(023)召喚獣リヴァイアサン(1)
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北の要所と呼ばれるサルア・ウェティスは、海に面している。
荒涼とした大地なのは、遠い昔から人とモンスターが争い、その血で穢れてしまった為だと言われている。血の穢れで草木が育たないのだと。それは遠方の、前線に立たない者達の──遺された者達の──感傷とロマンであり、それこそファンタジーだ。遠くで聞こえる戦いの音に妄想を働かせ、吟遊詩人が歌にする、人々は涙し、鼓舞される。それが広まっただけにすぎない。
そこで戦う者は知っている。苛烈なぶつかり合い、炎が、吹雪が、毒が、槍が、怒号が飛び交う。蹴り飛ばされ、削り取られる大地に、生命が芽吹く余地など無いだけだ。
海の向こうには別の大陸がある。
そこは──人が立ち入る事の出来ないモンスター達の住む大陸。彼らの侵攻を受け、押し留めているのが北の要所サルア・ウェティス。
回収される事の無い遺体が積み重なる、聖なる墓所。
聖なる、などと美化したところで、現実は昔から何も変わらない。
モンスターの、兵士達の躯が、砕かれ焼かれ、風に流される──大地。
赤茶けた土や岩がゴロゴロと、衝撃ででこぼこと起伏のある大地は、広大だ。
ガミカ国にとって国土の1/6に相当するのがこの焦土。ただし、ガミカは国土と認めていない。ただ護っているにすぎない、欲しいなら他国にくれてやる、そういう意思だ。だが、召喚獣に恵まれたガミカ国だからこそ、この大陸へのモンスターの直接流入を防げている現実がある。他国が奪っても護りきれない。
ガミカ国を落とす為にモンスターを流入させようとここからガミカの兵を追いやったとしても、ガミカが落ちればそのモンスターは大陸中に広がる。貧乏くじはガミカが引いていればいい、そう考える国が多い。さらにこの地に援軍を寄越す国は少ない、まず無い。ガミカがよっぽど困窮しない限りは。
史上一度も無いが、万が一モンスターが全て駆逐された時、この召喚古王国が人間の国へ侵攻したならば、その時の覇はそう簡単には止められそうにない。だから周囲の国々は、ギリギリの均衡が保たれるのをただ見守る。
残酷とも取れるその周辺国の政策の結果とでも言うべきか、ガミカの国力はあまり大きくはないままだが、滅びもしない。ガミカ召喚古王国が長く生き延びている理由の一つでもある。
焦土は、端から端を見渡せぬ広さがある。
この広大な焦土と、それを臨む砦をまとめて北の要所サルア・ウェティスと呼ぶ。
昨日の昼から砦に詰めていたネフィリムは、王都ではゆったりと束ねていた髪を、今日は三つ編みにしている、バラけにくいようにと。
砦の中央辺りだけ背が高い、6階建てである。その屋上からさらに5メートル程の高さで設置されている歩哨台──何も無いそこの広さは3畳程だ──の柵に腰を預けて、ネフィリムは無表情で生温い風を受け、海を睨んでいた。
砦はその中央から左右に広く、ゆうに1kmはある。3階建で広がり、各階にはびっしりと砲台が用意されている。召喚獣が戦闘に適していなくとも、兵役は様々にある。その良い例なのが、北の要所で活躍する砲兵だ。破壊力甚大の大砲を数名の班で動かす。前線で戦う召喚騎兵や召喚獣を、後方から最大限に支援し、敵モンスター・害獣を駆逐する。撤退時には煙幕弾を一斉に展開して味方を支援する。
──だが、それの6割が現在崩れ落ち、使い物にならない。幸いなのは、それらを扱っていた砲兵らは全員生き延びたとの事。育成が困難な貴重な専門技術職である砲兵が無事と聞いてほっとはしていたが。
昨日昼に到着した折りには、シュナヴィッツの護衛にしてガミカ国でもエリート騎士であるスティラードと、王都から帰していたブレゼノの召喚獣が既に一暴れした後だったらしく、ほぼ沈静化されていた。フェニックスの飛翔でそこに辿りついたネフィリムが加勢すると、モンスターらは──一昨日王都を襲撃したであろうワイバーンの残りも含め──一斉に撤退をした。
──それよりもと、ネフィリムは腕を組んで空を見る。
昨夜、どこからともなく現れた光の魔法陣が、海上、ぐるぐると、ゆっくりと回転しながら、その直径を広げているのだ──既にその直径は100メートルに届きそうだ。人の作る魔法陣は大きくても直径3メートル程度である事を考えれば、異常だ。
色はと問われれば白だと答えられた、昨夜の内は。朝になるとそれが七色に煌きながら輝いているのだ。陣の形を見れば、召喚魔法陣だとわかるが、これほど巨大な魔法陣があるものだろうか──考えられるとしたら……。
「ネフィリム殿下、こちらにおいででしたか」
歩哨台の梯子をカンカンと音をさせて、男が登ってきた。一昨日、シュナヴィッツが空中演舞の為に王都に戻る際、護衛に同行していたブレゼノだ。梯子の真ん中辺りに居る。ネフィリムはそちらを見た。
「ああ、いい。降りる」
腰に刀1本挿している程度の軽装なのでネフィリムはその刀に手を当て、そのまま飛び降りた。すとんとほとんど音もさせず着地する。梯子の真ん中から、ブレゼノも飛び降りた。こちらはがしゃんと鎧の音をさせた。
歩哨台の下にはネフィリムの護衛であるアルフォリスも居た。パールフェリカ生誕式典の際、聖火台でネフィリムが戻るのを待ち、さらにワイバーンの王都接近をその召喚獣赤ヒポグリフで確認に走ったエメラルドグリーンの瞳をした男だ。パールフェリカの護衛であるエステリオの兄にあたる。こちらもしっかり鎧を着こんでいる。手にはネフィリムの鎧やら小手やらを持っている──早く着て下さいと追い回していた辺り、妹のエステリオと同じく小姑臭い所がある。
ブレゼノもアルフォリスも兜は外して、首の後ろに倒してあったので顔がちゃんと見えている。
ネフィリムはアルフォリスを見た。
「アルフ、レザードは戻ったか?」
アルフォリスの押し付けてくる鎧をぐぐっと押し返しながらネフィリムは問う。
「まだ戻りません、あれの召喚獣はあまり速くないので」
「そうか。あの魔法陣に何らかの変化がある前に戻ってもらいたいんだが。それとも増援を連れてきてくれるのか」
考え深げに言っているが、ネフィリムは小手を無理矢理つけにかかってくるアルフォリスの腕を力いっぱい捻りながら押し返している。
「ネフィリム殿下」
「ああ、すまない、ブレゼノ。どうした?」
「レザードが戻りましたら、私はクーニッドへ行きたいのですが」
「──クーニッド?」
「ええ、シュナヴィッツ様とパールフェリカ様が今朝そちらへ向かわれたと」
ぱっと手を離し、どうしようかと視線を巡らせ考える。アルフォリスは反動でネフィリムに突っ込みそうになりどうにかこうにかバランスを取った。
空にある魔法陣も気にかかるので強力な飛翔召喚獣マンティコアを操るブレゼノの戦力は大きくとても惜しい、が、シュナヴィッツとパールフェリカは我が身の一部と言っても過言ではない、必ず護りたい。仕方が無い。空を見たまま口を開き──。
「わかった。お前は──……」
そこでネフィリムの動きが一瞬止まった。そして、口角を上げ目を細めた。
「発つ必要はない」
「──はい………………えっ?」
当然行けと言われると思って返事をしたブレゼノだったが、耳を疑う。そのブレゼノへ、ネフィリムをあちらを見てみろというジェスチャー、視線を投げる。ブレゼノは後ろを振り返る。
──雲が出始めた空を鮮やかに切る、空色のペガサスと赤のヒポグリフを伴った、白銀のドラゴンの姿があった。
「──それで、なんでお姫様も一緒なのかな?」
腕を組んで見下ろすネフィリムの前には、シュナヴィッツの影に体を半分隠すパールフェリカがあった。その後ろにエステリオとリディクディが控えている。
「…………」
パールフェリカは心なし頬を膨らませて下を向いている。その目元は、やや赤く腫れている。
「申し訳ありません、兄上。どうしても行くと言ってきかなくて──」
シュナヴィッツが眉間に皺を寄せ、苦々しく言っている。
「そりゃ泣きつかれたらシュナはパールの言う事を聞いちゃうだろうな。で、パール、なんで来たんだい?」
「──わからない」
目を逸らしてパールフェリカは拗ねたように言った。
「へぇ?……理由はそれでいいかい?」
「…………」
押し黙るパールフェリカからネフィリムは視線を外すとエステリオを見た。
「エステリオ、パールを城へ──」
ネフィリムが言いかけると、パールフェリカがシュナヴィッツの横から駆けて来てしがみ付く。
「ネフィにいさま!」
見上げてくるパールフェリカをネフィリムは無表情で見下ろしている。
「理由も無く置いておけるわけがない。ここは危険だ、とてもね。護ってあげられる余裕はない」
その声は驚くほど冷たく、パールフェリカはびくりと慄いた後、目に一杯の涙を溜め、ぼろぼろとこぼした。
──どういう言葉で伝えたらいいのかわからない……一度召喚獣を得た召喚士が、それを失ってしまう気持ちは、ここに居る誰もわからない。パールフェリカの、ミラノを見失った不安は誰にもわからない。離れたくない、誰からも。伝え方が、わからない──
何も言わなくなったパールフェリカの亜麻色の髪は、ネフィリムの肩より下辺りでふわふわと揺れている。しがみ付く力だけがしっかりとしている。ネフィリムは一度ゆるく視線を泳がせた後、シュナヴィッツを見た。ネフィリムの機嫌はあまり良くない。
「クーニッドに向かっていたのではないのか?」
「クーニッドの長老マルーディッチェから、大岩から光が発し魔法陣が生まれこちらへ飛んだと聞かされました」
「なるほど。それがあれか」
ネフィリムは首だけを後ろへ向け海の上に広がる魔法陣を見た。シュナヴィッツも見る。
「──あれが、神の──」
ネフィリムは再びパールフェリカを見た。
──神が召喚したとされる“使い”がどのようなものかはわからない、創世をした神の“使い”、創世を手伝った獣の霊、そう考えると勝てる気がしなくなる。敵はどれ程のものかわからない。ここに置いておけるはずがない。
ヒステリックにはならない、声を大きく上げる事はない。だが、じくじくと涙を零すパールフェリカは顎を引いて、おでこをネフィリムの胸に当て、下を向いている。両の拳は強く握られていて、左手は“うさぎのぬいぐるみ”の耳と一緒に捕まれている。その左の耳の綿は既にぺったんこだ。引き結んだ唇、両方の口角が下がっている。何かを堪えるように、ひくひくと時折声を漏らす。
この小さく、脆く柔らかな妹を──和やかで幸福の象徴なのだ、戦地にある身からすれば、それを──危険に晒すわけにはいかない。ネフィリムがそっと息を吸い込んで、突き放そうとした時。
──…………レ……ヌシ……──……──…………──
声が。
何種類もの、それこそ老若男女何百人をも合わせたように反響する声が、聞こえた。
全員が声のした方を一斉に見た。
──海上の巨大な魔法陣が、ゆっくりとまわっていた魔法陣が、その文様が見えなくなるほど高速に回転していた。その回転音のようにも思われた。
──ド…………………………──……──レル……──