(053)召喚霊七大天使(1)
(1)
少し進んだ辺り、30歩余り歩いてシュナヴィッツは周囲を見渡し窺ってから、パールフェリカに松明を預けた。そうして一人道を駆け戻った。黙って待っていると、しばらくして帰ってきた。
薄暗いので、離れると何をしていたのかハッキリとはわからなかったが、音で大体の想像がついた。シュナヴィッツのブーツには青緑色のややネットリした液体がついていた。トロルにトドメを刺してきたのだ。
パールフェリカが気付いているかまではミラノにはわからなかったが、つとシュナヴィッツを見上げた。息を乱した風も無く、パールフェリカから松明を受け取っている。ホルトスの言を全て信じはせず、背後の憂いを取り除いた、といった所だろう。
トロル達が眠っていようが死んでいようが、異変に気付くなり偶々ここへ来るなりした“飛槍”の者が見つけたなら──。
トロルの状態がどうであれ、その者は追っ手としてこの洞窟へ入って来る。あるいは誰ぞへ報告し、騒ぎは広がり他の者を率いてくるかもしれない。そうすると脱出は困難になる。
ホルトスの言った、まる一日起きないという言葉を鵜呑みにせず、もしトロルが起きるならそれは追っ手と共にやって来る敵戦力となる。あらかじめ敵を減らしておく為、トドメを刺して来たのだ。ミラノには一切の異論は無いが、ふと“うさぎのぬいぐるみ”を抱える細い腕に力が入った事に、気付いた。
再び、早足に2人とぬいぐるみ1体は進む。
外からこの“飛槍”の拠点に入った所──シュナヴィッツらは目隠しで歩かされた入り口──と異なり、この抜け道には砂を敷いてあって地面が岩肌全部むき出しという事はない。地面は歩き均されてもいて、平らだ。
じっくりと見れば比較的新しそうな複数の足跡と、轍のようなものも見える。馬蹄などの跡が無い事から馬車ではなく台車か何かを人がひくなり押すなりしている事がわかる。人の足ならば、追いつける。
王都側の出入りしにくい洞窟の入り口ではなく、こちらの抜け道で大人数の移動や物資の運搬されているのだろう。また、蹄の跡が無いのだからユニコーンも起きた状態で引かれているのではなく、その台車か何かに乗せられて、運ばれている可能性が高い。付き添う“純潔の乙女”が用意出来なければそうやって運ぶしかないだろう。その点は、奪取がやりやすくて良い。あちらの仲間であろうと女を人質にされたり、刃物を向けられるなどしてはさすがに動きにくい。シュナヴィッツはそういった事を図り、思案しながら足を進める。
ふと、退屈したのかパールフェリカが口を開く。足早のままなので、時折息が跳ねる。
「──そうえば、ミラノ、なんで声なくならなかったの?」
彼女なりに状況を察しているらしく、声は潜めてある。
「ミラノもセイレーンの声を聞いたのか?」
「聞きましたね」
“うさぎのぬいぐるみ”から出てくる声にはやはり感情は無い。
「なんで? なんでミラノだけ平気なの?」
「わかりません。……私が聞きたい、んですが……」
シュナヴィッツは言葉を言いかけてやめた。口を少しだけ開いたまま、“うさぎのぬいぐるみ”を見下ろした。一瞬の事のように、思われたから。
今の声は、何だろうか。
相変わらずの一定のトーンで、何を考えているのか読み取れない。自分の兄ネフィリムがポーカーフェイスだと言うならば、ミラノはポーカーボイスだとでも言える。さらに今はうさぎなのでちょっとした表情の変化があったとしてもわからない。
だが、今、垣間見えたものは──……不安?
「そっか~、ミラノもわからないんならどうしようもないわねぇ」
あまり深く考えていない様子が丸見えのパールフェリカの声に、ミラノが小さく『ふぅ』と息を漏らしたのが聞こえた。
「本当に、その通りだわ」
先ほどの声とはまた異なって、今度はやや上向きだ。ただ、淡々としゃべっているようにしか、相変わらず聞こえなくも無い。だが、注意深く耳を傾けてみると、実はしっかりと感情がその声には乗っているような気が、シュナヴィッツはしてきていた。慣れてきたのかもしれない。
「あのリャナンシー、ミラノの事、変わってるって言ってたし、ネフィにいさまもよくわからないって言ってたし、なんだか大変ねぇ」
他人事である。
「パール、私達の事よ」
「うん、そう! そうなの! でもねミラノ、わかんなきゃどうしようもないでしょ?」
「そうね、そう思うわ」
「だからね、大変ねぇとしか私言えないわ」
どこかダラダラした、能天気なパールフェリカの受け答え。
「そうね、大変ね」
ミラノは相変わらず淡々と言う。パールフェリカを軽くあしらっているという印象でもない。あの、どこか沈んだようにすら聞こえた声は、パールフェリカと話している間にミラノの声からは消えている。
案外、いや、やはりパールフェリカとミラノは、良いコンビのようにシュナヴィッツには思えた。
しばらく足早に進む。口を開いたのはやはりパールフェリカである。
「暇ねー」
「……きっと今だけ。 遠からずユニコーン搬送の“飛槍”の最後尾に追いつく……あの男の言葉を信じれば、だけど」
ミラノの言うあの男とは、この抜け道の情報を提供してくれた、シュナヴィッツに顎を蹴り上げられた男の事だ。
誰が見ても得体の知れない“うさぎのぬいぐるみ”が刃物で脅してきて、自分を含む5人を襲い、ほんの数瞬で全員気絶させた男に腹を取られている。それがあの男にとっての状況だった。見た目からして華奢で下っ端風のあの男にまともな胆力など無いだろう。
「あの状況で嘘である可能性は低いと思うが。罠だろうが何だろうが、敵が居れば僕が何とかする。パールは自分の身を守る事だけを考えていろ。ミラノは、“人”になったらどういった事が出来るんだ?」
戦力の確認だ。
「今まで出来た事は、出来ると思いますが、わからないという答えが妥当です」
「何が出来るか、わからない?」
「ええ。もちろん、こうしてものを考えたり言葉を話したり……“人”が当たり前に出来る事は、それなりに出来ると思いますが……」
シュナヴィッツは慌てて口を開く──声がまた……。
「そ、そうか。わかった。だが、丸太はやめておいてくれな?」
「ものを考えられる、と言いました。ここに丸太は狭すぎます。そうですね、せいぜいここの地下4階の武器庫からものを借りる程度でしょうか。でも、それも本当に出来るのかどうか、その時やってみない事には、わからないんです」
“うさぎのぬいぐるみ”はパールフェリカの腕の中で、顔を正面からほんの少しだけ、下げた。
──そう、わからない。いい加減、わからない事が多すぎる。わからない事と忘れておくのも、それはひとつのストレスで、時間が長引く程疲れる。
鉄の女などと周囲に言われようが、ミラノとてただの人で、理性で以って築かれた価値観で己を立たせているだけなのだ。
誰とも同じように感情を持ち、ストレスを、圧力を感じる。それをどのように受け止め、受け流すかによって“鉄の女”は作られているに過ぎない。
疲労は少しずつ力を削り取る。それは肉体だけではない、心にも同じ事が言える。
胸に降りてくるこの霞を、どこかへ追いやる“何か”を……少しでも心預けられる“何か”を……じわじわと広がりつつある陰りを前に、ミラノは我知らず求め始めている──。
そして、シュナヴィッツは口を閉ざした。
しばらく駆けた後、松明を地面の砂に埋め擦り、踏みつけて消した。一瞬、先にチラリとオレンジのはためきが見えたのだ。
洞窟を利用した通路と言っても人の手が入っている。道自体がそれ程危険でない事は、ここまで半ば駆け足で来て、把握している。
シュナヴィッツは何も告げず松明を消しきって、パールフェリカと“うさぎのぬいぐるみ”を見た。2人は小さく頷いた。