(158)パール姫の冒険VI(1)
(1)
黒い“うさぎのぬいぐるみ”は開いた窓の横に立って庭を見下ろしていた。
「……何があったか──」
「少しだけ、待ってください」
作り物の赤い瞳は、庭の中でも樹木が特に多く植えられている辺りを見ている……ようだ。いかんせん、“ぬいぐるみ”だ。刺繍の目ではどこに焦点があっているのかもわからない。ただ、何かをじっと見ている。
ネフィリムはミラノを待ちながらフードを深く被って形を整えた。窓辺に来た以上、姿は隠しておかなければならない。
そうする内に黒い“うさぎのぬいぐるみ”が庭から顔を逸らして見上げてくる。
「すいません、お待たせしてしまって」
「いや、構わない。何があったのかな?」
ネフィリムにはミラノが無駄に人を待たせる事など無いとわかっている。
「何があった……その前に、アルフォリスさんのヒポグリフをかりました。大丈夫ですか?」
「ミラノが?」
ネフィリムは曖昧な笑みを浮かべた。
「またでたらめだな──どうやった、とはもう聞かないが」
やれば出来たという返事がくる事は予測出来る。
付き合いは長くなくとも、相手がミラノならば違ってくる。これほど芯を通して己を律する女性をネフィリムは他に知らない。だから、わかる。
傍に居る限り、彼女の一挙手一投足は鮮明に記憶している。その全てが容易に答えを導くのだ。
遊びはすれど惚れた腫れたの感情から一歩遠ざかっていたネフィリム。後から面倒にならないように、合理的に──いずれ王位を継ぐ身の上で、愛とかいう感情は、後々、妃と決まる女に捧げるつもりでいた。
そんなネフィリムの心さえミラノは揺り動かしたのだ。
ミラノの心構え、主義、確固たる世界観はもうネフィリムに染みている。
アルフォリスの召喚獣ヒポグリフを操れた事は、ミラノの今までやってきた事を思えば出来て不思議ではない。
初召喚の儀式で繋がった召喚獣を操れるのは本来召喚主だけ。あるいは、今回のように召喚主であるアルフォリスがネフィリムの言う事を聞けと言ったなら、ネフィリムにも従う。ミラノはアルフォリスの指示した範囲に入っていなかったはずなのに、彼の赤ヒポグリフを操ってしまった。
でたらめ以外に何と言えるのか。それも含めて、今まで通りではあるが。
「はい。追いかけてもらっています。13、4歳の少年が来て、逃げましたから」
ロレイズがぎくりと身を震わせ、顔を上げた。
「ち、違うわ! 誰も、誰も来ていません! ネフィリム様、それはデタラメを言っているんです!」
「な、なんなんですか、それは!?」
ロレイズしか見えていなかった侍女も、自立する“うさぎのぬいぐるみ”に気付いてぎょっとしている。
それ呼ばわりだが気にする事も無く“うさぎのぬいぐるみ”はただ二人を一瞥すると、再びネフィリムを見上げる。
「少年は逃げようと言ってロレイズを連れ出そうとしていました」
「…………」
「胸に刺繍がありました、変わった花の」
ロレイズと侍女の目が大きく開き、顔色が変わる。
「家紋だ。礼装のまま飛び込んできたのか。隠すつもりがないのか。いずれにしろ時期が悪いな」
「臨月です。医者を置いておいた方が良いのでは」
「今すぐはムリだ。キサスの話では違法営業の医者を脅して診させていると言っていたが……パールのユニコーンを──」
「会わせるつもりですか?」
ロレイズにもパールフェリカにも精神的ショックが大きい事は想像に難くない。同じ13歳というだけでなく顔見知り……さらにはその妊娠した姿を見る、見られるとなればなおさらだ。
黒い“うさぎのぬいぐるみ”は「それに」と言いかけ、ちらりと身を寄せ合うロレイズと侍女を見てから、廊下への扉へひょこひょこ向かった。
ネフィリムはその数歩分を一歩で追いつくと“うさぎのぬいぐるみ”を拾い上げ、廊下へ出て扉を閉めた。
黒い“うさぎのぬいぐるみ”は廊下で下ろされると、正面にしゃがむネフィリムにだけ聞こえる声で言う。
「それに──相手を消す、ですか。子供ですよ?」
口を挟むべきではない──そう思っていながらも、ミラノはネフィリムを見上げてゆっくりと言った。
ネフィリムは“うさぎのぬいぐるみ”の赤い目を見ながら、表情を変えはしなかった。
相手が子供である可能性は最初からあった。その上で、消す予定だった。
「…………まず話を聞く。だが相手も14歳未満の禁忌を犯した可能性がある。しかも花の家紋を持つ貴族──ガミカ成立当時からの古く由緒ある家柄だ。逆にあちらの家がこれを揉み消す為にロレイズを消しに来るかもしれない。護るにしても“炎帝”は目立つからここに置いておけないし」
ネフィリムの言葉をそのまま信じ、決定を先送りにしてくれた事にミラノは少しだけホッとした。
年下──子供に危害を加えるような事は見過ごせない。
おしゃべりな弟のキョウの口は急いで封じなければならないとは思うが、ネフィリムの“仕事”をそのまま「がんばって」と放って行く事は、もう出来ない。
ロレイズを護る必要が出てきて、ミラノも自分の頼れる力について思い浮かべる。
「七大天使もレイムラースも昨日の始末に追われているそうです。“霊界”の穴の影響で、空と大地に歪みが出たとか……よくはわからないところですが。アルティノルドはレイムラースによると意識が不確かでほとんど眠ったまま……だそうです」
神や天使の力まで必要かどうかはネフィリムにはわからなかったが、来てもらっても邸の警備を頼むのはあまりにも忍びない。来られない状況だという事は、わざわざ断る必要もないので逆にありがたい。
「……この邸の警備に期待するしかないが。子供にあっさり抜けられたようでは──」
「ロレイズが抜け道を教えていたんじゃないでしょうか」
「なるほど、逢い引きするならそうなるな」
「逃げた子供が庭の植え込みの間を抜けていきました。木が揺れていたので、抜け道の大体の位置はわかります」
さっきミラノが「待って」と言ったのは、それを見極めていたからだ。
ネフィリムは黒い“うさぎのぬいぐるみ”を脇に抱え、警備員の1人を捕まえる。
事情の説明を省く為にも結局名乗り、警備長を呼び出して警備を一層厳重にする事と、探し当てた抜け道の封鎖を指示した。屋敷の主はキサス宰相だが、第一位王位継承者たるネフィリムの指示とあっては誰もが最敬礼で受け入れた。
ネフィリムはフードを直し、子供を追う為、外に出た。
ロレイズも侍女も簡単には口を割らないだろう。
ヒントはあるのだから、自力で見つける。
ミラノの見た子供の礼装にあった家紋、花の紋章が何かを特定する必要がある──相手は誰か。
「去年のこの時期に初召喚儀式をした子息……な。キサスの娘が出向く程度には貴人の子息……か。3人といった所だな」
裏から少し歩くと、正門が見えていた。門の中央に描かれたキサスの家の家紋、8枚の花びらが見えている。
ネフィリムの脇に抱えられて斜めの視界だったが、黒い“うさぎのぬいぐるみ”は記憶の中にある子供の家紋との違いを思い浮かべた。
黒く丸い手でネフィリムの服の袖を掴んで呼び、その足を止めさせる。
家紋だから各家門で違って当たり前だろうが、こちらの常識を備えているわけではない。自分の得た情報は勝手に取捨選択せず、全て伝えておくべきだとミラノは判断した。
「ネフィリムさん、子供の家紋は6枚の花びらでした」
ミラノの声にネフィリムは沈黙し、重く息を吐いた後、頭を左右に振った。
「──ライン家だ……」
キサスの政敵になる。家柄はあちらがやや劣るものの一級家門、簡単には斬れない。死因の追求が厳しくなる。工作が必要だ。
ライン家、キサスの対抗勢力だとミラノが聞かされたのはついさっき、酒場での事だ。
ロレイズとその相手の関係は、ガミカの社会的タブーである14歳未満の恋愛のみならず、親が敵対する禁断の恋だったのだ……。
先程はまず話を聞くと言ってくれたネフィリムだったが、ミラノが彼の立場でキサスの宰相という地位を守ろうとするなら、やはり相手は消すべきと判断するだろう。話を聞くなんて間怠っこしい事をするよりもさっさと口を封じる……。ミラノは胸が重くなるのを感じた。
「ミラノ、ヒポグリフはどっちに行った」
「子供です、話を聞きますよね?」
聞いたところでやる事は同じだ。それはミラノにだってわかっている。ただあって欲しいと思うのだ、事態の変わる何かが。
世界が違って、社会が違って、面識なんてほとんどなくても、それらに意味はない。
ミラノの中には、大人は子供を護るべきだという強い認識がある。子供は護られるべきで、大人は護るべき──ミラノを形作る基本的な価値観の1つだ。
「──もちろん、聞くさ」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”が腕をまっすぐ伸ばして方角を示すと、ネフィリムはすぐに駆け出した。
ガミカの王子達は普段から体の鍛錬を絶やさないという話は以前に聞いた事がある。
長い足で一気に通りを駆け抜ける。人の多い路地は庇や窓枠に手足をかけて軽業師のように登って行き、屋根の上を走った。
ネフィリムの脇に抱えられたまま、長い耳が風を切る中、黒い“うさぎのぬいぐるみ”は丸い手を曲げてそっと腹に触れた。そこは、湿ってへこんだベルベットの生地。
──悲しみの涙? 後悔の涙? 他に、何の涙がある?