(038)うさんぽ(1)
(1)
翌日の午前中になったが、パールフェリカの疲れはまだ残っていた。
ソファにうつぶせで頭からつっぷして『つかれた、動きたくない、絶対イヤ』と言って、片足を肘置きに片足を背もたれの上まで伸ばすという、人様に決して見せてはいけない姿勢でダラけていた。例のアラビアンな普段着でズボン着用なのでフリーダムである。
昨日のミイゼンテイム学院長スーリヤのパーティ前の授業は、彼のスケジュールがシビアな事もあって受けたが、今日の図書院の職員から受けるはずだった授業はパスしている。
そのつっぷした頭のソファの先には“うさぎのぬいぐるみ”が座っていて、短い足を器用に組んで、絵本を眺めている。ご自慢の右の“人形の手”でページをめくっている。
あごをソファに突きたて、両手はだらりと後ろに回したまま、パールフェリカは“うさぎのぬいぐるみ”の膝の上の絵本を一緒に眺めている。
「ミラノって熱心ねぇ」
「──そうかしら?」
二人は部屋の中央、窓に向かっている側のソファに居る。“うさぎのぬいぐるみ”にとって左手側にパールフェリカはだらけていた。それで絵本から少し視線を逸らして、左下、こちらを見上げる深い蒼の瞳を見下ろした。パールフェリカは後ろにあった両腕を引き寄せ、顎の下で組み合わせた。
「だって、ずっとその3冊をぐるぐるぐるぐる、何度も見てるだけじゃない? 見るだけで覚えられるものなの?」
「……そうね……今は、形の違いを見極めている所かしら。何にしても、見慣れる所から始めようと思って」
それがミラノなりの独学開始時のスタイルだ。
「──ふ~ん」
気のない返事をしてはいるが、パールフェリカも飽きることなく横から眺めている。時々“うさぎのぬいぐるみ”の耳をちょいちょい弄ったり、抱き込もうとして引っ張りすぎてはミラノをズルリとこけさせている。その度にパールフェリカは「あ、ごめんなさい?」と謝り、ミラノは「大丈夫、気にしないでいいわ」と淡々と言って姿勢を戻している。そんな事を5、6回繰り返した頃、“うさぎのぬいぐるみ”は顔を上げた。窓の外は青い空が続いており、とても良い天気だ。
「パール、ユニコーンはどうしたの?」
「んとー、厩舎の方にいるはずよ。どうしたの? 乗りたくなった??」
馬に乗る“うさぎのぬいぐるみ”を想像しているパールフェリカの期待を、ミラノはあっさりとした声でぶち破る。
「……いいえ。パールは乗らないの? 折角プレゼントされたのでしょう?」
「そうだけどー、なんか体だるいんだよねぇ~」
「……私を召喚しっぱなしで疲れている、という事はない?」
「うん、それとは違う感じ。昨日のパーティかな? 頑張ったもんね! 私ってばすごかったわ!」
言いながらヒートアップしてきたのか、ソファの上でむくりと起き上がり正座で拳を振り上げ“うさぎのぬいぐるみ”に力説する。
「皆、私の魅力にメロメロだったわ! 来る敵来る敵ばっさばっさと笑顔で叩っ斬ってやった感じよ! 100人斬りってやつ!? ふふっ、素晴らしい称号だわ! きっとにいさま達だってゲットしていないはずよ!」
敵というのは、昨日のパーティの招待客達の事だろう。
「最初の内しか見ていなかったけれど、頑張っていたわね。……お疲れ様」
「ぷぁ! 今の! 微笑!?」
「……よくわかるわね」
「──っぁ~! ……もうっ、ずっと“人”にならない? ミラノ!」
「召喚で呼ばれたばかりの時の事を考えれば、あなたへの消耗が激しいのは“人”の方でしょう? ならば、その提案は受けられないわ」
「むぅ~~」
パールフェリカは口を尖らせ、それを見てから“うさぎのぬいぐるみ”は絵本に視線を落とした。パールフェリカが再び先ほどの姿勢になって絵本を覗き込もうとした時、うさぎはひょこっとソファを飛び降りた。
部屋の入り口付近で控えていたエステリオの方へ歩いて行く。パールフェリカはソファの背もたれに両手と顎を置いてその様子を見ている。
「エステルさん、ユニコーンをここに連れてくることは出来ないのですか?」
エステリオはいつもの紺の護衛騎士の格好で、口元も隠しているので表情はわからない。
「ユニコーンはとても大人しい生き物ですから可能だと思いますよ。すぐに手配致します」
「ありがとう。お願いします」
ひょこひょこと歩いてソファに座るまでの“うさぎのぬいぐるみ”の姿をパールフェリカはじっと見守ってから、口を開く。
「ユニコーン、呼ぶの?」
「私の記憶も定かではないのだけれど。ユニコーンには癒しの力が備わっていたはずよ」
──私の世界と同じならば、だけど。
「清廉な気を発し、純潔の乙女と共にあることを望み、心を許した相手には常に癒しの力を注いでくれる──パールならその恩恵に預かれるのではないかしら? 昨日、謁見の間まで来ていたようだし、ここへ来るのも大きな問題はないでしょう」
「つまり、ユニコーンと一緒に居たら、私元気になれる?」
“うさぎのぬいぐるみ”はパールフェリカの顔を見上げた。
「そういうことね」
ミラノの言葉にパールフェリカはどこで覚えたのか「やりぃ!」と拳を振り上げた。ミラノからすれば使いどころが若干間違っている気もしたが、絵本に視線を落としただけだった。スルースキルは万全だ。
30分もしない内に、昨日と同じように遊牧民風の服を身に纏った、頬のほんのり赤い少女がユニコーンを引いてやって来た。
白桃色の全身には曇りも汚れも一切無い。美しい四肢は程よい筋肉で引き締まり、無駄に足踏みをする事も無く落ち着いた様子だ。それでも時折首を左右に振って鬣を揺らし、その大きな角を見せ付けた。
パールフェリカは立ち上がり、ユニコーンの首に頬を寄せた。そしてエステリオに手伝ってもらってその背に乗せてもらう。温かく上下するその感触に、パールフェリカもうっとりと目を細め、鬣に顔を埋めて首に抱きついた。
「気持ちい~」
“うさぎのぬいぐるみ”はソファに立ってそれを見ていたが、一度小さく頷いて、再び座り絵本を見始めた。
「名前何にしようか~? かわいい目をしてるのね~?」
後ろから聞こえるパールフェリカのリラックスした声を聞いてミラノがほっとした次の瞬間だった。
パールフェリカの低い絶叫が響く。
「──っぅええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!???」
それはスローモーションで。
ユニコーンの脚が大きく動き、手綱を持つ少女を天井近く振り上げ、その大きな角ではめ殺しの窓へ突っ込んで行った。
“うさぎのぬいぐるみ”は真横で起きた出来事に驚き、慌てて、振り向きで耳を旋回させつつ見た。
バギッと厚みのあるガラスが割られ、ユニコーンは、パールフェリカを背に乗せたまま外へ飛び出した。こちらを見ている蒼い目とあったが、“うさぎのぬいぐるみ”はただ見送るしか出来なかった。
そして、ボトンっと、手綱を持っていた少女が、床に落ちてきた。慌てて半身を起こして呆然と窓の外を見ている。
「……なに……今のは?」
“うさぎのぬいぐるみ”が呆然と呟くと、やはり少女が小さな声で呟く。
「浮気……です! わ、私という伴侶がありながら……!」
「?」
その横を小豆色の毛並みが風の勢いで窓の外へ駆け抜けた。上半身が鷲でその翼を持ち、下半身が馬の召喚獣ヒポグリフに騎乗したエステリオだ。さらにガラスが割れて飛び散る。
すぐに背後で大きな音がした。扉が荒々しく開けられる音だ。
「廊下でパールの声が聞こえ──!?」
シュナヴィッツの声がして、すぐに彼は窓の正面まで駆けてきた。
「何があった!?」
ソファに居る“うさぎのぬいぐるみ”を見下ろす。
「パールを乗せたユニコーンが角で窓を割り、外へ逃げました。たった今、エステルさんが追った所です」
過不足ないミラノの報告に、シュナヴィッツは頷いた。
「昨日のあれか」
それだけ呟くとシュナヴィッツはぶつぶつと呪文を唱え始める。足元に浮かぶ金色の魔法陣。
ぎゅるっと回転しながら金の魔法陣は窓の外へ飛び出す。
回転する魔法陣の中から、どろろと頭が、大型バイクサイズのドラゴンが現れる。こちらの姿を映し込む鏡のような銀色の鱗は太陽の光を受けて美しく輝く。窓の外でばさりと翼を動かし、やや上下しながらも、滞空している。
「ミラノも来い」
言ってシュナヴィッツはソファに立っていた“うさぎのぬいぐるみ”を小脇に抱える。
「?」
そのまま窓の外へ飛び降りた。パールフェリカの部屋は7階にある。瞬間、風を切る。
1階分丸ごと落下した所にティアマトの背があった。召喚されただけのティアマトには鞍が無く、首の付け根辺りにシュナヴィッツは腰を下ろし、膝を締める。“うさぎのぬいぐるみ”は小脇に抱え、もう片方の手でドラゴンの首を撫でる。両方の踵でティアマトの鱗を蹴ると、その翼が大きく動き、辺りの風が唸る。
すぐに前へと進み、周囲を暖かな春の風が通り抜ける。
「召喚士と召喚獣には絆がある。ミラノならパールの居る場所の見当も付く」
風にたなびく“うさぎのぬいぐるみ”の耳に、シュナヴィッツのはっきりした声が聞こえた。
光を照り返す銀のドラゴンは、蒼穹を割った後、山頂の巨城エストルクからへ山を滑り降りるように飛んだ。