(006)うさぎとシュナヴィッツ(2)
(2)
小脇に抱えられて廊下を通る。その廊下は広く、横一列に10人近く並んで歩けるのではないだろうか。
天井や壁には電灯の類が無いのに明るい。石自体がほんのり光っていて、上下左右、奥行きにずっと続いているせいで、暗くは無いという程度に明るい。どういう原理かミラノの知るところではない。
一方向しか窓がないミラノのアパートで言うならば、レースのカーテンを引いている昼から夕方にかけての電気を付けない部屋、そんな程度だ。
上下に揺れる視界は、エステリオの動きにあわせて。腹と頭以外薄く細い体は、壁側へ向けて抱えられている。
「…………」
溜息しか出そうに無いので、ミラノは思考する事を止めた。
しばらくして今までの半分程の幅の通路に入った。何度か入り組んだ角を曲がった後たどり着いた木製の扉の前で、二人は足を止めた。扉の両側には衛兵だろう、鎧の男が二人立っていた。エステリオは軽く片手をあげ、扉のぶ厚い両開き戸を開かせ、中に入った。
すぐに数人の女がわっと寄ってくる。
口々に「まぁ!」やら「姫様!」など高い声で何か言っている。
彼女らの着ている服は、どちらかと言うとパールフェリカに近い、と言っても鎧を着用していないだけ、のようにも見える。パールフェリカと比較するとぐっと簡素な仕立てで、刺繍の無い薄い青色の上下、ジャケットにシャツ、ズボンを着ている。ゆったりと布が余っているような感じで、腕やら膝下などを飾り紐で縛っている。彼女達の髪型も揃えてあって、キッチリ纏めて結い上げてあり、髪の1本も肩に落ちていない。頭の上にはちょこんと青白い小型のナースハットのようなものが乗っかっている。
──流れからして侍女ってとこかしら。
停止させていたはずの思考の端で、ミラノは彼女らを静かに見ていた。
ぞろぞろと、リディクディは侍女らに囲まれて部屋の右奥の扉の向こうに消えた。エステリオはそれを見送って、廊下側の両開き戸の左右に居た衛兵らに声をかける。先ほどヒポグリフから降りてすぐ見かけた連中と似たような格好をしている。が、外の衛兵らが茶色が基本色であったのに対し、こちらは侍女らしき女達と同じ薄い青色をしている。
「パールフェリカ姫とともに陛下への謁見を希望する。伝えてくれ。それから、トエド医師を呼んでくれ、念の為診てもらう。少なくとも君が戻るまで、ここは私とリディクディが預かる。が、急いで欲しい」
「はい」
衛兵の一人が一礼して走り去った。
それを見送ってエステリオは扉を閉めた。
入ってすぐの部屋はとても広く、ミラノの感覚で、学校などの教室の2倍はある事がわかる。
正面には毛足の長いカバーのかかった柔らかそうなソファと彫刻も細かく濃い色のニスを塗られた木製の猫足テーブル、左手奥にはピアノの小型のような楽器、ハープに似た楽器と、台部分の小さな背の高いテーブル、またこれにあわせて、座る箇所の高い、バーにあるような椅子が2脚置いてある。
この部屋の中でも、用途で動線は区切られてあるようだ。
調度品は木製のものが多い。外と変わらない位、新緑の匂いがした。
壁は石造りなのだが、壁面はタペストリーや美しい布、絵などで飾られ、木で出来たテーブルや棚などは部屋全体に温かさを与える。敷かれている絨毯は意匠も細かく、不可思議な模様がいくつも描かれている。エステリオのブーツの沈み具合からも、とても豊かな質感のようだ。
ふと視線をあげれば左手の楽器のある方の向こうに、大きめの窓が一つある。分厚いガラスのようだ。ミラノのご近所さんのような一般家庭の窓とは異なり高さもある。開けられる構造ではないようだ。そこから、朝と昼の間の陽が差し込んでいる。
エステリオは部屋の中に厳しく視線を送って確認するような仕草をした後、パールフェリカを抱えたリディクディの入った右奥の扉を開いた。
中は先程の部屋の半分位で、寝室のようだ。真ん中に大きなベッドがある。窓は無い。
さわさわと侍女らが壁に向かって何かしている。壁側には木製の棚が並んでいるようだ。何をしているのかまではミラノには見えなかったし、想像も付かなかった。天蓋付きのキングサイズのベッドの脇にリディクディが居るのが見えた。そこへエステリオは歩みを進める。
「トエド医師に来てもらうよう伝えた、問題は無いだろう」
そう言って横たわるパールフェリカの横に“うさぎのぬいぐるみ”を並べた。そしてリディクディ、エステリオの二人して見下ろした。
「……私も寝なくてはダメかしら?」
そろそろ口を挟んでもいいだろうとミラノは言ったのだが、侍女らだけでなく、リディクディとエステリオまでがぎょっとして“うさぎのぬいぐるみ”を見た。
「ああ……すまない、つい、忘れていた」
エステリオはそう言ってミラノ──“うさぎのぬいぐるみ”をベッドから下ろした。
「ベッドにあがるには私は汚れているわ。濡れ布巾か何か、かしてもらえないかしら?」
そう言うとエステリオが侍女から白く柔らかい濡れタオルを受け取って、それをうさぎの丸い手に渡した。
「この部屋は少し暗いようだから、さっきの部屋のソファを借りても?」
「……どうぞ」
リディクディの答えにミラノは頷いて、扉に近づく。侍女の一人が開けてくれたので、一匹だけで最初の部屋へ戻った。てってこてってこ長い耳を揺らして歩く“うさぎのぬいぐるみ”に視線が釘付けになって、手がお留守になる侍女らが数名居た。
ミラノはソファに飛び乗って座り、顔、耳の先、手、体、足の裏の土を実に器用に落としていく。
もくもくと作業する背後、廊下に繋がる両開きの扉が開いた。
「失礼致します。シュナヴィッツ殿下がお越しです」
一人残っていた衛兵がきりりと姿勢を正して告げた。
寝室の扉は薄く開いていて、そこからエステリオが顔を出した。
「ああ、お通ししてくれて構わない」
「はっ」
そして、動きを止めじっとして様子を伺うミラノの座るソファの背もたれの向こうで、さわさわと衣ズレの音と足音がいくつか聞こえた。ミラノは部屋の入口ではなく寝室前の扉辺りを見ていた。どうせそこを通るのだろう。
最初に、甘い香りに気付いた。
ここで嗅覚があったのかと思いなおした。
亜麻色の、肩より少し長い髪は真っ直ぐ。揺れると濃淡が美しい。
濃紫の上衣には金糸銀糸で刺繍が施されている。腰にはやはりパールフェリカ同様、じゃらじゃらと装飾具がぶら下がっており、彼女と違う点は、そこに長刀と短刀が1本ずつ下げられているところだ。この刀には装飾らしい装飾は無いようだ。実用性重視らしい。
緩やかに運ばれる足、真っ直ぐ前を見据える目元。長い睫毛。瞳の色は淡い蒼で、何もかもがそこでとろけてしまいそうな印象がある。パールフェリカに似ている。兄弟か、とミラノは推測した。彼女も美形なのだが、それに加えてこの男には彼女には無い、いわゆる色気というものがある。むんむんと。
パールフェリカの兄シュナヴィッツ、この世で唯一最強優美のドラゴン、ティアマトを召喚できる者だ。
シュナヴィッツの真後ろにも似たような格好の、こちらは薄い紫の衣装の男が付いて来ていた。腰には長刀が2本、反対の腰に短刀が1本あるようだった。こちらの男も負けず劣らずの美しい造形の相貌をしている。歳はこちらの方が上のようだが、端正ながらもやや厳しい面をしている。いかなる場所でも周囲への警戒を怠らない、その空気がはっきりと見てとれる。護衛か何かだろうか。
寝室への扉が大きく開かれて、二人は中へ入っていった。エステリオが先導している。
手を止めたまま、ミラノは扉の向こうに顔を向けた。
「儀式は無事終わったのか?」
パールフェリカの兄、シュナヴィッツがそう言った。にごりの無い、若々しくも通る声。
「はい。少し、我々の知るものとは異なるようでしたが」
「異なる?」
「ええ、召喚できたものが、おそらく我々が今まで遭遇した事の無い存在のようで」
「ほう。その旨父上には?」
「姫様が目を覚まされてから──」
「そうか」
そう言って、シュナヴィッツはパールフェリカのおでこを撫でた。
「ところで、パールはどちらを召喚した? 獣か、霊か」
「いえ、それが……」
「それもわからないのか」
「はい」
「それをリディクディ、エステリオ。見たか?」
「はい、あちらに──」
そう言って、エステリオがソファの方を向いた。うさぎの身体は埋もれていたが、耳がソファの背もたれの上面にたるんと垂れていたのだ。
すぐにリディクディ、シュナヴィッツ、護衛の男の全員がそちらを向いた。
「ミラノ様と、おっしゃるそうです」
「…………」
シュナヴィッツは、すたすたと耳の正面に立った。その背後にはもちろん薄紫の、護衛の男もついて来た。
見下ろされ、ミラノは見上げた。とは言っても、赤い目から覗く視界にあちらの方が入ってきたのだが。うさぎの形は微塵も動かしていない。
「…………これ、だと?」
シュナヴィッツの形の良い眉が歪んだ。しばらく沈黙した後、彼はミラノの左耳を掴んで顔の前まで持ち上げた。必然的に目があう。
「…………」
「…………」
「お前は……クライスラーの作った“うさぎのぬいぐるみ”だ、違うか?」
「…………」
「僕がクライスラーをパールに紹介した。そして好きなぬいぐるみを作らせた。3ヶ月前の話だ」
クライスラーは国内有数の人形師だ。
「…………」
シュナヴィッツは扉の辺りに付いてきているエステリオを振り返った。
「これはしゃべるか?」
「はい」
「お前はパールの召喚に応じたのか?」
ミラノはしぶしぶと口を開く。
「…………耳がちぎれそうです」
とはいえ、無表情で。