「目隠しして」「耳を塞いであげる」
いやだ、いやだ……!
童顔と低身長のせいで、よくて中学生くらいにしか見えない私が制服も鞄も持たず、街中を疾走する姿は、すれ違う人々に異様な印象を与えただろう。けれど、私は止まるわけにはいかなかった。
止まったら、頭を抱えてその場に蹲って動けなくなってしまう。そうしたら、不審に思った人が声をかけてくるだろう。それが駄目なのだ。
私がコミュ障なのもあるけれど。
聞こえるんだ、人の『声』が。
心の中に淀ませている『声』が。
私の耳はそういう意味では非常に『良く』できている。憎悪を、嫌悪を抱くほどに。
人が悪いんじゃない。私が私を嫌いになる。
言葉にしていないのに、『会話』が成立する。
そんな私をみんなは『気味が悪い』と言った。
いや、誰も口にしていない。ただ、確かに『聞こえ』たんだ。
発されない『言葉』に、私は傷つき続けなければいけない。
最初の『気味が悪い』からどっと、人の奥底の悪感情ばかりが頭の中に雪崩れ込んでくる。「嫌い」「死んじゃえ」「消えろ」「いなくなれ」──存在を否定することばかり。
きっと、それ以外のことだって考えているだろうに、私にはそれしか流れてこないんだ。
だから、涙目になりながら、人だかりを縫い、その心を掠め盗りながら、誰もいない場所を探していた。
家には、帰れない。
家族すら、私を理解してくれないのだ。救ってはくれない。
家族の持つ『悪感情』が『私』に対するものであると察したときは、目の前が真っ暗になった。
「なんで自分の子がこんな異常なの? 私たちに責任はないのに」
「ああ、でも家族だから、せめて高校を卒業するまでのあと二年と少しは一緒にいなくてはならないのか。嫌だ」
そんなの聞いたら家にいられるわけないじゃない!
それでいて現実では「大丈夫だよ」「お父さんもお母さんもいつだってあなたの味方だからね」なんて貼りつけた笑みで言うの。
嘘つきっ!!
私の決して口にしたくない『悪感情』すら、脳の鼓膜を震わせる。もう、生きていてすらいたくなる。
神様、いるんなら答えてください。
どうしてこんな能力を生んだんですか? どうして私なんですか?
私を殺したいんですか? それならどうして『私』なんかを生んだんですか?
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい
脳内に谺するこの上ない私の『悪感情』。
自分の『声』すら自分を『殺す』。
家にいるときぼーっと、「いじめはいけないことだ。けれどいじめに悩む君も、一人で抱え込まないで。簡単に死を選んではいけない」なんて放送していたけれど。
無理だよ。
逃げても、自分の『感情』にすら襲われ、食われる。
そんな私に、どうしろと?
もう、救えないでしょ?
泣き笑いで橋の上に辿り着く。大丈夫、涙は降り始めて、これから強くなるだろう雨か、遥か彼方下方に見える川の水が流してくれるにちがいない。
遺書なんて洒落たものはいらない。あれってさ、遺された人のためっていうより、自分のために書くものだよ。
見ちゃったんだ。いつだったかもこうやって逃げていた、夏休みの終わりくらい、うだるような暑さの中で、制服をきっちり着込んで飛び降りた子を。
誰にも言わなかったけれど、私、あの子が落ちると同時、握っていたケータイが「送信完了」を表示するのを見たんだ。こっそり最期のメールを見たら、友達らしき子に「さようなら」って。
私に『聞こえ』たのと同じ言葉が羅列していた。
もちろん、そこからもすぐ逃げた。
結局さ、『聞こえ』たところで何もできないし、『聞い』たところで救えないんだよ? 私のこのちっぽけな二本の腕じゃ。
無意味な命は、還るべきだ。
けれど、あの子みたいに地面にぶつかるのは情けないことに怖かった。だから、川の上に落ちようって。
死因なんてどうでもいいんだ。頭からだらだら血が流れて失血死は痛そうで怖かった。でももう、失血死なり溺死なり何でもいいや。
『消えろ、私』
少しずつ増水してきた川を見るのが怖くて、後ろ向きになって欄干に座る。あるはずもない背もたれに寄りかかるように、私の足はそこから離れた──
『「待って!!」』
声と『声』が重なって聞こえた。同じ人物のもの。
私を止めようとしてくれたんだ。だって、二つの声が『本当』だってことを教えてくれる。
でも、もう遅い。
たぶん、あの人かな、と欄干から身を乗り出す男の人が一人、見えた。手を伸ばしてくれていたけれど、その姿が遠く思えるほど、私の体は川へと向かっていた。
ああ、それ以上身を乗り出したらあなたまで落っこちちゃうよ。
こんな私が言うのもなんだけど、
命は大切に、ね。
伝わったのか諦めたのか、その人の姿が欄干から消えた。
前者であればいいな、と思う。後者だろうけれど。
でも、ちょっとだけ幸せだな。
最後の最期に『聞い』た声が『本物』の『声』だなんて……
ほんのちょっとだけ、能力に感謝。
なんてことを考えているうちに、ばしゃんという水音が二つした。
ん? 二つ?
混濁して静まっていく意識の中で、私はしっかりと自分のものじゃない誰かの『腕』を感じた。
目が覚めた。
そのこと自体がおかしい。
私は目覚めないために欄干を飛び越えたというのに。
なんだ、この白を基調とした清潔感がありながらも生活感もある空間は。
もっと端的に言うならば、
なんだ、この明らかな他人の部屋は。
混乱している私の耳に、がちゃりという音が聞こえた。扉の開く音。混乱のため、自分にかけられた温かい毛布のみを凝視していた視線はすぐに音の方向へ向かい、固まる。
男の人だ。
間違っていなければ、欄干からぎりぎりまで身を乗り出して、手を伸ばしてくれた人。
間違っていなければ、『「待って!!」』と『本当』の『声』で私を止めようとしてくれた人。
「あ、それ、間違ってないですよ」
頭の中の疑問に不可解にも解答がもたらされた。
もちろん、目の前の男の人から。
分けてほしいくらい背高のっぽで、爽やかな雰囲気を纏いながら、しっかりとした力強さを感じる体つき。
いやいや、そこではなく。
「私、口に出してました?」
ああ、久しぶりに出すであろう自分の声がこんな間抜けな言葉を紡ぎ出すとは。嘆かわしきかな。
しかし、返ってきたのは、にっこり笑って首を横に振る姿。
「いや、俺、実はちょっと変なんです。その人が抱えている『言葉』が見えるんですよ」
つまり?
考えていることがわかるということ?
ざっくばらんに言うと、私『同じ』?
と、疑問を頭に浮かべたら、「あ、そうっす」と返ってきた。
「すみません、俺、あのときたまたまやたら『言葉』を黒々と纏っている君が気になって。そうしたら、似たような感じのことで『思い詰め』ているみたいでしたから……手が届かなくて、飛び込んだんすけど」
あ。
あの二つ目の「ばしゃん」はこの人が……
「どうしてそこまで?」
その問いは口に出した。すると、爽やかな笑顔が眉をひそめた。
困ったような、あるいは悲しそうな笑顔。
悲痛って、こういうのを言うんだろうか。
その表情に胸がずきりと痛んだ。
そんな私の『痛み』を読み取ってか、「ごめんなさい」と一言置き、その人は語った。
曰く、
「俺は人の心が文字通り『読め』ます。文字として、その人の周辺に漂っているんです、『言葉』が。
だからあのとき、君が思っていたことを全部『読み』ました。どんな能力を持っていて、どんな目に遭ってきたかも……勝手に、申し訳ありません。
それで、『死にたい』『死のう』という文字が見えて、俺、慌てて。
ちょっと思ったんです。自分と似た境遇の人と話したいって。
……恥ずかしながら、俺も、君と似たような理由で、人から嫌われてます。俺もそれが『見え』るから、人に近づくのは正直怖い。
でも、あるとき、ある花を俺に投げてくれた人がいました。言葉の代わりに。
それで、俺は救われたんです。だから、
君にも同じ花を贈らせてください」
差し出された花は二本。どちらも赤く、名前も知っている花だ。
「嫌がらせ?」
片方の花に対しての私の一言がそれだった。いや、両方かもしれない。
手渡されたのは、彼岸花と赤菊。
彼岸花は別称曼珠沙華、死人花などと『死』に通ずる名前を持つ。彼岸花の彼岸という言葉事態が毎年恒例の墓参りをする風習の一つだ。ちなみに茎だったかに毒がある。死を望んでいた人間にそれを渡すとか、『死ね』というのか? ──そんな思考が脳裏を盛大に横切っていくが、青年の『声』からいつもなら『聞こえ』る『悪感情』は全く『聞こえ』なかった。
それに、菊。菊といえば、仏花の代表格だ。赤の他にも黄色や白がある。白の方が仏花として使われているイメージがあるけれど、赤だってそこそこだ。
こいつ、本当に私に何を言いたいんだ、と睨んでみるが、いつものように『声』が雪崩れ込んでくることはない。穏やかな笑みが、偽りでないことを示す。
「俺は、救われたんです」
何を言いたい? 言いたい……もしかして、
ここに『言葉』が込められている?
花で『言葉』なら、花言葉だろう。けれど、私は残念ながらその方面には疎い。
察したのだろう、青年は言った。
「赤い菊はあなたを愛しています。別に、おかしな意味ではないです。
あなたと出会ったことは無意味ではなかった。あなたを好きになることができた。そこに意味があるとおもいます。
きっと……俺にも君にも、互いが必要だって意味です。
そして、彼岸花の花言葉の一つは」
恥ずかしいことをさらっと言いながら、青年は盛大な爽やかスマイルで続ける。
「『思うのはあなた一人』」
なんて恥ずかしいことをこの人は素で言えるんだろう。
青年は続けた。
「あなたと話すときは、あなたのことだけを思っています。それが『会話』の定義で、とても重要なことだと思います。
だから俺とちゃんと『話して』くれませんか?」
ははは。
確かに、私はこの二つの花と、
その言葉に胸のごちゃごちゃが取れた気がした。
「なら、さ」
二つの赤い花を置いて、青年の端正な顔に手を伸ばす。
私の小さな手は、目的を果たすには──彼の目を隠すには充分な大きさだった。
青年は少し驚いたようだった。
「なら、私はあなたが『私』を見る目を塞いであげる」
すると、青年は口元を笑ませ、
少し大きな手を優しく私の耳に当てた。
雑音が消えた。
「なら俺は、君の耳を塞いであげる」
お互いに余計なものが入らないように。
「思うのは、あなた一人」
それを表す手は、とても、
温かかった。