リッチア
ズッ ズズズッ…
何かを引きずる音が背後に聞こえる。
ペタ……ペタ…ペタ…
ギッ。ギギ。ギギ
裸足で歩いている様な不規則的に聞こえる足音は曲がり角の向こうからで、何かが軋んでいる音は俺の右隣にある部屋からだろう。
真っ昼間にも関わらず、此処には狂った病人以外いないとみえる。場所が場所だから仕方がないと言っちゃあ仕方がない。ここは正規の医療現場とは到底かけ離れた、一部の人達の快楽のためだけに建てられた建物なのだから。忌々しい事に奇怪な音しか聞こえてこない。
俺は地下へと続く階段を見た。そこは永遠を感じさせるくらい長く伸びていた。奥にある部屋に誰が、そして何が置いてあるのかを俺は知っている。そしてそれらが美徳を汚すものだという事も…
行き着くのは天国か、それとも地獄か。
何にせよ俺には関係が無い。俺は俺のするべき事をするのみ。
俺は突き進んで、一番奥の部屋の前まで行って、意味がないことを知りつつも、ノックをする。
もちろん返事は無い。
俺はドアを開けた。そこは床が血で赤く染まっていた。勿論、人間の血で、だ。
部屋には幾人もの人間がいた。生きている者、辛うじて生を止どめている者、死んでいる者、そう、色々な人間がいた。
俺は死んだばかりの人間の元に近寄った。俺の手には針の付いた細くて長い管が握られていた。それは今まで活躍した痕跡をこびりついた赤黒い色で残していた。俺がこんなものを持っている理由は他でもない。彼等の血を採るためにだ。
これだけ人間を、しかも地下に集めて殺すのには大きな大きな理由がある。
大量の人間の血が必要だからだ。
この建物に住んでいる者は、地下の存在やその中で行われている事をわかっている。そりゃあそうだろう。この建物を創り維持させ続けている原因は、彼等なのだから。お金は腐るほど持っている彼等の、呆れるほどに強すぎる快楽への執着のためなのだから。
俺は幾つもある部屋から一つ選び、中を覗いた。中にいるのは一人の少女だった。まだ年端もゆかぬ少女だが、彼女の瞳は来た時に比べて生き生きとしていた。血液を飲むという事に快楽を感じ始めたのだろう。
彼女が来てすぐに気付いたのだが、彼女には現実を自分の都合が良いように捩じ曲げている節がある。事実を有りのままには見ず、自らの都合のいいように書き替えて見ているのだ。
彼女の他にも投薬を拒否し続ける者や、健康体にも関わらず好んで入院している者。自分の体が麻痺し腐る様子を見る事を生き甲斐にしている者でさえいる。
俺はそんな彼等を羨ましいと思う時がある。
彼等は自由で、俺と違って自分を偽ってなんかいないからだ。
だが、俺も自分の感情を偽らずに生きているという点では、彼等に負けていないという自負がある。
珍しい病気の人達を観察するという欲望を現実とさせているのだから…
俺はみんなが嫌がる仕事を押し付けられたなんて思ってなんかいない。確かに閉じ込められた当初は、何で俺が…と考えたが、こうやってドアの隙間から部屋を覗き込む事に快楽を覚えて以来、俺は変わった。今は此処に来るのが、楽しくて仕方がない。外出が禁止されているため他に刺激がない今、俺の唯一の気晴らし、快楽でもある。
鼻歌混じりで俺は一週間前に来た少女を見た。少女は何を考えているのか分からないが、ずっと椅子に座って動こうともしない。
だが、俺は知っている。薬を出された時の少女の表情が明るくなる事を。そしてそれは少女がここに来てからの変化だということも…
俺には少女愛趣味はないはずだが、彼女の様子には思わず心が揺れ動かされる時がまれにだがある。流れるような金髪の髪。紅をささなくてもほんのりと赤みを帯びている小さな唇。すらりとした四肢。アーモンドの様にくりくりとした、いかにも庇護欲をそそられそうな瞳。確かにこの少女は美しい。それは俺も認めよう。だが、俺が彼女に抱いている想いは恋愛感情などではない。俺はそう思っているし、そう信じている。
俺は飽きもせずに一日に何回も少女を覗きに行った。純粋な研究のため、というのは建て前だ。まぁ研究と言っても病の患者を地下室に閉じ込めて観察する事が純粋な研究、といえばの話だが。若くして病に罹った者は少ない。そんな例を見たのはこの建物に閉じ込められて五年くらい経つが初めてだ。
ただ、他の病人からの噂では俺よりも前にいた人達は皆、狂い破滅していったという。馬鹿らしい。監視しているだけなのに、どうして破滅などに陥るのだ?本当に馬鹿らしい話だ。噂でしかないという事だろうが、馬鹿らしいにも程がある。いくら患者とは言え、大の大人に対してただの子供が何を出来ると言うのか?
今日も起きてすぐに少女の様子を見に行った。少女は寝ているようだった。ベッドに横たわり、死んでいるようにも見える。微かに胸が上下するので、死んでいないと分かるくらいだ。
見ていられない。胸が締め付けられる。どうしてだ?こんな小さな子の命を奪って何になるんだ!?
彼女を助けたいという想いが俺の心に根強く残っている事に気付き、愕然とした。もしかしたら俺も破滅するのでは、という考えが頭を離れてくれなかった。それでも少女を助けたいという想いが強かった。
覗きに快楽を覚えていた頃に戻りたくても戻れないし、戻る気もない。俺は素晴らしい快楽を知ったのだから、喩え破滅したとしても後悔などしない。俺はそこまで考える様になった。
そして俺はどうにかして少女を逃がせないか考えた。とうてい無理な話だと分かっていながらも、望みを捨てたくなかった。
外に連れ出してしまったら最後、薬は彼女の望む量をきっとあげられない。でもせめて外の世界を見せてやりたい。外の真実から目を背け続けた彼女の精神を、少しでも助けたい。
どうしたら彼女を外に連れて行けるのだろうか…どうしたら彼女が外の世界にも興味を抱いてくれるのだろうか。 俺は悩みに悩んだが、答えは出なかった。それでも俺の想いは変わらない。
どうにでもして、彼女を連れ出す。
決めた気持ちが揺らがない内に、そう、これから実行に移すのだ。
俺は他の人達が寝静まる夜を待ち、少女の部屋に忍び込事にした。
やがて待ちに待った夜が訪れ、俺は地下に降りた。
地下で普段から惨殺される人達の悲鳴を聞いているので、何ともないと思っていた。だが、違った。静寂な方が恐ろしかった。今にも何か起こるのではと、俺は内心びくびくしながらも歩を進めた。
俺の心臓の爆走とは裏腹に、誰も気付いていない様だ。俺は守備よく問題の部屋に辿り着いた。あまりに事が上手く運び過ぎて拍子抜けしてしまうほどだった。
後は彼女を連れ出すだけ…俺はそう思い、扉を開けた。
ドスッ
腹部に激痛が走った。
どうして、だ?
薄れゆく意識の中。俺は…彼女の…満面…笑み…見…様な気が…た…




