(137)“微笑”(1)
(1)
日差しも強く、くそ暑いと思っていたところに清涼な風が吹きこんで来た。
木々の上空を飛ぶ聖ペガサスを操るリディクディの後ろで、キョウは自分の靴とその下の景色をじーっと見ていた。
時々強い風が吹いて、体が煽られそうになる時のスリルを一層楽しむ為に。
遊園地のジェットコースターの方が動きが激しい分楽しいが、高さと景観はこちらが遥かに上だ。パラグライダーやハンググライダーなどの趣味にハマる人が一定数以上いるのも肯けた。開放感、爽快感がケタ違いだ。
広大な自然界を飛ぶ映像は映画のCGや動画サイトのドローン空撮などで見慣れている。だが、カメラで切り取られた画面を見るのと、世界の内側から感じるのは大きく違う。
ふいに吹きつけてきた澄んだ風に顔を上げた。
左手前方、空に居るキョウの視線よりも上まで続く切り立つ崖から、大量の水が轟音と共に降ってきていた。──巨大な滝だ。
下を見やれば、森の中に滝つぼがある。
広範囲に渡って霞のように水しぶきが飛び散り、夏の日差しと溶け合って虹を形作っている。
「──すげ。これみんなに見せたら絶対大興奮だ……」
写真と動画を撮ろうとジーパンの後ろポケットからスマホを引っ張り出そうとしたが、やめた。落っことしてしまう。キョウはぐっと我慢した。
果てしないインスタ映えしそうな風景にSNSで呟いたら絶対話題になるよな、と思ったのだが──。
「……俺、ちゃんとかえれるのかな」
お盆に入ってやっと本格的に遊び始め──学生の間だ──遊び倒してやると思っていた矢先のこの出来事。
こんな大自然、新幹線にバスを乗り継ぎ、せっせと山奥まで歩かなければ、前もってちゃんと宿も取って大枚はたかなければ見に来る事は出来ない。なのに、今、ひょいと見れている。凄いことだ。
だが、友人らと連絡が取れなくなった事を考えると、こんなに壮大な景色でもいらないと思える。
キャンプファイヤーで気まずくなって逢えないと言っていたマイちゃんを彼氏さんと引き合わせる準備をしていた。
何が理由か知らないが、死にたいとこぼしていたユッコちゃんの話を誰もいない所で聞く予定だった。
アヤネちゃんとの花火大会だって、本気で取り組んでいた資格試験に落ちた憂さ晴らしに付き合って欲しいと言われて行くのだ。
遠回りばかりするマッキーとサエちゃんをくっつけたいというカナっちの作戦にのって北海道に行くつもりだった。
今日は夏を前にしてフラれた友人を引っ張り出してみんなで飲み食い大暴れするはずだった。
キョウにとって、どれ一つ、違える事の出来ない約束だ。
かと言って、何故か黒い“うさぎのぬいぐるみ”だなんて姿になった姉を放っておく事だって出来ない。
それに──。
ちらりと前方を飛ぶ、薄桃色のユニコーンを見た。その背にはパールフェリカ姫が乗っている。
傷を治してくれた事に礼を言っても、彼女は「うん」と小さく返事をしただけだった。それ以外、あの蝙蝠の群れが来た時から声を聞いていない。
キョウは風にばさばさと乱れる黒髪を、自分でも勢い良く掻いた。
──……くそっ。
元気の無い人を、放っておけないのだ。
キョウは友人らの間でもっぱらおせっかいキャラとして定着している。しかも今回はあの──本心を他人からも自分からも隠して上辺だけの付き合いに満足している姉の、希少な同性の友人。絶対に放置できない。
そんな決意をしていると、ペガサスが急降下、滝つぼの傍に降りていく。
元いた高度を見れば、先頭を駆る赤ヒポグリフに騎乗するエステリオが、下を指差し腕を大きく上下している。
さらに距離を置いた向こう、別の騎獣の姿がある。
同じ赤でもより深い色のヒポグリフが翼を大きく開いて滝つぼへと降下していく。これにも人が乗っているのが見えた。
鎧甲冑に身を包んでいるという印象ではないが、遠目でも腰に剣がぶら下げられていて武装しているのが見えた。
エステリオやリディクディと同じような格好だが、衣服の色は青ではなく薄い紫のようだ。
ペガサスが一番最初に地上に着き、次にあちらのヒポグリフ、そして最後にエステリオのヒポグリフとパールフェリカのユニコーンが共に地上へ降りてきた。
「ぅぉおおお!?」
ネフィリムの指示で来ていたアルフォリスは深い赤色のヒポグリフから飛び降りるや、低い声を発した。
「──え? なに? なになに??」
がっちり固定された視線はもちろんペガサスから降りたばかりのキョウにむけたもの。
「ミラノ様!?」
「──あ」
キョウはにへらっと笑った。
「なんか、毎度すいません。俺、男だから。弟のキョウですから」
体格は随分と違うのだが、人の多くが対面した相手を顔から見る為、キョウとミラノのどちらかを既知だった場合、驚く。
まず性別が異なる上、何度か話して接していると、笑みを見せないミラノと常ににこにこ笑顔の押し売りをするキョウとでは、全く違うとわかるのだが。
「男にしたら線が細いですね」
アルフォリスは男とわかると遠慮なくキョウの腕を掴んだ。
「……あっちじゃそうでもないんですけどねぇ。お兄さんムッチリだね」
キョウもアルフォリスの筋肉隆々の腕を掴み返して言った。
──これがパールフェリカ姫こだわりの筋肉かぁ。俺、ムリ。
心の中で笑うしかなかった。
キョウはまだ彼らのフルアーマー装備を見ていないが、それを支える筋肉がこちらの男には当たり前に付いている。
「おにい……──アルフォリスと言います。アルフとお呼びください」
アルフォリスはキョウから手を離すと姿勢を正して言った。
「え? うん」
「兄さん!」
曖昧に返事をするキョウの後ろからエステリオが駆けてきた。
「エステル、ネフィリム殿下からご下命だ。キリトアーノ王子は迎えが遅れてまだ城にいらっしゃる。地上すれすれを飛び、下から入るように。王子との接触を必ず避けよとの事だ」
「……あの王子も……いえ指示しているエルトアニティ王子──しつこい方だ。地下から入るというのはわかったわ。兄さんも戻るの?」
「いや、俺は一度サルア・ウェティスに寄る。姫を頼む」
エステリオは目を細めて両方の口角をきりっと持ち上げた。当然、という笑みだ。
キョウはふと、パールフェリカを探した。
アルフォリスを中心に立つキョウやエステリオ、リディクディ、これらに寄って来ていた2頭のヒポグリフやペガサスから離れたところ──彼女はこちらに背を向けて一人、静かにユニコーンの首を撫でていた。
一行は再び空へ舞い上がる。
手を振り合って別れ、王城を目指した。
しばらく空の青さと、生い茂る緑が延々と続いた。
いくら風が心地良いとはいえ、気温そのものは高いので相変わらず汗が滲む。キョウは「ふぅ」と息を吐いた。その頃から次第に高度が下がり始める。
木々の隙間から森の中へ潜り込んだ。
次々と後ろに流れていく景色。
眺めを堪能出来そうにない。
この森の樹の幹は太い。1本1本がとても大きい。建築物10階建て並の高さの木々が、さらに上へ上へと緑を伸ばしている。
夏らしく、木々の葉の重なりも厚い。巨大な樹木はそれぞれ一定距離以上の間隔で生えている。半端な樹は淘汰されて既に無く、地面には日差しが少なくても育つ植物が生い茂っている。
召喚獣達は、その樹と樹の間を走るように飛ぶ。
日陰になって、少し涼しくなった。
翼が無くても空を飛ぶ事が出来るユニコーンは容易く飛んで行くが、前後を挟んで飛ぶ有翼のヒポグリフとペガサスは、右へ左へ傾きながら木々を避けている。
速度があるのは確かだが、体がむき出しの分、体感速度は上がっている。高速道路で車を走らせているより早い感じがするかもしれないとキョウは思った。
ペガサスが大きく木々を避け、ジグザグに飛んだりすると、キョウの視界は大きく揺らいだ。これがあまりに爽快だった事から、奇声を──興奮のまま「イヤッホー!」とかなんとか叫びそうになった。パールフェリカ姫がへこんでいる様子なのを思い出して、踏み止まったが……。
しばらくして傾斜を登り始めると、少しだけ速度が落ちた。
森の中を飛び始めて時間が経過した事もあって、周りを見る余裕が出てくる。
眼下に切り株が何度か見えた。
空ではなく、森の中を“召喚獣”が飛ぶ為に切られたのかもしれない。空中の通路なのかとキョウは気付く。
リディクディらにとって初めてのルートではないから、樹にぶつかったりしないのだ。
さらに左右を見回して、左手側に奇妙な樹を見つける。
樹の周りをぐるぐると螺旋のように、板が突き出ている。それは地面から続き、樹の半分以上の6、7割辺りまでめぐる。螺旋階段、いや螺旋通路のようだ。その通路の辿り着くところ、樹の6、7割の高さのところには天板のように幹の周りに丸太が組み敷き詰められている。樹上に敷地が作り出されている。
ペガサスの翼の邪魔にならぬように、リディクディの後ろで腰を下ろしていたキョウはバランスに注意して樹を見上げた。
樹上の敷地には家があるらしい。
そういった木々が、先へ進むほど増えていく。
人里に来たのかと思って樹の下辺りを見れば、レンガ造りの建物が見え始めた。それも沢山。
建物を避ける為、召喚獣らがやや飛びにくそうに、木々の枝ぎりぎりまで高度を上げる。
この辺りにも2階建て、3階建ての家が立ち並び始める。
山の斜面に、街並みが現れ始めたのだ。
目線をふと正面に戻した時、木々の合間から見えた──山頂。
今まで見たどの樹よりも大きな樹が視界を埋めた。
キョウは最近観た世界的大ヒット3D映画を思い浮かべて、すぐに頭を左右に振った。あれは仮想、データで作られた映像だ。今、目の前の樹や水、土など自然の匂いや視界に訴えてくる世界は、本物だ。迫力に圧倒されそうになった。
うねうねと伸びた根っこすら、太い。それが人工物である石造りの広場や階段の間を縫うように伸びて街に絡んでいる。長い年月を経て生み出された街並みには、蔦や苔が密集している。
どこからか、リン、リンやら、キリキリキリキリと、虫か何かの声が、聞こえた気がした。
キョウは、ごくりと唾を飲んだ。
山頂の巨大な樹と、包まれるようにして佇む建造物──城。
下から見上げた時の威容は、呼吸さえ忘れさせる。
巨大な樹に呑まれるようにして在る城を初めて見るキョウは、いよいよ圧倒された。
口を半開きにして、ちょっと見ただけでは視界におさめきれない巨大な樹と城を、首を巡らせて見上げた。
正面から複数の人の声が聞こえ、キョウははっとしてそちらに目を向けた。
斜面を登っているのでやや上、立ち並ぶ他の建物より少し大きな4階建ての建物がある。その屋上に老若男女10名ほどが見えた。彼らは手を振っている。表情は笑顔に見えた。
通りぬける時、彼らが何と言っているのか聞こえた。
一瞬だけだったが、わかった。「ひめさまー!」やら「ありがとー」と叫んでいたのだ。
馬上から、キョウは通りすぎてしまった建物を振り返って見た。彼らはまだ手を振っている。
それからしばらくして、山頂の最も巨大な樹の根──城の地下に当たるであろう絶壁へと回りこんだ。
岩壁か土砂しかないのかと思ったがその辺りは整地されており、巨大な扉が待ち受けていた。
待ち合わせたかのようにすぐに扉が開いて、先頭のヒポグリフ、ユニコーン、そしてペガサスが飛び込んだ。
空の旅は、ここで終わりのようだ。
外が日陰だったとはいえ好天で明るかったせいもあって、屋内に入ると随分と薄暗く感じた。
目をしばたいている間に、ペガサスは足を地につけて駆け、速度を落として止まる。
キョウはぼやける視界で、そこが小学校の運動場程の広さがある屋内空間とわかった。天井は建物3階分ぐらいありそうだ。
周囲の壁は大きく正方形に切り出した石を積んでいるらしい。
地面は土がむき出しだ。あちこちに大きな木箱が積まれていて、物資搬入口か何かだとキョウは適当に推測した。
大きな木箱を数人で台車に載せ、移動させている人達がいる。作業をしている人は4、50人おり、慌しいといった様子や追い立てられているといった風ではなく、淡々と働いている。
時折木箱を置く重い音はあるが、ずっと続いていた風や羽ばたきの音が無くなり、今なら話が出来そうだ。キョウは口を開く。
「リディクディさん」
「はい? ──大丈夫ですか? 慣れない空では酔う方もいらっしゃいますので」
「あ、俺なら全然平気! 最っ高に楽しかったよ! このペガサス、めっちゃカッコイイっすね!」
キョウが言う間にリディクディは先にペガサスから下りた。キョウの言葉に彼は目を細めて「ありがとうございます」と言い、ペガサスの首を撫でた。
──この人、良い人だ。
リディクディの印象をこっそり腹の内で呟き、キョウもひょいと飛び降りた。
「さっきさ、なんかの建物のとこで、姫様ありがとーって叫んでる子がいたんだけど──」
「ああ、診療院の上を通った時ですね。姫様は王都内の診療院を回ってはユニコーンの力で出来る限りの人を癒して回ってるんです」
診療院というのはきっと病院だろうとキョウは解釈した。
「へぇ~……すっげ!」
「本当に。自慢の姫様です」
リディクディはしみじみと言って、ペガサスを撫でていた手を止め、パールフェリカ姫の方を見た。
パールフェリカは20歩程離れたところでユニコーンから降りてエステリオと何か話している。
──なんだ、味方多そうなのに……。
そこまで考え、はたと気付いたキョウは口元に笑みを浮かべてパールフェリカ姫の横顔を見た。
──そっか……そういう事か。