。彼も納得したかのようにうなずいた。それから、もとの服に着替えなおして、買った服を袋の中に戻した。
「台所にある残りの食材、冷蔵庫に入れといて、アツシ。和室に置いたものは、アタシが片づけるから」
レイナはアツシにこう伝えたあと、和室に置いていた袋の中身を全部タンスなどにしまった。買ってきた彼の使う物は、とりあえず収納ボックスのひとつを空にして、その中にまとめて入れた。しばらくして、買ったものをすべて片づけた彼女は、台所に彼がいないことに気づき、
「アツシ、どこ行ったの?」
と言いながら、台所に向かった。
「きれいに片付いてるのね。じゃ、トイレに行ってるみたいね、アツシは」
台所の様子を見た彼女は、ほっとした感じで和室に戻った。そして、彼が戻るのを待った。ほどなくして、彼が和室に戻ってきた。
「晩飯はどうするの? アツシ」
レイナはアツシにこう問いかけた。すると彼は、軽くお腹を押さえながら、
「……今日はいらないよ……。軽いものがあれば十分だ」
と答えた。彼女は、彼の様子に疑問を抱きながらも、
「……そう、わかったわ。おにぎりと野菜炒めを作るからそれでいい?」
と聞くと、彼はうなずいた。彼女が、
「わかったわ。それじゃ、時間が来るまでお話しましょう」
こう言ったのを合図に、二人の話が始まった。
しばらく会話が弾んでいた二人であったが、レイナが時間を確認すると、
「アツシ、アタシはそろそろ仕事の準備を始めるけど、いい?」
アツシにこう聞いた。彼は、
「わかったよ、レイナちゃん」
と答えた。それを聞いた彼女は、
「ありがとう」
一言答えたあと、衣装部屋に向かった。その様子を見たあと、彼は胸を軽く押さえながら、そこに視線を向けた。レイナには見せなかった、不安な表情をしながら……。それから30分近くがたった時、
「アツシ、晩飯作るわよ」
という声がした。彼は、
「わかった」
一言だけ彼女に伝えたあと、テレビの電源をつけた。それから10分あまりたち、彼女は、
「晩飯出来たわよ。台所に置いておくから、食べたい時に食べて」
夕食が出来たことを彼に知らせた。そして、
「今日はちょっと、早めに出かけないといけないから……。ごめんね、アツシ」
と言いながら、衣装部屋に向かい、バッグやスマホを取りにいった。それから、和室に入り、
「行ってくるわね、アツシ」
軽く彼を抱いて、笑顔でこう言った。すると彼が、何かに気づいたのか、
「レイナちゃん、昨日と同じ服装だね……」
こんなことを言った。彼女は、
「ええ、そうよ。ブランドもののドレスは、別の人に見せてあげたいから」
なにやら意味深とも取れる発言をした。彼は、
「レイナちゃん、そのドレスは誰に見せるの……?」
こう問いかけた。すると彼女は、笑みを浮かべながら、
「それは秘密よ」
と答えた。そして、
「もう時間だから、仕事に行くわよ。鍵は閉めておくから」
と言いながら家を出た。
「これでよし、っと」
いつもの定食屋で夕食を食べてから買い物をしたあと、早めに店に入ったレイナは、開店の準備をしていた。
「今日は、『スペシャルルーム』に例のエリートが来る、っていうし……。アタシを指名してくれるのはうれしいけどね、あの人にはお似合いの女の子がいるわ。アタシが考える限りは……。今日は3連休の初日だから、店長は早めに店を開けるっていうし、ここはがんばらないと」
こんなことを言いながら、準備を進めていた。ちなみに、この店における『スペシャルルーム』とは、料金が割高になる代わりに、1時間指名した女の子と個室で二人きりになれるサービスのことであり、店に小さい個室がいくつか置いてある。ほどなくして、
「レイナさん、こんにちは」
「よろしくお願いします」
次々と女の子が入ってきて、レイナの手伝いを行った。それから10分近くたったあと、
「こんにちは……、レイナさん」
なにやらおどおどしている感じの女の子が来た。
「あら、どうしたの? つぐみちゃん」
レイナは、つぐみという女の子に心配そうに問いかけた。すると、
「レイナさん……、私、あの、エリートの人のことが、どうしても気になって……。だけど、話す機会が……」
つぐみはこんなことを口にした。その話を聞いたレイナは、
「わかったわ、アタシがその人に会わせてあげる。大丈夫よ、アタシがフォローするから。何か伝えたいことがあったら、今アタシに伝えて」
笑顔でこう言った。さらに、
「そういえばアンタ、大学に通ってるわよね?」
つぐみにこう聞いた。彼女は、
「……はい。だけど生活が苦しくて……。とにかくお金が必要だったから、ここで働いて、少しでも足しになればと……」
と答えたあと、
「私、レイナさんが、エリートの方と話をしてる時に、話を近くで聞いてたんです……。『どうすればレイナさんのように話せるのか』って……。その時、『この人となら話が合うかも』と思いましたが、これまで、誰にも、伝えることが出来なかったんです……」
こんなことを語った。するとレイナは、
「アタシに任せて。エリートの役人が来た時にね、『スペシャルルーム』に一緒に行けるようにするから」
自信たっぷりにこう言った。直後に店長が店に来て、
「今日もよろしく頼むね。いつもより多くお客さんが来るだろうけど、いつものようにお客さんを楽しませてあげてね」
こう言ったあと、店長室に入っていった。それからすぐに客が入ってきた。その中には、件のエリート官僚の姿もあった。レイナの姿を目にしたエリート官僚は、
「あれ? レイナちゃん、今日なんで以前君にやった、ブランドもののドレス着てくれなかったの!? そんな似合わないものを着てからさ」
怪訝そうな表情を浮かべながら、問い詰めるように言った。それに対してレイナは、
「アンタのプレゼントはうれしかったわ。だけどね、あれはアタシにとって大切な人に着てあげるべきだと思ったの。申し訳ないけどね」
と言ったあと、
「ちょっと『スペシャルルーム』で待っててね。アンタにふさわしいものを用意してあげるから」
彼と一緒に、『スペシャルルーム』の一室に向かった。彼が中に入るのを確認し、一旦つぐみのいるところに戻ったあと、
「つぐみちゃん、アタシと一緒に、そのお酒を役人の所に持っていってあげて。彼にふさわしいお酒だから」
こう言いながら、彼女と一緒に、高級な酒を彼のもとに運んだ。そして部屋に入り、
「これはアタシからの“お返し”よ、エリートさん。それともうひとつ、アンタにふさわしい方を紹介してあげるわ」
コップに酒をついだあと、つぐみの方に顔を向けて、
「彼女はね、つぐみちゃんという女の子で、どうしてもアンタとお話がしたかったの。一度話をしてあげて」
と言った。すると彼は、込み上げる怒りを抑えながら、
「……レイナちゃん、キャリア官僚をなめてもらわないでほしい。私は君と話がしたいんだ。そんな女と話など……」
と話をしていたところ、つぐみが二人の間に割って入るように、
「あの……、あなたのお話に、大変興味があります。ぜひ私に聞かせてください」
こう言った。彼は少したじろぎながら、
「……私はレイナちゃんと話しがしたいんだ」
と言ったが、つぐみは構わず、
「……あなたは、知識は十分持ってると思います。キャリア官僚になるくらいですから……。あなたの政治経済の話を聞いて、議論をしたいと思いました。私も、高校時代から猛勉強して、そういう知識をつけたから、色々と聞きたいことがあります」
こんな話をした。その話を聞いた彼は、
「……しかし、こんなキャバクラに、政治経済を勉強してる人間がいるとはね……」
少しあきれぎみに言った。その言葉にレイナはムッとした表情を見せたが、つぐみは、
「……そんなことを言わないで。私が話をたっぷり聞いてあげるから。あなたは本当は、そういった話をしたかったんでしょう? その話を分かってくれる人がいてほしいんでしょう? それだったら、私が聞いてあげます」
こう切り返した。その言葉にキャリア官僚も、
「……全く、あきれる女がいるものだな……」
と言ったあと、
「レイナちゃん、今日はこの女に代わるが、それでいいのか?」
レイナに問いかけた。すると彼女は、
「ええ、喜んで。つぐみちゃんと一緒に楽しんでね、エリートちゃん♪」
そう言いながらタイマーを置いて、個室を後にした。一方、残った二人は、しばしレイナを見守ったあと、
「それじゃ、一緒にお話しましょう」
というつぐみの言葉を皮切りに、おそらく、普通キャバクラでは弾まないであろう、深いレベルの政治経済の話題で花を咲かせていた。しばらくして、レイナが早くに個室を出ていったことに気づいた店長は、
「あれ? レイナちゃん、『スペシャルルーム』のお客さんはもう帰ったの……!?」
不思議そうに問いかけた。その問いに対してレイナは、
「いえ、まだ中にいます」
笑みを浮かべながら答えた。さらに、
「店長、もし気になるのでしたら、3番ルームの様子を見てあげてください。アタシ以上に話が弾んでると思います」
こんなことを伝えた。店長は、
「……そうか。君がそこまで言うのなら、ちょっと様子を伺おう」
と言いながら、つぐみたちがいる3番ルームのドアに近づいて耳を立てると、なにやら難しい話が聴こえたようで、
「レイナちゃんが言った通りだな。どうやら、国際情勢の話で盛り上がってるみたいだ。しかし、引っ込み思案のはずのつぐみちゃんが、あのエリート官僚とここまで話が合うとは……」
感心しながら聴いていた。それからレイナのもとに来たあと、
「レイナちゃん、君の言った通りだ。これからあの客が来た時には、つぐみちゃんについてもらおう」
こう話した。これには彼女も、
「ええ、アタシも手こずりましたからね、あの人には……」
納得の表情を浮かべていた。しばらくして、時間がたったのか、二人が3番ルームから出てきた。そしてキャリア官僚がレイナに、
「レイナちゃん、『スペシャルルーム』の延長は出来るのか? このつぐみという女の子が気にいってな。おかげでいい議論が出来たが、時間が足らないくらいだよ」
こう問いかけた。彼女は、
「……残念だけど、今日は延長出来ないわ。フリーなら構わないけど。それに、いつでも議論出来るでしょう? アドレス交換してるでしょうし。それとアンタたちだったら、結婚もあるけどね」
最後は冗談も交えながら答えた。その言葉に、彼は思わず黙り込んでしまった。一方のつぐみは、
「レイナさん、ありがとうございます。おかげで、私進むべき道が見えてきました。彼、臨二さんと一緒に政治家を目指そうと考えてます」
力強く答えた。そんなつぐみの言葉を耳にした彼は、彼女を見つめながら、
「面白いね、つぐみは……。君とはこれからも一緒に議論をしたい。そしていずれは、私の妻になってほしい」
こんなことを口にした。するとつぐみは、
「ありがとう、臨二さん」
人目もはばからず、うれし涙を流しながら、臨二を抱き締めた。その時、レイナが拍手したのを皮切りに、一斉に拍手の音が鳴り響いた。その様子をじっと見ていた店長は、
「いや、本当にレイナちゃんはすごいよな……。彼女がこの店に入ってから、どれだけのカップルを成立させたのか、もう数え切れないほどになってるね……。『この店で働きたい』という女の子がたくさん来るのもわかるな。実にうれしい悲鳴だ。出来れば、長く働いてくれる人に来てほしいけど」
感心するように、こんなことをつぶやいた。そして一旦スタッフルームに退いた。しばらく拍手が続いたあと、客の一人が、
「ぜひ二人揃って大臣を目指してくれ」
と言った。別の客も、
「あの人に、ふさわしい女の子がこの店にいたなんてね……」
感心しきりであった。さらにレイナに対して、
「レイナちゃん、女の子をゲット出来る秘訣を教えてくれる? どうしても、女の子と付き合いたいんだ」
ということを聞く客まで現れた。そんなこんなで、臨二が店を出るまで、店内は盛り上がりを見せていた。彼が店を出たあと、レイナは、
「つぐみちゃん、あのエリートちゃん、アンタに任せるわ」
つぐみの右肩を軽く叩きながら、こう言った。彼女は、
「もちろん、喜んで♪」
満面の笑みを浮かべながら答えた。そんな彼女の様子を見たレイナは、
「……つぐみちゃん、アンタなら、あの人をもっと活躍させることが出来るわ」
つぐみにこう伝えた。彼女は、笑顔でただ一度うなずいた。
それから時間が過ぎ、つぐみと臨二のことで、いつも以上に盛り上がっていた店も、閉店の時間を迎えた。片付けてをしていたレイナは、店長に対して、
「店長、アタシね、つぐみちゃんが例のエリートちゃんとあそこまで相性が合ってるのを見て、ひとつ思ったことがあります」
こんなことを話した。店長が彼女の方を向いた時、
「アタシも手こずってたあのエリートちゃんにも、つぐみちゃんという彼にふさわしい人がいるように、アタシにとってはね、アツシがその人だと思ったわけです。年の差は離れてますけど……。ですから……」
と話したものの、なぜか途中でやめてしまった。彼は、
「どうしたんだい? レイナちゃん」
首をかしげながら問いかけた。彼女は、
「いえ、こちらの話です、店長」
と答えたあと、
「つぐみちゃんは、きっとうまくいくと思います。あれだけ二人が生き生きとした表情を見せたのは、アタシもなかなか見たことがないですから……」
こう語った。これには店長も納得の表情を見せた。その時、
「レイナさん、臨二さんから『これをレイナちゃんに渡してくれ』って」
つぐみが何かを持って、レイナのもとに駆け寄った。そして彼女にある物を手渡した。
「何これ……? アタシに手紙……!?」
レイナは首をかしげながら、中身を開けた。すると、
ーレイナちゃん、つぐみちゃんを紹介してくれて、本当に感謝する。私も、彼女の思いに引っ張られるかたちで、政治家の道を目指すことにしたよ。彼女は私にとって、大切なパートナーとなるべき人だ。議論のやりがいがあるし、レイナちゃんがかすむくらいに輝いてるよ。それで、いずれ私と彼女が結婚する時に、レイナちゃんには仲人をやってほしいー
こんな内容が書かれている手紙が入っていた。レイナは、その手紙を読むと、
「言ってくれるわね、『アタシがかすむ』って……。それに『仲人を頼む』って、まだ早いのにね……」
と言いながらも、笑みを見せていた。そして、
「つぐみちゃん、まだ早いけどね、アタシが仲人を引き受けるわ。そして、アタシたちの未来を託せる政治家を目指して」
つぐみにこう伝えた。彼女は、
「わかりました、レイナさん。ありがとうございます」
力強くこう言った。そして片付けを再開した。
「本当に人はここまで変わるものだな……。つぐみちゃんにとって、例のエリート官僚は、“最高のお相手”だったわけか」
店長がこう話すと、レイナも、
「ええ、アタシも驚きました。つぐみちゃんがあそこまで変わるなんて……」
うなずきながらこう言った。店長は、
「君が言う通り、君にとってはアツシがその相手じゃないかな……? 君がアツシを“助けた”ように、君もアツシに“助けられた”ことがあるよね。志織ちゃんから話は聞いてるよ。『アツシが、“ある恐怖”から君の心を解放した』という感じの、ね」
こんなことを話した。すると彼女は、
「志織ちゃん……」
と言いながらも、
「ええ。実はアタシがここに来た時、顔は今と違って不細工だったのです。志織ちゃんの勧めもあって、整形することにしました。そうすると、これまでと違い、自分が変わることが出来ました。ですがまだ、『整形をしたことを知られたくない』という“恐怖”がね、心の奥底にこびりついてたのです。それを取り払ってくれたのが、アツシです。今は整形のことなんて、もうどうでもよくなりました。彼はね、本当に優しい人なのです。今日一緒に買い物をした時、公園で休憩をしてる最中、子供たちと楽しそうに遊んでました。それも、子供たちの方から彼を誘ってね……。子供たちはわかってると思います。“彼の優しさ”を」
笑みを浮かべながら話した。彼は少し驚いた感じの表情で、
「へぇ、君が整形してたなんて初耳だね……」
と言った。そして、
「しかし、アツシという人は、本当に子供たちに好かれるんだね……。もっと早く、その“才能”に気づいてあげてくれる人がいれば、彼だけじゃなく、彼が携わったであろう子供たちも……」
少し残念そうに話した。その言葉に対し彼女は、
「でも、アタシたちが気づいてあげられただけでも、アツシにとっては“救い”になってると思います。アタシがね、彼と同じような“匂い”をしてた、いえ、店長が言ってた“最高のお相手”だったからこそ、アタシも気づけたのだと、今は考えてます」
フォローする形でこう言った。彼も、
「それは言えるのかも知れないね」
うなずきながら答えた。それから、
「それと、君には『人を結びつける』という才能があるね。これまでに、君がいくつものカップルを我がキャバクラで誕生させたことは、SNSでも話題にのぼってるよ。だから君のその才能で、『縁結びのキャバクラ』にしてみてはどうかね?」
レイナにこんな提案を持ちかけた。すると彼女も、
「店長、面白い案ですね。近々開く予定の『キャバクラ会議』でも、ぜひその案を出してみたいです」
その案に乗り気になった。
それからしばらくたって、片付けも終わり、送りの車に乗ったレイナとつぐみは、しばし話をしていた。その最中、
「よかったわね、つぐみちゃん。お互いにふさわしいパートナーが見つかって。それでこれはね、アタシからのプレゼントよ」
レイナはつぐみに、封筒を手渡した。
「レイナさん、本当にいいの!?」
つぐみは、驚いた表情を浮かべながら、封筒を手にした。そして中身をのぞくと、
「……レイナさん、本当にいいの!? これほどのお金……。相当入ってますよ、100万くらいは……」
そう言ったきり、言葉を失った。するとレイナは、
「アタシのことは心配しなくてもいいわ。それはね、アンタたちへの“お祝い”だから。アンタたちの今後のために使って。それにアタシはね、もう相当お金やお客さんからのプレゼントがたまってるから。よかったら、今持ってるプレゼント、少しおすそ分けしてあげるわ」
こんなことを口にした。その時、車は最近レイナが降りる場所に止まった。
「それじゃまた夜ね、つぐみちゃん。エリートちゃんのこと、任せるわ」
レイナはそう言って、車を降りた。そしてもらった花束のひとつを、つぐみに渡した。
「レイナさん、ありがとうございます」
彼女はお礼を言った。それから、つぐみが乗っている車は、その場を後にした。その様子を見届けたレイナは、すぐに家に帰った。しかし、そんな彼女を、思わぬ事態が待ち受けていた……。
「アツシ、どうしたの!? アツシ……」
家に戻ったレイナは、洗面所で倒れていたアツシを目の当たりにして、思わず声をあげた。そして彼のもとに駆け寄り、
「アツシ、今から救急車呼ぶから……」
と言ったところで、彼は、
「……レイナちゃん……、病院は……」
そう言いながら、彼女の手をつかんだ。彼女は、
「アツシ、周りに血が飛び散ってるでしょう? しかも蛇口出しっぱなしだし……。いっぱい血を吐いたんでしょう!? ここで。ねえ、早く病院に行こう」
彼にこう伝えた。ところが彼は、
「……私は、病院には……、行かないよ……」
レイナの手を離さず、彼女の言うことを拒んだ。彼女は、
「お願い、病院に行って! あなたには、これからも一緒にいてほしいの。だから、病院行って!」
彼に必死に頼み込んだ。それでも彼は、
「……レイナちゃん、本当に、ありがとう……。だけど……、もういいんだ。私の命は、もう長くはないだろうから……。以前病院から『持って1年あまり』と……」
レイナに感謝しつつも、彼女の手を握り続けることで、病院に行くことはやんわりと拒んだ。その言葉を耳にした彼女は、
「どうしてそれを言わなかったの……!?」
怒り気味に言ってはみたものの、彼の様子を見た彼女は、諦めるかのように、
「……わかったわ、アツシ……」
うつむきながら、小さな声で言った。そして、
「……アツシ、あなたに見せたい物があるの。それともうひとつ、あなたと一緒にやりたいことがあるわ」
何かを決断したかのように、こう話した。その言葉を耳にした彼は、
「レイナちゃん……、私に……?」
ゆっくりと起き上がりながら、こう言った。彼女は、
「アツシ、無理しないで。部屋に行って休んで。飲み物を持っていくから。それと、きれいにしてて」
そう言いながら、タオルでアツシの顔や手、洗面台などを拭いた。そして蛇口を止めて、タオルをごみ箱に捨てたあと、彼と一緒に和室に向かった。そこで彼を寝かせ、飲み物をついで彼のもとに置いてから、衣装部屋に向かった。
(あのエリートちゃんからもらった、“由香さんのブランド”のドレス、アツシにこそ見てほしいわ。それとアツシには、“彼が生きた証”を残してあげたいわ)
レイナは、何度もお腹をさすりながら、着替えを行った。そして着替えが終わったあと、すぐに和室に向かった。
「お待たせ、アツシ」
ふすまを開けながら、和室に入った。アツシは眠っていた。
「アツシ、アタシがそばについてあげる」
彼女はそう言いながら、布団の中に入った。それから何度も彼の頭をさすりながらも、いつの間にか眠りについていた。
「アツシ、起きて。アツシ、早く……」
朝、レイナが目を覚まして、アツシを起こした。その声で目が覚めた彼は、彼女の姿を目にして、
「……レイナちゃん……、きれいだよ……。それに、私が好きな、青と黄色の……。素敵だね……」
こんなことを口にした。彼女は笑顔で、
「ありがとう、アツシ」
とお礼を言った。それから、
「このドレスね、由香さんのブランド『ユカ・ラヴァーズ』が出したものなの。お客さんからもらったものなんだけど、あなたに見てほしいから、昨日まで着なかったの」
こう言いながら、彼の手を握った。さらに、
「ねえアツシ、アタシね、“あなたが生きた証”を残してあげたいの。だからお願い」
彼に頼み込むように言った。彼は驚いた表情で、
「それって、まさか、こんな私と……?」
こう問いかけた。すると彼女は、
「ええ、そうよ」
笑顔で答えた。彼は、
「レイナちゃん……、気持ちは本当にありがたいけど、私よりも、レイナちゃんと同じくらいの年齢の、若い人がいいと思うよ……」
と言いながら、頼みを断ろうとした。ところが彼女は、
「いえ、アタシはアツシがいいわ」
首を横に振りながら言った。彼は、
「私は、もう長くはない。それに、君のような人なら、私よりふさわしい、相手がいるだろう……。だから……」
なおも断ろうとしたが、
「ダメ!」
彼女は語気を強めて、がんとして彼の話を拒んだ。彼が病院に行くのを拒んだのを、そっくりそのまま返すように……。そして、
「アタシはね、アツシ、あなたの子供が産みたいの。すでに“ひとり親”になる覚悟は出来てるわ。だからお願い、アツシ。アタシと一緒に子供を、作って……」
そう話したあと、彼を抱き締めた。
「レイナちゃん……、そこまで、私の、ことを……」
彼は、目に涙を浮かべながら、ゆっくりと言った。彼女は時計を横目でちらりと見つめながら、
「早く始めましょう、アツシ。もうすぐ9時になるから」
彼にこう促した。彼も覚悟を決めたかのように、
「わかったよ……、レイナちゃん……。君に“バトンを渡す”よ」
力を振り絞るように言った。
それからほどなくして、二人の愛を確かめる“儀式”が始まった。アツシは、自分が果たせなかった“想い”を託すように、レイナにバトンを渡し、彼女はそんな彼の“想い“に応えるべく、バトンを受け取った。しばらくの間、二人は“想い”をつなぐように、一緒に仕事を行った。そこには、年の差など関係ない、二人の愛があふれていた……
「アツシ、ありがとう……。アタシね、必ず産まれてくる子を、幸せにしてあげるから……」
レイナは部屋を片付けたあと、アツシを抱き締めて、お礼を述べた。彼も、
「レイナちゃん……、私も、君との子供を残せて、本当にうれしいよ……。こんな私に、ここまでしてくれるなんて……」
涙を流しながら彼女に感謝した。そして、
「レイナちゃん、横になって、いいかな……?」
と聞いた。彼女は、
「わかったわ、アツシ」
と答えたあと、急いで新しい布団に替えて、彼を寝かせた。そして、
「何か食べる?」
彼の耳元でこう問いかけた。彼は、
「おにぎり、作ってくれるかな……。味噌汁をつけてね……。レイナちゃんの、おにぎり、本当にうまいから」
と答えた。彼女は、
「ええ」
笑顔でそう言いながら、台所へ向かった。それから20分ほど経過して、再び和室に戻り、
「アツシ、出来たわよ」
そう言いながら、おにぎりと味噌汁をテーブルの上に置いた。彼はゆっくり起き上がり、おにぎりを一口つまんだ。
「……うまいよ、レイナちゃん……」
彼はその一口を、ゆっくりかみしめながら、時間をかけて食べた。まるで、人生最後の日に食べる食事みたいに……。その一口を食べて、味噌汁を一口すすったあと、
「……レイナちゃん、ありがとう……」
そう言って、食事を終えた。そして、
「……レイナちゃん……、託児所で働く話……、本当に、申し訳ない、けど……、なかったことに、してほしい……。そして、私の分を、まだ、先のある、他の人に……、譲ってほしい……」
彼女にこう頼み込んだ。彼の頼みを聞いた彼女は、
「……アツシ、わかったわ……。すぐに、店長に、電話をかけるから……」
と言いながら、スマホを取りにいった。すでに彼女の目からは、涙があふれていた。彼女は涙を拭いたあと、店長に電話を入れた。
「もしもし、ああ、レイナちゃん。朝からどうしたんだ?」
店長がこう問いかけた。レイナは、
「店長、急なお話で、申し訳ないですけど、アツシが託児所で働く件、アツシ本人から、『他の人に……、譲って、ほしい』と、辞退を……。彼はもう……、長くは……」
店長にアツシが仕事を辞退する件を伝えたが、最後の方は言葉にならなかった。そんな彼女の気持ちを察した店長は、
「ああ、わかった。レイナちゃん、今日はキャバクラを休んで、アツシ君の側についてやってくれ。それから、彼のような人を必ず探して雇うから、そこは心配しなくてもいいよ。あと、彼には『もし元気になれば、私に伝えてほしい。いつでも受け入れる』と」
こう話した。レイナは、
「ありがとう、ございます、店長……。志織ちゃんや、他の女の子たちにも、心配をかけないように、お願い、します……」
時折涙声になりながら、店長に伝えた。彼は、
「ああ、心配しなくていいよ。気持ちの整理がつくまで、アツシ君と一緒にいてあげてくれ。自分が『店に戻りたい』と思った時に連絡してくれれば、それでいいよ」
と答えた。彼女は、店長にお礼を述べたあと、電話を切った。彼女の顔からは、涙があふれていた。側にあったタオルで顔を拭いたあと、アツシのもとに向かった。そして、
「アツシ……、店長に知らせたわ。店長は、『いつでもあなたを受け入れる』と言ってくれたわよ……」
彼にこう伝えた。彼は、
「……ありがとう、レイナちゃん……」
少し体を起こしながら、お礼を言った。それからすぐに横になった。レイナは、そんな彼の側について、頭をずっとなで続けた。しばらく続けたあと、ちらっと時計に目をやると、
「もうそろそろね、ここに来るのは……」
こうつぶやいた。時刻は11時を回っていた。それから彼に、
「アツシ、ちょっとトイレに行ってもいい?」
と問いかけた。彼がうなずくと、すぐにトイレに向かった。それから、洗面所に入り、急いでメイクをしなおした。メイクが終わったその時、彼女のスマホの着信音が鳴り響いた。すぐにスマホを確認すると、
-レイナさん、もうすぐあなたの家に着きます。娘のカンナも一緒です。アツシには、私からお渡ししたいものがあります-
こんな内容のメールが届いていた。レイナはすぐに家を出て、辺りを見渡した。そして二人組を発見して、
「由香さん、こっちです。レイナです」
こう呼びかけた。その声を耳にした二人は、レイナの方を向いた。
「由香さん、早く入りましょう」
レイナは、二人のもとに駆け寄りながらこう言った。そして、二人を自分の家の玄関に案内した。
「ここがアタシの家です」
そう言いながら、彼女は先に家に入り、
「どうぞ、お上がり下さい」
と、二人に入るように言った。
「おじゃまします、レイナさん」
まずは由香が入り、続いて、
「おじゃまします」
カンナも上がった。それを確認したレイナは、ドアを閉めてから、
「由香さん、アツシのためにここに訪れてくれて、ありがとうございます」
由香にお礼を述べた。彼女は、
「レイナさん、はっちゃんに会う前に、一つ伝えたいことがあります」
と言いながら、レイナに手紙らしきものを複数差し出した。彼女はそれを受けとり、目を通した。その中の一通を見た瞬間、思わず言葉を失った。そして、
「由香さん……、『はっちゃんのバカ。なぜ私を無視するようなひどいことを続けるの!?』って、これどういうことですか……??」
考え込みながら、こんなことを聞いた。由香は、
「ええ、はっちゃんと別れた時からも、彼には手紙を出し続けました。しかし、彼からは返事が来なかったのです。1年近くたった時、あまりにも彼から返事が無いので不安になって、その手紙を出したのです……。ですが、その時初めて『住所不明』で手紙が戻ってきたのです。手紙をどうしようか悩んだまま、いつの間にか時間だけが過ぎて……。彼は私に不信感を抱いてるのではないかと……。もし彼にお会い出来たら、謝ろうと……。夫が許してくれるのなら、彼を何らかの形で引き取るつもりでおります」
こう答えた。その話を聞いたレイナは、
「わかりました。彼のもとに行きましょう」
二人にこう呼びかけた。そして、
「あの、由香さん、一つ残念なお話があります」
と言った。由香は、
「『残念なお話』というのは……」
レイナに問いかけた。彼女は、
「彼、アツシは……、もう、長くはないのです……。アタシがキャバクラの仕事で帰った時に、彼が倒れてたので、病院に行くように言ったのですが、彼は聞かず、『自分は、以前行った病院で持って、余命1年と言われた』と、言って、ました……」
時折声を詰まらせ、目に涙を浮かべながら答えた。その話を聞いた由香は、
「……私が、説得しに行くわ……。はっちゃんは、私にとって恩人だから……。それに、自分のことは忘れても、私のことは覚えていてくれたから。私は、それがうれしかったの。だから、今度は私が彼を助ける番なの」
こう話したあと、
「レイナさん、彼がいる部屋はどこ?」
と聞いた。レイナは、
「ここにいます。由香さんが来てくれれば、彼も喜ぶでしょう」
そう言いながら、ふすまを開けた。そして3人は中に入った。
「アツシ、由香さんが来てくれたわよ」
レイナがアツシの側に来て、こう言った。彼は家に来た二人の様子を見た瞬間、なぜか顔を横にそらした。
「……わざわざ、お母さんが会いに来てくれたのに……、どうしてそういうことをするの……!?」
カンナが怒り気味にアツシに言った。レイナは、
「ちょっと、落ち着いて……」
そう言ってカンナをなだめようとした。すると彼女は、
「だってこの人、お母さんに対して失礼なことをしてるのよ。お母さんが“恩人”だって言ってるのに……」
こう話した。それから続きを話そうとした時、
「はっちゃん、あなたに話したいことがあるわ」
由香がアツシのもとに寄って、彼の横に座った。そして、
「ごめんね、はっちゃん。あの時、もう少しあなたのことを気にかけていれば……」
と言ったあと、
「はっちゃん、この手紙見て。あの時の、あなたに対する気持ちをつづってるわ」
アツシに持ってきた手紙の一部を渡した。彼は何も言わず、しぶしぶといった感じで手紙を受けとると、横になりながら手紙を読んだ。由香は、改めてレイナを見つめて、
「……レイナさん、そのドレスは、まさか……?」
こう問いかけた。レイナは、
「ええ、このドレスは、『ユカ・ラヴァーズ』のブランドのです。アタシのキャバクラに来るお客さんからもらったものです」
と答えた。そして、
「アタシも、はじめは店で着ていこうと思ったのですが、アツシがアタシを“助けてくれた”のを機に、『彼のために(・・・・・)』このドレスを着ることにしたのです。彼は心優しい人です。とくに子供たちには、そのことがわかってるようです」
こんなことを話した。その話を聞いた由香は、涙が止まらなかった。カンナが、
「お母さん、どうしたの……?」
心配そうに問いかけた。由香は、
「カンナ、その人はね、私の進む道を決めてくれたの。それに、自分の名前を忘れても、私のことを気にしてくれるほど、心優しい気持ちは忘れてなかったから……。だから、その人の今の姿を見ると……」
うつむきながら、こう答えた。それからアツシの側によって、
「はっちゃん、私の家に来て。あなたを助けたいの」
彼にこう伝えた。さらに、
「あなたにはこれからも生きてほしいの。そして、私のためにモデルとして協力して……。夫には私が言っておくから」
こんなことを話した。カンナは、
「……ええ!? “モデル”って、お母さん……」
驚きの表情を見せた。由香は、
「そうよ。シニア世代の服のデザインの、ね……。私の服のデザインの“コンセプト”は、『愛する者への“想い”』よ。そしてデザイナーなったきっかけが、はっちゃんなの。高校時代に彼が後押ししてくれたの。だから今度は、私が彼の“想い”を果たす番なの」
淡々と話した。その話を耳にしたアツシは、少し体を起き上がらせ、
「由香……、ありがとう……。私の名前まで覚えて、いてくれて、さらに、レイナちゃんみたいに、私のために、考えてくれたのに……。それなのに、私は、君のことが、信じられなくなった、なんて……、恥ずかしいよ……」
声を詰まらせ、息を切らせながら、こう話した。そして、
「……残念だけど、もう、私の……、体は……。……だから、私の、“想い”は……、レイナちゃんに……託した、んだ……。本当に、すまない……、由香……」
そう言って、横になった。すぐにレイナが、二人の前でお腹をさすり、
「アツシはね、アタシに、自分の“想い”を託したの。そして、アタシは彼に、“生きてきた証”を残してあげたかったの。だからアタシは、彼の子供を産む決心をしたわ。由香さん、彼のためにいろいろと考えてくれてありがとう」
アツシの代わりにお礼を述べた。そして、彼の側に寄って、
「アツシ、あなたはね、決して“役立たずの人間”なんかじゃないわ。アタシや由香さんにとっては“恩人”であり、“最高のお相手”だったの。だから、この世界が『ひどい世界ではない』ことを、あなたの子供にも伝えてあげるわ」
彼の頭をなでながら、こう伝えた。彼は何も言わず、ただ一度うなずいたが、その動きには力が感じられなかった。カンナが、
「ねえ、どうして病院に連れて行かないの……!?」
二人に問いかけたが、二人は何回も首を横に振った。二人が涙を流し続ける表情を見たカンナは、しばらく何も言わなかった。それから、見るからに“急激に容態が悪化した”と見えるアツシを目にしたカンナは、
「お医者さんを呼ぼう」
と言った。その言葉にレイナも、
「わかったわ」
そう言いながら、スマホを取りにいこうとした。その時由香が、
「私が電話をかけるわ」
レイナの肩を軽く叩いて言ったあと、すぐに電話をかけた。そして、
「レイナさん、医者を呼びました。あとは来るまで彼のことを話しましょう」
こう呼びかけた。レイナも、
「ええ」
と答えた。それからしばらくの間、場所をリビングに移し、アツシのことで話を続けた。そして1時間近くがたった時、ドアホンが鳴り、レイナが、
「どなたですか?」
と言いながらドアを開けると、
「私は医師の三次です」
と言いながら、レイナに名刺を手渡した。すると由香が玄関に来て、
「先生、私の恩人の“最期”を看てあげて下さい……」
と言った。すると三次は、
「……片上君、ここに君が来てるとは……」
由香の名字とおぼしき名前を呼びながら驚いた。由香は、
「みっちゃん、中に入って」
そう言ったあと、彼を中に入れた。彼が中に入ったのを確認して、レイナはドアを閉めた。それから由香に代わって、
「ここに患者さんがいます。お願いします」
と言いながら、ふすまを開けた。すぐに4人は和室に入った。
「先生、アツシの様子はどうでしょうか……?」
レイナは三次にこう問いかけた。すると彼は、
「アツシ? この人のことかね?」
首をかしげながらこう言った。それから、
「彼は、牟田君といって、私や片上君と高校時代の同級生だった。しかし、彼が退学することになってからは、一向に連絡が取れなかったから、片上君もそのことを何年も気にしてたよ。それがこんな形で“再会”するなんて……」
こんなことを話したあと、アツシを触診して、
「……残念だけど、もう3時間くらいが峠だね……。ところで、なぜ早く彼を病院に連れて行かなかったんだ……!?」
こう結論づけたと同時に、少しきつい声で、レイナを問いただす感じで聞いてきた。彼女は、
「それは……」
話すのをためらう感じでいると、アツシが、
「……私が、病院に……、行くのを、断ったんだ……」
今ある力を振り絞る感じで答えた。三次は驚いた表情で、
「どういうことだね、牟田君……!?」
こう問いかけた。アツシは、
「……私は、2年近く前に、『持って1年程度』と……、別の、医者から、告げられたんだ……。それに……、私は、40年以上、働けないまま、今日、まで……」
と話したところで、突然口を押さえた。レイナが急いで近くにあったビニール袋を差し出すと、アツシはその袋の中に血を吐いた。その間、由香は彼の背中をさすり続けた。吐き気が収まったアツシは、
「だけど、そこにいる、レイナちゃんが……、そんな私の、ために……、私の働ける、場所まで、与えて……くれたんだ……。彼女は、本当に優しい、女性だ……」
レイナを指差しながら、懸命に話した。すると彼女は、
「いえ、むしろアタシより彼の方が優しいですよ。彼は子供たちに好かれる人ですし、アタシや由香さんを助けてくれたのですから……」
こんなことを口にした。その話を耳にした三次は、
「……そうか……、彼にそんな“才能”があったなんて……。彼が動物に好かれるところを、何回か見かけたことがあったが……」
考え込みながら、こう話した。由香は、
「……私が、早くその才能に気づいてあげられていれば……」
顔をうつむきながらつぶやいた。レイナは、
「由香さん、気にしなくてもいいと思います。アツシはあなたが活躍してくれるのを喜んでます。実は彼が先日、アタシと一緒に買い物をした時に、子供たちと楽しく遊んでいたのです。その帰りのバスの中で、『一緒に遊んでいた子供の一人が、『親が『ユカ・ラヴァーズ』の大ファンだ』ということを笑顔で話してた』ことを楽しそうにアタシに伝えてましたよ。彼にとっては、“あなたの活躍”があったから、“40年あまりの苦難”を味わってもここまで生きていけたんじゃないのでしょうか……? 自分の子供を残すことも出来るかも知れないですし……、いえ、きっと残せます」
由香をフォローするかのようにこう話した。レイナの話をじっと聞いていた由香は、
「……レイナさん……、ありがとう……」
一言お礼を言って、アツシの側に移った。そして彼の頭を何回もなでたあと、
「はっちゃん……、ごめんね……。あの時の私に、もう少し勇気があれば……」
涙ながらにこう言って、寝ている彼を抱いた。彼は、
「……いい、んだ、由香……。私は、最後に……、レイナちゃんっていう……、『最高の相手』に、恵まれた……。そして……、彼女は、私の子供まで……、残してくれるって……。だから……、もう、いいんだ……。あとは、レイナちゃんに……、託すから……」
残った力を振り絞るように言った。レイナもアツシの側に来て、
「……アツシ……、あとはアタシが、あなたの子供を、必ず幸せにするから……」
そう言いながら、彼の右手を持ち、自分のお腹をさするように動かした。彼は、
「……レイナちゃん……、本当に……、ありがとう……」
そう言い残すと、そのまま右手が下がり、動かなくなった。その瞬間、レイナと由香はその場で泣き崩れた。その様子を目の当たりにしたカンナは、うつむきながら別の場所を見ていた。悲しみをこらえるのに必死であった。一方三次は、しばらくの間準備を始めたあと、二人が落ち着くのを見計らって、アツシのもとに寄った。そして彼を触診して、
「……ご臨終ですね……。……彼は13時8分に、あの世へと旅立ちました」
周りにこう告げた。レイナは、
「……アツシ……、アタシがね……、あなたの子供を幸せにしてね、『あなたが生きてきてよかった』ことを証明してあげるから……」
こう言いながら、冷たくなったアツシを由香の代わりに抱き締めた。そして、
「ちょっと着替えてくるから、待ってて下さい。それとお茶やお菓子をお出しします」
と言いながら、まずは台所へ向かい、3人分のお茶とお菓子を、和室のテーブルに置いた。それから急いで衣装部屋に入り、着替えを始めた。着ていたドレスとストッキングを脱いだあと、ドレスをたたみ、派手なデザインのストッキングはビニール袋の中に入れた。そして、別のスーツとストッキングにはきかえてから、先程脱いだドレスとストッキングを持って、部屋を出た。
「お待たせしてすみません」
レイナはそう言って和室に戻った。そして、先程脱いだドレスとストッキングを、アツシのなきがらの上に乗せた。
「……ねえ、お母さんがデザインしたそのドレス、どうするつもりなの? レイナさん……」
カンナがこう問いかけた。レイナは、
「これはね、アツシに『この世界にもいい人がいた』ことを伝えるために、そして何よりも、“アタシと彼の愛の証”として、彼にあげることにしたの。アタシは無事に子供を産むことで、彼の想いをちゃんと受け止めるわ」
笑みを見せつつ、お腹をさすりながら答えた。そんなレイナの話にカンナは驚き、
「……どうしてそんなもったいないことをするの……!?」
と、レイナを問いただした。すると、由香がレイナの代わりに、
「……私には、レイナさんの気持ちが伝わってきたわ。彼女はそのドレスを、本当に愛する者のために着ていったのよ。だから、その人が亡くなった今、あなたにとっては、“いつまでもそのドレスを持ってても意味が無い”わけでしょう? レイナさん」
こう答えた。その答えにレイナも、
「ええ、その通りです。あのドレスは、『アツシがいてこそ輝く』ものですから……。だから、せめて『空の上で結婚式をあげてやりたい』という想いもこめて、彼と一緒に送ってあげることにしました」
納得しながら、こう言った。その時三次が、
「そろそろ彼を弔おうか……」
こう打診した。他の人たちもそれに応じ、アツシの葬式の準備を始めた。準備を終えたあと、三次は、
「それでは片上君、私はこれで戻るが、各種の証明書はレイナ君に渡せばいいのかね?」
と聞いた。由香は、
「ええ、それでお願いします」
と答えた。三次はレイナに連絡先を聞き、
「それではレイナ君、書類が完成時は連絡を入れるよ。もし何か気になることがあれば、電話を入れてほしい」
こう伝えた。そして、
「……牟田君、いや、レイナ君にとっては“アツシ”だったか、最後は幸せそうな表情を見せてたね……。君に会えてよかったよ、彼も。子供を残せるようだし、何より、本当に“相思相愛”といえる人に巡り会えたのだから……。年齢の差など関係なく、自分を愛してくれた人を……」
こんなことを話したあと、
「それでは、君たちの更なる活躍を応援するよ」
と言いながら、レイナの家を後にした。それからしばらくして、アツシの葬式が行われた。本当は正式な葬式を行うところではあったが、様々な事情で、簡素なものとなった。葬式が終わったあと、レイナは、
「由香さん、カンナちゃん、アタシの家に来てくれて、本当にありがとうございます。アツシも幸せに旅立つことが出来ました」
二人にお礼を言った。それに対し由香は、
「いいえ、レイナさんが彼のことを愛してくれたからこそ、彼は救われたのだと思います。あなたたちは、本当に結婚すべき二人だったと、そう思いました」
こんなことを口にした。レイナも、
「ええ。年齢的に近ければ、近いうちに結婚する考えはありました。ただ、アタシと彼は年齢がかなり離れてたので、少し考える時間が必要だと思いまして……」
こんな話をした。なぜか考え込んでいた由香は、
「……そうね。『年の差が離れている』というのは、結婚を考える上で大きな要素になってるわね。だけどあなたたちだったら、うまくいってたと思うわ」
と言ったあと、
「……レイナさん、あなたモデルをやってみない?」
レイナにこう問いかけた。すると彼女は、
「アタシが、ですか……!?」
驚きの表情で答えた。由香は、
「そうよ。あなたは『夜の女神』にふさわしい人だと思うの。そんな人が、『不幸にあふれていた男性と、本当の意味で相思相愛になった』って、私の考えるコンセプトにぴったりな状況よ。それに、夜の仕事をしている女性をモデルにした服をデザインしたいと考えてるわ。だから、あなたはまさにモデルにうってつけよ」
と言ったあと、
「これはまだ構想段階だから、発表するまでは決して他人に知らせないで。後で追って連絡するから、返事をお願いね」
こう伝えた。するとレイナは、
「由香さん、ぜひやらせて下さい。アタシも、キャバクラ嬢の地位を上げたいと考えてます」
力強く答えた。由香は、
「ありがとう、レイナさん。概要が決まったら、必ず連絡を入れるわ。いい案があったら、遠慮なくメールを入れて」
と言ったあと、時計に目をやり、
「もう時間みたいね。レイナさん、改めてありがとう。無事に彼の子供を産んであげてね。私たちも楽しみに待ってるわ」
そう言いながら、玄関に向かった。カンナも、
「レイナさん、モデルとしてなら、あなたには負けないわ。だけど、あなたと一緒に演じてみたいわ」
と言って、由香の後を追った。由香は、
「レイナさん、私はあなたのことを応援してるわ。だから、産まれてくる子供と一緒に幸せになってね」
最後にこう言うと、カンナと共に家を後にした。
(アツシ、必ず、必ずアタシが産まれてくる子供を幸せにしてあげるわ……)
自分のお腹をさすりながら、二人を見送ったレイナは、部屋の鍵を閉め、周りを片付けたあと、アツシのなきがらの側に座った。そして一晩中側を離れずに見守り続けた。
それからアツシを弔って数日後、前日にキャバクラに復帰することを決めたレイナは、その日の午前中、病院に向かった。そして医者から、
「おめでとうございます。無事に妊娠しました」
ということを告げられた。レイナは大いに喜んだ。そして、
「アツシ、あなたの“想い”は伝わったわ」
そうつぶやきながら、うれしそうな表情でお腹をさすった。それから家に戻ったあと、生前のアツシをスマホで撮影した、遺影代わりの彼の写真に手を合わせた。そして、
「アツシ、無事に“想い”は伝わったわ……」
そう言って、写真を自分のお腹に当てた。その目には涙が浮かんでいた。涙をぬぐった彼女は、スマホを手にして、
ー由香さん、無事にアツシの子供を妊娠することが出来ました。これから大変になることは覚悟してます。ですが、アツシや由香さんのことを考えれば、これぐらい何でもありません。必ず産まれてくる子供を幸せにします。由香さんも体調に気を付けて下さいー
由香にこのようなメールを送った。しばらくすると、
ーおめでとう、レイナさん。それとお気遣いありがとう。あなたは優しい人なのですね。あなたが店で人気になる理由がわかります。私も、出来るだけのアドバイスをしたいと考えておりますー
こんなメールが返ってきた。レイナは、このメールを読んだあと電話をかけた。そして、
「店長、レイナです。今日から復帰することに決めました。それと、もうひとつ報告があります」
こう話した。店長は、
「報告……? 『アツシ君が亡くなった』という話は聞いたが……」
考え込みながら問いかけた。その問いに彼女は、
「アタシは、アツシの子供を無事妊娠しました」
と答えた。店長は、
「……そうか、おめでとう。これからしばらくは、君に無理をさせないようにしないといけないね……」
と話したあと、
「それじゃ、他の女の子たちにも伝えておかなくてはね……。続きは君が来てから詳しく聞こう。待ってるよ、レイナちゃん」
こんなことを口にした。彼女は、
「わかりました、店長」
と言ったあと電話を切った。時間が来て、準備をすませたあと、キャバクラへと向かった。
店に入ったレイナを待っていたのは、
「レイナちゃん、おめでとう」
「やっぱり君がいないとさみしいね」
といった周りの声であった。店長も、
「レイナちゃん、話があるけどいいかな?」
と彼女に伝えた。そして彼女と一緒に店長室に入っていった。そこで、
「レイナちゃん、早速だけど、君には女の子の指導係になってくれるかな?」
店長はレイナにこんな提案を持ちかけた。彼女は、
「わかりました。アタシも休んでる間、志織ちゃんとの“ツートップ”に続く“顔”を育てたいと思ってたところです」
快く提案に応じた。そして、
「アタシ自身、お客さんの前に立ちたい気持ちはありますが、ここは他のキャバ嬢のために、質の向上のため力を尽くします。他の店の女の子にも技術を伝えるつもりです」
こんなことを口にした。店長は、
「……なるほど、君の気持ちはよくわかったよ。君もアツシと同じ優しい人だね。私も協力しよう」
と言った。その日の店は、「レイナ一色」となった。そして閉店時間になったあと、その日は店長が自ら送迎を買ってでた。レイナの復帰を待っていたのは彼も同じであった。彼女の家に着くと、
「レイナちゃん、体調には気を付けてね」
そう言いながら、彼女を下ろした。彼女は店長に一礼して家に入った。
それから8カ月余りが過ぎ、
「おめでとうございます。元気な女の子です」
レイナに女の子が産まれた。彼女はその子を見て、
「アツシ、無事にあなたの子供が産まれたわよ」
こうつぶやいた。そして、
「アタシね、この子を幸せにするから……」
笑顔で女の子を見つめた。
数日後、店に入ったレイナは、店長を始めとしたスタッフに、産まれた女の子をお披露目した。店の女の子たちが注目する中、
「レイナちゃん、おめでとう。この子の名前は決めたの?」
店長がこう問いかけた。レイナは、
「まだ決まってはないけど、“恵”の一文字は入れようと思ってます。アツシへの感謝も兼ねてね」
こう答えた。
(アツシ、可愛い女の子よ。この子を必ず幸せにするから……)
その時のレイナの目には、涙があふれていた。アツシと暮らした日を、そして互いが愛した数日間を振り返りながら……