転
目を覚ますと、僕は空を飛んでいた。いや、宙に浮かんでいたという表現が正しいか。ここはどこだ。僕はなぜ飛んでいる。よく思い出せ。俺は確か深夜バスに乗っていたはずだ。そうだ。そこで変な夢を見ていたんだ。夢に違いない、由実があんなところにいるはずないじゃないか。ということはこれも夢の中なのか。明晰夢ってやつだな。
「気が付いたようね。仕方ないわね。普通に生活してたらこんな経験することないものね」
声のほうに視線を向けると、そこには由実が僕と同じように浮かんでいた。由実によく似た何かが浮かんでいた。
「また、お前か。いったいここはなんなんだ。なぜ僕の夢に現れる?」僕は少し感情を高ぶらせながら少女に迫った。
「夢? これは夢なんかじゃないわ。現―うつつーなのよ。わかる? げ・ん・じ・つ」その言い草にいらついた僕は語気を荒げながら、言葉を放った。
「夢でも何でもいいから早くここから出せ!」
「そんなに焦らないで。今からあなたにいいものを見せてあげる。来た来た。ほら、下を見てみて」
少女の視線の先に目を向けると一人の女性が遠くからこちらに走ってくるのが見えた。太陽が沈んだ後なのか、辺りは暗く、三日月の月光のみが、闇の中で輝いていた。女性が僕たちのちょうど真下のベンチに腰掛けた時、ようやくそれが誰なのか把握することができた。辺りをよく見渡すと、なにか見覚えがある。そうだここは美貴の家のすぐ近くの公園じゃないか。こんななじみ深い場所を忘れるとは。
「美貴?」
「そうよ。あれはあなたがかつて愛した女性でもあり、由実ちゃんの母親でもある田之上美貴さんよ」
たしかにあれは美貴に間違いないが、今と少し雰囲気が違う。
「当たり前よ。あれは10年前の田之上美貴さんよ。しかし、驚いた。今も綺麗だけど、10年前の彼女めちゃめちゃ綺麗ね。相当モテたんでしょうね」
10年前・・・ 僕がまだ研修医で、看護師見習いの美貴と付き合ってた頃だな。それなのにあいつは、あいつは僕を裏切って。絶対に許さない。許してなるものか。
「見て。もう一人こちらに向かってくるわ」
見ると入口から定史がこちらに向かって走ってきた。奴の顔を見た瞬間、僕の中に眠っていた憎悪の炎が瞬く間に熱を帯び始めた。定史は親しげに僕の美貴と話し始めた。美貴も心の底から楽しそうだ。そうだ、あれこそが僕が欲しかった彼女の笑顔。手に入れることが出来なかった美貴の笑顔だ。
「あいつ、僕と付き合ってるときは、一度としてあんな明るい表情、僕に見せてくれたことなかったのに」そう語るうちにますます自分がみじめになり、この場を1秒でも早く離れたいと思った。
「ねえ、何とかしてよ。あなた彼と親友なんでしょ。ガツンと言ってさ。そうしないと、あの人ますますエスカレートしちゃうよ」今まで聞こえなかった二人の会話が突然、僕の耳に入ってくるのを感じた。隣の少女が笑みを浮かべたが、僕はまったく気に留めず、二人の会話に集中していた。
「そうだな。さすがにここまで酷くなると放っておくわけにはいかないもんな」
「そうよ、変な電話を一日に何回もかけてくるし、この場所から私の部屋ずっと見てるし。それもニタニタ笑いながらよ。わたし、怖くてカーテン開けることすら出来ないんンだから」
どうやら、美貴はストーカーの被害に遭っているようだ。そういうことなら、赤の他人の定史なんかに相談せず、恋人である僕に相談してくれればいいのに。
「あいつは夢中になったら周りが見えなくなってしまうことがあるからな。わかった。今度、強く言っておくよ」
そういって定史は美貴の肩をそっと抱いた。俺の美貴の、俺だけの美貴の肩を。そして二人は静かに唇を重ねた。何度も何度も。「見て。私たちのほかにも、二人の愛を盗み見る失礼な輩がいるようね」しばらく沈黙を保っていた少女がこの時を待っていたかのように突然、言葉を発した。少女の指差すほうには、冴えない眼鏡をかけて、これまた冴えない服装の僕、遠藤幸也が、木の陰から恐ろしい形相で二人をにらんでいた。
その姿を見て動揺した僕に、少女はさらに追い打ちをかける。「どう? 自分を客観視してみて。みっともないわよね。自分の親友の彼女を勝手に好きになって、勝手に自分が美貴さんの彼氏だという妄想に支配されて。これでよく自分はプロの医者だなんて言えたもんね」
「違う! 違う違う違う!! これは勝手にお前が作り出した幻だ。僕は美貴と付き合っていたんだ」
「いい加減にしなさい! 自分の思い通りにいかない事実を認めず、そこから目をそらし、なかったことにしようとする。挙句、二人の最愛の娘を死に追いやった。あなたがしたことは決して許されるものではないのよ」
「美貴の遺伝子は僕のものだ。それを定史なんかに渡すわけにはいかない。どうせあれだろ定史が無理やり美貴をレイ・」少女が僕の言葉を遮る。
「もういい。あなたのそんな言い訳を聞くために私はこの世界に降りてきたわけじゃない」