(032)”みーちゃん”の手(1)
(1)
ネフィリムが一しきり笑い終えたのを見て──ラナマルカ王もシュナヴィッツを傷つけない程度に笑っていたのだが──口を開く。
「ところでネフィリム、サルア・ウェティスの件だが──」
「はー……面白かった──。はい。私が行きますよ」
「え!?」
目尻を乱暴に拭いながら笑いをおさめるネフィリムに、シュナヴィッツが顔を向けた。
「ん? なんだ? シュナ、行きたいのか? その怪我で?」
ネフィリムがシュナヴィッツの左胸の上辺りを右手の甲でぽんと軽く押した。シュナヴィッツは少し下がって顔を一瞬だけしかめた。どうやら服の下も包帯で巻かれているようだ。
「……いえ、僕の怪我は大した事ありません。だから──」
「シュナにいさまの大した事ない怪我って当てにならないのよね? あのワイバーンの怪我? だって、毒? で死にそうだったんでしょう? サリアに聞いたんだから! “私の”ミラノが居なかったら、にいさま死んじゃってたって!」
パールフェリカは“私の”を殊更強調した。サリアはパールフェリカのお気に入りの歳の近い侍女である。
ミラノにたしなめられてパールフェリカは、ユニコーンの背に戻っている。体をその首に預け、だらーんと手足を垂れ下げたまま、非常にリラックスした状態で言った。
「……──」
ミラノが発見してくれてさっさと治療していなかったら、確かに毒で死んでいたのは事実なので、シュナヴィッツは押し黙るしかない。
「ネフィリム、サルア・ウェティスは頼む」
「はい、あれだけの事がありましたからね、モンスター共も様子見でしばらくは来ないでしょう。物資の運搬に少し時間が──」
と、先ほどまであれほど爆笑していたネフィリムとは別人のように仕事モードに入っている。そうなると、パールフェリカもシュナヴィッツも間には入れない。
「──怪我、酷いのですか?」
ふと出来た間に、“うさぎのぬいぐるみ”がシュナヴィッツを見上げている。
ミラノはワイバーンから受けた毒の傷を実際に見ている。他に怪我が増えていそうなのは見てわかる。
「え……いや、大した事はない」
「──それで、休まずに仕事をしようとしていたんですか?」
「大した怪我じゃないから問題ない」
「──私はよく知りませんが、こちらの皆さんも体が資本でしょう? 具合が悪いならしっかり休むべきだと思います、無駄に鞭打ったところで将来、体の寿命が縮むだけです。大した怪我ではないと、見栄をはる必要のない相手にそうする意味は無いと思いますが? あなたの怪我の状態は、きっとそこのお二人には医師の方から伝わっているでしょうし」
“うさぎのぬいぐるみ”が相も変わらず淡々とそう言うと、シュナヴィッツは黙って、間を空けて低い声で言う。
「……それで、僕はミラノに何て言えばいいんだ? 謝るのか?」
ややムッとしている。ミラノは小さく息を詰まらせた後。
「……いいえ、私の方が失礼をしました。すいません」
“うさぎのぬいぐるみ”が小さく首を下げ、謝った。シュナヴィッツは若いのだし、小うるさい言い回しで気を悪くしたのだろう、そう思ってミラノは謝ったが、内容を訂正するつもりは無かった。
「──まぁまぁ、シュナは男の子だもんな!」
ニヤリと笑ったネフィリムが間に入った。王との話もいつの間にやら終わっていたらしい。
「兄上、“男の子”ってなんです、僕は──」
シュナヴィッツをネフィリムは遮るように口を開く。
「シュナは、そんなにサルア・ウェティスが気になるか? 私が行くのでは、問題があるかな?」
「いえ……兄上が行ってくれるのであれば僕が行くよりずっと良い結果になると思いますが……ただ、少し、頭を冷やしたくて──」
「……頭を、冷やす──?」
ネフィリムは呟くように言った後、シュナヴィッツの首にぎゅっと抱きついた。自然、ネフィリムはシュナヴィッツの後ろにいる“うさぎのぬいぐるみ”と目があう。ネフィリムの目はニヤニヤとしている。
赤い目とその蒼い目があう。ネフィリムの目はますますにや~と弧を描く。そもそも笑っているのを隠す為に抱きついているらしい。
笑いを堪えようとしてニヤリとする蒼い目を見て、ミラノも気付いた。顔を背けた。
何から頭を冷やすのか、察しが付いたから。
ネフィリムはシュナヴィッツの背をぽんぽんと軽く叩いて、体を離した。顔は真顔に戻っている。
「ともかく、休んでいたらいい。私は無傷だからな。3ヶ月ずっとあっちに詰めていたんだから、たまの休暇だと思いなさい。怪我が治ってから、また頑張ってくれたら私は嬉しい」
「──はい」
シュナヴィッツの返事を確認すると、ネフィリムは“うさぎのぬいぐるみ”を見下ろした。
「ミラノ」
「はい?」
「図書院へ連れて行くと約束していたと思うが──」
ワイバーン襲撃の前の話である。
「ぜひ、お願いします」
“うさぎのぬいぐるみ”は一度頷いて、感情の無い声で返事をした。その返事にネフィリムも小さく頷いた。
「では、父上、失礼致します。サルア・ウェティスへ発つ前にまた伺います」
「わかった」
ネフィリムは王にそう挨拶をすると“うさぎのぬいぐるみ”をひょいと小脇に抱えてキビキビと扉へ歩き出した。
「あ──。とうさま、私も失礼します! ──ネフィにいさま! “みーちゃん”返して!」
パールフェリカは馬上から父に礼をして、ネフィリムをそのまま追いかける。横にはユニコーンに綱を付けた少女が付き添う。
「父上、僕も失礼します」
「ああ、充分静養するのだぞ?」
「──はい」
廊下に出たところで、ネフィリムが足を止めた。
「パールは、そろそろ勉強の時間じゃないか?」
「──え……」
「はい、ネフィリム様のおっしゃる通りです。さぁパール様、お部屋へ戻りましょう。もうスーリヤ先生がおいでのはずです」
よくぞ仰って下さったと言わんばかりに、この兄弟に唯一付き添っていた護衛騎士エステリオが言った。ネフィリムとシュナヴィッツの護衛騎士は4人ともサルア・ウェティスに残っている。護衛の意味を微塵も成していないが、護衛される方は全く気にしていない……護衛する側は毎度反対をするのだが、それも最早形だけになりつつある。
「い、いやよ……私もミラノと……」
小さな声で抵抗するパールフェリカをよそに、ネフィリムは彼女の乗ったユニコーンを引く少女の横に立ち、“女”という性別であれば絶対に拒否出来ない笑顔で、パールフェリカの部屋の方へ促した。
ネフィリムとうさぎ、シュナヴィッツから離されていくパールフェリカは馬上から「えぇ~ーー……」と文句をこぼしながらも、ユニコーンから飛び降りてこちらへ来るという事は無く、大人しく部屋へ帰ったのだった。