(151)プロローグ~シュナヴィッツII~
プロローグ
何が起こっていたのか、正直わからなかった。
夜空に舞う巨大な銀色のドラゴン──ティアマトの頭の上に、僕は立っていたんだ。
“霊界”に繋がっていた穴がほとんど見えなくなって、暗雲も晴れ、月や星の灯りが見え始めた頃だった。
──彼女が降りてきた。
ただ……ただ、黒いまつ毛に縁どられた濡れた瞳に導かれるままに……。
左手が触れた腰骨の形だとか、右手の指がなぞった背骨と肩甲骨、首から顎の形。腿が触れた薄い布越しの温かく柔らかな感触……。
唇が触れて、呼吸の混ざる熱に僕はただ浮かされていた。
華奢な肩はもう少し力を込めれば崩れてしまいそうなのに、止められなくて引き寄せた。
絡めた舌に伝わる甘い味覚。詰まったような高い声、吐息に、胸が騒いで止められない。もっと、もっと。
自分の亜麻色の髪が挟まってきても、僕は構ってられなかった。薄目を開けて見るだけ。それを、彼女の細い指が避けてくれた。
そのとき、目があった。
ドキリとして、はじめて心臓の音に気付いた。
自分のものなのか、彼女のものなのかもうわからない。
耳の奥にドクドクと響いてくる。潤んで細められる彼女の瞳。
閉じないでくれ、もっと僕を──。
次の瞬間、一気に引き離された。
「ふざけないで」
横から聞こえた声。
見れば黒い“うさぎのぬいぐるみ”がいた。
一気に心臓が縮んだ気がした。冷水を頭からぶっかけられた気分だ。
──待て、今、この声を発したのはこの黒い“うさぎのぬいぐるみ”か? ミラノの声じゃなかったか。
ミラノは……。
抱き込んだままの彼女の姿は、見間違えようが無い、“ミラノ”だ。だが、横にいる黒い“うさぎのぬいぐるみ”も違えるはずがない、こんなものが声を発するのはミラノだからだ。だが、しかし、いや、そうだとして──?
「いや……ミ、ミラノ……これはその……ち……ちがうんだ!!」
混乱した僕の口から出てきたのは、どこか言い訳めいた言葉。僕は、何が言いたいんだ?
「──何が、どう違うのです?」
何が? 何……“ミラノ”と、く、くちづけた事が……いや、僕は確かにミラノを想っていて、いや、これはミラノなのか? ミラノだよな、だから決してこれは浮気というわけでは、いやまて、僕はとっくにミラノにはフラレていて、そもそもミラノの事は諦めるつもりで、ああ、だから、僕は──何だ、何がどう違うんだ!?
声が聞こえた。
「あーあ……シュナ王子、ハマっちゃったなこれ」
──……前からだ。
「……俺の勘が正しかったなら──ミー姉忘れるつもり満々だったろうにな、あーあ……可哀想に……」
もう、どうにもならない。
そもそも僕は“唯一の召喚獣を召喚する者”──抗えるはずが無かったんだ。兄上もきっと……。
溜め息を吐き出したいのに、体が動かない。
僕はただ、黒い“うさぎのぬいぐるみ”と“ミラノ”の消えた魔法陣のあった辺りを見るだけだ。
──寒い。
足元のティアマトが、何か囁いてきている気がしたが、聞こえない。今はただ、ミラノの声が聞きたい。あの温もりが、欲しい。
──ミラノ……。
物思いに沈む僕の耳にまた、声が聞こえてくる。数歩後ろからだろうか。
「──“あの人”について、聞いても構わないかい?」
兄上の声だ。……“あの人”?
「え? あ、気になります? やっぱり」
これはキョウの声だろう。
「どうにも……」
兄上の言葉が、少し止まる。
「ミラノに根深く影響を与えた人物のように感じた」
間を開けて出た兄上の声は、いつもより真剣なものだ。“あの人”? ミラノに影響を与えた?
……キョウが話していたあれか。
あの時はミラノとキョウは本当に姉弟なんだと、しみじみと思った。きっと昔のミラノをキョウは沢山知っているんだろう。僕が兄上やパールの昔を知っているように。
だが、僕なら兄上に「気楽にいこう」だなんて言えない。
気楽に、だなんて、僕の方が兄上に言われている。
「ネフィリム王子、勘良いっすね……“あの人”ってのはね、ミー姉の初恋の相手! ファースト・ラブ、だよ」
「……なるほど」
──ミラノの、初恋?
「っても俺しか気付かなかったんだけどね! ミー姉は隠し事上手いっていうかまぁ、ほんと自分の事全然しゃべんないからね。周りが気付いてやんなきゃならないっていう、なんていうの? ある意味面倒なタイプなんだよねぇ。女なら、なんていうかこう──キャ! またこぼしちゃったーごめんなさいー! あ、ズボンかかっちゃいましたぁ? ちょっと待ってくださいね! とか言っていそいそバッグからハンカチだして拭いてくれて、上目遣いで見てきてはにかむ女の子とか──保護欲もそそられるっちゃそそられるよね! 私ったら本当ドジでぇ、ごめんなさいー! なんて言って胸チラさせてきちゃったりして、そうなってくるとちょっと度が過ぎて鬱陶しいかな? さらにドジっ娘演出ですかーって一気に冷めちゃうね。可愛気もう無えじゃん! とか思いながらこう、上からも寄せてるのが丸分かりなんだけどなんかこう、見ちゃって……なんだろうねあの乳首が見えそうで見えない角度がもどかしいっていうか、ブラ余ってんじゃんとか思いながらも余ってないと見えないわけだからブラボーっていうか、シャツの襟ぐりが邪魔なんだそこもうちょっとこう、浮け! 浮くんだ! ってだんだん力入ってきて、はっ!? これは罠だ! って気付いた時には襟ぐり押さえた女の子から俺以上の冷たい目で見られてて──あれ、いつ話逸れ──いや、ミー姉の話だっけ。ミー姉はね、隙が全然無いからね、男からしたらもうどこから切り出したもんか戸惑っちゃうよね。それフォローしてくれりゃいいのにだんまり過ぎなんだよな、何が嬉しいのか楽しいのか幸せなのかも実際よくわかんないし──」
言っている事がほとんどわからない。延々と続くキョウの言葉を僕は聞き流していた。
ミラノの初恋、か。それは、あるのだろうな。いや、あったのだろうな。
──今も、引きずっているという事は、あるのだろうか。
いや、無いだろうな。
その人の言葉をキョウに言われて思い出していたようだったし。
「キョウ、君に義兄と呼ばれるのは悪い気がしないな」
兄上の声が明るいものに変わった──これは、本心を隠した証拠だ。今、兄上は別の事を考えている。……何を?
「え、あれはパールちゃんのお兄さんって意味ですよ? てか全部スルーっすか……」
「どう解釈するかは、自由だろう?」
兄上の声は笑っている。
「ま、そーですけど。でも、あー……またミー姉に後で怒られる……」
兄上がくくっと声を出して笑った。
「久しぶりにミラノに逢えた事も、彼女をより大きく知るきっかけとして君と話が出来たのも──私は困ったことに楽しい」
楽しい?
そうだ、兄上にも見られたんじゃないのか。
僕が“ミラノ”と──なのに、楽しい?
ますます僕は後ろを振り向くことが出来なくなった。
「もしミラノが居たら、こんな状況で言って良い事じゃないと、私も言われてしまいそうだがな。今はまた“ぬいぐるみ”のようだが、ミラノも元気でいてくれた事がわかって良かった。嬉しかった」
…………兄上の想いも……。
「──さて、今日は夜も遅い、城に帰るか」
兄上は、僕を嫌いになったりでしたな。するだろうか。
僕は争いたくなんてない。
理由が女だなどと、あっていいはずがない。僕はミラノを諦める、絶対に──絶対に。
例えそれが──……目の前がひょいとかげった。
短い黒髪がさらりと揺れて、その奥の黒い瞳が覗き込んできた。
「シュナ王子、帰るそうですよ、大丈夫ですか? 正気っすか??」
目の前に出てきた顔は、本当に“ミラノ”によく似ていて──。
ぱたぱたと眼前で左右に振られる手を僕は掴んで止めた。
そう、この顔……。
「え……!? ちょ、ちょっと待って! ちょっと腕離して!? 力強いよ! シュナ王子! 俺! 俺!! 俺キョウだから! ミー姉とちがうから!! ぎゃーー!! マジやめて!! 俺このパターンでファーストちゅう奪われたんだから!! 勘弁してよ!!」
空いていた腕を持ち上げ、拳でがつんとキョウの頭を殴った。
「いってぇよ! シュナ王子!」
僕は“唯一の召喚獣を召喚する者”なんだ。その僕が、キョウとミラノを間違えるか──!
彼女とそっくりの顔を非難の色で染めるキョウを無視して僕は立ち上がり、兄上を振り返った。
腕を組んで僕を見下ろす兄上は、にこりと笑いかけてくれた。
「シュナ、帰るぞ」
「……はい」
──僕が、最大の尊敬を預ける人。
母上を亡くして、兄上が居なければ僕は生きてなんていられなかった。問題ない。僕はちゃんとミラノを忘れていられる。
もう、覚悟を決めるしかないんだ。
“唯一の召喚獣を召喚する者”として、もう、変えられない。
だからせめて、一生、胸の奥にしまい込んで忘れておく。僕はただもう、覚悟を決めるだけなんだ──。