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(3)
深夜、日付も変わった頃だった。
「何を飲んでるの?」
一人だと思っていた薄暗い部屋に、カツンという足音が響いた。毛足の長い絨毯まで近寄ってくると足音は消える。
驚きはしたが聞き覚えのある声に、ネフィリムはソファから動かなかった。
部屋の真ん中にはテーブルと向かい合わせのソファがある。間取りはパールフェリカの部屋と大きく違わない。
テーブルの上には三本アームの燭台があり、ろうそくの赤い光が室内をちらちらと照らしていた。
鉄製の大きな止まり木には今、何もいない。
斜め後ろに突然あらわれた気配に、ネフィリムはふっと微笑って取っ手の無い陶器の杯をテーブルに置いた。
テーブルの下には空き瓶がいくつか並んでいる。
自室でこんこんと飲んでいたところ、現れたのは想い人の姿をした別人……。残念さが際だって仕方が無い。
小さな杯を手に取り直し、ちょろちょろと注いで少しだけ後ろを向いて見せた。
「ガミカで一番強い酒だ。飲むかい?」
彼女は昼に見た服──こちらの世界のものではない衣服から着替えている。
色は薄い青緑が基本の上下だ。肌の色が白いので濃い色の服も似合うが、髪の色が黒と強い事もあって薄い色味の服もよく似合う。そもそも、彼女はどんな服も着こなしてしまいそうだ。
こちらへ歩いてくる時に白金のアクセサリが揺れた。以前の、神の召喚獣騒動の時に付けていたのと同じものがいくつか見られた。
中身が違う事はわかっているが、ふと、ミラノの笑顔が見たいとネフィリムは思った。
彼女は素っ気なく「いらない」と言って肩をすくめた後、ソファの後ろから身を乗り出してきた。
「なんてお酒?」
ネフィリムはつまらなそうに目線を正面に戻した。
「サクフィス」
杯の液体をごくりとあおる。
「名の由来は“犠牲”だそうだ。古い昔、いけにえに差し出された者が最後に飲み、残された者もこれを浴びるように飲んで夜を越したという逸話があるな」
蒸留酒の製造地で有名な場所があったが、モンスターが定期的に暴れていた。
何度も討伐は試みられたが成功しなかった。代わりに、そのモンスターの生態が少しわかった。モンスターの活動によって水が綺麗になっている……らしい。
村人は月に一度生け贄に村人を一人、さらに喰いきれないほどの食料を捧げた。ほどなく、モンスターによる被害は十分の一以下になったという。だが、生け贄を捧げ続けた村人達の心は疲弊した。
癒やすべく生み出された酒が今ネフィリムの飲んでいる犠牲という意味を持つサクフィスだ。
その製造地ではやがてモンスターは狩られた。が、水は綺麗なままだった。
絶望しながらも人々はサクフィスを作り続け、以後、モンスターと戦って死んだものの葬儀に必ず出され、弔った後に親族が飲んで悼むようになった。
「……ずいぶん飲んでるのね」
テーブルの下に目線を走らせるソウェイラ。ふと、テーブルの上の多すぎる杯に気付いた。
ネフィリムの手元の杯以外に、注がれた杯が二つ──テーブルの真ん中に二人分ある。
あの二人には飲ませるわけにはいかなかったし、飲ませる必要があるなんて思うわけがなかった。それに、まさか今日死ぬとも思っていなかった。もちろん、飲める歳でもなかったが……。
ディクトはきっと強く凛々しい召喚士として、ガミカの誇り高い戦士として勇壮に戦ってくれたことだろう。
彼の召喚する“唯一の召喚獣”ウィルムは誰より戦果をあげたはずだ。姿はいかつい蛇。硬く、傷を負っても力を失うより早く回復し、最大の大きさで大地を駆け抜け、なみいるモンスターを駆逐したであろう……その姿が目に浮かんで、どうにもできない。
ロレイズもまた、稀な──“唯一の召喚霊”ケレースの使い手として名を馳せる事になったはずだ。異世界の豊穣の女神の力は王都のみならず、枯れた大地にも恵みをもたらし、多くの人を救ったことだろう。
もう、願っても叶わない夢想だか……。
「落ち込んでるわけ?」
問われて肩をすくめるネフィリム。
「人を生かすのが私の仕事なんだ。うまくいかなくて嫌になる時もある。問題ない……明日には忘れる」
そう言ってくいっと杯を空にしてテーブルにトンと置いた。テーブルに置かれた酒のつまみの木の実や焼き菓子は一つも減っていなかった。
宰相を醜聞から守る為にネフィリムは今回動いた。が、果たして、子供二人を死なせてまで……と思う。子供が死んだのは結果にすぎないのはわかっていても、重く胸にのしかかる。
何がどうすれば違ったのか。将来有望な二人の命はどうして失われたのか。
仕事に追われ、人に囲まれている間は良かった。だが、一人になると考えても埒のあかない物思いに襲われて、時が過ぎるのがまだるっこしくなる。
「未来希も落ち込んでたから、話を聞いたわ。何も言わないかと思ったのにスラスラしゃべるから変だと思ったんだけど……あの子なら落ち込むわよねぇ」
ネフィリムがソウェイラを見上げる。
「あら? 未来希も落ち込む事があるのか……なんて思った?」
「いや──ミラノなら……」
ネフィリムは再び杯を琥珀色の液体で満たした。
「子供の命を守ってやるのが大人のすべき事なのにって言ってたわね」
「──そうか」
同じ事を考えたミラノを、傍に居ないのに近く感じた。
杯を揺らして眺めていたが、テーブルに戻すとネフィリムは立ち上がる。
「何? 励ましに行ってあげるの?」
「……ロレイズの話はほとんどの者が知らないからな」
巻き込んでしまったというばつの悪さもある。パールフェリカも眠ってしまっているだろうから黒い“うさぎのぬいぐるみ”を連れ出す事は難しくないはずだ。
ソウェイラがわざわざ来たという事は、彼女も寝ていないのだろう。
「あなたはフェニックスを召喚するんだっけ、唯一の」
ネフィリムはちらりと“ミラノの体”を見た。
「あの子に惹かれた? 魂?」
ソウェイラは軽く両手を広げる。
「……この姿に見向きもしないなんて」
ソウェイラとミラノが王都へ戻ってきた時、ティアマトとフェニックスが迎えに現れた。
ネフィリムはその時も黒い“うさぎのぬいぐるみ”しか見ていなかった。
今も“ミラノの体”を見るネフィリムに表情は無い。
「いいわ。条件を飲んでくれるなら今夜だけ、未来希をかえしてあげる」
「条件?」
「困ってんの。城にあるでしょう? 大クリスタル。近づけなくて」
「……ああ。あれか。わかった。“ミラノ”にも好きにしていいという事にする」
眺めたところで何も得られないばかりのコレクションだ。金が冒険者に回れば良いと買い取ったにすぎない大クリスタル。ネフィリムにはどうでもよかった。
「ありがとう! じゃぁ、今夜だけね! 明日にはまた、私が使わせてもらうけど──私はまだ“秩序”から逃げなきゃいけないし」
「どういう意味だ?」
大クリスタルへの接近許可を得て肩も上げて微笑んでいたのに、ソウェイラはネフィリムの問いに沈んだ。言い難そうに「ごめんなさいね」と言った。
「唯一の召喚獣を召喚する者は唯一つの存在しか愛してはならない。違えば召喚獣を失い命を落とす……なんて呪いみたいな禁忌を作ってしまって。それがバランスだ、なんて思っていたのよ。私、ゲーム好きだったし。一人一人の命に近寄らず、考えず……大きな力には必要だ……なんて。本来そうされるべきではないものまで数値化したかのように、まるでパラメータを弄るみたいに簡単に──世界を牛耳るのは理屈や数字だけなんかじゃなかったのに」
ディクトは唯一の召喚獣を召喚する者だった。その禁忌を前に、歳若く恋愛経験も当たり前に乏しい彼が思いつめたのは当然だった。
「──君は」
「私の“罪滅し”はまだ途中だし」
そう言ってソウェイラは顔をあげた。
「この世界を創り直す事は出来ない。でも、必ず護るわ」
ミラノの姿をかりた“はじめの人”──はじまりの召喚士はきっぱりと告げた後、ふっと力を抜いて微笑んだ。
「じゃ、また明日」
彼女の足元には音も無く虹色の魔法陣が展開する。
薄暗さに慣れた目にその輝きは眩しく、ネフィリムは一瞬だけ目を逸らした。
僅かな笑みを唇に乗せて彼女は瞳をそっと閉じる。魔法陣が床に溶けるように消えた後、再び目が開かれた時にはその表情が変わっていた。
部屋が再びろうそくの灯火を頼りにした時、彼女はゆっくりと首を傾げた。
「……ネフィリムさん、私、どうなったんです?」
ミラノは自分は黒い“うさぎのぬいぐるみ”の格好で、眠りについたパールフェリカを寝室に残して応接室のソファに座っていたはずなのにと言う。
急に自分の本当の肉体に戻って驚いているらしい。
黒い瞳は2、3泳ぐが、すぐに動揺は消えた。
先程までのはっきりと声を押し出す彼女と違って、ミラノの声は少し元気がない。落ち込んでいるのは本当のようだ。
「“神”の気まぐれ──かな」
口角を少し上げ、ネフィリムは「飲むかい? 他にもあるが」と言った。
「──……ええ。では、甘めのお酒、ありますか?」
ミラノは勧められるままにソファへ移動した。ネフィリムの座っていたソファの対面、その端の方に腰を下ろした。
人の姿をとるのはいつぶりだろうかと、ミラノは胸の前でそっと手を握ってみた。
たくさんの感覚が戻ってきたような気がした。胸の内に鎮めてやり過ごそうとしていた感情さえも……。
侍女の姿も無く、テーブルの上のろうそくの灯りと、カーテンの隙間から注ぐ月明かりだけが光源の一室。
ネフィリムは室内の一画にあるガラス戸の棚に手を伸ばしていた。
その後ろ姿をミラノは眺める。
室内に酒類を置いているという事は一人で飲む事がままあるということになるだろうか……。
ミラノは視線をテーブルに移し、ネフィリムが座っていたであろうソファの対面側に座った。
瓶を2本と杯一つを持ってきたネフィリムはミラノの隣に腰を下ろし、先程まで座っていたソファに近かった焼き菓子と自分の杯を引き寄せた。
ミラノの正面に棚から持ち出した杯を置くと瓶を1本開けた。
「口当たりの良いものを選んでみたが、ミラノの口にあうかな?」
ミラノは杯を見つめるだけで手を付けず、小さな声で言った。
「──……少しだけ」
「ん?」
「少しだけ、泣いても良いですか?」
「……」
ミラノは普段と全く変わらない表情をしていて、話している事と一致しない。
「守ってあげられなかった……何も出来なかったわ」
出来る限りの事さえしてあげられたかどうかわからない。逆に追い込んでしまった気さえもしてしまう。
一体どこに何の原因があった、どこに過ちがあったというのだろう。
少年と少女が出逢い、インキュバスの召喚主が通りかかった。
何も出来なかった自分を悔しいと思うよりもずっと、ただただ、あまりにも儚い子供達の最期が悲しい。
13歳の少女が早すぎる出産に命を落とし、それに絶望した14歳の少年が自ら命を絶った。
言いつくせない。
彼女の、彼の涙を見たではないか。なぜ、何もしてやれなかったのか。
自分の中で整理しようにも言葉にならない。
それでも、ミラノはゆっくりと杯に手を伸ばした。
杯を軽く揺らし、水面に反射する光の動きを見た。少しだけ、口角を上げる。
「もう、泣いて悼んであげる事しか出来そうにないの。私の感傷でしかないのはわかっているのに……」
“うさぎのぬいぐるみ”の体では、涙なんてこぼれなかったからほっとしていたのに、人の形になってしまった。
泣いたからといって誰も何も良い事はない。
だが、もうあの子達二人もいない。
泣いてやる事しか出来ない。なんて、ふがいない。そう思うと、口元にだけ笑みが浮かぶのだ。心は泣き続けると言うのに。
ネフィリムはふっと口元を緩めた。少しいたずらっぽい笑みを浮かべて両手を広げる。胸を貸すというのだ。
ミラノは杯をテーブルに置いて「かりません」と言って微笑んだ。すぐに視線を落として表情を消してしまったが。
「あんな話を聞かされては、なおさら……」
唯一の召喚獣を召喚するものの禁忌。
ネフィリムはミラノの横顔を見つめる。
ミラノはこれ以上近づきたくないのだろう。彼女は優しいから。もう手遅れだとは思っていないのかもしれない。ネフィリムは手をミラノの膝に置いて微笑った。
「君には聞かせたくなかったな」
ミラノが小さく首を左右に振った。
結論は変わらないという事らしい。それでいい。
ネフィリムはミラノの膝に置いた手を離すと、小さく頷いて自分の杯を空にした。
ミラノは顔を上げられなかった。
声に、言葉に出来ないことが沢山あって、ミラノはただ両手を合わせ拝むような形で唇に当てうつむいた。
表情を消していたいのに、込み上げるものに眉はぎゅと寄ってしまう。
そうして、静かに目を瞑った。
ぽろぽろと、溜め込んでいた涙がこぼれた。歪んだ口元は指で押さえ込んだ。
せめて、あの子達の魂が安らかである事を、祈る。
「──私にかして欲しい」
ネフィリムは言うとミラノの肩に片手を回し、自分に引き寄せた。
伏せられた睫毛は濡れていて、ネフィリムは願いを込めてミラノの額に自分の頬を押し当てる。
──泣かないで欲しい。
時折、上下に揺れる肩。その度に触れた手に力がこもった。
細い肩を気にしてすぐに力を抜いても、こらえきれず、結局もう一方の腕も背中にまわして抱き寄せた。
伝えたい事は山ほどある。この件に巻き込んでしまった事を謝りたくても、きっと結末は一緒であった事を思えば、それは子供達に酷く失礼な行為のような気がした。ミラノもそう思うだろう。
泣いて欲しくないと思っても、この現実を受け止めて泣くことを選んだのは彼女だ。
見せたくないものを見せ、聞かせたくないことを聞かせた。本当に伝えたい気持ちだけ、ちゃんと届けられない。
心の奥底にある想いほど形にはならず、心の欠片は全てで、かといって一つ一つを集めたからと全てを言い表さず、言葉に出来ない。
何もかも投げ出してしまいたいのに、負担をかけたくなくて何も言えない。
ネフィリムがミラノを思いやるように、ミラノもネフィリムの考えている事を察する。
ネフィリムにはきっと「私はかえるのです」と言ったところで「わかっている」といういつもの言葉がかえってくるだけだ。
ネフィリムは、ミラノの事を理解して、同時に自分の事も把握している。
どちらもが遠くない未来に別れがある事を物わかり良く「わかっている」と言うと知っている。
ミラノの濡れた頬に、ネフィリムの一滴の涙がこぼれた。
それを傷の舐めあいと呼ぶ事もあるかもしれない。だが、ミラノもネフィリムも、言うほど大人ではなく、まだ若い。
背負いきれない重いものに直面しながら、一つ一つどうにかこうにか、乗り越えていく。
やがて、どちらともなく離れて、微かに笑う。
「ミラノ、巻き込んですまなかった」
「いいえ。私には何もツライ出来事はありませんでしたから」
見ただけだ。何も出来なかっただけだ。
「ただ……無力でした」
ネフィリムは自分とミラノの杯に残った酒を空の瓶に捨て、それぞれ新しく注ぎなおした。
「人は日々、己がいかに無力なのかを思い知りながら生きるものかもしれないね。正直、この立場ではそれを痛感しない日の方が少ないよ」
口元に笑みを湛えてネフィリムは一口飲んだ。
「だからこそ、上を目指す気にもなる。だから、心を傾け、力を注いで事に当たる。それしか出来ないんだ」
そう言ってネフィリムはミラノにも杯を渡した。
出来事一つ一つを思い返せばうまくいかなかった事を数えている方が多いだろう。そういうものだと諦めれば、なんという事は無くなる。
「ミラノ、君は私達には出来ないことをたくさんやってのける。でも、手が届かない事はあるだろう。大丈夫さ、人は全てを救えない。そういうものだよ」
「…………そうですね」
杯を弄って飲まないミラノに、ネフィリムは手を添えて飲ませてやる。
目をぱちくりして一口二口ごくりと飲んだミラノはネフィリムを見た。
「酒に逃げるのは悪いことじゃないさ。いつもじゃ駄目だがね。あまり思いつめなくていい。何度も言うけど、逆に巻き込んで本当にすまなかった。ミラノ、そんなに自分を追いつめないで欲しい。もっと、気楽でいい」
ネフィリムを見ていたミラノの目が一瞬大きく開かれた。
「ああ、キョウも言っていたっけな」
ミラノを見ていると「気楽に」と言いたくなるのは確かだとネフィリムは妙に納得した。
「……そうですね」
ごくっと杯を飲み干すミラノ。
「おかわり、頂いても?」
ネフィリムは口元に笑みを湛え、瓶を引き寄せ注いでやる。
「持て余すものは酒で一時忘れるのも悪くない。それでまた、明日、強く踏み出せるならね」
「……はい」
ミラノは普段、けちって美味しい酒を飲まない。懐具合と相談して量もあまりたしなまない。が、さすが王室御用達のお酒は違う。口にまろやかで美味しい。ほわりと温まる。飲み始めるともう1杯と思えた。
「──それに」
言いながら自分の分も注ぎ足すネフィリム。
「いつも一人で飲んでいたから、誰かと分けあえるのは嬉しい。ありがとう、ミラノ」
「いいえ。でも……そうですね」
ミラノも笑ってから言う。
「明日のために」
ネフィリムがミラノの杯に自分の杯を当てると、陶器の触れあう優しい音色が響いた。