中章
入ったのは大手チェーンのファミリーレストランだった。
二人席に案内され、顔を見合わせる形で座る。
私の頭の中では、ずっとさっきの言葉が繰り返し再生されていた。
聞き間違い?
違う。あんなにはっきりと発音していたんだ。
呆然としてしまって、まだ上手く頭が回らなかった。
「前に文化祭の準備でさ、新山さんが看板作ってるの見かけたよ。ちょっと地味目な女の子と一緒に作業してたね。覚えてる?」
看板……そう言えば、去年そんな物を作った記憶がある。もっとも、殆ど一緒に作業していた女の子が作り上げていたんだけど。
あの子の名前は何て言ったっけ。去年の事なのに、顔もはっきりしない。
「頑張ってたね」
「……ありがとう」
「新山さんじゃない。頑張ってたのは一緒に作業していた女の子の方だよ」
その言葉に、私は思わず唇を噛んだ。
「覚えてない? 新山さんはあの子が一生懸命看板を作っている間、仲のいい友達や近くの男子と話してばかりいたよね」
「それは! ……私は絵とかあんまり得意じゃないし」
「ごめんね、あんまり役に立たなくて。私こういうの苦手だから助かっちゃった。最後に新山さんがあの子に言った言葉だ。そうやって言う事で自分の中で負担を軽くするんだね。人の為じゃなく、自分の為に謝ってお礼を言う。汚いね、きみは」
「違う!」
「違わないよ。誓って言えるけど、新山さんその時謝った女の子の名前覚えてる? 顔は?」
「そ、れは」
思い出せない。
だって、そんな一年も前の事なんて。
「青木知美。今日、僕の教室の前で新山さんがぶつかった女の子だよ」
「……うそ。だって」
「だって、全然覚えてなかった? 新山さんが覚えてなくても相手は覚えてるものだよ。そりゃあ、謝り返す気になんかならないよね。人の気持ちを踏みにじれば相応の返しはくるさ」
言葉一つ一つが心に刺さる。
今日呼んだのは、こういう事を言う為?
だとしたら、酷すぎる。
「……酷い」
頭で止めるつもりが、口から洩れていた。
「そうだね。今日の事に関して言い繕う気はない。明日からどういう噂を流してくれても構わないよ。否定しないからさ」
「なんで、そこまでして」
「知美は確かに印象に残るタイプじゃない。でも、昔からの幼馴染だから話す機会は多いんだ。それでも、文化祭の件だけならただ知美の愚痴を聞いて、そこで終わってた……三週間前にさ、僕と僕の男友達二人、新山さん、そして新山さんの友達の五人で話した事があるだろ。その時、どうしても許せない事があってね」
「……何?」
「左手、出してくれる?」
さっきと同じ事を言われ、私は素直に左手を差し出した。
今なら手をつなぐなんて事が目的じゃない事は分かる。
彼は私の手首からそっと腕時計を外した。
その下には、手首の皺と平行に赤い線が一本、真っ直ぐに走っている。
ちょうど手首の付け根の辺りで、普段は腕時計で隠している。
昔付けたリストカットの痕だ。
「あの時、新山さんはこの傷痕を同情を集めるように見せたよね。昔は傷つきやかったってさ。でもね、本当に死のうとする人間はそんな場所は切らないんだよ」
彼は私の傷を指差し、それから今度は手首の親指側の下、手の脈を計る時に触れる位置を指差した。
「ここと首筋、内ももの付け根。ここが動脈が集まっている場所だよ。静脈を切ったぐらいじゃ人は簡単に死ねない。致死量に達する前に傷口が房がるからね。湯船に浸けるとかすれば別だけど。だから、この位置じゃ死ねない。切った感触で分かるだろう。嫌いなんだ。ポーズやファッション感覚で自傷行為をして、それを自慢するタイプの人間がさ」
そうだろう。言う通りだ。
この傷は死のうと思って付けたものじゃない。
でも、一つだけ勘違いしている。
私の思いを置き去りに、彼はの言葉は止まらなかった。
「知美と幼馴染だって言ったろ。本当はもう一人いたんだ。生きたくて仕方なかったのに、三年前に病気で死んだ女の子がね。彼女は必至に生きようとしてたけど、一時期病気の辛さで何度か自殺を図った事があった。そうだろうね。大の男でも悶絶するぐらいの痛みが毎日定期的に襲ってくるんだ。辛くないわけがない。それでも、最後はやっぱり死にたくないって、そう言って泣いたんだ」
言い終えると、新川一樹は映画館で見せた複雑な表情を浮かべていた。
きっと、悲しいなんて感情はとっくに通り越している。
「……それが、私が今日呼ばれた理由」
「そう。僕が新山さんを嫌いな理由だ。自分の言葉で人がどう感じるかとか、あまり考えてなさそうだったからさ。ただ、自分がどういう人間なのか自覚させたかった。これは僕の自己満足だから、最初に言った通りこの件に関してはいかなる報復も受け入れるよ」
「私に、死んでほしいと思ってる?」
「思ってないよ」
「うそ」
「うそじゃない。死ぬなんて逃げてるだけだろ。自分の事を自覚して、その上で生きてこそ、今日僕がやった事が報われる。だから、」
続く言葉は即座に頭に浮かび、実際その通りの言葉が現実に降ってきた。
「死んだら許さないよ」
息が漏れた。
そこまで嫌うか。
ショック過ぎて言葉も出ない。
うつむいた拍子にテーブルに滴が落ちて、そこで初めて自分が泣いている事に気付いた。
ああ、そうか。
これは泣くところか。
私は目元をぬぐって、必死に涙が零れるのを堪えた。
ここで泣くのは負けだ。
「それじゃ」
そう言って新川一樹は席を立った。この席の伝票を持って、二人分払っておく旨だけを私に伝えて。
新川の姿を見えなくなるまで目で追って、それから私はテーブルに両手をついた。
その上に顔をうずめる。
押さえようもなく、身体が小刻みに震えた。
せめて、声だけは出さないようにする事が精一杯だった。