(152)隠密の貴公子(1)
(1)
クーニッドの森で起こった一騒動を、ガミカ王都の民はまだ知らない。
山々を超えた先、森深く木々に覆われた召喚古王国ガミカにも東の空から朝陽が差込みはじめている。
辺りが明るくなると、王都の東西にある門と南の正門が開け放たれる。
閉門後に辿り付いて野宿をしていた商隊が、馬やロバに荷をひかせてぞろぞろと王都へ入っていく。
最後尾にはあくびを噛み殺すならず者風の──鎧や剣などで武装した──男女が入っていく。彼らの大半は商隊の護衛として雇われている冒険者だ。街道での野宿の際、夜間、寝ずに火の番をした事だろう。
南の正門から街中を西へ向かえば冒険者らの集まる区画がある。高低差が激しい地形の為、王都の民はあまり寄りつかず、外から来た者が自然ととどまった。先のような冒険者らの集まる宿や酒場が軒を連ね、いつしか地下に闇取引の為の会場までが出来た。
王都の民からすれば、あまり治安の良い地域ではなく、ますます近寄らない。
朝と昼の間、冒険者達が旅の支度を整えて宿から出てくる頃合い──。
坂の上に、特に広い酒場がある。
3階建てで1階が酒場になっており、2、3階が宿の形をとっている。ごくありきたりな店構えだが、一番規模が大きい酒場だ。
1階店内は広く、ミラノの感覚ならば一番広いフロアで4、50畳はあるように見えた。これに個室がくっついているので、建物全体はかなり大きい。
あまり掃除は行き届いていないので、汚い木造ファミレスといった印象だ。
天井は低く、太い梁に頭をぶつける客もいる。
街路に面した店舗開口部は広く取ってあり、8割が引き戸になっている。開店後、全開に開いて採光を取っていた。路面にもテーブルを出しており、繁盛店なのは間違いない。
天井が低く、十分な採光から店内は薄暗いのだが、人の顔がわからないという程ではない。
カウンターに10席、テーブル席が80席、奥に個室が6室ある。
今日は見慣れぬ客がカウンター席に座っている。
客は女、ガミカではあまり見かけない黒い髪、黒い瞳をしている。珍しいという事もあったが、何より目を引くのはその容姿。
端正な顔立ちと凹凸のハッキリした身体に、冒険者とは異なる白い肌をしていた。
ガミカの女達の多くは肌の露出が少なく、手や首から上が見えている程度が常だが、この女は広めの襟ぐりから鎖骨を覗かせ、肘から先、膝から下を衆目に晒していたのだ。
「見たことない感じの装いだね、どこの国から来たんだ?」
当然のように女の周りには冒険者達が集まった。
「そう? 私この服お気に入りなの、似合ってない?」
「いやいや、とてもお似合いだ。物凄く、その、綺麗ですよ」
「ふふふ、ありがと」
女はカウンターの両隣に座った男達と軽く会話を交わしている。
珍しい美女がいるという事で、店の周りには少しずつ人だかりが出来始めている。
何せこの女、目の合った男全てに優しげな笑みを振りまいて、時には手さえ振っていたのだから。
「ただ……美しい貴女にその”ぬいぐるみ”は似合わないと思うのだけど、大事なものなのかな?」
「んー、大事っていうか……離れてくれないっていうか」
女の足元には、成人に不釣合いな黒色で耳の長い“うさぎ”に似た形の“ぬいぐるみ”が転がっていた。
「──なんだ、随分とひらひらとした格好してんだな。プロフェイブではそれが流行ってんのか?」
女の周りの男達を押しのけ、離れた席からがっしりした体躯の男が一人、下卑た笑みを浮かべながら近寄って来た。
肩からむき出しの筋肉隆々の腕も、顔も日に焼けていて力仕事に従事する者か、冒険者である事が伺える。
女を囲んで談笑していた男達が、最後にやって来た日に焼けた男の姿に気付くと目を見合わつつ肩をすくめて離れて行った。
「ふふ、かわいいでしょう?」
女がほんの少し首を傾げながらも、やはりにっこりと笑顔を浮かべ応じた。その足元で黒い“うさぎのぬいぐるみ”の腕がひくりと動いたが、誰も気付く事はなかった。
──全員逃げていくのね……やれやれ、だわ。
この日焼けした男には関わるべきではないと、無言で教えてくれている。
日焼けした男は他の男達が散っていく様子を満足そうに眺め頷きながら、女の隣に立つとカウンターにもたれかかった。
「あんたは──」
男は女の顔の正面で指差し、手を揺らす。
ぎとぎととした笑みを男は浮かべ、女の足元から顔をゆっくりと舐めるように見た。女の方は臆した様子もなくにっこりと笑みを浮かべている。
「かわいいってよりきれいな方だな──いくらだ?」
「いくら?」
女がきょとんと問い返すのを、カウンターの奥に居た店主がちらりと見た。
店主は50歳前後の男で、頭は完全にはげあがっている。地味な色の服、腰には申し訳程度の小さなエプロンがぶら下がっている。細い目で日に焼けた男を睨んだ。
「おいおい、ここは斡旋宿じゃねぇんだ、他所で買ってくんな」
「そりゃねぇえだろ、俺には資格なしってか? 金なら……あるんだぜ?」
店主を睨みつけながら男は座ったままの女の背後に回り込み、抱き込む形でカウンターに手をついた。
女は振り返って男を見上げる。
男も気付いて見下ろせば、女はにこりと笑みを浮かべる。そうすると日に焼けた男は勝ち誇った顔で正面にやって来た店主の方を向いた。
「オヤジが高級娼婦の中継ぎやってんのは知ってんだ」
「ウチはどこんでもある冒険者連中に情報を売ってる酒場だ。それ以外は知らねぇよ」
客のガラも悪いが、店主も似たようなものだ。
男は女の肩に顎を置くと、黒髪と白い首筋の間にふぅっと息を吐きかけ、左手をカウンターから下ろした。
「へへっ、ケチ臭い事言うなよ、こんな上物目の前にして、簡単に引き下がれるかよ」
そのまま左手を女の膝から腿にかけてゆっくりと這わせ──。
「──私も、話に混ぜてもらって良いかな」
自信に満ちた男の声が割って入った。
黒い“うさぎのぬいぐるみ”が、ばれても仕方ないと諦めて腿に触れる男の手を払い落とそうとした時だった。颯爽と現れた男の手が女の腿から日焼け男の手を引っぺがしていた。
店主、女、日焼けした男の3者が同時に声の主を見る。
登場したての男は目深にフードをかぶっていて口元しか見えない。
全員が見ている前でそれはにやりと笑みの形に変わる。
表情とは裏腹に、男の低い声には怒気が滲む。
「──この汚い手を、2万年ほど洗って出直すんだな」
掴んでいた日に焼けた汚い手を、フードの男はあっさりと腕ごとをひねり上げる。体の流れからそのまま床に投げ飛ばしそうになるのを、フードの男は逆に引っ張り寄せ、すぐ足元へ四つん這いに押しやった。日に焼けた男の腕を肩から捻り上げる。
ぎりりと、鈍い嫌な音が日に焼けた男の肩から聞こえてくる。
日に焼けた男が痛みに呻くと、ニスが黒く変色した板張りの床にヨダレが落ちた。
「狭いんだ。店にも迷惑をかけるものじゃあないだろう?」
押さえつけた姿勢のまま、目深にフードを被った男が言った。その肩に、ばさりと羽音をさせて成猫ほどの大きさの翼持つ獣が降りた。それは濃い小豆色で、頭を含め上半身が鷲、下半身が馬の形をしている。召喚獣ヒポグリフだ。
フードの男の肩からヒポグリフが大きく翼を広げ、クチバシを開いて日に焼けた男を威嚇する。
「──く、くそ!」
フードの男の足元で日に焼けた男はばたばたと暴れて這い出し、数歩先で立ち上がると捻られた肩を押さえ、唾を吐き捨てて走り去った。
フードの男は目を細めて、一瞬だけ黒い笑みを浮かべた。
幼児程の身長の黒い“うさぎのぬいぐるみ”には、それが見えた。赤い刺繍の目がじっと、目深なフードの奥を覗き込む。
小豆色のヒポグリフには見覚えがあるが、連れている男はその召喚主では無い。
濁った白色のフードは分厚い麻布で、太めの赤い刺繍糸で縁取りに繊細な意匠が描かれている。フードは膝丈まであるローブと繋がっている。ローブにも赤い刺繍があった。
ローブの上から腰に太めのベルトが3本巻かれており、1本の刀を佩いていた。ローブも厚手の生地であちこち金具で補強されている。
両腕は肘までの濃い革製の小手で覆われ、左手内側に隠し刀でも仕込んであるように見える。下衣も濃い革製のもので、ブーツは何度もなめしたものが重ねて縫い合わされた仕立てになっているようだ。よく見れば、つま先辺りにも窪みがある。ここにも仕込み刀があるのかもしれない。
周囲の冒険者らを見れば確かに皆、剣に弓、斧などで武装し、金属製から革製の鎧などを身につけているのだが──。
フード部分は横に幅があり、視界を著しく阻害している様子ではない。厚手の生地のようなので、簡単に風で揺れるという事も無さそうで、顔は口元以外隠れてしまってよく見えない。
が、“うさぎのぬいぐるみ”の視点は下からなので、のぞき込む事が容易だった。
この世界で、知った顔である。
「──それ、変装ですか?」
「ん?」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”が声を発した事に驚きもせず、フードの奥ではっきりした蒼色の瞳が真っ直ぐ“うさぎのぬいぐるみ”の赤い刺繍の瞳を見下ろし、笑っていた。
はらりと、少しだけクセのある亜麻色の髪がフードの端からこぼれた。