(155)ロレイズ(1)
(1)
木をくりぬいて作られた器をテーブルに置き、“ミラノの体”はパンッと両手をあわせた。
「ごちそうさまでした!」
ネフィリムはにこりと微笑んだ後、真面目な顔をして“ミラノ”を見た。
お互いがお互いの物の言い方で主張すると、会話は成立しない事をネフィリムはよく知っている。ミラノは確かに諦めは早いが、譲れる問題でもないはずなのに交渉する気を無くしている。このミラノの体を乗っ取った者がよっぽど頑固なのだろう。
ミラノの体を貸す以上、返してくれるまでは最低限守ってもらうべき条件を主張しておくべきだ。ミラノのやる気の無さをネフィリムが補ってやる。
「中に居る“霊”が誰であるかは知らないが、城に来てもらえれば何でも提供する」
ネフィリムは視線を“うさぎのぬいぐるみ”に移す。
「ミラノ、食事は1日何度とっているんだい?」
「……3回ですが」
再び“ミラノ”を見る。
「聞いてくれたかな? 今日はあと2回食事をとって欲しい。夜休む時も安全な場所である城に来る事。それはミラノの体なんだ、彼女に返すまで大事に扱う事を約束して欲しい」
ネフィリムの言葉に“ミラノ”はにっこりと微笑んだ。
「それはもう約束するわよ! 未来希の事、大切に思ってくれてありがと! 嬉しいわ! 大丈夫よ、未来希に何かあったら悠希ちゃんに怒られちゃう」
「ゆき?」
ネフィリムが問い返す横で、黒い“うさぎのぬいぐるみ”がぎくりと動きを止め、ゆっくりと“ミラノ”を見上げる。
「なぜ……」
「ん? なに? よく聞こえないわ」
「なぜ、母の名前まで知ってるの?」
ふふんと笑って“ミラノ”は椅子から立ち上がる。人差し指を“うさぎのぬいぐるみ”に見せ、言葉にあわせて左右に振った。
「な・い・しょ!」
そう言ってすぐ足元に虹色の魔法陣を広げ、すとんと落ちた。
「──!」
慌てて“うさぎのぬいぐるみ”が飛び込もうとしたが、魔法陣はあっという間に消えてしまった。
幼児サイズの“ぬいぐるみ”は四つん這いで椅子の下に頭を潜りこませていたが、ゆっくりと後ろに戻る。
突っ込んだ時の勢いで押し上がっていた椅子の脚が床について、かたんと小さな音がした。
椅子の下から抜け、ミラノは正座の姿勢で首を左右に振る──見失ってしまった……。
「ミラノ──」
ネフィリムが言葉を繋ぐ前に扉がノックされた。
「──アルフォリスです、失礼します」
声とほぼ同時、扉が薄く開いてするりと男が滑りこんで来た。
「こちらにいらっしゃいましたか」
男はネフィリムの肩に居る召喚獣ヒポグリフの召喚主であり、護衛騎士たるアルフォリスだ。
アルフォリスは普段の鎧姿と異なって、薄い灰褐色のローブをネフィリムと同じような形で着ている。腰にはやはり長剣がぶら下がっていた。
ネフィリムと大きく異なる点は、フードを跳ね上げて顔を晒している事。深い彫りの奥、エステリオと同じ碧の瞳がすぐにネフィリムの姿をとらえる。
王城にあって職務についている時の方が顔を隠しているので、名乗りと声が無ければミラノにはわからなかっただろう。
アルフォリスは後ろ手で扉を閉め、すぐ足元の黒い物体に気付いて片足を持ち上げた。踏みかけたのだ。
「ミ、ミラノ様!? ネフィリム様、ミラノ様を見つけられたんですね」
ネフィリムは見つけるというほど探していない……たまたまアルフォリスと待ち合わせたこの酒場で再会しただけだった。
ミラノの方がなぜかここに居たので、発見した時は心底驚いた。その辺ははしょり、ネフィリムは「ああ」とだけ応えた。
アルフォリスは一度姿勢を正した後屈んで黒い“うさぎのぬいぐるみ”の顔を覗き込んだ。
「ミラノ様、パール様が心配されていましたよ。あと、キョウが──」
ミラノは“様”付けでキョウは呼び捨てのようだ。
自分の体に逃げられてショックを受けていた──また探さなければならない憂鬱から現実逃避する寸前だった──が、弟の名前を聞いてはっきりと我に返る。
──キョウ、またすぐ手懐けて……。
すでにキョウがアルフォリスと良好な関係を築いている事が窺えて、ミラノは関心するやら呆れるやら、小さく息を吐いた。だからこそ、放っておけるとも思ったのだが、想定以上だ。
キョウは下手に出て人に近寄り、味方を作るのが上手い。
相手から警戒心を奪い、持ち上げ、自分は下に回りつつ操作する。
そういう腹黒さには必ずいつかしっぺ返しが来ると嗜めるのだが、キョウは全く耳を貸さない。そのキョウ流のコミュニケーション能力は、ガミカでも発揮されているらしい。
「伝言で『40秒で帰ってこないとミー姉の10の秘密を暴露する』との事ですが」
「……意味がわからないわね、どの時点の40秒なのかしら」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”が立ち上がり、アルフォリスも屈んでいた姿勢を戻した。
「発言40秒後『ミー姉の初体験は20歳!』と叫んでいましたよ。居合わせたシュナヴィッツ様が凍りついていました」
「……………………そう……あの子は早くかえすべきね……」
声で人を殺せるなら、ミラノは今遠く離れた弟をさっくり仕留めるどころか、余裕のオーバーキルを成し遂げていただろう。
低くゆっくりとした冷たい声に、ネフィリムは力いっぱい顔を逸らしている。アルフォリスは靴半分程後ろへたじろいだ。
声は相変わらず静かなものだったが、黒い“うさぎのぬいぐるみ”の全身からただならぬ妖気めいたものが立ち上っているように感じられたからだ。
「それ以外、何か言っていましたか?」
「ミ、ミラノ様、あの、声が大変恐ろしいのですが、その、も、申し訳ありませんでした!!」
「あなたに──」
ふっと声が軽くなり、微笑を含む。
「謝って頂かなくて良いんです。他に、あの子は何か言っていましたか?」
同じ問いだ。普段の淡々としたものより、ほんの少し笑みを含んだ声の方が怖い事にアルフォリスは気付いてしまった。
「い、いえ、その」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”の後ろでネフィリムが小さく首を左右に振っている。もう言うな、という意味である。
「な、何も……!」
「──……そう、気を遣わせてしまって申し訳ありません。他にも言ったんですね──あの子は後で……霊界で迷子になったってもうどうでも……」
──キョウ、すまん!
アルフォリスは心の中でキョウに謝りつつ『妙な伝言なんか頼んでくれるなよ!』と逆ギレを始めている。しゃべりすぎてしまったのは自分なのだが、もちろん棚上げである。
黒い“うさぎのぬいぐるみ”はアルフォリスから顔を何も無い方へ向け、丸い手を顎に持って行った。何か考え込んでいる。
「あー……えーっと、ネ、ネフィリム様、時間の都合がつき、既にキサス様、ロレイズ様共にお待ちだそうです」
「わかった、すぐに向かう……アルフ、ミラノを頼む」
「え!?」
アルフォリスが慌てた。二人きりになったらキョウが何を言っていたか問いただされそうだ、あの声で。それにミラノが本気で怒るのは、キョウの前に出た時だろう。また目撃する事になるのではないか──。
「ミラノも城で体が戻るのを待つ方が良いだろう?」
「そうですね──キョウもお城に居ますよね?」
返事をするミラノの声は普段の淡々としたものに戻っている。後半はアルフォリスを見て問う。
──時間を置かなければキョウはミラノ様にシメられる!
直感を確信してアルフォリスは慌てて理由を考え、思いついた瞬間、一気にまくし立てた。
「ネ、ネフィリム様! ミラノ様をお連れになった方が良いんじゃないでしょうか、私もその方が安心ですし! ミラノ様、何か危険な事があったらすぐにネフィリム様を城に飛ばしてくださいね! では、ではこれで、俺はこれで失礼します! では!」
言葉の最後の方と動作を被せ、アルフォリスはバタバタと出て行った。閉まった扉を黒い“うさぎのぬいぐるみ”は見上げる。
──……あの人……私を便利アイテムか何かだと思ってないかしら。
アルフォリスは以前の“神の召喚獣”騒動の折からミラノのいくつもの“ありえない召喚術”を見てきている。便利アイテムというよりも神と同列に、何か恐ろしいものとして並べている事だろう。
ネフィリムはぷっと吹き出して笑った。慌てて出て行ったアルフォリスの様子に、考えている事が手に取るようにわかったのだ。
「キョウもアルフも、仕方がないな……ミラノ、キサスの邸に行くが構わないかい?」
「……キョウの口だけは止めたいのですが……」
一刻も早く“口封じ”をしてしまいたい──その感情にミラノは初めて共感を覚えた。
「それならアルフが今の事をキョウに伝えるだけで十分のはずだ、キョウも勘が良い」
ネフィリムはミラノに見えない角度で笑みを浮かべる。
──わかってやっていたとしたら相当……──バカだな。
姉の事をよく理解しているキョウ流のミラノ召喚術──暴露話の件を聞いてすっ飛んできたミラノに元の世界へかえしてもらう事──は残念ながら失敗に終わったわけだ。が、王城でも十分やっていけそうな素質をキョウに感じた。あっさりパールフェリカや護衛騎士らに溶け込み、ミラノをからかって遊んでいる辺りの能力をちゃんと活かせば……の話だが。