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その影、波間に沈む

作者:たいちうみ

 かつて愛した人は、かの巨大獣の血肉となった。殺す理由はそれだけで充分だった。
 海面を跳ねるように移動しながら、カイルは歯を強く噛みしめていることを自覚する。魔法を施した小型船は勢いを増して、目的地へと進んでいた。
 彼は魔法使いの象徴である長衣は身につけておらず、露出したその腕には端がほつれた白い布を巻きつけていた。彼の心の支えであるそれは風に煽られ、宿敵の居所を指すようにはためいていた。
 二年前、あの化け物は何をどう間違えて迷いこんできたのだろう。半島の付け根に近いこの海域は確かに陸地に挟まれて少し狭いが、出られないわけではないはずだ。
 しかし、ぐるぐると周回するように半島の東側の陸をなぞるように、あれは一向に外洋に戻らない。
 マリスと名付けられた巨大な海洋生物は、人間を積極的に襲うわけではない。しかし、その体をうならせれば大きな波ができ、二十以上の村を潰した。魚の採れる量は格段に減り、漁師は不毛な職業と成り果てた。彼女と出くわした商船がその荷を海底神殿へ献上したことも、二度三度の話ではない。
 退治が叫ばれるのは当然のことで、この二年に多くの人々が彼女に戦いを挑んだ。しかし、マリスは積極的に人を補食しないだけで、決して襲わないわけではない。
気が立っているときに出くわした者は容赦なく飛びかかり、自分を殺そうと立ち向かってきた存在にはその大きな口と牙で制裁を与えた。
 エヴァもそのうちの一人だった。
 亡き恋人が、カイルの記憶のなかで笑ってみせる。
「私のほうが二歳年上なんだからね。ずっとあなたは私に追いつけないんだから」
 珍しく彼女がそうおどけて言ってみせたのはいつの日の出来事だっただろう。
 ――エヴァ、二歳なんて、何ともない差だったよ。
 年齢が追いついてしまった、今もなお愛しい相手に心のなかで呼びかけながら、カイルは剣を握る。彼女の形見となった白い長衣の切れ端は、彼を励ますように翻っていた。
 日は高く、透明な海にまっすぐ光を射し込ませる。天は味方だと、海底を隠す大きな影を認めながら、カイルは唇の片端を上げた。
 この二年で沿岸の人々の心はすっかりマリスに折られていた。彼女はもはや災害のひとつで、自分たちに為す術はなく、ただ治まるのを待つしかないと。
 そう嘆く彼らは、いまだ討つことを諦めていないカイルを嘲笑さえした。
 けれども、エヴァへの想いはまだ彼のなかに残っている。そして、エヴァを食らったあの化け物がいる限り、それは決して死ぬことはない。彼にはそうした確信があった。
 蛇のような長い体に太い四肢。肌は硬い鱗で覆われ、扇のような鰭を背と尾に持ち、眼も牙も爪も鋭い。悪魔のように醜く、しかしどこか神々しい。そんなマリスの姿を見るのも今日で最後だ。カイルは自分に言い聞かせるように思考する。
 もともと彼はエヴァほど優秀な魔法使いではなかった。むしろ劣等生で、呪文を覚えるよりも剣術で体を動かすほうが向いていた。
「剣を振るっているときが一番楽しそうよね。悔しいわあ、私だってあなたに魔法でそんな顔させたいのに」
 まだ単なる先輩後輩の関係だった頃のエヴァの声を思い出す。劣等生の自分の指導係を押しつけられた哀れな優等生と恋仲になるなど、当時は考えもしなかった。
 確かに魔法は不得意だったが、なかなか実を結ばないだけで嫌いではなかった。それに加えてエヴァの熱心な教えに感化されたのもあり、カイルは落第を免れるどころか及第点をはるかに上回る好成績で追試を切り抜けた。
 礼を言うカイルに、エヴァは柔らかな笑みで言った。
「カイルはどんなに失敗しても絶対諦めなかったでしょ。投げ出さず、腐らず。だから私も応援したくなったの。私、カイルのそういうところ尊敬してた」
 そのとき初めて、彼女に恋している自分に気づいた。追試までの関係で終わらせたくないと思い、気づけば次会う約束を取り付けていた。
「実はね、試験が終わってほしくないって、少しだけ思っていたの。でないとあなたは進級できないのにね」
 はにかんで頷いてくれたエヴァの顔は、今でも脳裏に焼きついている。
 それから本当に恋人と呼びあえる関係になるまで時間はかからなかった。
 劣等生と優等生の不釣り合いを揶揄されても、まったく気にならなかった。エヴァが先に卒業してしまったときは、さすがに二歳の歳の差を恨めしく感じたものだったが。
 二人で過ごした日々は何よりも幸せだった。けれども、すべて過去のこと。今はマリスだけがカイルの人生のすべてだった。
 飛び魚のように彼女の周りを派手に跳ね、カイルは自分の存在を知らせる。ここはまだ岸に近い。沖へと彼女を誘い出さなくては。
 それだけで巨大な船を木っ端みじんにする尾が、ゆらりと波を描いた。
 カイルは本能のまま船の速度を上げる。次の瞬間、彼の船の軌跡を飲み込むようにマリスの頭部が海上に現れる。
「そら、こっちだ!」
 この二年、ただマリスを倒すことばかりを考えていた。二年前、討伐部隊に入るには力量が及ばず、エヴァだけを行かせてしまったことを彼はずっと悔やんでいた。
 臆病者、不実な男、情けない、陰口は聞き飽きるほど。二年前のカイルは、すぐに恋人の敵を討つほどの能力はなかった。遠回りでも、確実にマリスをしとめるために今日までの時間を費やしてきた。その間にマリス討伐が世間で絶望視されても、カイルは諦めず鍛錬を続けてきた。
 そしてカイルがマリスを殺しに行くことを宣言すると、周囲はさまざまな反応を見せた。ただし、好意的なものはひとつも得られなかった。事情を知る親しい友人たちでさえ、復讐に憑りつかれた彼を憐れむだけだった。
 沿岸の者たちは、他に被害を出すことは許さないと口をすっぱくして言った。自分たちにとばっちりが来るのはごめんだと。死ぬならお前だけが死ねと。
 むろん、カイルは死ぬつもりなどまったくなかった。
「沈むのはあいつだけだ……!」
 ちりり、と彼の剣が音を立てる。毒をはらむ稲妻がその刀身に絡みついていた。腕に巻いた白い布が一瞬光ってみせる。
 以前調査と犠牲者の回収を志願したときに運良く見つけた、破壊された船の木片のひとつ。そこに残っていたマリスの鱗をひそかに入手して、効果のある魔法と剣技を研究しつづけた。
 お前はもはやマリスに恋をしているみたいだ。そうからかってきた人間もいる。確かに、この執着はある意味恋に近いかもしれない。
 マリスはその巨体にしては素早いものの、カイルの船のほうが速度は上で、小回りもきく。袋の罠から外へ誘い出すように、半島の先端よりもさらに先、広い海を目指した。
 カイルの船は加速と波で、何度も跳ねては着水を繰り返した。彼は前方と後方、下方のそれぞれに気を配る。
 怪物は巨体をうねらせ、頭、胴、尾が順番に海上へ現れては沈んでいく。カイルは振り向きながら、手か光球を放つ。そのひとつがマリスの背を掠めたが、そこで怯むような可愛らしさなど彼女にはなかった。
 それでもカイルは威嚇しながら攻撃を続けた。これは、近くの船や岸にマリスがここにいることを知らせるためでもあった。
 話をつけたのは沿岸の町に住まう人々のほんの一部。とりわけ遠くからやってくる船には注意が必要だった。
 そこに突如、耳を破壊するような大声。海面は震え、カイルの頬に痺れにも似た刺激を与える。直後、太陽へと向かうような放物線を描き、マリスは全身を露わにしながらこちらへ覆い被さってきた。
 カイルは船の進路を変えて急速旋回。寸でのところで直撃は免れ、マリスは標的を失ったまま着水する。
 次の瞬間、これまでで最大の大波が船を襲った。大きく傾き、カイルは宙へ放り出された。
 衝撃と飛沫が収まり瞼を開けると、目が合った。巨大獣は潜水しながらまっすぐこちらを目指していた。
 カイルは水面を見上げて船影を捕らえると急いで浮上する。
 水上ではこちらが素早く動けても、海中はまさに彼女の領域。先ほどの比ではないほどの勢いで距離を詰められる。
 徐々に息が苦しくなるなか、無我夢中で泡を集めて空気の塊を作り、彼はマリスに向かって放った。それは彼女への攻撃だけで終わるものではない。彼はその反動を利用して一気に水上へ飛び上がる。
 魔法使いの制服とも言うべき長衣は、水のなかではまるで役に立たない。海の生き物に人間界での威光が通じるわけもなく、ただ体に絡みつくだけの役立たずな重りにしかならないのだ。不幸なことに、それで命を散らした魔法使いも一人二人でないから笑えない話である。
 カイルは怪物に立ち向かうには心もとないほどの軽装だが、それが幸いしてすぐに行動に移せた。
 どうせ鎧など彼女の牙にとっては野菜ほどの歯ごたえもない。最終的に彼女を倒せるのであれば四肢の一本や二本くらいはくれてやるつもりだった。
 つま先に意識をやり、自分の足が触れる部分にだけ氷を張り、船を目指す。すでに日は子午線を過ぎていた。時間が経って有利になるのはマリスのほう。まだ光があるうちに終わらせなければ。
 獲物を捕らえ損ねたマリスは苛立ったのか、荒々しさを増しながらこちらへ向かってくる。カイルはとっさにマリスの方に向け、水面を思い切り蹴り上げた。
 跳ね上がった飛沫はそのまま氷の礫となり、彼女に襲いかかる。損傷はたいしてなくてもいい。ただ、体勢を立て直す時間が欲しかった。
 マリスが一瞬動きを止めた隙を見計らい、最後に大きく跳躍して船に着地する。
 カイルよりもずっと優れた戦士や魔法使いが束になって立ち向かっても敵わなかったのだ。修行を積んだとはいえ、彼の実力ではこんな小さな魔法で少しずつ削ったところで勝てるはずもない。
 賭けの要素は残っているが、カイルにも勝機はあった。彼女の鱗には毒がある。海中にいるだけでは何の効果も発揮しないそれは、相手の体内に侵入すると麻痺を引き起こす。溺死、あるいはマリスの体当たりで命を落としたことになっている犠牲者のなかには、これが死因だった人間もいたのではないかと彼は推測した。
 その後、マリスに襲われた者の遺体をひそかに調べ、それは確信に変わった。検体をいくつか手に入れたカイルは、その毒を無効化する薬を作り出しただけではなく、逆に彼女にとって毒となる魔法も編み出した。
 マリスを覆う鱗は硬いが、骨格から頭と体の間は比較的防御が薄いと見当をつけた。他の者を巻き込まないように沖に誘い出し、彼女の周囲に魔力の網を広げる。そして徐々にその範囲を狭めてからめ取り、身動き取れなくなったところに、魔法を施した剣で討ち取る算段だ。
 愛しいエヴァは、マリスの初期の犠牲者だった。それからこの化け物を殺すための研究と修行を重ねているうちに、数多もの死者を出した。
 幾度か出された討伐隊に加わることもなく、かと言って撃退は不可能と世間が判断してからもマリスの調査を続けたカイルに周囲は冷たかった。けれども、まったく理解者がいないわけでもなかった。
 カイルがそんな彼らに協力を仰げば、もっと早くに今日という日は訪れ、死を免れた人間も多数いたかもしれない。それでもここまで孤独でありつづけることを選んだのは、彼なりの意地だった。他の誰でもない、この手でマリスを沈めてやりたかった。そうすることでしか、真にエヴァの弔いはできないと思ったから。
 食われたエヴァはあの巨体のどこを形作っているのだろうか。カイルが船を進めながら標的を見据えると、マリスは突然深く潜った。かすかな影が、見当ちがいの方向へと進む。
「しまった!」
 海中に投げ出され、自分のことに神経が集中してしまっていた。その間にカイルとマリスの存在に気づけなかった大型の帆船がこちらへと迫っていた。
 カイルに刺激されて興奮しているマリスからすれば、獲物の多い方角へ行くのは当然のこと。カイルは自分の不甲斐なさに舌打ちしながら、今まで以上の速度で彼女を追う。
 強化の魔法を施しているとはいえ、機動性を重視した船は悲鳴をあげるようにきしむ。限界は近い。
 カイルは真上に光球を放ち、船員に危険を知らせる。しかし、あれだけの規模になると早々方向転換などできはしない。
「あ……!」
 マリスは船の真下にもぐり込み、浮上する。それだけで船を壊すには充分だった。
 投げ出される人々。そのうちの一人を海水ごと丸飲みにし、続けて四肢の爪で数人を引き裂く。絶望を叫ぶ男たちの声が、距離はあってもカイルの耳によく届いた。
 失敗だ。カイルは歯が砕けそうなほど強くかみしめる。他の犠牲は出さないと宣言したというのに。
 自分の不名誉はエヴァの不名誉でもあった。秀才と呼ばれた彼女は正義感強く、最初の討伐隊に加わって対策もわからぬままあっさりと命を落とした。その後も、カイルを嘲る者は恋人であった彼女すらも愚弄した。自分がマリスを打ち倒すことで彼女の名誉も回復させたいという欲があったのは事実だ。
 それなのに、自分はただマリスを刺激し、餌の近くまでおびき寄せたに過ぎない。これではエヴァの弔いどころではない。
 情けなさのあまり舌を噛み切ってしまいたくなるが、こうしている間にも、襲われた船から声がどんどん途絶えていく。溺死したのか直接マリスの手にかかったのか、力なく波に揺られる影が十以上。
 それがすべて、エヴァに見えた。胴をかみ砕かれ、右腕の先はなく、虚ろな目をするばかりで美しい笑みを失った顔。
 それが、身元がわかるほど原型が残っているだけで運が良いと皮肉られた、愛しい女性の最期の姿。
 ここで見ているだけで終わりかと己に問えば、答えは否だった。これ以上の蛮行を防がなければ。たった一人でも救わなければ。カイルは船に魔力を注ぐ。
 しかし、それが限界の合図だった。船は一気に弾け、再び彼の体は宙に舞う。
 今度は先ほどよりもずっと冷静だった。この二年で上がった身体能力のおかげもあるかもしれない。
 空中で体を捻り、足裏に魔力を集中させて着水する。彼の足下には小さな氷。
 進むしかない。剣を握って彼はまっすぐ惨劇の現場へ直進した。
 マリスは大量の獲物に気をとられ、カイルの存在など忘れてしまったかのようだ。それは船員にとっては不幸でも、カイルにとっては好都合だった。
 真っ二つに折られ、ゆっくりと沈んでいく船体の陰に回りながら、海中に向かって魔力を放つ。船に乗って周回するのに比べると負担は大きいが、魔力を編みながら伸ばして張り巡らせるほうが安全だった。
 助けを呼ぶ声はもう指で数えられるほどに減っていた。焦りと疲労が精神を蝕む。彼らを見殺しにしたと言われたら返す言葉はない。けれども、ここで確実に彼女を仕留めなければ、この惨劇はこれからも繰り返しやってくる。今までがそうであったように。
 魔力は縦横無尽に絡み合っていく。こんなときだというのに、あるいはこんなときだからだろうか、エヴァの教えが過ぎる。
「剣を持つときに適当に握ったらすっぽぬけるし、半端な気持ちで狙っても当たる確率は少ないでしょう? 神経を研ぎ澄ますのは魔法も一緒よ」
 具体的に魔力の動きを思い描く。かつて彼女に教わったとおりに。そうして、かの化け物の包囲網は少しずつ形になっていった。
 そのとき、マリスの様子が変わった。自分の周囲の異変に気づいたのか、魔力の隙間から逃げ出そうとする。
 カイルはとっさに網を操り、一気に絞る。巨体が暴れ、まだ浮かんでいた船体の片方に大穴を増やして沈める。海面は大きく乱れ、新たな死者の体が弾き飛ばされる。
 身体的にも魔力的にも大きな負荷がかかり、カイルの視界が白んでいく。いつのまにか斜陽はぎらつき、マリスの体を宝石のように輝かせていた。
 編んだ魔力がところどころで切れていく。その都度再生させるが追いつかない。
 指が震えた。全身に倦怠感があらわれる。このままでは剣を振るう力も残らない。せっかく今日まで魔法だけでなく鍛錬も続けたというのに、こんなものなのか。
 ここで死ぬのだろうか。馬鹿な男と笑われて、罵られて、弔われも悼まれもせず。
 死んだら、エヴァにまた出会えるだろうか。そう思った瞬間、ふと緩みかかった腕の白布が目に入る。海水に濡れ、肌に張り付いている。
 同時に、彼女の声が耳によみがえった。
 ――カイルはどんなに失敗しても絶対諦めなかったでしょ。
 それが彼の意識をこの悲惨な海に戻した。
 ここで諦めたら、彼女に誇れるものなど何ひとつない。どうせ死ぬのなら、最後まで戦って、心折ることなく死にたい。
 魔力を振り絞るほどに網は強化され、マリスの自由を奪っていく。垂直に近いほど傾いた船体の残骸に手をかけて上がり、彼は狙いを定める。
 魔力を充分に満たしたこの刃は、彼女にとって何よりも毒となる。
 カイルは板を踏み抜くほどの力で蹴って飛び降り、まっすぐ巨大獣の首を目指した。
 マリスは逃れようと身を捻じる。直後に彼はその胴に降り立った。狙った部分には若干遠い。
 彼女が暴れるせいで平衡感覚を失い、手をつく。鱗が肌を傷つけるが、解毒剤はすでに飲んでいる。
 あとはもう、執念だ。
 海に投げ出されそうになるのをこらえ、靴底に氷の棘を作ってマリスの体に引っかけるようにしながら、その場所を目指す。
 何度振り落とされそうになろうと、もう二度と海に落ちるつもりはなかった。
 カイルの腰よりも高い背びれが、まっすぐ目標へと続く道のように見える。
 足裏の氷と身体の平衡感覚だけで無我夢中になって進み続けた。
 マリスは自分の背に乗った異物の存在に気づき、威嚇の声をあげながら身体をくねらせる。
 カイルは必死でしがみつきながら、ある一点を目指した。
 行け、進め、殺せ。この邪悪な生き物に引導を渡してやれ。
 息はあがっていたが、自分の苦しさなどもうどうでもよかった。念願の瞬間が訪れるなら、それこそ死んでもいいのだから。
 エヴァがこの凶悪な生き物の体の一部となったのであれば、彼女に再び死がもたらされるようなものなのか。
 そんな考えが過ぎったのは、剣で首を掻ききった瞬間だった。
 鮮血が飛び散る。枝に咲いた花びらが風に飛ばされるように。
 同時に、地響きにも似た声がこだました。
 その断末魔の叫びは、これまでに出した犠牲の大きさに比例するかのように、遠く遠くへと波を作るように響きわたる。
 轟音に顔をしかめながらも、カイルはもう一度剣を突き立てる。さらにもう一度、二度、三度。厚い肉越しに太い骨を探りあてるようにして傷を深くする。
 まるで獣になったように、彼は我を忘れて刃を落とし続けた。
 揺れる、捻る、跳ねる、震える。もう海を染める血が人間のものか彼女のものかも判断つかないほどになった。
 マリスは上体を大きく反らし、左右に一度ずつ揺れて、最後に頭を夕焼けに染まった海水に浸した。そして、徐々に水底に引かれるように飲まれていく。
 カイルは近くに浮いている船の残骸に飛び移り、無言でその様を見つめた。
 数多の人命を奪った怪物の最期の姿。夜と深さの両方が、沈みゆく彼女を包み込む。あっけないほどに、それはとても静かなものだった。
 影が見えなくなったとの日の光が消え失せたのと、どちらが早かったのかもはや覚えていない。
 気づけば黒い海を見下ろしていた。すべてが闇に覆われていた。
 ふと、右腕の布がなくなっていることに気づく。いつ失ってしまったのか。思い返そうと思ってもまったくわからない。
 しかし、海に落ちたのならよいと思った。それは、「彼女」への餞だ。
 細い月が頭上と足元で光を放つ。生存者を探しながら、彼は光を天高く打ち上げた。それが、遠い岸にいる人々に作戦成功を知らせる合図だった。
 しばらくして、応答が返ってきた。こうして合図を一定期間出しあいながら合流を試みる手筈だ。
 しかし、今はまだ、この暗い海を見つめていたかった。
 マリスを飲みこんだこの広い闇は、彼女以上の怪物に見えた。
 波の音を聞きながら、カイルは亡き恋人を想い、もう一度光を空に打ち上げた。最も返事をもらいたい相手はもういない。
「エヴァ……」
 名前を呼ぶが応えがあるはずもなく、水面の月が静かに揺れているのみ。
 つい先ほどまで、悪魔による虐殺が行われていたことも、一人の青年がその生を終わらせてやったことも夢のなかの出来事であると言わんばかりに。
 海とは何て大きな存在なのだろう。彼は嘆息する。カイルの生きる理由であった「彼女」の墓場にこれ以上ふさわしいものはないと、薄く笑いながら。

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