(082)久遠の呼び声(3)
(3)
パールフェリカの部屋を出て、廊下をしばらく進んで角を曲がった。衛兵から見えない場所で、シュナヴィッツは静かに壁にもたれかかった。左手は兜を持っているので、右手で額を押さえた。
──本当はその真横に居て、護りたい。
刻々と、時が過ぎれば過ぎる程、その傍に居たいという気持ちが膨れ上がる。離れたくない。
──……誰にも…………。
シュナヴィッツはそれを押さえ込み、額から手を下ろした。
何よりもまず国を護る。父王を、兄を護る。
自分の役割はまずそこにあったはずだ。
一人で居たら、いらぬ考えが広がる。
シュナヴィッツは足早に歩き、しばらくして広い廊下に出る。
「シュナヴィッツ殿下!」
声に振り返れば、別の角から兜だけ手にして、フルアーマーの男がガチャガチャ音をさせながら駆け寄って来る。シュナヴィッツは彼が隣に来るまで待ち、並ぶと2人で歩き始めた。
「スティラード、早かったな」
シュナヴィッツはホッとして、男を見た。
薄い青紫の鎧に身を包むこの男の名をスティラードという。シュナヴィッツの2人の護衛騎士の内の1人だ。
護衛騎士らの中では最年長の28歳、実戦経験も豊富だ。ネフィリムがサルア・ウェティスを任されていた頃の護衛騎士として、共に詰めていた。その後、シュナヴィッツがウェティスでの常勤に代わる。スティラードは王都へ戻らず、ネフィリムの命でシュナヴィッツの護衛騎士に異動した。
騎士の中で最上位にあたる親衛騎士の精鋭にあって、その最年長であるスティラードは、全ての騎士達の一番人気。ガミカで最も憧れを抱かれている騎士である。そういった事情から、サルア・ウェティスで彼の意見は重要視されている。
一番人気の騎士とはいうが、召喚獣が優れていた事による庶民からの成り上がり。貴族様との交流を嫌がって前線を好むスティラードは、事務仕事が得意では無い。がさつと言えば言葉は悪いが、おおらかで爽快な男だ。日に焼けた肌に短く刈り込んだ金髪、淡い翠の瞳をしている。
「ブレゼノは?」
シュナヴィッツの問いにスティラードはタハハと笑った。
「もうネフィリム殿下の使いっ走りしてますよ。シュナ殿下の護衛でも容赦無し、あの方は相変わらず人使いが荒い!」
言葉には、親しみが込められている。
「俺は一度シュナ殿下に顔を見せて来いっ言われて来てます。それかーら……アルフは、国王陛下とネフィ殿下の間を行ったり来たりしてるようですし、リディクディは殿下の傍で控えていますね。エステリオはパール姫から離れないでしょうし。あれ? レザードはどこに居るんだ……?」
最後は独り言のように呟いた。
「レザードはミラノの護衛についている」
「ミラ……ああ、あの不思議ネーちゃんですか」
「不思議?」
「リヴァイアサン、還したでしょう?」
ミラノの事らしい。シュナヴィッツにとっては既に不思議と呼べる存在ではなくなっていたので、ピンと来なかった。スティラードはリヴァイアサン襲来の際もサルア・ウェティスに居て、便乗したモンスターに抗する軍を指揮していた。
「ああ──それは、内密という事になっているから」
「大丈夫です、他言はしませんよ。それはそうと、今回もそうなるんですか? 殿下」
「今回は──ならない」
「えっ。マジですか。今回も“神”の召喚なんでしょう? 戦うんですか?」
「仕方ないな」
「なんでまた……」
「エルトアニティが来ている」
「げ……また首つっこんできてんですかぁ。大国かざして鬱陶しい限りですねぇ」
堅っ苦しすぎないスティラードのあけすけな物言いに、シュナヴィッツは笑った。
「気持ちはわかるが、言うな」
「まぁいざとなったら、不思議ネーちゃんに頼るんでしょ?」
「どうだろうな。兄上はなんとかするつもりでいるみたいだが。荒野のサルア・ウェティスとは事情が違う。ここは王都だ。民は既に避難を進めている……。返還が可能ならば、それが一番被害は無いと思うのだが」
それが成功するかどうかは、不思議ネーちゃんことミラノにさえわからないだろう。いつも“やれば出来た”と言う位、本人が不確かに危ない橋を渡っているという感じだ。ふと、記憶の中のミラノの、笑みやら涙やら、いくつもの表情が蘇ってきて、シュナヴィッツはあわててこめかみを2度トントンと打って追い出した。
「ネフィリム殿下が采配できなくとも、可能性のある手段であれば、国王陛下が下命されますかね。しかし、サルア・ウェティスを飛び越えて、いったいどうやって大量にモンスターが流入してるんでしょうかね。モルラシアから王都へのルートは、サルア・ウェティスを通るのが最短なんですが。昼間、来たんでしょう? 確かに今ウェティスが受けている被害──復旧状況では、完全に食い止める事は出来ないんですが……」
モルラシアはモンスター達の住む大陸の名称だ。人間の住む大陸は、アーティアという。
「昼間の襲撃のモンスターはすべて、召喚獣だった」
倒したモンスター達の遺体が消滅し、そこらに転がらなかった事から推定をしていたが、“七大天使”アザゼルから聞いた話をミラノがネフィリムに報告して事実となった。
「へ? モンスターが召喚獣を召喚? それは無いでしょう? 召喚術は人間に与えられた技であって──」
「もう1点。あの数を召喚するのなら、少なくとも2000人は人間が居たはずだが、どこにも居なかった。ついでに言うならば、あれだけの大きさの召喚獣を召喚できる人間を2000人以上抱えている国は、無い。大国プロフェイブでもせいぜい100人ってところだろう」
「……どういう意味です?」
「つまり、兄上が言うには、“神”が関与しているのではないか、という事だ」
シュナヴィッツの言葉に、スティラードは一瞬声を詰まらせる。
「それは……また……。昼間のモンスターは不思議ネーちゃんが追っ払ったんですよね?」
「……ああ」
「また来ない、とは言い切れないんですよね、原因わかってませんし」
「そうだな」
「あの巨大な魔法陣から、また“神”の召喚獣が出てくるんでしょう? ……何考えてんだ……?」
また独り言のように言って、スティラードはがしがしと短い髪をかいた。
「ちぃっとネフィリム殿下の所へ行って来ます。シュナヴィッツ殿下はこの後どうされます?」
「僕は飛翔系召喚獣を率いるのに空に居る。もちろんティアマトだ、すぐに見つけられるだろう?」
「ええ。では急ぎ合流します。それまで無茶しないで下さいね!」
スティラードはそう言って元来た廊下を引き返した。
夕日がじわじわと地平線へかかる頃、木々の間で膝を折って休むペリュトンに、もたれるようにして目を瞑り座っていたレイムラースが、上半身を起こした。
アザゼルらに召喚したものを全て砕かれ、強制解除されてしまった後、回復の為そのまま森へ下りて休んでいた。首を前に倒していたので、頬にかかる黒髪を何度か撫でて整え、立ち上がる。ペリュトンも鼻を持ち上げ、体全身を揺らし、立ち上がる。
レイムラースは木々の間からガミカ王都上空を睨む。
朱色に染まる雲は糸のように細く、遠く見える。
その手前、じわりじわりと回転していた魔法陣が、一瞬止まったように見えた。目を細めて見た時、勢いをつけてぎゅるっと激しく回り始める。その文様は既に確認出来なくなったが、“神”の召喚陣に間違いない。
回転とともに魔法陣はさらに巨大化していく。
白く光るその魔法陣は、夕日の色さえ弾き飛ばしていく。
ごんごんと、大気が揺るぎ始めた。
「きたか……」
レイムラースは、付き従おうとするペリュトンにさらりと手をかざし、呪文を唱えて青紫の魔法陣を生み出すと、還してしまう。
再び空の魔法陣を見上げる。
「“人間”を守護する“七大天使”アザゼル。私は忘れたわけじゃないさ。“神”がおかしいのだ。“人間”にばかり──。“モンスター”をも創造しておきながら……!」
独り言。それは、他の誰でもない、自分に聞かせる為のもの。レイムラースの白目が次第に濁り始める。
「“神”が“モンスター”にその寵愛を分ける事が出来ないなら、“人間”を消すしかないだろう……。アザゼル。それが、私の“創造された意味”ではないのか」
理由だ。理由は、必要だ。そうでなければ、壊れてしまう。
「もしただの“戯れ”で創造したのならば……。“人間”が滅ぶのは、それは“神”のせいだ。“モンスター”を守護する“唯1人の天使”たる私のとるべき道は、これしかないだろう?」
間違ってなどいない、それこそが存在理由だ。
“神”の与えたこの存在の、“創造された意味”だ。
「私達も、アルティノルドも……。その真意を問うため、責め問うため──。再び“神”を召還しなくては、ならないのだ……!」
濁った目から、血の涙が流れ、レイムラースはがくりと膝をつき、やがて倒れた。伸びた腕は、それまでの青白いものではなく、薄橙色をしている。化物じみた色味から、健康そうな人肌に、変化したのだ。
そして、その影が、ドロリと伸びた。
伸びた影から、6枚の蝙蝠のような大きな翼が、粘着質の液体から浮かび上がるように、生えてくる。
──“人”の形は、より人間を知る為、人の中へ潜り込むため使用していたが、もういい。アザゼルを、“七大天使”を召喚できるものがいるのならば、これ以上人間を知る必要もない。
梟に似た目元と頭、口元は蛇のそれ。狼の腕と胴体が這い出し、翼がバサリと一度羽ばたく。大きな鱗の太い蛇の尾がずるりと影から一気に飛び出した。黒い6枚の翼がばさりばさりと空気を叩き、その重い体を地上へ全て持ち上げ、あらわにする。
大きさはアザゼルらと変わらないが、その姿は人を畏怖させるに十分の迫力を持って、どす黒い水蒸気のような熱気を辺りに放っている。
“モンスター”の被害を最小とする為、“人間”の飛槍とかいう連中を飼ってはみたが、もういい。まだるい事はする必要がない。
アルティノルドも先日そう判断したから“リヴァイアサン”を召喚して“神”を召還させようと挑発したのだ。そうに違いない。
それまでレイムラースと呼ばれていた“人間”の姿のすぐ上に、異形ながら、背に6枚の翼を持つものが顕現する。
堕天使レイムラースである。
醜悪な姿で、声は濁り、人にとって聞き取り難いものになっている。
「どこにいる。“七大天使”を召喚するもの。アルティノルドの召喚獣を退け、その力を示せ……」
ばっと広げた6枚の黒い翼で一気に空へと上昇した。
憑依していた“人間”を山中に捨て、異形の天使レイムラースは巨城エストルクを睨む。
「その力あるならば……“神”を召還する事も可能だろう!?」
ごんごんと腹に打ち据えてくる低い音が、大地すらも揺らしながら王都を包む。
その低い音に混じって、声らしきものが聞こえ始める。
──……ダレニモ……──
それまでの晴れた夕日を覆うように、どす黒い雲がどこからともなく現れて空を埋める。湿った温い空気が緩い風となって吹いている。
低い低い旋回音と共に、上空にある魔法陣。
──その底面。
地上の人々に見せつけるかのように、黒い影が蠢き始める。
いくつもの声が反響を繰り返して、ぶれながら重なる。
次第に声は、あわさる。
──……ダレニモ……ワタサナイ……──