(146)Take it easy♪(1)
(1)
白銀のティアマトは大きく翼を揺らして高度を上げ、アルティノルドの正面へと躍り出た。
アルティノルドは以前見かけた時と同様、人の形をとっている。
真っ白い燕尾服のような衣装で、上着の尾の部分が異様に長い。今は、ばさばさと風に大きく揺れている。
体格は男性のようだが、整いきった平均的な顔は男性とも女性とも言える美貌をしている。
両手を空に向けたまま、ティアマトが近付いている事にも気付いていないように見える。
相貌は綺麗でも目つきが怪しく、神であるというのに畏怖ではなく不安とともに恐怖を植え付けてくる。
「……」
シュナヴィッツは言うべき言葉を失った。
アルティノルドに異変が生じているとミラノから聞かされても、ぴんと来なかった。だが、実際こうして見ると理解せざるを得ない。
人とよく似た形をしていても、親近感を抱くことはない。近くに感じない。
──これが神なのか。
疑惑しか浮かばない。
この世界に神は本当にいるのか。加護はあるのか──。
アルティノルドと闇の扉“霊界”の入り口に最も近付いた時、何か異様な気配が生まれた事にも気付く。
微かに残る赤黒い雲がひゅいっと流れる。
冷たい風が闇からあふれ、皮膚がざわりとした。
──光り輝くアルティノルドと対峙するように、何者かが闇の中から出てくる。
息を飲んでシュナヴィッツは見上げた。黒い“うさぎのぬいぐるみ”──ミラノも顔を上げる。
それは闇の内側からずるずると出てきた。
おどろおどろしく、闇がゆらゆらと揺れてその姿が顕わになる。
4本の足が見えてきた。
下半身は馬のよう。尻尾は蠍とよく似ているが、とても大きい。
上半身は成人男性のようで、筋肉質の立派な体躯をしていた。
濃いヒゲが顎を覆っていて、癖の強い黒髪に赤銅色の肌をしている。半人半馬は衣服を着ておらず、野蛮な印象があった。
肌には細いラインの白や金、朱色で様々な文様が描かれている。肌が濃いので模様は蛍光色のように浮き上がってみえた。
頬や額にも細かいラインで太陽のような文様がある。
両方の口角を左右に引っ張って『しー』と音をさせつつ息を吸っている。黄色く尖った八重歯と鬼歯がくっきりと見えた。
離れていても聞こえるほどの音が鳴ったのは八重歯と鬼歯が極端に大きな隙間があったからだ。
『──ったく、糞忙しいな』
やけに掠れた声が出てきた。部分的に聞き取りにくいが、ミラノやシュナヴィッツにも理解出来る言葉だった。
『おい、お前らんとこの創造者だろ、さっさと内側を閉めさせろよ。何こっち来ようとしてんだ? これ』
異様な容姿に反して言葉遣いは親しげで、違和感がひどい。
『こんだけでかい穴開けられたらそりゃ雑魚“霊”ぐらい漏れるぞ』
背丈は人の3倍以上ある。宙で蹄を鳴らした。
闇から出て来てアルティノルドの正面で腕組む半人半馬を、7大天使とレイムラースがやって来て取り囲んだ。
『手間をかけさせている事は詫びる』
アザゼルが堂々とした態度で言い、半人半馬がそちらを見る。
『ここの天使共か……おっと』
アザゼルの後ろになっていたティアマトの頭の上──黒い“うさぎのぬいぐるみ”を半人半馬は見て『……なんだ、居るじゃねぇか』と言って厭味ったらしく苦笑いを浮かべた。
顎でアルティノルドを示す。目は黒い“うさぎのぬいぐるみ”を見たまま。
『早くこの馬鹿をやめさせろよ』
馬鹿呼ばわりされたアルティノルドは、全身から白い光を発しながら、時折ぱりぱりと稲光を体の内側から放っている。
目は“霊”らと似て、感情の色が無く、虚ろ──白色に濁っている。
両手を“霊界”へ掲げ、音を発しない口は縦に大きく開かれている。
時に肩が盛り上がり、脈打つように姿がブレては人の形から獅子や鳥の面にも変わり、定まらない。
不思議と祈っているようにも見えた。
半人半馬の蹄が一際大きく鳴る。
『聞こえないか。世界の力の源だろう? この馬鹿が。安定が崩れるぞ。世界一つ無くなろうが俺にゃどうでもいいっちゃいいけどよ』
天使らが顔を見合わせ、少年姿のレイムラースとアザゼルが目を一度合わせた。アザゼルの方が口を開く。
『……我々天使には不可能だ』
半人半馬は首をほんの少し傾げ、目線だけを黒い“うさぎのぬいぐるみ”に送ったが、すぐに一つ頷いた。
『ならば、“霊界”が門番パビルサグの権限により押し返すが、良いか? 俺がやったらこいつ、しばらく起きねぇよ? “秩序”が働いてしばらく停まっちまうからな』
『我々は否応を言える立場ではない』
アザゼルの静かな返答に、半人半馬は肩をこきこきと鳴らし『じゃ、ちっと下がってな』と言った。
『“霊界”が門番パビルサグの乞い願う──』
改まった通る声だったが、聞こえたのはそこまで。
直後に“霊界”の闇が広がり、耳の奥を潰すような低音が辺りに満ちた。
ティアマトがシュナヴィッツの意思に反して大気を蹴るように一気に後ろへ下がった。
ほぼ同時、天使らも翼を半ば吹き飛ばされるように遠ざかる。
半人半馬パビルサグを中心に、強い風が巻き起こったのだ。
闇の塊がアルティノルドを飲み込み、さらに下にあった大クリスタルを包み込んだ。闇色の塊がどろどろと行ったり来たりしている。
何が起こっているのか問える存在も無く、ミラノとシュナヴィッツはティアマトの上でそれらを眺める事しか出来ない。
数秒して、闇は再びじわじわと“霊界”に戻っていった。
大クリスタルのてっぺんにはアルティノルドが仰向けに倒れている。
ぱりぱりと光を発していたが、次第に姿は透けて大クリスタルに飲み込まれ、消えた。
濃紺だった大クリスタルに、じんわりと光が宿りはじめる。
闇によって大クリスタルに叩きつけられたアルティノルドが“封印石”の中に戻されたのだ。
「……こんな事が……」
シュナヴィッツは呟き、大クリスタルの正面へティアマトを移動させる。そこへ、半人半馬パビルサグがすいと近寄って来た。
パビルサグは真っ直ぐ黒い“うさぎのぬいぐるみ”を見ている。
『“災難”だな』
黒い“うさぎのぬいぐるみ”は緩く首を左右に振った後、まっすぐパビルサグを見上げた。パビルサグは『──そう、お前』と言って続ける。
『運が悪いとしか言いようがない。“秩序”がもう動いているだろうから、お前の仕事だな。せいぜい気張れ』
「……」
「ミラノ、どういうイミだ?」
「いつも言っていますが……私の方が聞きたいわ」
──初対面よ?
パビルサグは目を細めて茶目っ気すら漂わせ、黒い“うさぎのぬいぐるみ”を指差した。
『その内わかるさ』
言ってすぐ、その指で天――“霊界”を示した。
『俺はもう一人、お前らのところへ侵入をはかる馬鹿を止めに行く。あれは俺より格上だからしばらくは門を閉めてやる余裕が無い。せいぜい耐えておけ。ま、抜けられたらスマンとしか言いようがないが。なに、ちょっとした“災難”が増えるだけだ、諦めろ』
それだけ言って去っていくパビルサグの後ろ姿を見送ってから、黒い“うさぎのぬいぐるみ”はゆっくりとシュナヴィッツを振り返る。
「どうします?」
シュナヴィッツは肩をすくめた。
「兄上に報告、だな」
アルティノルドの暴走はひとまず半人半馬パビルサグによって食い止められた。彼は自らを“霊界”の門番と名乗り、いずれ、開かれた門──この闇の扉も閉じてくれるらしい。
だが、耐えておけとも言った。
半人半馬のパビルサグの言葉通り、“霊界”の扉である空の闇はさらに押しひろがり“霊”の侵入が増えていく。
召喚士に出来るのは“返還術”──空でネフィリムらが、地上で“光盾”らが、“霊”を“霊界”へ還している。
こちらの数は限られているのに、“霊”は次々とやってくる……。
ミラノは意を決する。
「シュナヴィッツさん」
「なんだ?」
「一度、減らします」
アルフォリスやブレゼノがあちらこちらに飛び回っていると、空に巨大な魔法陣が広がった。
2人が驚いているところへティアマトがやって来て、黒い“うさぎのぬいぐるみ”が「少しさがってください」と告げた。
神の召喚獣が召喚された時のような、巨大な魔法陣が空に展開しているのだ。
霊界への穴、闇の雲を遮るようにいつものようなミラノの魔法陣が有り得ない大きさで広がっている。
少し下がったところでは足りずに巻き込まれる。2人は指示に従い大きく下がる。
全員が退避したところで、ミラノは魔法陣を動かした。
はじめはゆらりと、動き始めると瞬時に──漆黒の魔法陣は一気に風をも飲み込みながら木々のてっぺんスレスレまで降下。大量の“霊”を飲み込み、魔法陣ごとまとめて消えてしまう。
「──さすが、規模が違う」
アルフォリスがぽつりと呟き、ブレゼノが頷いた。
誰もが感心しているがミラノが頭にイメージしたのは丸くて床をコロコロ転がって部屋を綺麗に掃除してくれるロボット掃除機だ。
空に居た“霊”がゼロに等しくなったのは、ほんの少しの時間が経過した頃。
だが、“霊界”の闇は広がり続けている。
出口が大きくなっているのだから、たちまち辺りは再び“霊”に埋め尽くされる。
怒涛のごとく雪崩れ込んでくる霊の前では、海の水を柄杓で枯らそうとしているようなもの。あまりに途方もない。
シュナヴィッツの駆るティアマトが地上──パールフェリカと“光盾”の居る辺りへ駆ると、ネフィリムの“炎帝”もそちらへ飛んだ。
アルフォリスのヒポグリフ、ブレゼノのマンティコアも慌てて降りて行く。
へとへとになったパールフェリカはユニコーンにもたれていた。
そこへ、“霊”を祓われておとなしく──動かなくなった木々の葉を揺らし、飛翔召喚獣達が降り立つ。
シュナヴィッツは黒い“うさぎのぬいぐるみ”を抱えてティアマトから軽く飛び降りた。
召喚獣から降りたネフィリムらも集まって来る。
全員が顔をあわせ、一様に木々の間から空を、“霊界”の闇を見上げた。立ち尽くしそうになるのは、堪えるしかない。
黒い“うさぎのぬいぐるみ”はシュナヴィッツの腕からすり抜けると地上に降り立った。
少し離れたところで心配するキョウに「大丈夫だから」と言いつつ汗を拭うパールフェリカがいる。ミラノはその姿をじっと見た。
──どうにかしなければ……。
空の闇を無くすことができる可能性は出てきた。
しかし、ずっと“霊”を押さえておく事は難しい。召喚士達の体力が保たない。
早く終わらせなければならない。
──何とか、しなければ。
シュナヴィッツがネフィリムのそばへ駆け、先程のアルティノルドの様子を報告している。
その間、黒い“うさぎのぬいぐるみ”は空を見上げ、複数枚の巨大な魔法陣を描いていく。その度、数百数千の“霊”達が消える。
だが、どれほど還しても、“霊界”から溢れてくる“霊”は止まらない。
ぐらりと揺れそうになる黒い“うさぎのぬいぐるみ”の体。頭を左右に振り、ミラノは無理矢理気合を入れ直した。
アルティノルドにもらった体だ。欠けるということはなかったが、疲労感が大きい。
以前はパールフェリカからもらった力を使っていた事もあって疲れる事は無かった。
しかし今、何かが足に絡みついてどこぞへ引きずり込もうとでもしているかのように重い。
パールフェリカがいつも紫色の顔をして耐えていた消耗だ。
「……」
気持ちだけで顔を起こすしかなかった。