(002)パールフェリカ姫の儀式(1)
(1)
実に晴れやかな笑顔で、真っ白な衣装に身を包んだ少女が門をくぐった。
久しぶりに城外に出られているというのも彼女を幸福に包んでいる。
手にはお気に入りの“うさぎのぬいぐるみ”がぶら下がっており、少女が小躍りするたびその腕が引きちぎれんばかりに振り回されている。
「姫様、階段です、お気をつけください」
少女の背後に居た女性が声をかけた。
いつもなら「わかってるわよ、うるさいわね。いちいち教えてくれなくても平気よ!」と邪険に返事をする少女も、今日だけはにこやかに女を振り返った。
「ありがとう」
そう言ってまた前を向く。少女の絹製の上下の衣装がスルスルと風に揺れた。
白い衣装自体はシンプルで、上着は丈が胸のすぐ下辺りまでのジャケット、下に赤のシルクのシャツ、これは肌にぴったりとフィットしている。下はスカートのようなものではなく、足首へ行くほど幅が広がるズボン──ハーレムパンツ。
すべてに金糸銀糸で実に細かく刺繍がされていた。
アクセサリーも鈴なりだ。金の腕輪は長袖の両方の二の腕に、生地が広がり過ぎないようにとどめるのに役立っている。袖の裾は金糸で編まれたレース。その下には銀のブレスレットがちゃらりと揺れている。
赤のシャツの上を細かな金の装飾具が飾っていた。
腰にも金や銀の装飾具がジャラジャラとぶら下がっている。
足首より少し上から始まるブーツも、金糸銀糸で刺繍をされている。
白と赤と、金と銀。
華やかさと清楚さの両方を併せ持ちつつ、動きやすい衣装だ。が、それらを押しのけるのが少女の愛らしい笑顔。
大きな瞳は深い蒼。
透けそうな白い肌。
結い上げてまとめてある亜麻色の髪。
頭の上にはちょこんと乗っかる濃紺の薄い土台のある金のティアラ。
キラキラと金銀の宝飾で光を照り返しながら少女は、軽い足取りで門をくぐる。
門は、彼女の背丈の5倍の高さはある。
左右の広さも10人が並んで歩いても充分余裕がある。
その巨大な門には沢山の彫り物がされていている。30人分程の人の形と、それと同じだけの数の獣の形が彫刻されていた。
この門は神殿と外界を区切る神聖なものだとか、建国当時からあるものなので色々と神話めいた話があるらしい。
聞かされた事があるはずの少女の頭にはしかし、その辺の知識はさっぱり残っていなかった。ただ、この神殿と門はこの山の中腹にあって、静かに時を刻んでいる事はよくわかった。静謐な空気が森を包んでいるから。
ふうと溜息をついて、機嫌の良い主を見守る女。
姫に注意を促したのは20代前半の女。こちらは深い紺色の衣装。
絹ではなく、生地自体が強い繊維で編まれたもののようで、その上には装飾具というよりも、防具がその身を包んでいる。
目深な帽子も装飾というより頭部を守る為にあるようだ。帽子は肩まで生地が垂れており、首も守っている。
耳の前辺りから渋い色味のチェーンが2、3伸びて、口元の深い紺の五角形の布に繋がっている。四角形の底辺に頂点が一つ加えられてるような五角形で、下部の頂点が喉元まで垂れているマスクだ。
左右にチェーンがあり、片耳にだけにぶら下げて口元をあらわにしていた女だが、垂れていた側のチェーンを慣れた手つきで持ち上げて留めた。
首までを隠す帽子と喉までを隠すマスクで、顔のほとんどがわからなくなってしまった。
腰には動きを阻害しないような位置でベルトに鞄と長剣がぶら下がっている。
女は小言のつもりではないと言おうとしたが、姫の前を歩く男が先に口を開いた。
「エステリオ、今日はお小言なしでいこう。──姫様、手順は大丈夫ですか? 我々も覚えておりますので不安でしたらおっしゃってくださいね」
エステリオと呼ばれた女は小さく溜息をつき、二人を追いつつ言い淀む。
「しかし……だから……」
が、追いついたエステリオの肩を、つま先立ちの姫がぽんぽんと撫ぜるように叩いた。
エステリオは促されるまま姫の顔を見る。
「そうよ~? 今日という日! この素晴らしく良き日! ──もっと気持ちよく迎えましょう? エステルはちょっと煩いのよ。あなたは黙ってるくらいで人より少し煩いんだから」
日頃からお小言が耐えないエステリオに、ここぞとばかり、姫は明るい声でウィンクまで足して告げた。嫌味というよりも能天気な発言だ。
エステリオの翡翠の瞳が揺らぐ。
黙っていて人より煩いという意味に困惑し、言葉を詰まらせた。そんなエステリオに姫はどこか満足したとばかりに微笑み、先導する若い男の横に再び並んだ。姫は男の琥珀色の瞳を見上げる。
「リディ、今日の手順はさすがにきっちり頭に入ってるわ、心配しないで」
姫にリディと呼ばれた先導する男の名はリディクディという。
リディクディは自分を見上げる美少女ににっこりと微笑んだ。微笑んだが、後ろのエステリオと同じ種類の服の、男用を着用しているので、表情はわかりにくかった。
それでも姫にとっては何年も一緒に居て、もちろん素顔を知っているのでリディクディの笑顔にさらに笑みを返した。
「リディもエステルも居る。何が不安な事なんてあるの?」
そう言ってくるっとまわってにしていた一抱えほどの“うさぎのぬいぐるみ”の手で後ろにいたエステリオを指差し、ふふふっと笑った。
「それにしてもパール姫。みーちゃんはさすがに置いてきた方がよろしいのでは?」
リディクディはぶんぶん勢いよく振り回される“うさぎのぬいぐるみ”をじっと見て言った。
「──えぇ……?」
姫は可愛らしい眉をぎゅうっと寄せて唇を尖らせた。
「いえ……その……」
両手を胸の前にあげて──それは既に降参のポーズ──リディクディは言葉が出なくなった。
リディクディからすると、何度見ても何度接しても姫の美少女ぶりには勝てそうに無いのだ。だから周囲の誰からも『リディクディ、お前は姫様に甘すぎる!』とお説教をされてしまうのだ。
後ろで大きな溜息が吐き出される。エステリオだ。彼女が代わりにぬいぐるみを置いてくるよう言ってくれるのかとリディクディは思ったが、違った。
「姫様、大事なぬいぐるみならばそう振り回さないで、胸に抱いていてあげてください。いくら頑丈に縫いとめてあってもそれだけ振り回しては千切れてしまいますよ? クライスラーに特別に作らせたとはいえ、限度がございます」
精緻な人形を作る事で有名な人形師に、デフォルメされたシンプルな“うさぎのぬいぐるみ”を依頼した姫だ。どれだけ通じるかわからないものだが、エステリオは告げた。ただ、いつものお小言と違って優しい声音だった。
「……そうね……」
少し押し黙った後、姫は“うさぎのぬいぐるみ”を抱きしめた。
ぬいぐるみは本来のうさぎの形ではなく、人型にうさぎの特徴を詰めたようなフォルムがベースだ。
耳を除いた背の高さは5歳の幼児ほど。
赤糸とほんの少しの銀糸で刺繍された丸い目が特徴的だった。少し離れ気味、垂れ目気味という整いすぎない愛嬌のある可愛らしい表情をしている。
シンプルすぎて目の他には、口も鼻もなかった。
鼻は頭の正面の形が緩やかに尖っているだけ。耳は長く、直立で立たせた場合にはふくらはぎに相当する所まで垂れ下がるだろう。
抱きしめた“うさぎのぬいぐるみ”の耳が、たるんたるんと揺れた。
他人がどう見るとしても、ふわふわとしていながら芯のしっかりとしたこの“うさぎのぬいぐるみ”は姫の心の支えだった。
いかに今日、一人前の召喚士初めての召喚の儀式を行うと言っても、まだ12歳……今日13歳になる少女なのだ。
まして、それほど強国でないこの国で、母である王妃は既に他界しており、忙しい父には会うことすらままならない日々……。年が離れた兄らに寂しさを紛らわす為と買い与えられたぬいぐるみが、真に心を打ち明けられる存在だった。
──それを。
ぶん回して、手はちぎれかけ、足は地面に擦って今にも破れそうな状態にしてしまっている。
「ごめんね、みーちゃん」
姫は“うさぎのぬいぐるみ”のみーちゃんをぎゅっと抱きしめたのだった。
朝陽はじわじわと昇っている。
ほんの少しだけ肌寒かった早朝の終わりは近い。
「さぁ、パールフェリカ姫、昼までには儀式を終え、王都に戻らねばなりません」
「ええ、行きましょう」
パールフェリカは“うさぎのぬいぐるみ”を抱いたまま、顔を上げた。