第二話 忙しい人
時間の流れは速いですが、話の展開は遅いです。
波乱万丈なストーリーではないので、ハラハラドキドキをお求めの方にはおすすめできません。
梅雨だというのにその日は朝から晴れていた。
空には雲ひとつなく、太陽の光が燦燦と降り注いでいる。
ふぅ、と麻里子は大きく息をついた。
空は晴れているといっても、やはり梅雨は梅雨だ。
妙に蒸し暑くて額や首筋、背中にまで汗が出てくる。
電車を降りた途端、ムッとした熱気に包まれて、思わず冷房の効いている電車に戻りたくなったほどだ。
「姉ちゃん、こっち」
弟に促されて駅を出る。
駅前にある電器店に併設されたゲームショップの店先へと向かう。
弟の和佐が予約したゲームソフトの発売日が今日なのだ。
朝十時開店と同時に店頭で販売されるので、それを買いに来たのだった。
といっても今はまだ九時をすぎたばかり。
朝からこの暑さだと昼間はどうなってしまうのだろう。
このあたりは高層ビルが多い。
建物からの輻射熱も考えれば相当気温が高くなるはずだ。
早く帰りたいとは思うのだが、嬉しそうな弟の顔を見るとこれくらいいいかという気持ちになってしまう。
歳が離れているだけに可愛さもひとしおだ。
「うわ、並んでるなぁ!」
和佐がひとりごちた。
そのショップでは「予約特典」というものがつくらしく、そのショップ限定アイテムなのでそれを目的にゲーム好きな人たちがやってくるのだ。
「だ、大丈夫なの? こんなにたくさん並んでるのに買えるのかしら」
「大丈夫だよ。俺、予約カード持ってるもん」
予約者優先で買える整理券を見せた和佐はいそいそと行列の最後尾に向かう。
数十メートル進んだところで、最後尾らしいところを見やると麻里子は目を丸くした。
「山沖先輩!?」
「よお、珍しいところで会うな」
軽く手をあげたのはサークルの先輩、山沖雅也だった。
濃紺のVネックのTシャツにチノパンを履いている。すっかり夏の装いの彼は日に焼けた腕にゴツイ腕時計をつけていた。
身につけている服は周囲の男性と変わらないはずなのにオシャレに見えてしまうのは、彼の外見がなせる業なのか。
「どうしたんですか? こんなところで…」
「それはこっちの台詞だ」
苦笑した山沖はここが最後尾だと麻里子たちを並ばせた。
「先輩がゲーム好きだったなんて知りませんでした」
「それもこっちの台詞……じゃないか。瀬川もけっこうやるな」
「? 何がです」
山沖は腕組みをすると面白そうに傍らにいた和佐に目を向けた。
「彼氏連れか。年下っぽいけど、そっち系が好みだったのか?」
「ち、違います! こ、この子は弟です!」
どうしてそんなことを言うのか。
ちょっと考えればわかることだろうに、よりによって山沖に言われたくなかった。
何故そう思うのかはわからないが、とにかくそんな誤解をされたくない。
麻里子の意外なまでの剣幕に、山沖は軽くのけぞった。
「冗談に決まってるだろ? そんなにムキになるなよ」
「……す、すみません…」
時々ではあるが、山沖は麻里子をからかうような冗談を言う。それをいちいち真に受けてしまう麻里子も麻里子なのだが、なんだか意地悪されている気分になるのだ。
そうでないときの山沖は真面目で誠実な好青年なのだが。
「ま、そうでないとこっちもからかいがいがないんだけどな」
「ひどいですっ」
「そう言うなって。俺だって誰彼構わずってわけでもないんだから」
「え」
それってどういう意味ですか。
そう問おうとしたのだが、山沖はチラリと和佐を見ると軽く咳払いをした。
「で、弟くんは歳いくつ? 中学…高校生か?」
ああ、彼もそう思うのだ。
麻里子は苦笑いした。
見かけだけならそうなのだろうが。
「俺、小学校五年だけど」
軽いシスコン気味の和佐は姉が親しく話す目の前の男のことが気に入らないらしく、唇を尖らせていた。
「小学五年!?」
目を剥いた山沖は上から下まで和佐をとくとくと眺めた。
「なんていうか…最近の小学生はデカイなぁ。身長は何センチ?」
「百、七十一…だったかな」
「へぇ~、そりゃあこれからも背が伸びそうだなぁ。俺が百八十一だからちょうど十センチ違うのか。でも将来的には俺も抜かされそうだな」
山沖は感心したように言うが、和佐は背が高いだけで身体全体はまだ子どもらしく細い。もちろん声変わりだってしていないし、腕だって筋肉なんてついていなくて、太さだけなら麻里子と変わらない。
成人している山沖の身体の厚みと比べたら、和佐はまだまだ子どもだといわざるを得ない。
「弟くん、名前は?」
「和佐です。瀬川和佐」
「和佐くんか。カッコいい名前だな」
「そうかな」
照れたような和佐の表情に麻里子は山沖と弟の顔を交互に見た。
和佐は実は人見知りが激しい。慣れてしまえば平気なのだが、初対面の人とこんな風に気軽に話すことなどないのだ。
山沖がポンポンと質問を投げかけるので、和佐はそれに答えざるをえない状態になっているからかもしれない。
「和佐くんはこのシリーズ全部やってるか?」
「ううん、最初の二つはやってない。ハードがなくて…。それ以外は叔父さんが持ってたからやらせてもらった」
「そうだよなぁ。一番最初に発売されたのって俺が小学三年のときだもんな。移植でもされればいいんだろうけどさ」
ゲーム好きなら通じる話なのだろう。
山沖と和佐の話を要領を得ないながらも聞いていた麻里子は、あまりの暑さにため息をついた。
携帯電話の時計を見たらまだ販売開始まで三十分もある。
バッグの中からタオルハンカチを取り出して首筋に流れた汗を拭き取る。
「姉ちゃん、暑い?」
「ちょっとね」
心配そうに訊ねてくる弟に唇の端だけ持ち上げて見せた。
麻里子は暑いのが苦手だ。日よけに日傘をさして帽子をかぶっているものの、暑さをしのげるわけではない。地面のレンガタイルからは焼けるかのような熱が放出されている。
「瀬川、あそこの喫茶店で休んでたらどうだ?」
山沖も腕時計で時刻を確認してから電器店の斜め前にある喫茶店を指した。
「いいよ、姉ちゃん。あそこで休んでて」
「そう? でも…」
「ああ、和佐くんには俺がついてるから大丈夫」
「すみません。ではお願いします」
麻里子はその場を離れた。
だが、あまりの暑さにあることをすっかり忘れていたのだった。
冷房のよく効いた店内で、麻里子はアイスカフェオレを飲み干した。
一息ついてゲームショップ前の行列を見やると行列はかなり進んでいた。
よく見れば和佐と山沖の姿が見えない。
もうゲームソフトは買えたのだろうか。
買えて…
そこでハタと気づいて立ち上がった。
和佐はゲームソフトを買うお金を持っていなかった。
瀬川家では中学生以下の子どもにはなるべくお金を持たせないようにしている。
今日、麻里子が和佐についてきたのもそのためだ。
おそらく和佐の財布の中には千円札も入っていない。
和佐は買えずに困っているのではないだろうか。
早く行かなければと店を出たところで向こうから和佐が駆け寄ってきた。
「和佐! ごめんね、お姉ちゃん、お金を…」
慌てて財布を取り出したのだが、和佐の手にはゲームショップの袋があった。
「和佐、ゲームは…」
「あのお兄さんがお金貸してくれた」
「先輩が?」
行列の先頭が見えてきたとき、和佐は姉からお金を預かってこなかったことに気づいた。
「どうした?」
顔色が変わった和佐に山沖が訊ねた。
「お金……姉ちゃんが持ってるんだ」
どうしようと姉が入っていった喫茶店に目を向ける。
「君、全然持ってないのか?」
「うちでは高校生にならないと大きなお金を持たせてもらえないんだ」
「へぇ、今時しっかりしてる家だな……。じゃあここは俺が立て替えといてやるよ」
「え、い、いいよ! 俺、姉ちゃんにお金もらってもう一度…」
「いいからいいから。この暑いのに並びなおすなんて面倒くさいだろ? それに、別に買ってやるって言ってるわけじゃない。今度、君の姉さんから返してもらうから。それならいいだろ?」
山沖はそう言ってポケットに突っ込んでいた二つ折りの皮財布から一万円札を二枚取り出したのだった。
「それで、先輩は?」
「もう行っちゃった。これからバイトなんだって」
教育学部に在籍している山沖はアルバイトで塾の講師をしている。
叔母が経営している塾らしく、いろいろと融通がきく。教えているのは中学生なのだが、今日は土曜日なのでこれから授業があるのだろう。
「わかったわ。それじゃあ、お金はお姉ちゃんが大学に行ったときに返しておくから」
「うん。でも、あのお兄さん、いい人だね」
「そ、そう?」
弟にいい人だと言われて、なぜか麻里子は嬉しくなった。
どうしてだろう。
他の人に山沖のことを褒められると、まるで自分のことのように嬉しくなる。褒めたのが自分の身内だとなおさらだ。
「買ってやるなんて言ったら、カッコつけて見栄はってるとしか思えないよ。立て替えておくって言ってくれるほうが気が楽だし、なんかカッコいいじゃん。りーち兄たちと同じくらい背が高いし、筋肉ついてスポーツマンぽいなって思ってたら、俺と同じで柔道やってるんだって」
「そうなの? 知らなかった…」
そういえば山沖は背も高いが身体の厚みもあった。薄着になってくると、筋肉のついたほどよく引き締まった体格であることがよくわかる。マッチョというわけではなく、それなりの体格にしっかりと筋肉がついていて首も太い。何かスポーツをやっていたのだろうとは思っていたが、そこまで突っ込んだ会話をまだしたことがなかった。
「俺の背が高いから何かスポーツやってるかって話になってさ、柔道場に通ってるって話したら、お兄さんも今はあまり時間がないけど、運動不足にならない程度に道場に行くようにしてるんだって」
人見知りしやすい和佐がずいぶんと打ち解けたようだ。
数学教師志望だという山沖は人当たりがよく、子ども受けしやすいらしい。
それにしたって山沖と知り合ったのは自分のほうが先だというのに、何故和佐のほうが彼のことを知っているのだろうか。
なんとなく面白くない気持ちを抱えたまま、麻里子は和佐を促して家路へとつくのだった。
「先輩! 山沖先輩!」
まだ梅雨の明けない、もうすぐ夏休みにはいるという日の午後。
大学構内でようやく山沖を見つけた麻里子は彼の背中を追いかけた。
学部や学年が違うこともあり、広大な大学の敷地では顔を合わせることもめったにない。
サークル活動がなかったら、やろうと思えば一年間会わずにいられるかもしれないくらいだ。
サークル用の携帯番号は知っていたが、活動に関係ないことで電話をかけてはいけないと思っていたので、山沖が講義に出てきそうな日を狙って待っていたのだ。
「瀬川か。どうしたんだ?」
「どうしたんだじゃ…ないです。…あの、この前は、和佐に、お金を貸していただいてありがとう……っございました」
あまり体力のない麻里子はぜえはあと息をつきながら山沖に封筒を差し出した。
「すみませんでした。私がうっかりしていたせいでご迷惑を…」
「別によかったのに。お近づきの記念にプレゼントってことでも」
「そうはいきません」
麻里子は首を振った。
「あの日は和佐の誕生日だったんです。あのゲームソフトはあの子への誕生日プレゼントということでお金を預かってたんですから、先輩にお金を出していただくわけには…」
「そうか、じゃあ遠慮なく返してもらう」
山沖は差し出された封筒を受け取った。
「悪かったな。俺が余計なことを…」
「いえ! いいんです! 元はといえばうっかりしてた私がいけないので、むしろ助かったというか…」
「いや、そうじゃなくてさ、さっきのは余計な一言だったなと思って」
「え?」
「家族からの誕生日プレゼントってことのほうが嬉しいに決まってるよな」
そう言った山沖の表情はどこか懐かしげで寂しそうで、麻里子の胸がきゅっと締め付けられたような気がした。
「あ、いえ、その…」
何と言ったらいいものかと考えていると、目の前にビニール袋が出された。
「あの?」
「これ、和佐くんに渡してくれ」
「和佐に?」
「並んでるときにゲームの話したんだよ。そしたらこれやったことないって言ってたから、プレゼント。俺はもうクリアしちゃったし、中古ショップに売ろうか迷ってたんだ。ま、誕生日プレゼントというにはおそまつだけど」
「あ、ありがとうございます! 和佐はきっと喜びます」
裕福な家庭で育ってはいたが、子どものしつけには厳しい家なので、ゲームソフトもなかなか買うことができない。
お年玉やいまはまだ少ない小遣いを貯めて自分で買う喜びを知ってもらいたいという意図もあったので、それには納得していたが、こうして人から譲ってもらえるのは問題ないだろう。
「でもな、もうすぐ夏休みだからって、ゲームとか遊んでばっかりいたらダメだって言っておけよ? 勉強もちゃんとしないとな?」
教師志望の山沖らしい言葉に思わず笑った。
彼は知らないのだから無理もないだろうが、和佐の頭の出来は麻里子が小学生だったころと比べてもはるかに良い。
小学五年にして既に中学の勉強を始めていると知ったらどう思うだろうか。
「そうですよね。ちゃんと勉強もしないと。その点は言っておきます」
「瀬川はしっかりしてるよな。ちゃんと弟の面倒を見て、家の人も安心だろうな」
「そ、うですね。私が、いつも、和佐の世話をしてましたから」
苦笑いを浮かべた。
彼は知らない。
何も知らないのだから仕方のないことなのだ。
ほんの少しだけ小さな胸の痛みを抱えながらも、なるべく気にしないことにして話題を変えた。
「この前も言いましたけど、先輩って本当にゲームが好きなんですね」
「悪いかよ。子どものころからやってたんだからしょうがないだろ。これでも減ったほうなんだぞ。携帯ゲーム機なら持ち歩けるし、種類だって選んでるんだからな」
「忙しそうですもんね」
「これからもっと忙しくなるぞ。秋の学祭が終るまではな。それが終ったら俺たち三年は引退だ」
「そうなんですか!?」
そんなこと初めて聞いた。
麻里子の驚きように山沖は目を瞬かせると「知らなかったか?」と言った。
「就活で忙しくなるしな。一応四年生になってもサークルに籍はおくけど、代表は今の二年に譲ることになってる。時期はまちまちだろうけど、うちの大学のサークルはほとんどそうなってるんじゃないのか?」
「そうなんですか…」
それだと山沖と一緒にサークルで活動できるのはあと数ヶ月しかない。
意識したつもりはなかったが、声のトーンが落ちてしまった。
心なしか俯き加減になった麻里子を見て、首を傾げて顔を覗きこむように言った。
「なんだなんだ? そんなに寂しいか? 俺がいなくなると」
「はい」
反射的に頷いてしまったものの、問われた内容を把握した途端に顔が赤くなった。
「あ、あああ、あのっ、先輩がすごく頼りになりますのでっ、先輩がいなくなったら大丈夫なのかなっ、とか! ちょっと不安で!」
「そんな力いっぱい言い訳してくれなくてもいいんだけどな」
山沖は穏やかに笑うと麻里子の頭をポンポンと宥めるように叩いた。
「ホントにおまえは可愛いなー」
熱くなりかけていた頬がさらに熱を増す。
慣れているのだろうか。
それとも誰彼構わず?
山沖くらい見た目がいい男性から「可愛い」なんて言われたら、冗談でもお世辞でも本気で受け取ってしまいそうだ。
でも、この人はとても公平だ。
自分だけが特別扱いされているわけではないとわかる。
サークルの後輩だからあれこれと気を遣ってくれるけど、それは他のメンバーに対しても同じだ。
誰にでも優しいのかと思えば、そうでもなくて厳しいことも言ったりする。でもそれは突き放すような厳しさではないので、同年の学生たちにも信頼されていることはわかるし、後輩たちも懐いているのだ。
あくまでも公平。だから自分だって例外ではない。
だから誤解しては駄目だ。期待するなんてもってのほか。
「じゃあな、俺は次があるから」
「あ、はい。ありがとうございました」
教育学部棟がある方向へ向かっていく山沖を見送って、麻里子も踵を返した。
だが、すぐに振り返った。
どうして、期待するなんて考えてしまったのだろう?