第十話 恋しい人
時間の流れは速いですが、話の展開は遅いです。
波乱万丈なストーリーではないので、ハラハラドキドキをお求めの方にはおすすめできません。
翌日。
午後から遊びにやってきた朱莉はお泊りグッズを持っていた。話し込みたいから泊まらせてくれという。
彼女と知り合ってから何度も泊まりにきているので、それについて抵抗はないし、いきなり泊まらせてくれと言ってくれるのが、遠慮のいらない関係になれているみたいで嬉しかった。
しかし、麻里子の部屋に入ってからの朱莉は神妙な顔つきになっていた。
「麻里子、驚かないで聞いてとは言えないから、先に言っておくね。ものすごくびっくりすると思う」
「う、うん…わかった」
ラグマットの上に向かい合って座り込んだ二人は温かい紅茶をすする。
一息ついた朱莉は意を決したように口を開いた。
「山沖先輩のお母さんね、病気…なんだって。しかもけっこう深刻」
「……………嘘」
嘘、としか言えなかった。
だって、あんなに明るくて元気そうなのに。
その彼女のことを思い出して眉を寄せた。そういえば、あれだけ元気なのに外で働いている様子はなかった。
ストーカーの件が解決するまで数回ほど山沖のマンションを訪れて、彼の母から少しだけ山沖家の事情を聞いてはいたのだ。
山沖が高校生のときに両親が離婚したことや、今住んでいるマンションは慰謝料がわりに譲り受けたこと。彼の学費は養育費として離婚した彼の父親が出しているということなどで、彼女が病気だとは一言も聞いていなかった。
自ら病気だという病人もそうはいないだろうが、山沖も一言も口にしたことはなかった。
「小塚さんね、あの人は知ってたみたい。山沖先輩が高校生のころからの付き合いで、先輩のお母さんがそのころから入退院を繰り返してて、苦労してたのもね」
「そう、なんだ…」
「先輩のお母さんって昔は通訳してたんだって。病気になってからは外で働けないから、在宅で出来る翻訳のお仕事をしてるらしいよ。でも、先輩の学費はどうにかなっても治療費とか日常の生活費が、ね……」
朱莉は言いにくそうにそこで言葉を切った。
「だから先輩、バイトを休まないんだ……」
「うん」
自分の小遣い分は稼ぐと言っていた彼。
しかし、自分の小遣いだけではないだろう。おそらくは生活費も負担しているはずだ。
できるだけアルバイトをやって、空いている時間は自宅へ帰る。
それは病気の母親を気遣ってのこと。
その上、サークル活動なんてやっていては体がもたない。
視界が次第にぼやけていって、涙が零れた。
「マリ、ちょっと、泣かないでよ」
焦った様子で朱莉が腰を浮かす。
「ごめん。でも、わ、私…先輩に迷惑をかけちゃったっ…!」
事情を知らなかったから、なんて言い訳にならない。
やはりあのとき、協力を申し出てくれたときに断るべきだったのだ。バイトやサークルのことで忙しいのもわかっていたのに、少しでも彼と一緒にいられたらという打算が働いたのだ。
両手で顔を覆って俯く。
「どうしよう……そんなつもり、なかった、のに…知ってたら、私…」
助けて欲しいなんて思わなかった。優しく守ってくれようとする腕にもすがらなかった。
それよりも、もっと彼の力になろうとしたはずだ。
「だからじゃないの?」
朱莉の言葉に顔をあげる。
「山沖先輩ね、すごく嫌そうだったよ。小塚さんにみんなの前でお母さんのことを言われて…。それで、私はあとで楢崎先輩に訊いたの。楢崎先輩って高校のころからの友達でしょ? 先輩、皆にいろいろと気を遣われるの嫌なんだって。できないことはできないって言うけど、自分ができることは全部自分のためだからって頑張ってたみたい。だから、そんな山沖先輩を助けようと三年の先輩たちはフォローに走りまくってたらしいのよ」
朱莉はそこで一旦区切って紅茶のカップに口をつける。
「だからさ、マリがそんな風に思うのって、先輩に対して失礼だよ」
「え」
「だって先輩、マリのこと迷惑になんて思ってないと思うよ? あんなに一生懸命に力になってくれたじゃない。あのときの先輩の顔を見せてやりたいくらいよ。ほら、マリのストーカー事件で一人になったときのこと! 血相変えて飛び出して行ったもの。だから迷惑になんて思ってないよ」
「じゃあ、じゃあ…私は何をすればいいのかな…先輩のためにできることって…」
「何もしなくていいんじゃない?」
「そんな…」
「マリは今まで通りでいいのよ、きっと。マリって意外と癒し系なんだよ? 夜にマリと話してるとさ、眠くなるのよね。あ、退屈だからって意味じゃないのよ。声が柔らかいから妙に安心するっていうか」
「あ…」
そういえば、と麻里子は思い出してクスクスと笑った。
「先輩とね、夜に電話で話してるときもそうなの。先輩、よく寝オチするから電池が切れたってぼやいてる。なんで起こしてくれないんだって」
「へー、そうなんだあ…って! それで私が夜に電話したらずーっと話中なのね!」
「電話かけてくれてたの?」
きょとんとした顔で麻里子が訊ねると、朱莉の眉が吊りあがった。
「話したいことがあるから電話するんでしょ! 先輩が寝オチしたなら電話を切ればいいじゃない! 電池が切れるまで通話にしたまんまなの!? っていうか、充電しながら電話しなさいよ」
「だ、だって…」
もったいないんだもん、と麻里子は頬を赤くした。
「先輩の寝息とか、部屋の音とか聞こえるんだもん…そういうのを聞いてたらドキドキしてくるから…」
「や……やらしー! マリってば!」
「やっぱり!? 私、やっぱりいやらしいの?」
両手で真っ赤になった頬を押さえた。
「う~ん、私はそういうシチュになったことがないからわからないけど、相手が山沖先輩だったら電話を切らずにおきたいかもねぇ……でも、マリもそういうことするのね、意外といえば意外」
朱莉は何故か楽しそうに麻里子を見た。
「ねえねえ、それで? 山沖先輩とは何を話すの?」
「何をって言われても…その日の出来事とか、アルバイトのこととか、大学の講義のこととかかなあ」
「はー…見事に色気のない会話だわね」
「いっ、色気って…何を話すの?」
山沖との会話は楽しい。色気云々と言われても、そんな会話にすらならないし、どうしろというのだ。
「例えば、先輩好きですー! とか?」
「そっ! それは! 色気のある話じゃなくて、告白じゃない!」
頬が熱くなる。
実はひっそりこっそりと何度か告白している。電話向こうの相手が確実に眠っているときに、電話越しに小さな小さな声で。
まるでそれを知られてしまったかのように恥ずかしくなった。朱莉がその事実を知っているわけではないのにだ。
「先輩にもそんなこと言われたことないの?」
「ないわよ…。だって、そんなのとは違うもの」
仲の良い先輩と後輩の関係だ。
ときどき電話で話したり、メールを交換するだけの仲。
それくらいなら友達同士だってやるではないか。
今はまだ、それだけで十分だ。
「マリがそれでいいならいいんだけど…本気なら、きっとそのうち物足りなくなるよ?」
「……」
麻里子は黙って微笑んだ。
人を好きになったことは初めてではない。でも、いままでその気持ちは憧れみたいなものが強かった。
けれど、今、山沖に対する気持ちは憧れ以上だ。
ときどき、泣きたくなるほどに好きだと思うことがある。
想いをすべてぶちまけて、彼から同じだけの気持ちを返されたらどんなに嬉しいだろうかと。
その反面、怖さもあった。
もしも振られたらどうなるのだろうか。
自分が想っているほど、彼からは想ってもらえないだなんて悲しすぎる。
それを考えると今は彼に何も言えない。
振られたとしても、それを受け入れるだけの強さが欲しい。
何を言われても、どんな事実でさえも受け止められるだけの強さが欲しかった。
彼のことを本気で好きならば、きっとできるはずだ。
何も答えずにいると、朱莉は不安と不満が半々のような表情を見せたがそれ以上は何も言わなかった。
気を取り直したように表情と話を変えた。
「そうそう、話が逸れちゃったけど、告白で思い出したわよ。あの小塚さんなんだけど、やっぱり山沖先輩の元カノなんだって」
「…やっぱり」
「楢崎先輩たちに聞いてたじゃない? 彼女が留学したから別れたって」
「うん」
「でもねー、小塚さんは山沖先輩に未練あるっぽいよー」
「そ、そうなの?」
嫌な感じに胸が痛くなる。
「バレたら怒られるかもだけど、立ち聞きしちゃったんだよね。トイレに行った山沖先輩を小塚さんが追いかけていったから」
「ちょっと、シュリちゃん」
「だって気になるじゃないっ。マリを安心させてあげたかったし…」
そう言われたら麻里子は何も言えなくなる。
事実気になっているのは確かなのだから。
「山沖先輩は小塚さんとヨリを戻すつもりはないってハッキリ言ってたよ」
「そう…なんだ…」
胸の痛みが急に止まった。知らず抱きしめていたクッションが床に転げ落ちる。
「それにね、こういうこと言うのはあんまり好きじゃないんだけど、小塚さんは三沢先輩とか、三年の女子たちにはあまりウケがよくなかったみたい。すっごい美人でお金持ちのお嬢様らしいんだけど、男との付き合いがけっこう派手だったらしくて、三股か四股かけてたみたい。山沖先輩も小塚さんに逆ナンされて付き合い始めたんだって」
「えっ!?」
「マリが驚くのも無理ないよ~。私もびっくりだもん。だから、小塚さんが留学したあとで女子の先輩たちが告白しまくったんだって。誰かと付き合ってくれるだろうって。でも、先輩は誰とも付き合わなかったでしょ。だから、一部の人たちは小塚さんが帰ってくるのを待ってるんじゃないのかって噂してたみたいだけど」
「きっと……本気で好きな人がいるのよ」
「……マリ?」
「本気で好きになったから、他の人じゃ駄目なのよ」
自分と同じなのではないか。
好きな人がいるのに、どうして好きでもない人と付き合わねばならないのか。
そう考えたら付き合えるわけがない。
「えーっ? だったらさあ、なんで告白とかしないわけ? 山沖先輩が相手に告白したら一発オーケーって感じがするんだけど」
「そうかも、ね」
「そもそも山沖先輩の好きな人って……」
「シュリちゃん?」
「……あれえ?」
朱莉は麻里子をジッと見つめると、腕を組んで頭を捻った。
「あれ? 違うの? もしかして、え、嘘」
なにやら独り言を呟き始めた朱莉をどうしたのだろうかと見つめていたが、床に視線を落とす。
(好きな人、か……)
麻里子も大学に入ってから何人かに付き合って欲しいと交際を申し込まれたが、皆断っていた。
サークルの先輩や、同学年の男子、同じ学部の男子学生や、名も知らぬ学生など。
好きな人がすぐ近くにいるのに、どうして名前も知らない人と付き合わねばならないのか。
人によってはそういうこともできる人もいるのだろうが、自分は違う。
だから、山沖が「好きな人と付き合いたい」という気持ちは理解できるのだ。
山沖に振られたらきっぱりと諦めよう。好きだから、好きという気持ちに蓋をしようと思うほどに。
だって、迷惑だとか思われたくない。嫌われたくないのだ。
でも今は勇気が足りない。
もう少しだけ、もう少しだけ今のままでいたい。
ほんのちょっぴり幸せで、ほんのちょっぴり切なくて苦しい時間を――
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