第六話 電話越しの声
時間の流れは速いですが、話の展開は遅いです。
波乱万丈なストーリーではないので、ハラハラドキドキをお求めの方にはおすすめできません。
麻里子は山沖が今日の出来事を伯父に話すのを黙って聞いていた。
「それで、麻里子さんはまだ警察沙汰にはしたくないとのことです。僕は最初は警察に通報したほうがいいと思ったのですが、よく考えるとそれがストーカー行為になるかはまだ判断がつきかねますし」
「そうだな…。麻里子も彼を見たのは今日が最初なんだろう?」
恭一郎伯父は腕組みをして考え込んだ。
「はい……私、びっくりしちゃって、彼が、あの彼なのかよくわからないまま逃げてきちゃったんです。もしかしたら人違いかも…」
「あれから三年以上も経っているんだ。少年が大学生くらいになっていれば、面差しが変わっていたって仕方ない。……せっかく、向こうの親父さんと和志叔父さんが話し合いをして和解してくれたのにな」
「今の段階ではどうしようもない。だが、麻里子、明日からはしばらくは車で大学に通いなさい。佐々木に言っておこう」
「え!? だめよ、佐々木さんは伯父さんの専属運転手なんだから、一日拘束はできないでしょう?」
「朝は私と一緒に出ればいいだろう。どうせ大学までは通り道だ。帰りは桜子に迎えに行かせよう」
「それも無理よ! だって、学祭の準備で帰りがいつになるかわからないのに、さくらちゃんだってゆうちゃんのお世話があるじゃないの!」
「あの、よかったら帰りは僕に送らせてもらえませんか?」
それまで黙って伯父と姪のやりとりを聞いていた山沖が口を開いた。
「いや、今日のことを教えてもらったことには礼を言うが、これ以上は君に迷惑をかけることは…」
「乗りかかった船ですから。後輩が怖い思いをしているのに、知ってて知らぬフリをすることはできません。それに、僕の家は大学のすぐ裏手にあるんです。母もいますし、僕が送って行けないときには家で待っててもらって、迎えに来てもらえばいいんじゃないでしょうか」
「君は家族と住んでいるのか?」
「はい」
「それなら、そのほうがいいかもしれないな。親父、山沖くんもこう言ってくれていることだし、協力してもらってもいいんじゃないか?」
「うん、そうだな……。麻里子はそれでいいか?」
話を振られて麻里子はただコクコクと頷いた。
「せ、先輩さえご迷惑でなければ…」
「よし、話は決まりだな。しばらくは様子を見よう。これで彼が何かリアクションを起こせば、そのときこそ警察に届ければいい」
理一郎が話をまとめたところで応接間のドアがノックされた。
「すみません。遅くなってしまって…お茶をお持ちしたんですけど、もう話は終ってしまったのかしら?」
桜子がトレイに湯飲みを載せて現れた。
「ごめんなさいね。夜だったからコーヒーがいいのか、紅茶がいいのか、日本茶でいいのかいろいろと考えてしまって…」
結局日本茶にしたのだと苦笑いしながらテーブルに湯飲みを置いていく。
「でも、お車でいらしてるのだから、眠気覚ましにはいいわよね」
「はい。ありがとうございます」
山沖は軽く頭を下げて湯飲みに手を伸ばした。
「先輩っ、ごめんなさい!」
麻里子は思い出した。
今日の山沖はひどく疲れていたはずだ。あれだけ昼間に眠いと連発していたのに。
「疲れてるのに、こんなところまで来させてしまって…」
「いや、もうすっかり目が覚めてるから気にするな。……それじゃ、僕は失礼します。あまり遅くなると母が心配しますので」
「ああ、そうだな。今日はすまなかったね、ありがとう」
恭一郎は自分の息子たちよりも年下の青年に頭を下げた。
「私の弟…つまり麻里子たちの両親は三年前に事故死していてね。それ以来、麻里子と下の子、和佐は私が引き取って育ててきたんだ。亡くなった弟夫婦の代わりに、この子たちをしっかり守ってやらねばと思っているんだよ」
「はい、お気持ちはわかります。僕もやっぱり理事長にお話してよかったと思いました」
やはり、と麻里子は確信した。
山沖は両親が事故死していると聞いても驚きもしなかった。
ということは、彼はどうやって両親が亡くなっていることを知ったのだろうか。
一瞬、気味の悪いことを考えてしまって、慌てて脳内で否定する。
もしかしたら、麻里子の話からある程度は予想していたのかもしれないではないか。
帰るという山沖を玄関まで見送る。
「先輩、今日はありがとうございました」
「いや、これくらいどうってことないから気にするな」
「帰りの運転、本当に気をつけてくださいね」
「心配性だな」
「だって…」
両親が車の運転中に事故死しているだけに心配でならないのだ。
「大丈夫だって。こんな話していたら眠気も吹っ飛んだよ。おまえこそ、今日は気疲れしたんじゃないのか? しっかり休めよ」
「はい。ありがとうございました」
「じゃあな、おやすみ」
「おやすみなさい」
山沖は微笑んで玄関を出て行った。
あとで電話をかけてみよう。夜遅くにかけるのは非常識かもしれないが、携帯電話なら彼が出るはずだし、家に着く時間を見計らってかけるくらいならいいかもしれない。
「マリちゃん、お客様はお帰りになったの?」
奥から出てきた桜子は応接間を片づけようとドアに手をかけた。
「マリちゃん、山沖さんて素敵な方ねぇ」
「そ、そう?」
応接間におきっぱなしになっていた自分の鞄を取りに入る。
「とっても頼りになりそうな雰囲気があるわね。でも、理一郎さんほどじゃないけど」
「はいはい、ごちそうさまです」
自分の夫の名を出して惚気られて麻里子は苦笑した。
「で、告白はまだしてないの?」
「え、なんの?」
「だから、好きですって告白したの?」
「なっ、なななっ! どうしてっ!?」
五年前に桜子が理一郎に嫁いできてから、まるで本当の姉妹のように仲良くしている。
姉のように、友人のようになんでも相談できる相手で、気心も知れているから突っ込んだ会話も珍しくない。
「だって、マリちゃんの好みのタイプじゃないかしら。爽やかなんだけど、ナヨっとしたところがなくて男らしくて、真面目で頭も良さそうじゃないの」
「だから先輩は女の人にすごくモテるのよ。誰とも付き合ってないのが不思議なくらいなの」
自分の鞄を抱え込んで床を見つめた。
「あらっ、それじゃあチャンスじゃないの! 付き合ってくださいって言えばいいじゃない」
「でっ、できないわよ! いい人だし、カッコいいなあって思うし、でも……告白して、フラれたら、私、どんな顔して会えばいいの?」
「もうっ、そんなこと言ってたら、彼氏なんていつまでたってもできないわよ?」
「うっ……そ、それを言うならさくらちゃんだって、理一にいさんに迫られて付き合いはじめたんでしょ? さくらちゃんから告白してないじゃないっ」
「そうだけどっ、私は理一郎さんに迫られたんじゃなくて、結婚を前提としてお付き合いしてくださいって申し込まれたのよ」
どうやらその当時を思い出したらしい桜子は頬を赤く染めた。
「だ、だから……私もそういうのいいなあって思ったの。さくらちゃんみたいに言われてみたいなあって」
「う~ん、私の場合はある意味お見合い結婚だものね。ちょっとパターンが違うかも。でも……人見知りするマリちゃんが山沖さんと仲良くできるだけでもかなりの進歩だと思うわよ?」
そんなことを桜子と応接間で話している間、帰ったと思っていた山沖が理一郎と庭で話していることなど知る由もなかった。
風呂から出ると、和佐が冷蔵庫から麦茶のボトルを出していた。
「あれ、姉ちゃん帰ってたんだ」
「和佐、まだ起きてたの? そろそろ寝なさいよ」
もう十一時をまわっている。
いくら夏休みだとはいえ、まだ小学生の和佐が起きていていい時間ではない。
実の弟なのだから、周りが注意しないことは自分が言わねばと厳しくしているつもりなのだが、ただの口やかましい姉と化している。
その弟を叱りながらも台所に置いてある椅子に腰掛けた。
「お姉ちゃんにもお茶をちょうだい」
「なんだかんだ言って使うんだからな…」
「ついででしょ、ついで」
新しいコップにお茶を注いだ和佐は麻里子に手渡した。
「今日は遅かったね。何してたの?」
「まあ、いろいろよ。いろいろ」
「ふーん…」
和佐はじっと麻里子を見つめると、一息にお茶を飲み干す。
「デートでもしてたのかと思った」
「なっ、そんなことしてるわけないでしょ!? サークルの活動してて遅くなったの! あの、ほら、前に一度会ったことがあるでしょう? 山沖先輩に送ってもらったのよ」
「え、あのお兄さん来てたの!? なんで教えてくれなかったんだよ!」
何故和佐が怒るのだろうか。面食らった麻里子は目を瞬かせる。
「え、な、なによ。そんなに先輩に会いたかったの?」
「だってゲームのお礼言ってないし、あの人ならゲームの話もできるじゃん。それにさ、あの人なら姉ちゃんの彼氏になってもいいかなって」
「ばっ……、何言ってるのよ!」
顔が赤くなるのを止められない。
真っ赤になった姉を見て、和佐はニヤニヤと笑う。いつの間にこんな顔で笑うようになったのだか。
「今度うちに連れて来てよね。おやすみー」
和佐は子どもらしくない笑顔を浮かべて自室へと戻っていった。
「か、可愛くない…」
両親が亡くなるまでは麻里子にべったりなお姉ちゃん子だった和佐だが、最近ではその立場が逆転したかのようだ。
これから思春期に突入すると、ますます姉離れしていくのだろう。
少し寂しく思いながらため息をつくと自分の部屋へ戻った。
勉強机の上に置きっぱなしにしてある携帯電話に着信が入っていることに気づいてメールを開く。
『今マンションの下に着いた。無事に戻ったから心配するなよ』
山沖からのメッセージは短くてそっけなかったけれど、麻里子を心配させないために送ってくれたのだろう。
着信時間を見れば、つい先ほどのことだった。
どうしよう。
かけて……みようかな。
声が、聞きたい。
嬉しかったから。
今日は本当に嬉しかったから。
山沖の自宅の場所を教えてもらった。
多くの人が知らないであろうことを知ってしまった。
たとえば、お母さんから「マーちゃん」と呼ばれていることとか。
クスッ…
クスクスと笑いが漏れる。
可愛い。「マーちゃん」と呼ばれて照れている顔とか。
男の人を可愛いなんて初めて思った。
遅い時間だから迷惑かな。でも、個人の携帯だから迷惑じゃない?
意を決して発信ボタンを押す。
trrrrrr……
呼び出し音が数回続いたが相手は一向に電話に出ない。
電話から離れているのだろうか。
それとももう寝てしまったのだろうか。
あっ…もしかして、この電話番号が登録されてないから不審がられてる!?
諦めて切ろうすると、コール音が止まった。
少し慌てたような低めの声が聞こえた。
『はいっ、もしもし!?』
「あっ、山沖先輩っ…せっ、瀬川です!」
『あーやっぱりおまえか。悪かったな、シャワー浴びてたから』
電話向こうで衣擦れの音がする。ガシガシというような音がするので髪でも拭いているのだろうか。
なにげなくそんな山沖を想像して顔が熱くなった。
(わ、私ってば何を勝手に想像なんてしてるの!)
『で、どうした?』
こちらの動揺など気づいていないのは当たり前だが、山沖はいつもと変わらない声だ。
「いえ、あの、さっきメールが入ってるのに気づいたので、それで電話を!」
『あー、うん、帰り際におまえが心配しまくってるから安心させたほうがいいだろうと思ってな』
「すみません。お風呂に入ってたので、気づかなくて…」
『風呂……? 今までか? …おまえ、長風呂だな』
「そんなことないです。普通ですよ」
『あ、そう……、想像させるなよ』
「何をですか?」
『なんでもない』
そう言った山沖の向こうで何かが倒れる音がした。
そして大きく息をついたように聞こえた。
「先輩?」
『ん……?』
なんだか眠そうな声になってきた。
だけれど、少し吐息が大きく聞こえて、それが妙に色っぽく聞こえてしまうので、ドキドキする。
「すみません。お疲れですよね」
『いや、喋っててもいいぞ』
「あの、訊いてもいいですか?」
『どうぞ…』
送ってもらう車の中にいたときから気になっていたこと。
「もしかして、私の両親が亡くなってるのを知ってたんですか?」
前から……
『ん…』
肯定の返事なのか、ただ眠りそうになって上の空で返事をしているのかわからないような返答に焦れる。
「どうして…?」
『……どうしてだと思う?』
少しだけ笑みを含んだような、柔らかな声音になぜか落ち着かなくなる。
耳元でこんな声を聞かされたらたまらない。
「先輩…じゃ、じゃあ、もしかして、私のことも?」
入学式で会ったのが初めてじゃないのだろうか。
どうして、前にも会っているなら会っていると教えてくれないのか。
訊きたいのに。
聞こえてくるのは健やかな寝息だった。
「先輩…? 寝ちゃったんですか?」
電話向こうで聞こえるのは、山沖の生活の音。
どうしよう。
電話を切ってしまうのがもったいない。
麻里子は携帯を握ったままベッドに横たわった。
途中で電池が切れてしまうかもしれない。
それでもやっぱりもったいない。
携帯を耳に当てたまま、目を閉じる。
聞こえてくる微かな物音と、静かな呼吸音。
「おやすみなさい。先輩」
それともう一つ。
「好きです。先輩」
唇だけで囁くように小さな声で告げる。
誰も聞いてない。
聞こえていない相手に向かって言うならこんなに簡単に言える。
今、初めて気づいた気持ちを正直に、麻里子は聞いてない電話向こうの相手に向けて言った。