(070)“うさぎ”と“たぬき”の化かし合い?(3)
(3)
左胸へ流している亜麻色の髪が、窓からの日差しを受け、ゆるやかなうねりに任せた美しいグラデーションを描く。雅やかな動作でネフィリムは首を傾げて見せる。
「それを聞いて、どうするのかな?」
「……私は、元の世界へかえるつもりでいます」
「なるほど。だが、もし、可能性があったとしても、手遅れだろう。諦めなさい」
まるでパールフェリカにでも言うような口調だ。
──挑発? ごまかし? ミスリード?
ミラノは一度瞬きをする。
「……何を?」
「……かえる事を」
「なぜ?」
「わからないかい?」
ネフィリムの笑みは、ミラノにも読み解けなかった。それでも、相手のペースに飲まれないよう少し間を空けて、素直に言う。
「わからないわ」
「召喚主であるパールはもちろん、私もシュナも、君を傍に置いておきたい」
ミラノはネフィリムから視線を外し、体ごとテーブルへ向けた。テーブルの端でちょこんと手を組んだ。その指を見つめる。
──ミスリード?
そうしてゆっくりと口を開く。
「……そんな理由で私は、今までの人生を断つ事は出来ません。かえれる可能性があるのならば、諦めるわけにはいかない」
ネフィリムは背を反らして腕を組むと、息を吐いた。
「どうして?」
首だけ動かしてミラノはネフィリムを見上げ、問い返す。
「どうして?」
声音は淡々と落ち着きを保ったままだ。
「私はこれまで、自分の意思で生きてきた。自分の世界を。それを外野から今までの努力を潰されるのはまっぴらだわ。ここでも頑張れば良いのはわかる。けれど、元の世界に私は、沢山の事を中途半端にして、多くの事を置きっぱなしにしてきている」
ミラノは一度言葉を区切り、ごく小さく頭を左右に振った。
「私は、責任を果たしていないの。それは、何より自分で許しがたいわ」
ゆったりとさえした所作ながら、ミラノは強く言い切った。かえりたい、己の責任を全うし、自分自身を貫きたい。
その様子に、ネフィリムは笑みを浮かべた。
「ミラノらしいね」
「今度は笑ってごまかすの?」
呆れるように言ってミラノは視線を外した。
「わかるかい?」
ネフィリムは表情を消すと、ミラノの瞳を覗き込む。
「ええ……」
ミラノも蒼い瞳を見つめ返す。お互いが腹の探り合いをしている。
「…………」
ネフィリムはミラノを試すように、何も言わない。
「……そう……そっち?……私は……“死んでいる”方に、手遅れなのね」
ネフィリムは目を細めた。
かえれる、かえれないではなく、生きているか死んでいるか。
──もう、察してしまった。
ミラノの声音は沈む事もなく淡々として、受け入れている。仕方ないわね、と、ネフィリムにはそう聞こえた。
ミラノは椅子から降りるとネフィリムに背を向け、踵をしっかりと付けながらゆっくりと歩いた。ソファに左手を置き、止まる。場の空気は、ミラノが全て持って行った。
きしりと音をたてそうな空気を、ネフィリムは感じた。あの背中が、ちくりと痛い。それで、慌てて口を開く。
「あくまで仮定だ。魂や霊の状態には死んでなるもの、だからその可能性がある、というだけ。ミラノは、他のどの召喚霊や獣とも違う。そこには確かに可能性がある、生きている方の……!」
ネフィリムの声は力強かった。
しかし、だから、ミラノの膝がカクリと落ちた。左手をソファに置いたまましゃがみこみ、右手で顔を覆っている。絶望は立つ力さえあっさりと奪う。
ネフィリムは驚き駆け寄る。瞬間で、自分は今何を言ったと考え抜く。何が彼女を追い詰めた? つい先程まで、彼女の声は淡々と落ち着いたままだった。だが、耐えていた? ギリギリを。
隣にしゃがみ込むと、ミラノが小さな声でぽつりと言う。
「やめて……」
明らかに弱い立場だった彼女を、泰然としているものだからつい……申し訳無い気持ちがネフィリムの胸を占めた。だから、そっと膝を寄せ、腕を伸ばした。
「……」
ネフィリムはソファにのこる左手をそろりと降ろして、ミラノを自分の胸に抱き寄せた。
すぐに、腕の中からミラノの声がする。
「……パールみたいね」
今朝の、ユニコーンの墓の前での事を言っているのだろう。
「残念だな、そう思われるなんて」
本当は、少しほっとした。
ミラノが言葉を続ける。まるで、こちらの心根を読んでいるかのように。
「……平気よ……泣いたりとか、しないから」
下を向いたままのミラノの声は、相変わらず感情が消されている。
「ただちょっと、きついわね。受け止めるには。少し疲れたのかもしれません、休みます」
ミラノは降ろされた左手をネフィリムの胸にそっと、当てた。右手は自分の肩とネフィリムの胸に挟まっている。
どのような答えが返ってこようが耐えられる、ミラノはそう思っていた。なのにストレスは想定以上に大きかった。慌て混乱する事も、泣き叫ぶ事も、逃げ出す事もしないでいるのは、心がとても疲れるのだ。常日頃から心掛け、慣れているミラノでも。ぎりぎりの状態で居れば、均衡は簡単に崩れてしまう。ミラノは、それでもと眉間の皺を意識して解いていく。
そしてネフィリムの胸を押し、体を離そうとする。が、ネフィリムは逆に引き寄せた。
「…………」
「頼ってくれて、構わない」
ネフィリムはミラノの頭に顎を寄せた。
──やはりミラノは受け止めようとしている。召喚獣ならば、既に“死んでいる”という可能性を。亡きものであると。
「誤解をしたりは、しないから」
ミラノの気持ちが自分に向いているかどうかといった誤解を指している。
「いいえ……私には出来ないし、必要ないわ。諦めるつもりはまだ無いけれど……私はちゃんと、現実を受け入れられる……」
どんな事実があっても、振り回されるものかと、ミラノは思う。思い努める事と、出来るかどうかは別だが。
「覚悟、できる」
どこか言い聞かせるような響きを含んでいる。
ネフィリムは回した腕に力を込めた。
──……母は、死を覚悟していた。それと同じように、ミラノも死んだものとしての覚悟を、決めようとしている。どちらも、強く……見る者にとって、なんと痛々しい。
ネフィリムは自分を置き換えて考える。生きた人間だと思っていた、それが突然、死んでいるかもしれない存在だと知らされる。見も知らぬ世界で。どれほど心細い事かと、思う。だがミラノは、それら一切を見せまいとする。
ふっとミラノの押す力が緩んだ。
ネフィリムも力を抜く。少しだけ距離が開いて、顔を見合わせられるようになった。だがミラノは顔を下へ向けたまま。ネフィリムは覗き込む。伏せた瞼の下の黒の瞳は、相変わらず感情が見えない。もう、隠しているのだと、わかる。
「……私では、頼りにならない?」
「……ずるい聞き方をするのね」
ミラノは口元に笑みを浮かべ、ネフィリムを見上げた。
ここで笑ってみせるミラノも人の事を言えない。ネフィリムは両手を離し、肩まで持ち上げる。お手上げのポーズだ。
「ばれているんだね。ミラノは、やっぱり私と似ている」
微笑み、そっとミラノの頬に触れるネフィリム。ミラノは視線だけでその手を追った。
「本気に、なってしまいそうだ」
ゆっくりとミラノはネフィリムを見上げた。笑みは消えている。
いつも通りの淡々とした声音で言う。
「ならないわ、あなたは。シュナヴィッツさんの事も、私が召喚獣である事も、あなたの頭の中では計算されているから」
ネフィリムはあっさり手を下ろし、緩やかに、吹き出すように笑った。
「やはり、と思う。思うからこそ……。そろそろ危ないな。シュナの事も、君が何であるかも、飛びそうだ」
「飛ばないわよ。飛んだとしても、自分で潰すわ。あなたが、私と似ているのなら」
「そういう牽制をするのかい? 図星だから、困ってしまうね」
そう言ってネフィリムは目を細めて微笑み、ミラノも頬を緩めた。
本心を、それぞれ隠す為に──。