(036)うさぎと僕の静かな時間(2)
(2)
パールフェリカの部屋の入口に居たリディクディの元に、エステリオがやって来た。
リディクディは怪我もあるので2、3日休む予定だったが、午前中にパールフェリカが抜け出して、捜索の為呼び出され、そのまま残ったのだ。エステリオは細かく気の付く女性の護衛騎士という事で、リディクディが居る間にあちこち動き回っていたようだ。
よく見れば侍女達もさわさわとあちらこちらへと扉を出たり入ったりしている。
ミラノは右腕の先、“人形の手”の指を器用に動かして、絵本のページをゆったりとめくった。
シュナヴィッツにも問われて答えたが、文字を覚えるのは時間がかかる気がした。自分は、何語を話しているのだろう、と頭を抱えてしまいたい所でもある。つまり、絵本にはミラノも知っている形、例えばりんごが描かれていたりするのだが、その下にはよくわからない記号が並んでいる。くっついてるのか離れてるのかよくわからない5つ程の記号のような図案──これがこの国の文字なのだろう──が描かれている。りんごを表す言葉なのだろうが、一音一文字ではないらしい。うさぎもあったが、3文字には見えない。
溜息は我慢して、ミラノは眺めるところから始めてはいるが、王立図書院とやらで知り合いを作って調べてもらった方が早いのかもしれないと、脳内会議の多数決でさっさと決定しそうだ。
はめ殺しの窓の向こう、夕日でオレンジに染まり始めた。
こんなにのんびりと本──といっても解読出来ない絵本──を読んだのは久しぶりかもしれない。最近はインターネットゲームに夢中だったし……。
ミラノはきゅきゅっと右手の指を動かした。右利きではあるが、キーボード操作で鍛えられた左手の方がなめらかに動くのに──そんなどうでもいい事を考えていた。
そうこうしていると、寝室へ移動して着替えていたパールフェリカが出てきた。
キラキラしたスパンコールを沢山あしらった、はっきりした空色のふわっとしたドレスを着ている。スカートは膝丈よりやや長めで、少女らしさが出ている。召喚お披露目は無い事からいつもの動きやすそうな、ミラノの観点からするとややアラビアンっぽい格好ではない。
頭には、耳から頭頂部、そして反対側の耳までを覆うような大きめの銀のティアラが乗っかっている。亜麻色の髪はおろされていて、腰辺りまで流れている。毛先はくるくるに巻いてあってあちこちへ遊んでいる。髪の毛にもキラキラのスパンコールをあしらったチュール地のベールのようなものが銀のティアラから伸びている。
じっと見ていた“うさぎのぬいぐるみ”と目があうと、パールフェリカは口角を上げてから、目元にふわりと笑みを浮かべた。沢山の、色とりどりの花が、部屋中で一斉に咲いたような、甘い香りすら漂ってきそうなとびきりの笑顔だった。
ミラノはひょいとソファから降りてパールフェリカに近づいた。正面で足を止め、見上げて数秒後、ミラノはパールフェリカの深い蒼い瞳と目をあわせた。
「とっても素敵」
ミラノの、温かなその声を聞いて、パールフェリカはうっすら頬を染め、目を細めた。だがすぐにハッとした。
「ミ、ミラノ! もしかして今の、笑顔で言ってない!?」
「……そうね、“人”の形をしていたらそうだと──」
「っふぁぁぁあああああああ!!!」
叫びつつ、パールフェリカは“うさぎのぬいぐるみ”の頭を両手で掴んで勢いよく高々と持ち上げた。
「また……! しまった……あぁ……あぁあ……」
一転して泣きそうな顔で言葉にならない声で呻くパールフェリカに、ミラノの冷静な声が注がれる。
「パール、言いたい事は大体わかってるから、今回は諦めて。“人”にしてもらってもし私が魔法陣を出してしまったら、貴女は倒れてしまうのよ? パーティの主役が貴女なら、私はうさぎで居る方がいいの」
手足をぷらんぷらんさせながらミラノはパールフェリカを真っ直ぐ見下ろしている。望まないままに魔法陣が出てしまって、そうする事でパールフェリカの“召喚士の力”とやらを引き抜いてしまっては……彼女が倒れてしまっては困る。ミラノが初めて魔法陣を出した時は無意識だった。どんな拍子で出てしまうかわからない。
「うぅ」
パールフェリカは呻いた後、素直にミラノを降ろした。
ふと、パールフェリカは本を書棚に戻してからこちらへ来るシュナヴィッツを見た。
「にいさまはその格好でいくの?」
「僕はただのおまけだからこれで十分だ」
パールが主役だろう? そう言っている。
「ふ~ん……。でもどっちにしてもきっとまた囲まれちゃうかも?ティアマト演舞とぉ、ワイバーンが来た時、空中戦を見せちゃったんでしょう? 絶対ファンが増えてるわ! きっと──“きゃー! シュナヴィッツさまぁ! こっち向いてぇーん!!”とか、熟女系に“あちらで少しお話しませんか?”なんて暗がりに妖艶に誘われちゃったりなんかして!?」
妹は欲求不満を、兄をからかう事で発散するつもりらしい。何も知らなさそうな顔をして、この妹、実はここに居る兄よりも耳年増なのかもしれない──ミラノはパールフェリカを見上げてそう思った。
「…………だからイヤなんだ。どうせなら戦った後の汗臭くて返り血まみれでドロまみれの汚い姿を見せておきたい……」
それでも近寄ってきて嫌な顔をしない者ならまだ少しは話をする気にもなれる。おめかしで着飾って、臭いは香水で隠して、上辺の口だけ作り笑いだけ、だなんてシュナヴィッツの一番厭う所だ。
シュナヴィッツは遠い目をする。パーティに出るのが嫌でたまらないのだ。
パールフェリカは結局“うさぎのぬいぐるみ”のミラノを両腕に抱えている。横にはシュナヴィッツ、後ろにリディクディとエステリオ、その後ろに侍女が4人、ついて来ている。
パーティ会場は、3階。
廊下に居ても、既にパーティ会場のざわつきが聞こえる。パールフェリカは最後に登場する手順なので、廊下で侍女達が囁きあって打ち合わせている。
「ミラノ、うさぎのフリお願いね」
「動かなければいいのでしょう? 大丈夫よ、多分」
あくせく働いていた日々を思えば、今日はなんて楽なんだろう──ミラノは脳がとろけるんじゃないかと逆に不安にもなってきていた。せいぜい、絵本で見た図形でも思い浮かべて復習らしきものをしつつ、こちらの人間を観察でもしておこう、そう心に決めた。
どうやら音楽は付き物らしい、中からパーカッションの軽快なリズムが聞こえてきた。
パールフェリカが大きく息を吸い込んだのがわかった。そっと見上げると、真剣な顔で口を何度かもごもごと動かし、目をばちばちと瞬いている。侍女がさわさわと動いて扉の横についたので、ミラノは何も言わず、正面を向いてぬいぐるみのフリを開始した。
──両開きの扉が、大きく開かれた。
中は、光の洪水を廊下に流し込むように明るい。
ワイバーン襲撃後、ミラノが屋上からティアマトで連れてきてもらってパールフェリカを探した場所だ。今は、あちこちからカラフルな布が垂れ下がり装飾されている。立食形式でいくつも並んだテーブルにはコンビニ弁当が主食だったミラノからするとヴァーチャルリアリティでデータとして再現されたものかカタログでしか見た事の無いような豪勢なメニューがドでかい皿に盛られている。暑い寒いはわからないが、匂いならわかる。だが、パールフェリカに召喚されてからというもの空腹を感じた事が無いせいで──さすがに妙だとは思うが──この豪勢な料理を見てもやはりお腹は空かず、魅力を感じなかった。
会場の100人を超える男女がこちらを見ている。女性は、現在のパールフェリカよりは地味目に抑えられたドレスを纏った少女から婦人まで。何処の国も男性の正装は全体的に均一的で地味なのだと思わせるシックな色合いの上下と、華美でないアクセサリーで身を飾っている。動きやすい王子の普段着スタイルであるシュナヴィッツの方がまだ華がある──これは本人の持つもののせいかもしれないが。
部屋の一番奥、より沢山の、光沢のある白と紫と金の布が垂れ下がっている場所がある。そこにこれまた豪奢な装飾の施された椅子が2脚ある。1脚の前にはラナマルカ王が微笑みをたたえて立っている。パールフェリカは父と目を合わせた。瞼を下ろしつつ、父は微笑を浮かべたまま頷いてくれた。背筋を伸ばしたパールフェリカの表情は笑みを浮かべる。
パールフェリカは“うさぎのぬいぐるみ”をエステリオにドスッとそちらを見ないまま押し付けるように渡し、前へ歩み出た。まるで、役者か何かのように、つま先でツイツイと。首をゆるやかにあちらこちらへ向け、視線を投げかけている。
そして──。
「こんばんは! みなさん! 今日はパールフェリカの為に遠くから集まって下さって、本当にありがとう!」
両手を広げ、満面の笑みで会場全員の顔という顔を見渡してパールフェリカは声を張った。少女らしい元気で可愛らしい声に、皆笑みを浮かべ、パールフェリカ姫を受け入れた。
そして、ラナマルカ王の隣の豪奢な椅子の横に、ミラノは会場を見渡す向きで、腰で折り曲げた座った姿勢で置かれた。エステリオなりに見えるように置いてくれたらしい。
貴族、というものの概念がいまいちわからないまま、ミラノは眺めていた。パールフェリカはずっと誰かしらに囲まれている。隙間から時折見えるパールフェリカは、必ず笑顔だ。笑い声すら上げているようだ。一方シュナヴィッツは眉間に皺を寄せ、“近寄るな”オーラを力いっぱい発してバルコニーでグラスを傾けている。遠巻きに、着飾った少女達が顔を赤らめてシュナヴィッツの背中をうっとりと眺めていたりする。
『王族なんて“見世物”以外の何だって言うの?』
パールフェリカの言葉がミラノの脳裏を横切った。
誰かに話しかけられて、さっと両目と口が同時に笑みの形を作る。
今振りまかれている彼女の笑顔は──。
ミラノは、見抜いてしまって申し訳ない気持ちになった。一般的に、心から、あるいは無意識の笑みというものはまず口元に浮かび、その後に目にも表れるのだ。同時に笑みが浮かぶならそれは──“作り笑い”
『せいぜい外見を磨いて一杯見られて可愛がってもらうしかない』
彼女はそう言った。
本当の気持ちを、どこに隠しているのだろう。出来上がるそれは心底の笑顔にしか、見えないのに。ころころと鳴るような笑い声も。嘘偽りの無い、素直で可憐な姫の姿にしか見えない。
会場に入る直前、パールフェリカが何度も口を動かして目を瞬いていたのはこの為のストレッチだったのかもしれない……ミラノはそう思い至った。