第十四話 初めてのキス
時間の流れは速いですが、話の展開は遅いです。
波乱万丈なストーリーではないので、ハラハラドキドキをお求めの方にはおすすめできません
「せ、んぱい…あのとき、びょういんに…?」
あの大雨の日、両親が運び込まれた病院に彼もいたというのか。
「ぶつかったんだよ、病院の玄関で」
山沖はそう言ったが覚えていない。
学校にいたら伯父から連絡が入り、急いで病院に駆けつけた。
しかし、学校を出たあたりからの記憶がほとんどない。
気づいたら和佐が大声をあげて泣いていたので必死に抱きしめていた。
「俺にぶつかったおまえがものすごい勢いで床に倒れたんで引き起こした。だけどおまえはすぐに走っていったからな」
「す…すみませんでした……私、あのあたりの記憶がなくて…」
人にぶつかったという覚えすらない。
確かにあの後、両足の膝がものすごい青あざになっていて、どこかで転んだのだろうとは思っていたが。
「しょうがないだろ…あのときは。俺も気持ちはわかる」
「も、しかして…先輩、入学式のときも私のこと…?」
「ああ、すぐにわかったよ。綺麗な子は忘れないもんで」
茶化した言葉に笑おうとして失敗した。
くしゃりと顔を歪ませる。
「こ、れ…お母さん…の、なんです。な……なくした、と思って…お、お守りだからって…」
軽い男性不信に陥っていた中学三年生のとき、母がこの指輪を渡してくれた。
――これはね、お母さんがお父さんに初めてもらった指輪なの
――お父さんはこれを買うために初めて一生懸命アルバイトをして、お母さんにくれたのよ
名家の本家に生まれた父は子どものころから何不自由なく暮らしてきた。
しかし、母に贈るための指輪を自分で稼いだお金で買おうとして、アルバイトをしたのだ。
初めて自分が稼いだお金で買った指輪はそれほど高価なものではなかったけれど、母にとってはとても大切なものだった。
――だからね、麻里子もお母さんにとってのお父さんのような、素敵な男の人に出会えますように
そう言って指輪をお守りとしてくれたのだ。
「お、かあさんの、なのに、なくしちゃった…から、おか…さんをまもってくれなかっ…」
「それは違う」
山沖はきっぱりと言った。
きっぱりと言い切ったので、麻里子は瞬きを繰り返して涙を散らす。
「俺とぶつかるまでおまえは大事に持ってた。だから失くしたせいでお母さんたちが亡くなったわけじゃない」
大きな手が麻里子の頭を撫でる。
「それに、失くしてないだろ? 俺が持ってた」
「はい…」
ぎゅっと目を閉じると涙が零れた。
しばらく泣いていたが落ち着いてくると山沖が言った。
「本当はさ、何度も捨てようと思った。だけど捨てられなくて…もしも、本当におまえが落としたものだったらって思うと、どうしても捨てられなかった」
どうしてそんな風に思ってくれたのだろう。
聞きたい。麻里子はじっと山沖を見つめた。
「だけど、入学式の日におまえの名前を聞いたら指輪のイニシャルと違ってて…おまえのものじゃなかったんだと思った。けど、それでもやっぱり何故か捨てられなかったんだ」
「『K to S』は、『和志から千里へ』です。お母さんの名前はセンリなので」
「そっか、お母さんのだもんな。でも、よかった。ちゃんとおまえに返せたな」
「はい…ありがとうございます」
床に座り込んだまま、深々と頭を下げた。
「どうしてだろうな。捨てられなかったし、これが、絶対におまえのだと思ってたんだ…。イニシャルが違っても……もしかしたら、おまえのお母さんが捨てちゃだめだーって言ってたのかもな」
「お、おかあさん、そういうことしそうです…」
吹きだした麻里子にホッとした表情をした山沖が麻里子の頬の涙を親指で乱暴に拭った。
その仕草が妙に男っぽくて、それでいて優しかったので急にドキドキしはじめた。
気がついたらひどく近くに山沖がいる。
顔が赤くなりそうでそれを誤魔化すために慌てて言った。
「ほ、本当にありがとうございました。あの、何かお礼をさせてください」
「礼? ……礼なんて別に……」
山沖は首を傾げたが、やおら麻里子をジッと見つめた。
心臓の音がやけにうるさく聞こえる。
顔が熱くなってくるのがわかった。
「礼なら…これでいい」
山沖の顔が近づいてきたので目を丸くすると同時に柔らかくて温かいものが唇に触れた。
その温かさが離れていくと、目を丸くしたままの麻里子を見つめた山沖がもう一度触れてきた。
今度はしっかりと唇の形を確かめるかのように。
あまりにも近すぎてびっくりしてきゅっと目を閉じると、感触が生々しく伝わってくる。
しっかりと重ねあわせるかのように強く押し付けられ、上唇を吸われ、続いて下唇も同様に吸われた。
キスされるなんて初めてだ。
どうしたらいいのかわからずに、麻里子はただ硬直してされるがままになっていた。
ちゅ、と音をたてて唇が離れ、麻里子はようやく目を開けた。
ぷは、と息を吐き出す。
呼吸すらできずにいたので、少しクラクラする。
目の前に真剣な顔つきの山沖がいる。
瞬きして見つめると、そろそろと両手の指先を唇に当てた。
まるでそこだけが自分のものでないような錯覚に陥る。
感覚がおかしくなってしまったみたいに熱を帯びている。
恥ずかしくていたたまれなくて、唇を隠したまま俯いた。
「あのさ…」
山沖は俯いた麻里子を覗き込むように首を傾げた。
「もしかして、初めてだった?」
キスするの…
恥ずかしかった。
この歳になるまでキスの一つもしたことないなんて、どれだけ奥手なのかと思われたかもしれない。
その一方でキスを許したのはあなたが初めてだとも言いたかった。
それほど自然に受け入れられたのだ。
嫌なんてこと少しも思わなかった。
だから麻里子は正直になった。
上目遣いに見上げるとコクリと頷く。
すると山沖は微かに俯いて頭を掻いた。
「そっか」
なんだか照れくさそうに見えるのは気のせいだろうか。
そして大きく深呼吸したかと思うと手を伸ばしてきて頬に触れた。
長い指は頬を通り越して耳に触れ、スッと髪を梳いた。
「ふぇっ」
耳の後ろからうなじに少し触れただけなのに、体に電流が走ったかのように反応した。
変な声をあげてしまって慌てて口を閉ざす。
しかし耳の後ろをまさぐられ、体がビクンと跳ねる。
(やだ、何これ)
触られているのは耳なのに、腰骨のあたりからザワザワと何かが這い上がってくるような感覚。
「や」
力が入らなくなって、その手から逃れようとしたが逆に山沖が顔を寄せてきて動けなくなる。
わざとに決まっているが、耳元に唇を近づけて囁くように言った。
「耳の後ろのココ、弱いんだな?」
訊ねるような口調だが確信を持って触れている。
吐息が触れるだけで腰骨のあたりがムズムズする。
「やぁ」
カクカクと震える腕で山沖の体を押し返すがビクともしない。
そのうちにまさぐっていた指が離れてホッとしたが、そのまま顎を捉えて軽く上向かせた。
「口開けて」
どういう意味だろう?
口を開けたら次にどうなるのかわからなくて麻里子は首を傾げた。
どれくらい開けたらいいのかもわからない。
それでも言われたのだから開けなくては。
戸惑いながらもそろそろと唇を開きかけたところで、電話の呼び出し音が鳴った。
ぎょっとした麻里子は慌てて体を離して周囲を見回し、自分の鞄の中の携帯電話を探ったが、音はそこから聞こえてこない。
「俺か」
サイドボードの上に置きっぱなしになっていた携帯電話が鳴っていた。
ディスプレイを確認した山沖の顔色が変わった。
「はい。………え? はい、わかりました。すぐに行きます」
その返事に驚いた麻里子は思わず立ち上がる。どこへ行くというのか。
「瀬川、悪い。今日はもう帰ってくれ」
「どうかしたんですか? さっきの電話は…」
山沖の顔と携帯電話を交互に見ると、山沖は低い声で言った。
「病院から…お袋の容態が悪くなったって…」
「そんな…」
「悪いな、瀬川。送っていけないけど今日のところは…」
「私も行きます」
麻里子は急いでテーブルの上を片付け始めた。
「え、いや、おまえは別に関係ないから…」
「関係なくないです。私は先輩の体もおかあさまの体も心配なんです。私が車を運転しますから」
「おまえ、免許は」
「取ったんです! 先輩は着替えてきてください。私は食器を片づけてきますから」
大学祭以降、少し空いた時間を使って取った運転免許だが、早くも役立つ日がくるとは思わなかった。
時々家で練習していたので多少は自信があったが、病院が近かったこともあって何事もなく到着した。
「ユキ叔母さん」
病室前に行くと、三十代後半らしい女性がいた。山沖の言葉からして彼の叔母のようだった。
「マーくん、私のほうが早かったようね。…あら、こちらは…」
「大学の後輩。今日は俺の具合が悪くて、彼女に車を運転してもらったんだ」
「そうだったの。ごめんなさいね、ご迷惑をおかけして」
「いえ、そんな」
麻里子は首を振った。
ユキ叔母さんと呼ばれた彼女はやはり姉妹らしく山沖の母と似た顔をしていた。
「じいさまたちは…」
「すぐ来るそうよ。今の時間だとちょっと時間かかるかもしれないけど、アヤは仕事が抜けられないって」
「そう…」
病室内では医師や看護師たちが動き回っている。
いろいろな計器がベッドの周りに置かれている。
山沖は大きく息を吐き出して近くのソファにどさりと腰を降ろした。
「先輩、大丈夫ですか?」
「…ああ」
答えを聞いて失敗したと思った。
大丈夫かと訊いたら大丈夫と答えるのが山沖だ。
隣に座って額に手を当てた。
少し熱が上がってきているような気がした。
せっかく具合がよくなりかけていたというのに。
どうしたらいいのだろう。
そう考えたところで、自分はなんと馬鹿なのだろうと思った。
ここは病院だ。
彼の具合が悪くなったとしても、医師や看護師は他にもいるからそのときに診てもらえばいいのだ。
だから自分が注意して見ていよう。
「おまえの手、冷たいな」
「先輩の熱がぶりかえしてるんですよ」
額に触れている手を山沖が握った。
「悪い…ちょっといいか?」
「あ、はい」
肩に山沖の頭が乗る。
形のよい眉が辛そうに寄るので、少しでも熱が下がるならと頬に手を当てる。
「……ぁさん…」
近くに立つ彼の叔母には聞こえなかった小さな声を聞いて、また間違えたと思った。
体が辛いのではない。
母を失うかもしれないという恐れが彼の心を苛んでいるのだ。
泣きそうだった。
でも自分がここで泣いていいわけがない。
だからせめてここに、そばにいようと思った。