(035)うさぎと僕の静かな時間(1)
(1)
微笑を消して、ネフィリムは立ち上がる。
「パールの力が足りずぬいぐるみに入っておく以上、人形師のクライスラーと親しくしておくのはマイナスじゃない。ミラノ」
「──そうですね、それはわかります」
“うさぎのぬいぐるみ”はやや下を向いて返事をし、ネフィリムもそれに頷いた。床に落ちたままの3冊の絵本を拾ってネフィリムはシュナヴィッツにぽいと渡し、“うさぎのぬいぐるみ”はパールフェリカに押し付けた。
「そういえばパール、なんで居るんだ? 勉強の時間は午後まであるだろう」
「え?……エヘヘ?」
“みーちゃん”をきゅっと抱えて美少女スマイルでネフィリムを見上げた。
「スーリヤはパールに甘いから……」
横から絵本を脇に抱えたシュナヴィッツが自分の事を棚に上げて言った。
「今日はぁ、晩にぃ、パーティがあるからぁ、お休みにしてくださいって言ったらぁ、いいですよ♪ って!」
パールフェリカは無駄にクネクネしながらネフィリムに媚びている。左右に動く度、力の抜けたうさぎの足と耳がぷらんぷらん揺れた。
「へぇ。じゃあ、スーリヤの報酬カットを考えないとな」
ネフィリムは表情を変えず言って部屋を出て行った。
「え!? 待って! にいさま! 私そんなつもりないってば!」
パールフェリカはネフィリムの上着をわしっと掴んだ。呆れたポーズでネフィリムは振り返り、上着を直した。
「だったらすぐ戻って再開する」
「了解しました! にいさま!」
パールフェリカは難しい顔をして敬礼付きで返事をすると、“うさぎのぬいぐるみ”を結局小脇に抱えて、駆け出した。
「シュナ、パールはエステリオもリディクディも連れずに来ている、頼む。私は少し、フラースと話す」
「はい」
返事をしてシュナヴィッツはちょこちょこと駆けて行ったパールフェリカの後を追った。フラースはここ図書院の長官の名だ。ネフィリムはしばらくここに残るようである。
シュナヴィッツが追いついた時には、パールフェリカは既にてくてくのんびりと歩いていた。“うさぎのぬいぐるみ”も両腕で抱えている。慌てる演技は早々に終わっているようだ。
「また召喚お披露目があるのですか?」
「今日のはねー、貴族の、うーんと、国の支配者層? の人達に、貴方達の上の人はこんなに凄い召喚が出来るんだぞーって見せる日なんだけどー」
「……大きくは間違っていないが……」
追いついたシュナヴィッツは、あまりにもいい加減な説明に、やや呆れて言った。
「あれ? にいさま?」
「護衛もなしにうろうろするな」
シュナヴィッツは空いた手で、ティアラをしていないパールフェリカの頭を遠慮なく撫でた。おそらくティアラは晩に着けるのだろう。
首に少し力を入れて、腕の隙間からパールフェリカはシュナヴィッツを見上げた。
「ミラノの事はまだヒミツにするのでしょう? にいさま」
「ああ、そうなる。だから、今夜はミラノの召喚そのものを解除しておくか、“うさぎのぬいぐるみ”のままどこかに置いておくかだな」
シュナヴィッツはパールフェリカの頭から手を離した。二人並んで歩き始める。
「はぁ~……確かににいさま達のティアマトとかと比べると大きさ的に? 見劣りするとは思うんだけど、“人”のミラノってカッコイ~から自慢したいんだけどなぁ」
ぷぅっと白い頬を膨らませている。パールフェリカは、自分の召喚獣に対して“同性としての憧れ”みたいなものを抱いている。それがわかっても、ミラノはいい事なのか悪い事なのか判断が出来なかった。だからその事に関しては何も言わず、別の事を言う。
「パール、私を見世物にしないで──」
先ほど“モチーフ”だの“モデル”だのと言われたばかりなので、“うさぎのぬいぐるみ”の声はやや疲れている。
そんな“うさぎのぬいぐるみ”にパールフェリカはきゅっと眉を寄せた。むっとしている。
「何言ってるの、ミラノ。王族なんて“見世物”以外の何だって言うの?」
「え?」
「特に私なんて、いつかどっかに嫁いじゃうお姫様よ? せいぜい外見を磨いて一杯見られて可愛がってもらうしかないんだから」
「パール。僕達はそうは思っていない」
シュナヴィッツがたしなめる。
が、パールフェリカはすっと目を細めた。
「にいさま達やとうさまはそうかもしれないけど──私は本当の事を言っているだけよ」
そう言ってすたすた足を早めたのだった。それからパールフェリカは部屋に着くまで、口を開かなかった。
パールフェリカが部屋に戻ると、帰り支度を完璧に整え、出て行く寸前のスーリヤと鉢合わせた。
スーリヤは王都にあるミイゼンテイム学院──ガミカ国で最も権威ある学校──の、学長を務めている。その傍らで、王家の相談役として招かれ、一環として、パールフェリカに様々な知識を与えてくれているのだ。──一般教養に関する学習は図書院の面々が日頃から授業をしてくれている。
扉を入ってすぐ、パールフェリカは“うさぎのぬいぐるみ”をぽーんと放り投げ、スーリヤの胴に抱きついた。
「スーリヤ、ごめんなさい! 私ったら物凄い我が侭な子だったわ!」
そう言ってパールフェリカはそっとスーリヤの顔を伺うように見上げた。スーリヤは両手を少し持ち上げて気持ち驚いた表情をしていた。
彼は学長としては若く、40代前半の男だ。濃い茶色の髪は肩に付くか付かないかで、瞳の色は薄い茶色をしている。図書院の長官フラースの被っていた角の二つあるベレー帽に似た帽子の色違いを着用している。色は深い緑。着込んでいた外套も深い緑色で、白いラインが大きく1本真っ直ぐ中央に走っている。
スーリヤは背が高く、シュナヴィッツとそう変わらない。
パールフェリカの顔を見下ろして、スーリヤは柔らかく微笑んだ。皺のほとんど無い顔なので、下手をすれば二十代後半でも通りそうである。女顔の男性は老けるのが遅い、というのをそのまま実践している。
「どうなさいましたか? パール姫様は大変良いお子様でいらっしゃいますよ?」
現在は妻子も居るので大人しくしているが、若い頃は美男子として浮名を流しまくった男である。フラース共々語彙が豊富で、しかしあちらと違ってこのスーリヤは弁舌さわやかなので──歯の浮くような台詞もさらりと言ってのけたので──大変モテた。ライバルは当時王子だった、現王ラナマルカだけだったというのは、今はもう昔の話である。
ちなみに、天井近く放り投げられてしまっていた“うさぎのぬいぐるみ”は、後ろから来ていたシュナヴィッツに無事キャッチされている。
「スーリヤ、私ちゃんとお勉強するわ」
パールフェリカはスーリヤを促し部屋の奥へと進み、侍女らに机を用意させたのだった。
シュナヴィッツは休養を取るように言われていた事もあって、そのままパールフェリカの部屋に居座った。
既に、城にはパールフェリカの召喚披露パーティに招待された貴族達が続々と集まって来ているはずなのだ。身分に不足の無い連中なら、珍しく城に留まっているシュナヴィッツの部屋へ来るに違いない。つまり、そういう連中と会いたくなくてシュナヴィッツはここに居た。
城に戻ってもシュナヴィッツは寝る以外、パールフェリカの部屋に居る事が多い。部屋の片隅の本棚にはパールフェリカの興味など小指の爪程も無い兵法指南書やら世界の武具図版付き全巻やら渋いタイトルが並んでいる。これらはシュナヴィッツの本だ。
窓のある方へ侍女らに机を設置させ、パールフェリカはスーリヤから何処かの国の、今の話や故事を聞かされている。教科書に沿わない教養部分を、スーリヤから学んでいるのだ。
窓の外からは柔らかな陽射しが差し込み、さわさわと木々が風に揺らいでいる。とても良い天気のようだ。窓は開放していないのでわからないが、気温は上がりきらないものの、春の風が吹いているのだろう。これから夏に向けて、木々は一層その青さを増していく。森の中にある王都は、秋と冬が大変な季節で、春から夏にかけて、丁度今頃が一番過ごしやすい。
シュナヴィッツはそのはめ殺しの窓から視線を正面に移した。
自分の座るソファの正面には、“うさぎのぬいぐるみ”がちょこんと両足を投げ出して座っていて、絵本をめくっている。
スーリヤはこの“うさぎのぬいぐるみ”を見て表情を崩して驚きはしたがすぐに“パールフェリカの召喚獣”として受け入れた。
「パール姫様を、よろしくお願いいたします」
そう言って、“うさぎのぬいぐるみ”に深く一礼したのである。
シュナヴィッツがまだ内々だと告げると、彼は「そうでしょうね」と微笑んだ。
絵本には、1ページに5、6個カラーで絵が描かれていて、下にその名前が大きな文字で書いてある。正真正銘幼児向けの図鑑タイプの絵本である。ふと、シュナヴィッツは“うさぎのぬいぐるみ”に“人”の時のミラノの姿を重ねて見てみた。それで、一人でフッっと笑ってしまった。
「──何か?」
うさぎが顔を上げた。
「いや……文字、覚えられそうか?」
「──前途多難のような気もしていますが、覚えます」
淡々とした声で“うさぎのぬいぐるみ”は言って再び顔を絵本へ向けた。
しばらくして、お腹は空いていないという淡々とした声を除いた、パールフェリカ、シュナヴィッツ、スーリヤの3人で食事をとる。晩のパーティがあるので量は控えめである。
──それから、シュナヴィッツが本を2冊読み終えた頃。
夕方の寸前。窓の向こうにオレンジの一線が抜けた。
空を割ったのはネフィリムのフェニックス。サルア・ウェティスへ飛び立ったようだった。