(143)パンドラ・ボックス(1)
(1)
ティアマトの美しい白銀の鱗一枚一枚に写るのは、激しい風に根から煽られる木々の姿。
鏡面の鱗や翼を、雄大優美のティアマトを飛び交う木の枝が傷つけるという事はない。が、ティアマトは腹の下に庇うシュナヴィッツら全身全霊をかけ護る。
ティアマトは少しでも被害を減らそうと両手足の爪で地面を抉るように踏ん張っている。身をかがめた隙間に入る風を少しでも防ごうと顎や翼を地面につけている。
王族のネフィリム、シュナヴィッツ、パールフェリカを中心に、護衛騎士らは外側で屈み、鞘ごと引き抜いた剣で枝を払っていた。
ティアマトの翼に遮られて、天使らの飛んだあとを、強風吹き荒れる空を見上げる事が出来ない。それだけを確認して、ネフィリムは抱えたままのミラノを見下ろす。
「ミラノ」
「はい」
「わからない事が多すぎる」
「私も、そう思います」
「──なるほど」
片膝を地面につき、もう一方を立ててしゃがむネフィリムの懐で黒い“うさぎのぬいぐるみ”はねじれた耳を戻して立つ。
ティアマトの下にあっても、時折強風が吹き抜けるので、ネフィリムは黒い“うさぎのぬいぐるみ”の胴に腕をまわして引き寄せた。
言葉の通り、クーニッドに来てみれば嘘偽りなくここには異変があった。
ミラノは相変わらず前例に無い事ばかりを運んでくる。
本人はわからないと言いながら淡々としているのだから、もう何も聞けない。
「……その体だと、痛みは」
「前よりはっきり出ますね。耳も」
「わかった。ミラノはパールやキョウと一緒に」
重要な事は解決もそうだが、全員無事に戻る事だろう。
「ネフィリムさん」
「なんだい?」
辺りは吹き荒れる嵐と木々の軋む音、葉擦れのざわめきが幾重にも重なって、声が聞き取りにくい。近い位置で話をする。
「巻き込んで、すいません」
少しだけぽかんと口を開けたネフィリムだが、すぐに笑みを浮かべる。
「巻き込まれたとは思っていないよ。この世界の、ガミカに起こっている事だ」
「ですが、この件は──」
「ミラノに逢えたのだから、少しぐらい我慢するさ」
「………………これが、少しという範囲におさまるのですね」
間をおいて言ったミラノの言葉に、ネフィリムは小さく声を出して笑った。
「確かに、これは少しとは言えないかもしれない。だからミラノ──」
そう言って赤い刺繍の目をネフィリムは見た。
「こちらに来る時は必ず、顔を見せてくれると嬉しい」
「……解決してから、考えます」
ミラノらしい答えにネフィリムは微笑み、「ああ」と返事をした。
「空に大きな穴がありましたが──」
「あったな。あれはどこかで見たような気もするのだが……」
「以前、レイムラースが王城の屋上で私の家へ道を作ったのですが、きっとそれです。あれが“霊界”です。召喚獣や召喚霊が居るところ──そして、私がこちらへ来る時に通る道です」
今はティアマトの翼で遮られているが、ついさっき見た記憶をネフィリムは辿る。
空を埋める雲は王都と同じ位の大きさで広がっていた。それが中心から、闇に飲まれたり、吹き飛ばされていた。雲の大きさ分だけ闇は広がるのかもしれない。その闇が、“霊界”だと言う。
「──ほう」
「本来の召喚術では魔法陣で限定的に“霊界”と接続しています。この辺はネフィリムさんの方が詳しいと思いますが」
「そうだね。“霊界”……“アチラ”は死に直結しているため危険だと昔から言われている。“死者の国”とさえ、ね」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”が頷く。
パールフェリカは以前、最初に召喚してから後、見失ったミラノをトランス──魂の半ばを“アチラ”に飛ばしてミラノを探し出した事がある。
魔法陣を介さない“霊界”への侵入は、死出の旅路。そのまま引っ張り込まれればかえってくる事は出来ず、死ぬ。パールフェリカが戻って来れたのは幸運だったからにすぎない。
「その“死者の国”と今、この世界は直接繋がっています……。放っておけば、世界は遠からず“霊界”に飲まれます。それがこの世界が滅びるという理由の一つです」
すっとネフィリムから表情が消える。
「一つ? 他にあるのかい?」
「あります。ですが“霊界”に飲まれてしまえば、二つ目の理由は必要ありません、既に滅びて……この世界が消えた後になりますから」
「…………顔を見せてくれるだけではちょっと報われないなぁ。で、ミラノ。それをやっているのが、アルティノルドだというのかい?」
レイムラースが言っていた事から、ネフィリムはアルティノルドの仕業かと聞いている。
「……ええ、おそらく。なぜ、どうして、急にこうなったのかまではわかりません。ですが、アルティノルドを止めて“霊界”と繋がった穴を閉じなければ、滅びは止まりません」
滅びと言うが、それは“はじめの人”やアルティノルドがこの世界を創りだす前の状態に戻るという事だ。世界は“霊界”の中にぽつんと創られたのだから。
命の無い世界に戻るだけだが、生きている者の大半がそれを受け入れられるわけがない。
一度与えられたものを取り上げられる事を厭うのは当たり前の事だ。
ミラノには自分の世界があり、そこへ戻れば死ぬことはない。
だが、見過ごせない、もう──……この世界も、この世界の人々も。
「レイムラースはミラノにアルティノルドへの説得を望んでいるのだな」
「私に出来るとは思えませんが、やるしかありません。アルティノルドを見つけ出し、交渉します」
「……ミラノの体を探すのが、後回しになってしまうな」
「仕方ありません。この世界が滅んだら探す場所さえ無くなってしまいますし」
「ミラノ、つらくはないか?」
「…………」
わずかな沈黙の後、その声に重さはなかった。
「以前程ではありません。きっと──」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”がゆっくりとパールフェリカ、シュナヴィッツ、護衛騎士ら、そしてすぐ近くのネフィリムを見る。
「一人ではないと、思えるから」
──もう、頼っていいとわかっているから。
その時、どすんと大地が波打った。
次の瞬間、一際強い風が吹き抜ける。
ティアマトがバランスを崩して傾ぎ、翼が浮いて視界が開けた。
四肢を地面に付くしか無い中、全員が頭を覆っている。
轟音と共に空一面を稲光が埋め尽くして、残った雲全てを打ち払った。
──世界の終わりにふさわしい光景。
最初の大揺れ以降、思い出したかのように大地はぐらぐらと揺らぐ。
地面に手をついたまま見上げた空は、やはり夕暮れの色を受け、また闇色に飲まれながら、終焉に染まる。
王都と同じだけの大きさの闇が、空に広がっている。
一体、何をどうすれば、ちっぽけな人間風情がこれをどうにか出来るのか。
絶望に近い溜め息を誰もが堪える。
やがて、低い低い、獣の唸り声のような音があちらこちらから反響し始める。
闇の中から──“霊界”から何かが飛び出してくるのだ。
風はやや収まり、ネフィリム達は立ち上がり、呆然と空を見上げる。息を飲む。
何百何千万の半透明の“霊”が、闇の中から溢れ出て来ていた。
それらは“命”を、体を求めて大地を目指す──。