(171)滅びの気配(2)
(2)
アルフォリスに後処理を任せ、ネフィリムは裏路地へ入った。
さらに街の中心から離れる。
平屋がぽつぽつと建っている程度の開けた草原まで移動した。小川の流れる音が聞こえている。ここまで来ると人通りは本当に稀だ。
ネフィリムはミラノを下ろしてから小川の淵に片膝を立ててしゃがみ、鞘をさしていない方の腰にある小さな鞄から布切れを取り出した。
布を小川の水で湿らせ、ブーツについた返り血を洗い落としている。
最後は布を固く絞ってからブーツを拭い、水気も取り除いた。
周囲に人が居ないのを確認してローブも、脱ぎ、さっと見てすぐに着た。ブーツ以外には返り血は飛んでいなかったようだ。さっさと慣れた様子で身支度を直すと、座った姿勢で動かない“うさぎのぬいぐるみ”のフリを続けるミラノを見た。
「人はいないから動いて構わないよ」
ネフィリムが言うと、黒い“うさぎのぬいぐるみ”の顔の角度が微かに変わった。立ち上がるつもりは無いらしい。
「さて、大体片も付いたし、街でも見るかい? ミラノ」
「……ですが」
「“ミラノの体”は昼にならないと顔を出さないだろうし、息抜きは何事にも重要だ」
「息抜き……?」
問い返すミラノにネフィリムは薄く微笑を浮かべるだけだった。
お忍びはネフィリムの息抜きだ。彼はミラノにも息抜きをさせたいらしい。
「それに──聞きたい事がたくさんある」
再び“うさぎのぬいぐるみ”を小脇に抱え、ネフィリムは小川の傍から離れ、勾配のある坂の草地を登っていく。
右手には冒険者区域の町並みが広がっている。
左手は踏み慣らしただけの道が民家を繋ぎ、木々が増えている。あとは森に飲まれていた。いわゆる町外れだ。
「召喚の仕組みについて、私の知らない事を君は知っているだろう?」
ネフィリムは早い歩調で坂を登るが、相変わらず息が乱れるという事はない。
「先の“神の召喚獣”に関して、何が起こっていたのか時間を追って知りたいな。結局詳しく聞けていなかっただろう? レイムラース……たくさんの人間を死に追いやったあの化け物──あれが天使だという。何故かな? 君はアルティノルドと随分と親しそうだが、あれはわれわれにとっては“神”なんだ。一体どうしてそんな容易い口を聞けるんだい? 七大天使もそうだな。顎で使って……。ねぇミラノ、君は何者なのだろうね?」
にまりと笑っている。
「………………」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”はゆっくりと顔を逸らした。
パールフェリカやシュナヴィッツは久しぶりに会えたことに舞い上がったり、動揺しているようで助かった。が、やはりこの狸を煙にまくことは出来なかったと悟る。
自分以上に感情と理性をしっかりと仕分けているらしい。
「それから──」
ネフィリムが言葉を繋ぎ、ミラノは再び彼を見上げる。
うっすらと口元に湛えた彼の笑みはどこか悪戯っぽい。本心も完全に隠している事だけはわかる。
「“ナツキ”って、誰だい?」
ミラノはちっとも、息抜きになる気がしなかった。
ある程度坂を上りきったところでネフィリムは足を止めた。
丈の低い草地の真ん中でささやかな風が吹いている。
夏らしく気温の高い気候だが湿度は日本と異なる。息苦しさがない。何より、豊富で瑞々しい自然を巡る風はアスファルトで焼かれた風とは全く別ものだ。
小川や木々の間、日陰を抜けてきた空気は涼しく、香りも心地よい。
ここからは城とは違う角度で街並みがよく見渡せた。
レンガ造りと漆喰、瓦は淡いオレンジ色で、1枚1枚が大きく、緩やかなカーブを描いて彩る。
視界を埋める色数は少なく派手さに欠ける。が、飛び交う召喚獣が空に翼を広げる様はここが別世界である事をミラノに思い出させる。
美しい風景だが、同時に“神の召喚獣”がこの王都までやって来た時の事をミラノに思い出させた。さらにレイムラースによって放たれた巨大な獣達に踏み荒され、火の海となった光景が眼裏に蘇る。
あの時はわけがわからないまま事態だけが進み、何もかものっぴきならなくなって、気付けば自分を捨てる選択をしていた。
確かに、パールフェリカがいなければあの時、自分は死んでいた。ミラノは終わっていたのだ。
パールフェリカによってこの世界に召喚されたのがはじまりだったが、同時に彼女がいなければ、かえることもままならなかった。生きることも……。
もし、かえれなくなっていたとしても恨む事は無かっただろう。
ミラノは身の上に起こった事を人のせいにする性質ではないからだ。
今というものは、だから、死ぬはずだったところをパールフェリカが切り拓いてくれたものという認識がある。
天使に『この世界は滅びる』などと言われて放っておけるわけがない。命の恩人であるパールフェリカの住む世界の危機をミラノに見過ごせるはずがない。
そもそも“霊界”が荒れている様子で、すぐにはかえれそうにない。
かえれなくなるという事態は、今まで考えてこなかったわけではない。それを念頭に置いた遺書みたいなものを机の引き出しに入れてもある。
相変わらずの安アパートでせっせと貯金しているのも、もしもの時の為だ。ここへ来るためのリスクは覚悟しておくべきと思っていたから。
──そこまでしてここへ来たいと感じた自分に対して、さして追求もせずぼんやりと不思議なものだと思いながら……。
悲しいことツライこと大変なことが起きても、飛びぬけて苦しいと感じることはない。
目の前の出来事をこういうものなのだと──現実なのだと受け入れるようにしているからだ。
代わりと言っては妙だが、嬉しいこと楽しいこと幸せなことというものも、同じように心を通り過ぎて、飛びぬけて満たされるという事がない。
どちらもとりとめのない事としてくくられ、記憶の中に埋もれていく。
この世界へ召喚される前、椎名さんに振られても大きな感慨は無かった。
仕方が無いと思うだけで、特につらいとか悲しいだとか情けないだとか思うことは無かった。
鉄の女というあだ名に頼っているのかもしれない。
自分はそういうものだと思い込んでいるのかもしれない。だが、そうでありたいと願う自分も確かに居る。
いかに苦しくツラくとも、目の前の出来事に心が大きくブレるのは嫌だ。どんなことが起きても真っ直ぐ前を見ていられる自分で居たい。
──あの時も、そう言い聞かせ続けた。
パールフェリカには自分が4人兄弟であると話したことがある。
兄と自分、妹と弟のキョウ。兄はミラノが19の時に亡くなった。その時、特に、強く言い聞かせた。兄の死から目を逸らさない為、現実を受け入れる為に。
ミラノは2度、自分を大きく作り替えたつもりだ。
13歳の時に父親に浮気の証拠を突きつけて線を引いた。家族がギクシャクしないようにとその秘密を飲み込んだミラノだったが、いつしか笑う数が極端に減っていた。
19歳……、兄が目の前で亡くなった時。自分は楽しむべきではないと決めた。
そうして、あるべき自分の形を描いてそれに沿うように生きてきた。
だが、どうだろう。
目指すべき自分自身であろうとして作り上げた今だが……日々積み重ねてきて在る今の自分だが──。
パールフェリカのように笑う事など出来ていない……気がしてならない。
シュナヴィッツのように誰かに心を沸き立たせるように執着する事は出来ない。周囲が見えなくなってしまう事なんて自分には想像出来ない。
ネフィリムのように幸せを見つけたとして、気付いたとして、喜びに涙をこぼせるような情感が、理想の自分の、築き上げた今の自分の中に、残っている気がしないのだ。
自分自身であり続けたいと願いながら、自分らしさというものをもしかしたら意味を履き違え、ここに居る己がただの“役柄”にしかなっていない気さえしてくる。それこそただの鉄のように冷たく硬いだけの女……。
苦々しく『“自分”っていう役割、演じきろうとする』と言ったキョウの声を思い出した。
腹の底が突き破れるんじゃないかという程、笑った事もあったはずだ。子供の頃、そんな時間を過ごした事があった。記憶にはあるのだが、その感覚と今の感覚とのズレがどこか気持ち悪い。
ふと、広がりすぎてしまった思考をミラノは折りたたみ、また心の奥底に沈める。それは容易い事だ。
結論「この世界を護りたい」ということで、個人的な物思いは今、現実、不要だ。
この世界に疎いミラノにとって、ネフィリムは重要な協力者だ。ミラノの目的はネフィリムも当然望むであろう世界滅亡の回避。情報の共有は不可欠だ。
黒い“うさぎのぬいぐるみ”はネフィリムを見上げた。
「少し、長くなりますがよろしいですか」
「──構わないよ」
説明を面倒臭がるミラノが腰を上げたのだから、ネフィリムは何も言う事は無いし、口数の多くない彼女の声を厭うはずもない。
ミラノは、何がネフィリムにとっての既知の知識かわからず、知っている全てを話すと前置きをした。
ネフィリムの望んだ召喚術に関する知識の話をした時は、彼のはっきりした蒼色の瞳が忙しなく動いて「──あの文献は誤りか……いや、続けて」など独り言を挟んできていた。“神の召喚獣”に関する話をした時は眉をひそめながらも最後まで聞いてくれた。レイムラースやアルティノルドの話の間も……。
赤い刺繍の目で改めてネフィリムの顔を見る。
とても話しやすい。
「私が把握しているのは以上です」
ミラノがそう言って締め括ると、ネフィリムは見てわかるかわからないかの微かな笑みを浮かべた。
「わかった。ありがとう──それで?」
ミラノは終わらせるつもりだったが、ネフィリムは先を促す。たっぷり間を開けてミラノは応える。
「…………“ナツキ”さん、ですか」
「ああ、キョウを責めてはいけないよ? この名前は彼に聞いたわけではないのだから」
「キョウしか知りません、この世界では」
「だがキョウに聞いたんじゃない、これは本当。もう1人──」
もう1人というのはもちろんミラノ本人だが、ネフィリムはボカしてしまう。そんな話がしたいわけではないし、そちらに流れては会話の主導権をミラノに取られてしまう。
「“ナツキ”という人の事は、聞かれたくない?」
「いえ」
言い難いなら仕方がないと思い、微笑んだまま聞いたネフィリムだったが、意外にもミラノは即答した。
「とても懐かしい名前です。キョウに言われるまで忘れていた程」
──あの頃は忘れられるとは思っていなかったのに。
「……キョウ?」
「“霊界”の穴を封じる時、キョウの言った事を覚えていますか? 私に『気楽に』と言った──」
「ああ、あの言葉。元はその“ナツキ”という人が?」
「ええ。それだけです」
それ以上の詮索を許さない声という程強いものではなかったが、ネフィリムはただ曖昧に頷いて話題が終わる事を了承した。
キョウはネフィリムに教えた。その言葉の発言者はミラノの初恋の相手だと。
インキュバスの夢魔の中、呟いた名を『それだけ』とは。『キョウに言われるまで忘れていた』とは。
ネフィリムは溜め息混じりに笑みをこぼした。
初恋の思い出が無意識下で根を張っているとは、自分の年上の想い人は考えていた以上に──かわいい。
それで、笑いの方が堪えられなかった。次第にくすくすと笑いだしたネフィリムをミラノは問いもせず、王城へ帰りませんかと促したのだった。
その後、時間が余っているという理由でネフィリムは黒い“うさぎのぬいぐるみ”を小脇に抱えたまま城下町の通りへと歩いた。
欲しいものがあるのならば与えたいとネフィリムは思うが、ミラノが無欲な事はよくわかっている。同時に、本当に欲しいと思えばちゃんと言う事もわかっている。ミラノは“ぬいぐるみ”のフリをしている事もあり、ネフィリムはただ黙って露店の間を歩いていた。
だが、徹底した“ぬいぐるみ”のフリをしていたミラノの方がネフィリムのローブの裾を引っ張った。
「──あれ、変装ですか?」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”がこっそりと腕を伸ばして示した先で、ツバの大きな帽子を被った少女が挙動不審にあちこちの露店に顔を突っ込んでいた。
ネフィリムは苦笑した。自分よりも先に視界の悪いミラノが気付いた。
「だから私の変装もパールの変装も、簡単にはバレないんだがなぁ」
人の流れを避け、ネフィリムはお忍びで城下町へ降りて来たらしい妹の元へ歩み寄った。