(005)うさぎとシュナヴィッツ(1)
(1)
エステリオは“うさぎのみーちゃん”を脇に抱えて、右手をマスクの前に掲げ──『シー』と人を黙らせる時のポーズを取り──ぶつぶつと呟いた。足元にすっと浮かび上がる、彼女を中心とした小豆色に光る魔法陣。円の中に多角形とガミカの古い文字がびっしりと描かれたものが広がる。
“うさぎのみーちゃん”は抱えられたままちらりとそれを見た。その仕草は外見からはわからないのだが。
魔法陣は、呼吸をしているかのように明滅を繰り返し、ゆっくりと回転している。
リディクディもパールフェリカ姫を抱え、その肩を抱きこみながら、右手の人差し指を口元にあて、目を閉じ何か呟いている。すると彼の足元にも空色の魔法陣が浮かんだ。
「ヤマシタ様、でよろしいでしょうか」
エステリオに声をかけられ、小脇のうさぎは耳をたるんと回して彼女の顔を見上げた。
「姓と名と、あるいはあだ名。いずれをよく呼称するのですか?」
エステリオの腕の中、ちぎれかけの腕をぷらんとぶら下げたままうさぎは言った。
「あだ名が多いですね、そのあだ名も名の方をもじったものか、全く異なるものを使用します」
「そう。名ならばミラノの方が該当します」
「ではミラノ様、少々荒っぽいですがご了承下さい」
うさぎのミラノが返事をする前に、足元の魔法陣がぎゅるっと回転した。その回転に小さな風が生まれ、砂塵と緑の葉が舞い散った。それはエステリオの足元だけではなく、リディクディの足元でも起こった。数秒視界がそれらで奪われた後、ミラノは馬の嘶きのようなものを聞いた。
ドッドッと地を振動させる音に、エステリオの正面辺りを見たミラノは、その表情さえ動かせていたなら目を見開いていたに違いない。うさぎの外見は、無表情のままだったが。
「……すごいわね」
感嘆が込められていたものの、相変わらずクールな声音を出しただけだった。
エステリオの正面には、亜麻色に近い、先程の彼女の魔法陣とよく似た小豆色の毛並みがふさふさと揺れていた。上半身が鷲、下半身が馬のように見える。ミラノは本、特に小説の類を通勤時によく読んでいたのだが、それで頭に思い浮かべた事のある形のようだ。
「ヒポグリフ?」
ミラノの声にエステリオは頷いて、踵を蹴ってヒポグリフに跨った。
「赤ヒポグリフ、私の召喚獣です」
頭上からエステリオの静かな声が届いた。
大きさは通常の馬より少し大きい位だが、背の羽は雄大だ。小豆色から羽先へは薄くなり白く煌いている。ぎょろりとした鷲の丸い目は、赤い。それは優しさに満ちている。だが、これが馬の嘶きをしたのか、と思うと違う気がする。ヒポグリフに騎乗するエステリオに抱えられたままうさぎはふとリディクディの方を見やる。
空色の馬が居た。いや、馬ではない、こちらにも大きな翼が生えている──。
「ペガサス……」
「あちらは聖ペガサスですね、私の赤ヒポグリフと異なり、この世に一匹しかいません」
嘶いた馬はあちらだったようだ。全身は空色で足元すら一切汚れていない。ほんのりと発光しているかのように、空色の内側から白い光が滲んでいるようだ。翼に至っては真っ白である。瞳は、知性湛える静かなブルー。その背には既にパールフェリカを抱えたリディクディが跨っている。
どちらの召喚“獣”も、獣臭さらしきものは無く、むしろ涼やかな風すら感じられた。
「もし、可能でしたら私の腕にしがみついていて下さい。風も強いので落ちないように」
エステリオの指示の通り、うさぎのミラノはちぎれかけた短い腕を伸ばして彼女にしがみ付く。それを合図としたように、赤ヒポグリフががっしりとした体躯を動かした。緩やかに山を駆け下りながら羽ばたき、大地を蹴り飛ばして山肌を離れ、大空へと舞い上がった。
風が大きく唸り、景色が後ろへと流れていく。うさぎの耳はあちらこちらへぐるぐる回って、頭もひっぱられて、ミラノはまともに正面を向いていられなかった。それでも、離れていく緑深い山が見えた。また、山から飛び上がってくるペガサスも見えた。大きく左右へ開かれた真っ白の翼が、あまりにも美しい、きらきらと輝きの欠片をあちこちに振りまいているようだ。その背にはリディクディがペガサスのたてがみを握っている。
うさぎのミラノが顔を上げると、遠くの山々が地平線として見渡せた。快晴の空、太陽が煌く。
「……さすがに、驚いたわ」
ミラノは小さく呟いたのだった。もちろん、無表情で。
15分余り、ヒポグリフとペガサスは並んで飛んだ。
どこまで飛んでも緑の生い茂る山が続いている。山と山の合間、渓谷を抜け、轟音とともに飛沫を散らす滝の横を風のように駆け抜けた。
ミラノは残念で仕方が無い。今あるのは向いてる方向から世界を覗き見る赤い刺繍の目と、多少は聞こえの良くなった垂れ下がった耳と、ややくたびれかけてはいるが頑丈な生地で出来た手足だけ。きっと風は涼やかでさぞかし爽快なのだろう。“うさぎのぬいぐるみ”になって何故か失われてしまった感覚──暑さ寒さがわからない事が残念だった。
しばらくして山々の中に木々がまばらになっている箇所が見えた。そのまばらな山肌の山頂には、巨大な1本の樹がそびえていた。そこらの樹50本を束ねてもその幹の太さには適わないだろう。高さも然り。その巨大な樹は、山頂から“こぶ”のような印象で、枝葉を大きく広げていた。
まばらになった木々の上をヒポグリフとペガサスは、草原を駆けるように飛ぶ。
勢いよく過ぎていく景色ではあったが、視界に捕らえることが出来た。
木々の種類は様々だがどれもやけに背が高い。ミラノの感覚で、10階建てだとか20階建てのビルとそう違わないだろう。全体の5分の1程度、上部は緑に覆われているようだ。その下に、木の周囲に沿って板張りがしてある。板張りと言ってもガッシリと組まれていそうだ。黒に近い色で『もしかして、かろうじて板組み?』とわかる程度に、ニスなり塗装か補強がされているようだった。
木の根まで、螺旋のように板張りは続いていて、通路になっている。一番高いところ、緑の枝葉が途切れたすぐ下辺り、板張りは広く、10軒程の大きめの邸が建っている。
幻想的な物語に出てきがちねと、ミラノと思った。
現物を見て興奮を押さえられない気持ちを、ねじ込む為の醒めた目線だ。
ファンタジーを題材としたゲームが世には蔓延っている。無料インターネットゲーマーのミラノとしては、ファンタジーとしてはありがちとはいえ、木の上に巨大な居住空間を築いているこの街の様相を、リアリティを持って眺められた事に、心底、感動していたのだ。
そういった巨大な木々を眼下に見て、風のように通り過ぎていく。
木々の頂きの緑の葉を草原のようにして、ヒポグリフとペガサスは駆け抜ける。
板張りに居た人々の数人が両手をあげ、手を振っているのが見えた。だがそれもすぐに、通り過ぎてしまった。
じわりと召喚獣の首を持ち上げるエステリオとリディクディ。高度がわずかに上がり、遠くからもよく見えた山のように巨大な樹へ、駆けていく。近付いて、やっとわかった。
──城……。
その巨大な樹の根元、とはいえ、今まで通り過ぎてきた木々の頂上より高い、山頂。蔦が大いに茂った石造りの建造物が見えた。
この巨大な樹を含めたならば、都庁よりどでかいに違いないとミラノは思った。
建造物自体は10階建て位のようだ。とはいえ1階1階の天井は高いように見える。窓の位置ははっきりとは整っておらず、上下階や棟ごとがどう入り組んでいるのか不可解だ。城は山頂でこの巨大な樹と絡み合っている。共生という単語が、ミラノの脳裏をかすめた。
──静かで厳かな佇まい。
大小の鳥が、個で、あるいは群れで周囲を飛んでいる。それらの声が聞こえる。
城には木々の隙間から漏れ入る幾筋もの太陽の光でライティングされ、光の加減で森の胞子やらが常にあちらこちらでキラキラと反射している。
視界に収めきることの出来ない巨大な建造物と、都会で暮らすミラノの生活では一切目にする事の無い自然の雄大さに、幻想的という言葉を、ミラノは見た気がした。
「──本当、やれやれだわ」
騒ぐ心を抑えるのは。
赤ヒポグリフと聖ペガサスは、この巨大な樹を正面から見て左に4分1周ほど回り込んだ。その5階程度の高さのところに、外側へまっすぐにせり出した長い足場がある。その正面へと回り、先にペガサスが飛び降り、長い足場を勢いのまま駆けて行った。それを見送ってヒポグリフも続いた。さながら滑走路であろうか。
長い足場の先は、巨大な門が口を開けた出入り口がある。でっかい物流倉庫のシャッター前、そんな印象をミラノは受けた。
既に、ペガサスの横に下りてパールフェリカを抱いたリディクディが数名の男らに囲まれ何か話している。
ゆるく駆けているヒポグリフから、止まるのを待たずにエステリオは飛び降りた。速度が落ちていると言っても人にとって遅いわけではない、半ばたたらを踏むように投げ出されるエステリオだったが、勢いを逆に自分の力に変えて、つま先で上手にバランスを取ってリディクディの元へ駆けている。相変わらずミラノは小脇に抱えられていて、“うさぎのぬいぐるみ”の耳はばしんばしんとしなり、頭を振り回されていた。
リディクディを囲んでいる男らは、2人とよく似た格好をしている。男らの方がガッシリした鎧を身につけている。彼らの鎧の色は渋い茶色で、やはり同じような色のマスクで顔を隠している。
「そうか……では仕方がない」
エステリオが駆け寄り、ミラノにもリディクディの声が聞こえた。
「陛下は?」
息を上げもしないで問うエステリオにリディクディは振り向いた。
「お忙しいそうです」
「仕方が無いな、先に姫様に休んで頂こう。今日の主役はこの方なのだし。目覚められてから、陛下へご報告申し上げよう」
「それがいいですね」
結論が出て、エステリオはそろそろと近寄ってくる影、ヒポグリフの首に頬を寄せ、摺り寄せながら瞳を閉じて囁く。
「──ありがとう」
そしてすっと一歩離れると、右手人差し指を口元に当て何やらぶつぶつと呟いた。するとヒポグリフの頭上に、先程の小豆色に光る魔法陣が現れる。今度はヒポグリフがエステリオの頬へ首を一度押し付けて、喉をクゥと鳴らした。ぐっと下げられたヒポグリフの頭を撫でてエステリオはさらに三歩下がる。魔法陣がくるくると回転してヒポグリフの頭から落ちていく。その魔法陣の触れる場所からヒポグリフの姿が消えてゆく。魔法陣が床に付いた時には、その蹄さえ無くなっていた。
それを、ミラノは、動かすことの出来ない表情のまま眺めたのだった。