(033)“みーちゃん”の手(2)
(2)
パールフェリカらを見送ってから、ネフィリムが大きく一歩を踏み出して、キビキビと足早に歩き始める。シュナヴィッツはそのほぼ真横──靴一足分だけ後ろ──を付いていく。二人とも歩幅があるので早い。
廊下は彼らだけのものでは無いので、すれ違う侍女や衛兵が慌てて道を空けて敬礼をする。それらに目もくれず、二人は歩く。
「私が行くまで、スティラードは大丈夫かな?」
スティラードとは、パールフェリカの誕生式典の時もサルア・ウェティスに残って詰めていたシュナヴィッツの護衛騎士である。今も、シュナヴィッツの護衛騎士スティラードとブレゼノ、さらにネフィリムの護衛騎士アルフォリスとレザードはサルア・ウェティスに居る。
「大丈夫でしょう。彼は元々兄上の護衛騎士じゃないですか──適任だと思いますよ。ずっとサルア・ウェティスに棲み付いているようなものですし」
「事戦いに関して心配はしないんだが、事務処理が苦手だろう? 今更計算の勉強などしたくないと体鍛えながらふてぶてしく言うヤツだからな。今回はどちらかと言えばそういった事務仕事が多そうなんだが」
サルア・ウェティスでのネフィリムの第一の仕事は、復旧である。砦の再建の日程に人工、振り分け、物資手配、実際の労働者の受け入れ、物資の搬入から何から計画書は出させても、妥当か判断し指揮しなくてはならない。作業が終わっても報酬裁量が待っている。体を使う事は、稀だ。
「ああ……そうですね。先ほどクロードと会いましたが、それでサルア・ウェティスに行きたく無さそうだったのか」
クロードは、この国の軍部最高責任者で大将軍である。ただし、飛翔系召喚獣ではないので王都に詰めている事が多い。そうでありながら彼も、体を動かしている方がマシ、というタイプである。ワイバーン襲撃の際、地上の指揮を執っていたのは実はこの大将軍である。
「──クロードめ。“サルア・ウェティスは殿下を待っておりますぞ。王都は、私めにお任せ下さい”とかぬかしていた。あれも頭脳労働を怠けすぎだ」
眉間に皺は寄っているが目は笑っている。大将軍クロードは王だけでなくネフィリムとも軽口を叩ける仲なのだ。
「兄上は、今日にも発たれるのですか?」
「ああ。絶対今日発つ」
「?」
「今夜、延期していた国内の貴族を招いてのパールの召喚披露パーティがある」
「あぁ──……僕もサルア・ウェティスに行きたい……」
力なくシュナヴィッツが言うとネフィリムは笑った。
「たまにはちゃんと皆に顔を見せておけ。忘れられるぞ?」
忘れられている方が楽です、とシュナヴィッツは小さく呟いた。
「兄上だって──」
ネフィリムは晴れやかに笑う。
「私はずっと王都に居るじゃないか。たまには私も解放されたいのさ。今回はシュナが頑張れ」
シュナヴィッツはしばし思案する。ネフィリムは基本的に“嫌がる”という素振りを誰にも見せない。それが開放されたいと言う。
「……アンジェリカ姫も来られるので?」
「ああ。全く、彼女も懲りない。というよりも、見えていないのだろうな。色々と」
「アンジェリカ姫も、大人になれば変わると思っていたのですが」
シュナヴィッツは20歳、アンジェリカ姫は21歳である。年上相手に言う台詞では無いが、1歳差というせいでその意識も薄れている。
「私だってそれなりに期待をしたが。王妃には血筋だって重要だからな。だがあれではダメだ、私は“恋する女の子”という女性には用が無いんだ。いずれ、プロフェイブの王には直接話す。話のわからない方ではないし、私の言を軽く受け止めはしないだろう」
はっきり言い切って、ネフィリムは足を緩めなかった。一瞬足を止めかけたシュナヴィッツは慌てて追う。
ラナマルカ王に、兄がさっさと結婚してくれればと言いはしたが、シュナヴィッツだって彼が望まぬ相手と結ばれる事は嬉しくない。ガミカ国には大国プロフェイブと違って後宮はない、王妃選びは慎重にもなるのだ。
プロフェイブの王は確かに大国の王として、筋の通った人物、召喚士としても、この世界で唯一実力逼迫するネフィリムを、ガミカの王となる者の言葉を無碍にはしないだろう。
「とはいえ、まだ時ではないし、はっきり断るなら代わりの相手を見せ付けないとなぁ」
ネフィリムはぼやくように言って先を歩いたのだった。
角をくるっと曲がると、小脇に抱えられていた“うさぎのぬいぐるみ”の耳がぺこっと折れ曲がった後、ぺふっぺふっと壁をバウンドして、また風を切る。
──兄上、あれがミラノだって忘れてるな……。
また“うさぎのぬいぐるみ”の力ぬ抜け具合も、本物のぬいぐるみを思わせる、シュナヴィッツは何とも言いがたい、妙な感じがしたのだった。
王立図書院は、国の蔵書を全て管理している機関だ。施設自体は城の中にある。城の中の位置としては、謁見の間よりも奥にある。一番奥の、地下。
歩くのが早い二人でも、城の中の構造は入り組み、階段はずっと続かないし、行き止まりも多いせいで時間がかかった。通路を熟知している二人が近道を選んでも10分近くかかってしまう。
地下と言っても暗いという事は無い。城には元々窓は少ない。どこの廊下でも、自然発光する石材が用いられているので、煌々ととは言えないが、十分に明るかった。
王立図書院には、召喚古王国の長い歴史を綴った書物から、召喚獣や召喚霊に関する資料が山と積まれている。国内外からこれの閲覧許可を求める声は絶えない。国外の者が閲覧を希望する場合はまず、自国の王に認められ、紹介状を書かせられるだけの実力者にならなければならない。その上で、その国とガミカ国の関係が関わってくる。国内の者の閲覧はそれに比べれば容易とはいえ、国内には教育を司り、実施する学院がいくつかあるのだが、そこで優秀な成績を修めた者で、図書院が行う試験に合格できる者しか出入り出来ない。そういう場所に、ネフィリムなどは幼い頃から入り浸っていた。ネフィリムが目を通していない召喚獣や召喚霊に関する書物などほとんど無いほど。
図書院への入り口の、搬入に容易な大きな両開きの扉をネフィリムは押し開けた。
「──フラースは居るか」
廊下と入り口は似たようなものばかりだが、内装の大小は異なる場合が多い。この図書院も、例に漏れず、入り口はパールフェリカの部屋と大きくは違わないのだが、1フロアで100畳はある。6畳間が16並んだ広さだ。そこに背の低い、せいぜい3段程度の本棚が並んでいる。壁には扉があり、このようなフロアがいくつか連なっている。また、さらに地下にもまだ続く。それらは全て、この部屋を通らねば進めない作りになっている。入り口から入ってすぐ、左手に間仕切りで区切られた小室がある。20畳分はこれである。6人程、仕立ての良い、白を基調とした貫頭衣を着た男女がに居る。頭には角が二つある、ベレー帽に似た青のラインの入った白の帽子を被っている。
ネフィリムとシュナヴィッツの登場に、図書院に居た全ての人が気づき、皆右手を折り曲げ胸元へ当て、敬礼をする。入り口から見えるだけで2、30名は居る。年若い10代の学生風から6、70の知的な老貴族などだ。
間仕切りの奥から、白髪交じりの赤毛の男が出てきた。帽子を握るように掴んで外し、それをもそもそと胸元へ畳み込みながら、彼は鼻に乗っけた丸い眼鏡の奥の目を細めた。
「ネフィリム様、本日はお越しの予定でしたかな」
彼がフラースである。40代半ばの男で、ネフィリムがこの図書院に頻繁に出入りしていた時代から職員として勤めている。言わば顔見知りで、ネフィリムからすると、唯一召喚獣、霊に関する知識を同水準で共有できる友である。
「奥で話がしたい」
ネフィリムがそう告げると、フラースはどうぞ、とパーティションの中に案内する。シュナヴィッツも後に続く。ネフィリムらの姿が見えなくなると、図書院にはホッと吐き出される息がはっきり聞こえる程いくつか上がった。突然の王族の来訪に緊張していた空気が、解けたのだ。
パーティションで囲われた職員の机の間には、貸し出し、返却処理中の書籍、彼らが書記する新しい書類が山のように積まれている。その間を抜けると、この間仕切り内からのみ通じる扉がある。その奥にフラースはネフィリムと“うさぎのぬいぐるみ”、シュナヴィッツを通した。
部屋は、真ん中に机があるだけの8畳間程度。
フラースが扉を閉めると、ネフィリムはその机に“うさぎのぬいぐるみ”を立たせた。
──取調べ室みたいね。
ミラノは心の内でそう呟く。お世話になった事が無いので、ドラマや想像上の、であるが。
そして、扉を閉めてこちらを振り返ったフラースがしっかりと2本の足で立つ“うさぎのぬいぐるみ”を見てぎょっとしたのだった。猫背で曲がった背中がデフォルトのフラースの背筋がぴんとした。
ネフィリムはにまっと笑って、しかし何も言わず、“うさぎのぬいぐるみ”を見る。
“うさぎのぬいぐるみ”の首が少しだけ左右に振れる。そして、赤い目をフラースへ真っ直ぐ向けた。
「……はじめまして。ヤマシタミラノと申します」
“うさぎのぬいぐるみ”は名乗った。
「………………──」
フラースは絶句している。それを見て、ネフィリムは満足そうに微笑んでいる。
「あぁ、これはミラノに感謝だな。フラースのこれ程驚いた顔、初めてだ」
「い、い、いえ……で、殿下……! こ、こ、これ……パール姫様のぬいぐるみ、ですよね??」
見事に声を震わせて、背筋を伸ばしたままフラースは言う。
机には椅子が対面で1つずつある。奥側にネフィリムは腰を下ろし、正面、扉側の椅子をフラースを勧めた。シュナヴィッツはネフィリムのやや後ろに立っている。
フラースがもそもそと座ると、男二人に見上げられる形になったミラノは、いくら“うさぎのぬいぐるみ”でも居心地が悪くなり、丸い手と足を駆使して、ひょいと机から飛び降りた。そのそばから、ネフィリムは“うさぎのぬいぐるみ”を捕まえ、再び机の上に座らせた。
“うさぎのぬいぐるみ”の赤い目がじっとネフィリムを見る。“うさぎのぬいぐるみ”なので無表情にしか見えないが、人なら明らかに抗議の目である。が、彼は気にした風も無く、席に付き、机にかじりつく様にして“うさぎのぬいぐるみ”を凝視しているフラースを見た。
「どういったものかは報告がいっていないだろう? パールの召喚獣に関して」
ネフィリムの言葉にフラースがさらに身を乗り出した。
「え!? もしやこの“うさぎのぬいぐるみ”が!? 本当ですか!? パール姫様の召喚獣!?」
「ああ、これだ」
「いえ、しかし。人語を話しましたよ!?」
「だから、まだ発表出来ないし、今夜のお披露目でも見せる事は無い」
「──新種、全く新しいモノ、そういう事ですか」
フラースはそう言ってズレた眼鏡を直した。じわじわと猫背に戻っていく。
ネフィリムは声を潜め、低い声で言う。
「他言無用だ」
「わかりました。──黒の魔法陣のお話は伺っております。ヤマシタミラノ……様とおっしゃいますか」
ティアマトやフェニックスを様付けしないのに変な感じがする──そういう心の声が聞こえてきそうな、戸惑いのある声音だった。
うさぎは一度首を傾けた後、再び机を飛び降りた。今度はネフィリムの手も伸びて来なかった。
そして、“うさぎのぬいぐるみ”は両手を器用に組んで見せた。ぬいぐるみの状態でもモデル立ちをしているのだが、逆に滑稽な状態である。“うさぎのぬいぐるみ”もそれに気づいたのか、数秒の後、再びたるんと両手を下ろした。
「ワイバーン撃退の完璧な援護、さらに“神”の召喚獣リヴァイアサンを強制的に召喚解除した黒の魔法陣──。一体、あなたは何をなさったんです? なぜ、召喚されたモノが、召喚術を使うのです? あなたは、召喚士ですか?」
フラースは椅子から体の向きをズラして、机の横に立つうさぎを見た。矢継ぎ早の問いに、しかし“うさぎのぬいぐるみ”はゆっくりと丸い顔を持ち上げ、フラースを見る。
「残念ながら、何もわかりません。協力出来る事は何一つありません。ですから、こちらの書物を見せて頂いて調べたいと、私は思っています。先ほど書棚を見ました、やはり文字が私の居た所とは違うようなので、覚えたいのですが」
「──ええっと、文字を覚えたい──でよろしいので? 少々お待ちください?」
フラースはそう言って一度退室した。
シュナヴィッツと“うさぎのぬいぐるみ”、周りの者がそれだけになるとネフィリムがくくくっと笑う。
「ああ、もう、傑作だ! フラースはいつも“何でも知っている、私にわからない事はありません”という顔をしてるんだ。それが、あの驚きっぷり……く、くくくっ」
ネフィリムは、シュナヴィッツ絡みの話の時も必死で笑いを堪えていたわけだが、この場面でもそのようだったらしい。
うさぎはポーカーフェイスの得意なネフィリムを見上げた。
「いえ、兄上、この“うさぎのぬいぐるみ”に関しては誰でも驚きますって……」
同じ被害にあってると本人は気づいているのか気づいていないのか、シュナヴィッツはフラースをフォローしてやっている。それに対してもネフィリムは目をきゅっと細めて楽しそうである。
だがそれも、再び扉ががちゃりと音を立てるとすっと消して、至って真面目な顔をする。
「幼児向けの絵本のようなものでも、よろしいのでしょうか」
自信無さそうに、子供でも手に取りやすい大きさのせいぜ3、40ページ程度の本を3冊、うさぎに渡す。“うさぎのぬいぐるみ”の大きさは人で言うならば3歳児サイズなので、それでも両手を広げて本を受け取り、2冊を床に置いた。
そして、手にした1冊をはらっと開きページを────。
すぐに“うさぎのぬいぐるみ”はじーっとネフィリムを見上げた。
ネフィリムは“うさぎのぬいぐるみ”を見下ろしていて、既に必死で笑いを堪えている。
「──あの……ページがめくれません」
丸いその手を見せ、“うさぎのぬいぐるみ”は淡々とした声で訴えたのだった。それを合図に、ネフィリムの笑い声が狭い部屋に響いた。