(048)はんずおぶぐろーりー(2)
(2)
白かった足は付け根まで泥だらけで、足裏の開いた穴からは綿がはみ出し、湿って重い。それを、結果としてホルトスの服で拭ったミラノは、音をさせないようにとズルズルと、“人形の手”の右手で服を掴みつつ床に下りた。ぺったんこの左耳がふわりと揺れて、下にほろほろと綿が落ちた。左腕の綿も、きっと遠からず無くなる。登るのにもただ添えるだけだった。
鉄格子から見て、右手側の壁にパールフェリカ、正面にシュナヴィッツ、左手側の壁にホルトスが吊るされている。“うさぎのぬいぐるみ”の背中を見て、パールフェリカは眉をひそめてそっと顔を背けた。昨日、左腕をハサミでちょきり切り落とした時のミラノの事を、思い出したからだ……。
澱み無い動きで“うさぎのぬいぐるみ”は鉄格子に向かい、鉄棒と鉄棒の隙間を出っ張った頭と腹を押さえて、ぐいぐい進み、すぽんっと通り抜ける。勢いで一歩よろめいたが、すぐに扉横に足音をさせずに近寄る。
一度鍵のかかったフックのある壁の前で飛び、ぬいぐるみの手で壁だけをタッチした。ジャンプ力の確認だった。これなら鍵まで届く。
再び飛び、静かに、右手で鍵2本を取り上げた。
そろりと鉄格子の扉へ近付き、鍵を差し込んだ。そしてゆっくり、カチリと開ける。やおら鍵を引き抜いて、扉を開き、再び中へ入った。そして扉だけそっと閉める。鍵はそのままだ。
右手の指をモキモキモキっと動かして見せてから、シュナヴィッツに近づくと、ホルトスにやったように服をひっつかみながら登った。彼の右肩に泥の残る右膝をついてひんやりとした“人形の右手”を、その頭の上の吊るされた両手へ伸ばす。その手には手錠の鍵が握られている。
耳元がごそごそしてシュナヴィッツはくすぐったいのを堪えた。
ミラノは鍵を外したあと、下に降りて壁近くの床に置いた。鉄格子の鍵、手錠の鍵両方だ。手に持っていられないし、落として音をさせるのも賢くない。蹴ってしまわない為の壁際への配置である。
シュナヴィッツが肩を回して腕を下に降ろした。肩と首を緩く、静かにストレッチしている。短い時間でもその拘束は体に負担を与えたようだ。
立ち上がった“うさぎのぬいぐるみ”が両手を伸ばして「ほどきます」と囁く。シュナヴィッツはすぐに床へ膝をついて荒縄で縛られた腕を差し出した。ギリギリ丸く綿の残った左手を添え、“うさぎのぬいぐるみ”は小さな右の指で縄を解き始める。モキモキ動く手にパールフェリカが複雑そうな顔をした。キモくて可愛くないが今はそれに頼るしかないのだ。
“うさぎのぬいぐるみ”の力は弱く、やや時間はかかったがじわじわと縄の結び目を緩め、ほどく。
拘束の解けたシュナヴィッツは縄をそっと床に置いて、自分のさるぐつわを外しながらパールフェリカに足音を忍ばせて近づき、彼女のさるぐつわを先に外し、後ろから来ていたミラノから鍵を受け取って手錠と縄を解く。
2人とぬいぐるみは固まって、頭を付き合わせたところでミラノが囁く。
「問題はこの後。廊下への扉の鍵はありません」
シュナヴィッツは何か言いたそうだが、セイレーンの影響で声が出ない。
「そこで定番ですが、あちらに開けてもらいましょう。ただし、そこに居るであろう開けてくれる見張りを静かに、確実に素早く昏倒させなくてはいけません」
“うさぎのぬいぐるみ”はシュナヴィッツを見上げる。
「──可能ですか?」
シュナヴィッツは亜麻色の髪を揺らして頷いた。
すぐに鉄格子の扉をくぐり、廊下へつながる鉄の扉の前へやって来る。
“うさぎのぬいぐるみ”は飛び上がると、覗き窓に張り付き、そのまま内側から、ノックした。
計画通り、物音に覗き窓を開けた男と、“うさぎのぬいぐるみ”の赤い目があう。
ぎょっとした男は「なんだ!?」と言って鍵を簡単に開けてしまう。ガチャガチャと大きな音をさせ、バンッと扉を開き頭を突っ込んで扉の裏、ミラノの方を見ようとした。そこへ、扉の開き口側の壁に張り付いていたシュナヴィッツが男の肩に触れる。はっとしてシュナヴィッツの方を見た男は一瞬息を飲み、体を開いてしまう。その無防備な腹、鳩尾をシュナヴィッツは強く突く。結構派手な音がした。
男はあっさりと気を失い、扉とシュナヴィッツの間辺りに倒れ込む。それをシュナヴィッツは音をさせないという配慮から肩を抱え、室内へ男をズルズルと引き込んだ。
男の手からはこの部屋への鍵、鉄の扉の鍵が落ちるが、床に到達する前に、扉の覗き窓から飛び降り着地していた“うさぎのぬいぐるみ”がキャッチした。
「──やはり、この手が通用してしまうんですね……」
ぐったりと力無く眠る男を見たミラノの声はやはり棘らしい棘は無く、淡々としていた。
「せっかくですし……?」
ミラノがそう言って、先ほどまでシュナヴィッツらが繋がれていた鉄格子の向こうの手錠を見た。“うさぎのぬいぐるみ”の言葉にシュナヴィッツが一瞬嫌そうな顔をしたが、パールフェリカが『断然同意である!』と力強くウンウンと頷いている。それを見て目を細め、少しだけ困った顔をする。
3秒ほどシュナヴィッツは考え、仕方ないとばかりに男を鉄格子の向こうに運んで手錠につないだ。その後ろ、ついて来ていたパールフェリカと、彼女に抱えられていた“うさぎのぬいぐるみ”が顔を見合わせ、うんと頷いた。
ミラノとしては、気がついて報告されるのも暴れられるのも面倒という点があっての提案だったのだが、パールフェリカの力強さはどうにも私怨だ。吊り下げられていた両腕は真っ赤に腫れ、荒縄で擦り傷さえある。右手の包帯はヨレヨレだ。その左右の指先はまだ、青い。
2人とぬいぐるみが鉄格子から出ようとした時、放置されていたホルトスが「ふっご! ふっごふごごお!」と暴れた。
鉄格子の扉を出ようと腰を屈めていたシュナヴィッツと後ろにいたパールフェリカがホルトスの前に移動する。
パールフェリカがなぜかズイッと抱き抱えていた“うさぎのぬいぐるみ”をホルトスに突きつけた。ミラノは一瞬パールフェリカを赤い目で見たが、それほど時間に余裕があるわけではないのですぐにホルトスの方を向いた。
「命が無いと、言いませんでしたか?」
ゆるく、首を傾げる“うさぎのぬいぐるみ”。
男にしては長い睫をばちばちっとさせ、ホルトスはビクッと震えた。だが、二度頭を左右に振って“うさぎのぬいぐるみ”を見下ろした。
次は小さな声で。
「ふご……ふごごごごう……ふごごごごごごう」
最早半泣きに近い。眉をきゅうっと寄せてひたすら懇願しているのだ。“うさぎのぬいぐるみ”を、シュナヴィッツを、パールフェリカを必死に見ている。連中の仲間であったこのホルトスを助けてやる義理など一切無いのだが。
パールフェリカが“うさぎのぬいぐるみ”から片腕を離し、シュナヴィッツの上衣の裾をほんの少しひっぱり、見上げた。その意図を汲み取って、シュナヴィッツがホルトスのさるぐつわに手を伸ばした。
「──大きな声を、出さないで下さいね」
ミラノが念を押し、シュナヴィッツはホルトスのさるぐつわを解いた。すぐ、ホルトスは「ぷはっ」と大きく息を吐き出し、口元をにょいにょい動かした。そして、2人とぬいぐるみを見た。
「わ、私も、私も逃がしてください。騒いだら駄目なのはわかって、わかってます。お、おとなしくします。何でも言う事き、ききます!も、もう少し“音”を出せるところに行けたら、セ、セイレーンの“声封じ”、私なら、と、解く事も出来ます……! お願いしますっ!!」
声をひそめながら、空気に混ぜるように、叫んでいる。新参者だと言っていたホルトスは、本当に何も知らぬまま巻き込まれてしまっただけのようだ。これが演技であるならば、世界にも通用する役者にだってなれるだろう。それだけの美形の男でもある。
しかし、さんざん役に立たないところを見てきたパールフェリカと“うさぎのぬいぐるみ”は顔を見合わせた。
「──お願いします……! お願いします……!!」
つぶやくように、唱えるようにホルトスは続けるのだ。
真面目な顔、真剣な瞳で、ホルトスはシュナヴィッツを見た。
シュナヴィッツは小さく息を吐き出して、彼の手錠を外し、腕の荒縄を解いてやった。シュナヴィッツにとってネフィリムの決定が絶対であるように、パールフェリカにとってもシュナヴィッツが決めたのならそれには従う。派遣社員根性の染み付いたミラノも、上の者の判断、決定には何も言わず従う。その結果が倒産だろうが何も言わず従い、その間際まで自分の能力を最大限発揮するのみだ。
シュナヴィッツが上の者、というよりは現状打破にはシュナヴィッツの戦力が主力である事は間違いなさそうで、彼が判断するなら彼の責任でどうにかしてもらう、ミラノはそう考えているだけだ。
3人とぬいぐるみ1体は鉄格子の牢を見事抜け出し、その鍵を閉め、手錠と牢の鍵を元のフックに戻した。廊下に出るとその鉄の扉もきちんと鍵を閉めたのだった。
廊下に、取り上げられていた自分の長刀と短刀をシュナヴィッツは回収し、腰に佩いた。
ここから、地上まで7階分の脱出を、始めなければならない。
ティアマトは遠く別の場所に居る。時間さえかければこちらをいつか見つけてくれるだろう。それこそ、シュナヴィッツとティアマトの間には“召喚士と召喚獣”の絆がある。ティアマトはどれ程離れていても、シュナヴィッツを見つけ出す。しかし、それは広場で命じた事──逃げた冒険者2人と“飛槍”の4人を捕らえる事──を成した後だろう。それまで待ってはいられない。
声が無く、他の召喚術が使えない。パールフェリカを連れている。いわゆる“勝利条件”というヤツはハードモードだ。
“うさぎのぬいぐるみ”がシュナヴィッツを見上げた。
気合を入れなおすようにシュナヴィッツは、髪をかきあげたのだった。