(156)ロレイズ(2)
(2)
「あれ? 彼女は? あの人はどうしたんです?」
ネフィリムがフードを深く下げて店内へ出ると、“ミラノ”を取り巻いていた男共の1人が話かけてきた。
すいと、扉の隙間を埋めるようにネフィリムは移動した。後ろ手で扉を閉めて男が小部屋をのぞき見られないように立つ。
「中で休んでいる」
低く特徴を消した声で言い、右手の親指で扉を示す。
何せ“ミラノ”はその場で消えて既にいない。
今、部屋を見られては──密室だったのだ──いつどうやって消えたのかと騒動になる。“ミラノ”もそうだが、変装しているネフィリムだって騒ぎは避けたい。わずかな時間でも……酒場を出る時間だけでも稼がねばならない。
「──そうかい…………じゃあ、もうちっと待つかな」
男は片眉を下げ、曖昧に笑った。
ネフィリムは去ろうとしたが、男の興味は”ミラノ”から変装している自分に移ったらしい事に気付いた。男はネフィリムを頭から足まで見てきた。
「……なんだ?」
「いや……あんたも気をつけなよ。さっきのあのいかつい男、バルハンムってんだが」
ネフィリムが捻り上げて追っ払った日焼けした男の事だ。ミラノに絡むなど言語道断。多少の注目を集めても痛めつけるのはやむを得ないと判断して対処したのだが……。
「1年ほど前に都に流れて来た新参のクセにデカイ顔してんだ。一昨日も喧嘩して相手5人を1人でボッコボコにしてたぜ。──まぁ、あんたは強そうだが」
筋肉達磨のような体格のバルハンムだったが、ネフィリムに関節を極められてあっさり降参していた。
「みんな仕事が無ぇって苦労してんのに、あいつやたら羽振りが良いみたいでな。こんな大勢の前でああもあっさりヤラれたんじゃ、金にあかせて何してくるかわかんねぇよ。気を付けな」
忠告にネフィリムは「わかった」と小さく言って頷いておく。
薄暗い店内は現時点で8割以上が埋まっている。テーブルの下には犬型や鳥型の召喚獣が座り込んでいるのが見えた。冒険者や傭兵が多いせいだ。召喚しっぱなしでも平気な者が多い。
「それ、さっきの人のじゃないのか?」
男が指差したのはネフィリムが左手に抱える黒い“うさぎのぬいぐるみ”だ。ネフィリムは一瞬なんと答えたものか小さく首を傾げた。
「──……もらったんだ」
ぬいぐるみを軽く持ち上げて言うと男は笑った。
「へへっ──男にゃ似合わねぇ。はん……“ぬいぐるみ”を男にやるなんて可愛いな。私の代わりに抱いて! ってとこか?」
男は言いつつ近くのテーブルへ去り、背を向け座った。
ネフィリムも扉の前からカウンターの方へ向かう。
ちらりと男を見れば個室の扉をじっと見つめて開くのを待っているようだ。
「──ミラノにはもう、城から出てもらいたくないな」
うんざりと囁くように言えば、「こんなところなら私だって嫌です」というあっさりとした声が返ってきた。
いつも通りの反応に、ネフィリムは口元に苦笑いを浮かべるしかなかった。
こそこそと移動したネフィリムはカウンターで店主を捕まえ、腰の小さな鞄から複数枚出した硬貨を押し付けるように渡した。抱えられて“ぬいぐるみ”のフリを続けるミラノには見えなかったが……。
店主は握らされた硬貨を見て目を見開く。
硬貨は大きくて厚みのあるバマロナ金貨。大国プロフェイブの通貨で一番高い貨幣だ。
「──おいおい、こいつ1枚でも店売るぐらいしなきゃ釣りが足りねぇよ」
「釣りは、さっきの女を覚えていてくれたらいい」
店主にだけ聞こえるように言い、ネフィリムは彼の肩をぽんと弾くように叩いて去った。
覚えておけというのは「女が来たら良くしてやってくれ、絡まれていたらちゃんと助けろ」という意味だ。
店主が後ろでひゅうっと口笛を鳴らし、片方の口の端を押し上げてにやりと笑った。
「羨ましいこって──頼まれておくよ、任せとけ!」
昼──。
夏の日差しは強いものの、それほど暑さは感じない。
背の高い木々によって作り出された影が城下町の大半に落ちている。涼しい風が吹きこむせいだ。さわさわと、緑や花の香りが運ばれてくる。
──懐かしいと言うべきか……。
黒い“うさぎのぬいぐるみ”はネフィリムの小脇に抱えられたまま、彼の強い歩みでどこぞへと連れて行かれている。
この世界に来て間もない頃にも王城内をあちこち持ち運ばれた。その事をミラノは思い出していた。
相変わらずあまり配慮はなく、耳があちこち振り回されている。それを厭わしく感じるより、そういえばこうだったと微笑ましく思う方が勝った。
しみじみと、また彼ら──パールフェリカやシュナヴィッツ、ネフィリムら──と過ごす事になった……なってしまっているのだと実感していた。
ミラノが感慨にふける間もネフィリムは石畳の階段をいくつか下り、何本もの細道に入り込んで先を急ぐ。
大通りは避けているらしいが、裏路地はまるで迷路だ。それでも、ネフィリムの足取りは確かなもので足早に裏道を突き進む。
しばらくして、大きな建物──見るからに金持ちのお屋敷──の前に出た。建物の広い庭を囲むように太くて背の高い鉄柵が天を突いている。
鉄柵1本1本の間隔は大人の腕を肘まで突っ込むのがやっとといった幅だ。鉄柵の先端は尖っており、よじ登って上を抜ける事は出来ない。
その鉄柵も、裏に回ると蔦が生い茂っていた。
ぬいぐるみのフリを続けるミラノはこっそりと顔を上げる。
広い通りに面する側に巨大な門が見えた。
人の身長の4倍も5倍もある大きな鉄の門扉──そのど真ん中には大きな飾りがあった。その飾りは目を懲らしてよく見れば花だとわかる。鉄を曲げて作られた、花びらが8枚ある花の紋章……察するに家紋だ──。
ネフィリムはするりと裏手に回った。
味気のない鉄の扉を2度ノックする。
ほとんど待つ事無く扉が開いて、ネフィリムは滑りこむように奥へ入った。庭の緑で視界が陰る。
薄い青色の上着、ズボンを着ている4、50歳の中年女性が招き入れた。髪を結い上げている女性の様子などからミラノは、城で見かけた侍女達を思い起こす。
ネフィリムは先導されるまま、灰色が重苦しい4階建ての建物へと進む。
歩き始めてすぐに緑の多い木々は失せ、芝が敷かれて花も咲き乱れる手入れの行き届いた庭に出た。
明るくなって視野が開けると、ミラノは再びこっそりと顔を上げた。
建物の窓という窓に鉄の格子が入っている。
ゆらゆらと耳が揺れるのを感じながら、ネフィリムが裏口から続く芝生の上を先導する女に続いて歩いているのを確認した。
ミラノ……黒い“うさぎのぬいぐるみ”はネフィリムに抱えられたまま周囲を見回していた。
2階の半円形のバルコニー、柵の間からヒラヒラしたものが見えた──。
ひらひらは緩く揺れて生地の余るネグリジェ……女の子がいた。
見上げでも──下から見ていてもわかる。細い女の子は、お腹だけが出っ張っていた。
視界が動いて女の子の顔が見える──その前に、ネフィリムが建物の中へ入ってしまった。
夏の明るい日差しのすぐ後では、室内に目が慣れなかった……。
「殿下──お手を煩わせてしまい、申し訳ございません」
男の声が聞こえた。
距離が近いのでミラノは“ぬいぐるみ”のフリを続ける事にする。
「構わない。私にとっても大事な事だ。それよりロレイズは──」
「ロレイズは身に覚えが無いと言っております」
加齢によるものではないだろう……必死で震えるのをこらえている声のようにミラノには思えた。
「何より警備は常に厳重にしています。あの子の腹が日に日に膨れても信じられず……こんなに遅くなりました」
男──おそらくこれがキサス宰相だ──の声は渋みのある中年のもの……だが、その立場に見合わぬほど弱い。
対して、ネフィリムのはっきりした声が廊下に響く。
「ロレイズを疑っているわけじゃない。私が一番危惧しているのはインキュバスだ。ここ数年ガミカ王都内で召喚霊インキュバスの報告例は無いんだが……」
キサスはネフィリムの言葉に顔をはっと上げた。
──召喚霊インキュバス、あるいはサキュバス。
そいつを、男を襲う時はサキュバスと呼び、女を襲う時はインキュバスと呼ぶ。
人の夢に入り込んでは快楽に誘い、女の姿でサキュバスとして男から精液を奪い、後に性別を男に変えるとインキュバスとして女を孕ませる。
インキュバス、サキュバスは夢の主の抱く理想の異性の姿で現れる。
夢を制御出来る人は少ない。
堅い意思で拒んで追い返す事は、容易ではない。
このタチの悪すぎる悪戯は、使いこなせば“戦争の道具としての戦力”になり得るも、一般には犯罪としてしか使えない。厄介な召喚霊なのだ。
──そう、形を持たない“霊”なので物理的な障害物、当たり前の警備では意味が無い。
そもそも“召喚霊”の使い手は少ない。
キサスのような大貴族の屋敷でも対“召喚霊”の警備は完全にはとらないのが現実なのだ。そこを突かれたのだとしたら……キサスの後悔は深い。
インキュバスは初召喚の儀式で繋がる型の召喚霊だが、何の役にも立たないどころか、これを引き当てた召喚士はすぐに隔離か投獄される為、誰も隠すし逃げまわる。
「一応、ロレイズには話を聞くが──」
ネフィリムは歩きながらフードを跳ね上げた。
顔を晒すと押し込めていた亜麻色の髪を外にはらりとひっぱり出した。
湿気が少ないとはいえ蒸す。普段は甘めの爽やかな香水をつけているが、それとは異なる変装用の香水──自然に近い花の香りが周囲に流れた。
2人と1体の“ぬいぐるみ”は王城とそう違わない内装の廊下を抜け、階段を上り、両開きの扉の前で止まる。後からついて来ていた中年の女が追いつくと、扉の横に立った。
キサスがドアノブに手をかける。
「待たせております」
「話を聞いた上、当面インキュバスの召喚主を探す」
相手の男か、インキュバスの召喚主か──。いずれであれ、この事実を知る者を消すのがネフィリムの仕事になる。
急ぎでなければ信頼できる者に任せても良いが、赤子はいつ産まれるかわからない。産まれてしまえばキサスの屋敷に出入りする者に赤子の声が聞こえる。そこから噂が立てば、公の場に姿を見せていなかったロレイズに──キサスに娘は1人しかいない──疑いが向く。
煙が上がれば偽の火は簡単に捏造されて流布される。今回は、そもそもの火が確かにあるのだから──。
「申し訳ございません……」
頭を低く下げたキサスの顔が、ミラノにも見えた。皺は濃く、目の下にはくっきりと隈が彫り込まれたように染み込んでいる。酷く疲れた顔をしていた。
「キサス、お前はもういい、政務が溜まっているだろう?」
「は……重ね重ね申し訳なく……」
「それは父上にな。あと副宰相……ゼーティスにも礼を。あれも先月から家に帰ってないんだ」
キサス自身も今日は2ヶ月ぶりに屋敷に帰ってきたのだが、先月辺りからじわじわと副宰相にも宰相の仕事の遅れが影響していたのだ。
「はいっ」
キサスは右腕を左肩にあてる敬礼をし、同時に腰を折って深く頭を下げた。
彼が去り、後ろ姿が消えるのを待ってから、ネフィリムは中年の女──ロレイズの侍女に扉を開けさせた。