(086)BECOME HAPPY!(1)
(1)
“ジズ”は、プリズムの魔法陣を睨んでいる。
2枚の輝く魔法陣が、ジズの視界を覆い、その進路を完全に塞いでいる状態だ。
ミラノはそれを確認して、2歩後ろにいるエステリオに声をかける。
「エステルさん、パールをお願いします」
全部を言い切る前に、エステリオはさっとパールフェリカの腕を引き上げ、その背にひょいと負い、立ち上がる。
同じように立とうとしたミラノは、しかし下を向いて目を閉じ、右手を床に付いた。たっぷりと10秒数える間そうしていると、ネフィリムがつけた護衛のレザードが、屈んでこちらを覗き込んで来た。
「ミラノ様? どうかなさいましたか?」
声にミラノは目を開き、顔を上げた。酷い立ちくらみがして、エステリオの後をついて立つ事が出来なかったのだ。
「いえ…………パールは?」
ミラノが立ち上がろうとすると、レザードがそっと手をかしてくれた。ミラノの問いには、視線だけを向ける。バルコニーから室内に入ってすぐの辺りで、待ってくれている。エステリオにとって、パールフェリカとミラノはセットらしい。
重厚な鎧に身を包んだラナマルカ王らは皆、魔法陣の辺りを指差すなどしてざわめいている。その声を一つ一つ聞き取る気には、ミラノはなれない。今はまだ、やらなければならない事が残っている。
室内に入り、人目の無い柱の影、死角へと入り込むと、ミラノは足を止めた。その足元に、外のものと同じ七色の魔法陣を生み出す。輝く魔法陣が4人を下から照らす。
傍に居たレザードが慌ててミラノの手を離し、一歩退いた。
「これ!?」
ジェスチャーが通じるのかわからないが、ミラノは人差し指を唇に縦に当てた。
「…………!」
目を丸くしているエステリオと、あんぐりと口を開けているレザードの前で、ミラノは回転するその魔法陣の中にストンと飲み込まれ、消えた。
「……え!?」
レザードが追いすがり、膝を付いて拳で床を打った。だが、ミラノの消えた魔法陣に拳はただすり抜け、床は硬いだけだった。3度殴った頃、魔法陣は掻き消えた。
「そんな………………返還術? え? 召喚の陣でしたよね??」
レザードは呟き、エステリオを振り返った。彼女は背中のパールフェリカを揺らしながら、首を縦に大きく振るばかり。
「今のは、返還の文様ではなく、召喚の文様の、裏面……? ……………………逆、召喚……? いやでも……そんなまさか……」
魔法陣の輝きが失せて、室内の片隅は暗くなる。薄暗い中、エステリオとレザードは、しばらく身じろぎも出来なかった。
“炎帝”は、あの巨大な怪鳥に激突され、大きく傾いでネフィリムを落とした。
──死んだと思った。
ところがすぐ暗闇に飲まれて気付けば、この樹の、自分の身長と変わらない高さにある枝の上に居た。慌てて身を起こそうとして、地面にずり落ちた。どことも言えない、体が痛くて、とりあえずその樹の幹に腰を下ろしていた。
周囲は斜面のある森。背の低い多種の草や低樹木があちこち伸びているが、獣道さえ見えない。木々が間隔を開けて生えているが、上の方の枝と葉は、溶けている。ジズの光線が掠ったのだろう。
見上げると、怪鳥はまだ空を埋めているが、あの虹色に輝く魔法陣もまた、ゆるゆると回転を続けている。空は明るく、その明度そのものが、怪鳥と魔法陣の対立の力関係を示し、既に怪鳥に分が無いものと思わせる。怪鳥は魔法陣を睨んだまま、ゆったりと羽ばたいているだけだ。困惑でもしているのかもしれない。
風に、かろうじて残っていた木々の葉が大きく揺らいで、時折ぱらりぱらりと落ちてくる。
ここから王城へ徒歩で帰るには遠く、迎えを期待するには危険すぎる。
どうしたものかと息を吐き出した、その時。
空を見上げていたネフィリムの傍、5歩の距離に、虹色に輝いて回転する魔法陣が生まれた。
ぎょっとしてそちらを見ると、さらに驚かされる。
そこからにょきり現れる──ミラノ。
「!?」
魔法陣の輝きに照らし出されるその姿は“人”と思えず、慌てて退いてしまって、もたれていた樹でしたたか背を打った。地面の土にブーツで掻いた跡が残った。
目にした事が信じ難い。幻ではないか。
現実ならば、とんでも無い事だ、何をしたのかよくわからなくとも、とんでも無いはずだ。
ミラノは突然、ここに召喚されたように現れた。誰が召喚した。いや、ミラノを召喚出来るのはパールフェリカしかいない。
この深い森の、ネフィリムが落下したという場所を誰が特定してパールフェリカを連れて──いや、この短時間にそれは不可能だ。それに、こんな危険な、ジズの足元に来れるものか、空を舞い飛んだとしてもジズに見つかり撃ち落される。それでも、ネフィリムは辺りを確認した。
ミラノ1人しか、居ない。
あっさりすぎる。唐突すぎる。
──幻でも見ているのか、自分の方が幻にでもなったか、理解が追いつかない。
「……ミラノ……?」
「はい?」
ミラノの足元の魔法陣は、彼女が足を踏み出すと地面に溶けるように消えた。ざりざりと、土と草を踏む音がはっきりと聞こえる。
「ミラノ……何をしたんだ?」
問うとミラノは足を止め、一度瞬いた後、緩く首を傾けた。
「……よく、わかりません」
その、いつもの仕草にネフィリムはぷっと笑う。
「……つ……いたた……」
反動で、どこかの怪我が軋む。樹にもたれかかるネフィリムの真横までミラノは近寄って来る。痛みがちゃんとあるのだから、やはり自分は死んだのでも、幻になったのでも無さそうだ。
ミラノも、半透明の“霊”などではないし、実物のようだ。幻を視ているわけでも、ないらしい。
「──無茶をしますね。危険だからフェニックスには乗らないと言っていませんでしたか?」
隣で両膝を折ってしゃがむミラノから、ネフィリムは顔を逸らして表情を隠す。
「あの状況では仕方がない。私がなんとかするしかなかった」
ミラノはほんの少し沈黙して、立ち上がった。
「人を呼んできます」
そう言って去りかけるミラノの腕を、片膝を立てて追ってネフィリムが掴んで止めた。
「……痛くないんですか?」
「いや……痛い……あちこち……」
膝立ちのネフィリムに引っ張られ、立ってはいるがミラノは腰を曲げている。
「おとなしく座っていて下さい」
そんな言葉が出るのなら、やはりあの魔法陣はミラノが出したのだろう。先程ここに現れた時の魔法陣も、上のものと同じ色だった。座っていろと、あれがあればもう大丈夫と、そう言っているようだ。
「ミラノが横に居るなら、座る」
「……………………………………なんだか……いえ、いいです」
ミラノは何か言いかけてやめた。
樹にもたれるようにネフィリムは再び腰をおろし、ミラノは握りこぶし程の距離を開けて、隣に座った。
「パール、気絶してしまいました」
ミラノの言葉にネフィリムはやや落胆する。
「召喚術を使ったのか」
ミラノは緩く首を傾げる。
「……少し」
空にはいまだ2枚のプリズムの魔法陣がキラキラと残っていて、端からじわじわと光を放つ。輝きは鱗粉のように、雪のように辺りに降り注いで、世界を明るく照らし続ける。誰もが、既に日が暮れ、空が黒い雲に覆われている事を、忘れてしまうほどに。雪解けの山を、朝陽が溶かすように、見上げれば、どこまでも美しい。
「………………」
ミラノの少しという程度がわからない。あれだけ巨大な魔法陣を2枚も張っておきながら。
「あなたが飛び込んで……みんな、心配していましたよ」
「──ああ…………。だが、ああしなければ護れなかった」
「いざとなれば、リヴァイアサンの時のように──」
「だから、パールも君も、護れなかった。ああしなければ……」
バレなけれあば良いという発想で、異なる色の魔法陣を使うという離れ業をミラノはやってのけたが、それは結果だ。
「………………エルトアニティ王子、ですか」
ふっと笑うネフィリム。
「弱国はつらいなぁ」
珍しい、自嘲めいた笑みに、ミラノは口を挟めない。国の事は、わからない。
「…………」
「だが、ミラノは色の違う魔法陣で召喚術を使ってしまうんだものな、常識からかけ離れすぎている。1人1色以外、無いんだぞ?」
ネフィリムはミラノの方を向いて、口角を上げて言った。その目線がふと、ミラノの襟元に移る。
「それは……クーニッドの水晶?」
ミラノの鎖骨より少し下辺り、ネックレスのペンダントが光っていた。石の中心から、うっすら光が漏れ出るような、そんな光り方だ。これは、クーニッド産の水晶だとミラノは聞いている。
「ええ。そういえばパールも言っていました、時々光る、と」
「クーニッドの水晶の光は、“神”の言葉とも言われているが。こんな小さなものまで光るのは、どういった意味だろう。大岩が光る時、神の召喚獣が召喚されるとしか伝わっていないから」
「そうですか……」
ふと、ミラノは空を見上げる。怪鳥ジズはミラノの張った魔法陣を見つめている。まるで、何かに命じられでもしているかのように。
「少し時間がかかっていますが、もう少し……」
水平にあった魔法陣が、キラキラと光の粉を撒き散らしながら、じわじわと動き始め──……一気にぐるんと270度回転する。ジズを挟み、飲み込みながら、垂直にあった魔法陣とぴたりと、あわさる。
ジズは、水平にあった魔法陣に押され、垂直の魔法陣の中に押し込まれるように、消えた。返還されたらしい。
垂直の魔法陣が一枚、空に残った。
「………………………………………………………………」
ネフィリムは、呆然と、見上げる事しか出来ない。呆気無さ過ぎて、“神の召喚獣”という重みが、そこらの石粒より軽くなったのではないかと、錯覚した。
「抵抗しませんでしたね。還るつもりになってくれていたんでしょうか」
さらりと言ってのけるミラノを、ネフィリムは恐る恐る見る。
「本当に、君は何者なのだろうね」
「…………ヤマシタミラノ、ですが?」
淡々と言うミラノに、思ってた通りの答えだとネフィリムは笑った。