(136)王子と黒いうさぎ(3)
(3)
シュナヴィッツはぽかんと開きかけた口からなんとか言葉を絞る。
「ミラノなら、逆召喚で自分を目的の場所に召喚して移動できるんじゃないのか?」
「そうしたかったのですが……さっき失敗してしまって……」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”──ミラノはシュナヴィッツから視線を逸らし、正面を向いてポツリと「幻でも見たと思ってくれたらいいのだけど……」と言った。
「──失敗?」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”は手足を引き寄せて直立の姿勢を取ると、体ごとシュナヴィッツの方を向いた。
「…………少し、疲れたのだと思います。今日は成功する気がしません。……霊界が……アルティノルドもアレでは……」
後半はやはりあらぬ方を向いて、呟くように言った。
ミラノの“逆召喚”は、召喚獣や召喚霊の居る世界である“霊界”に潜り、この世界の別の場所から出てくるというもの。
この世界では魔法陣を置くことで扉を作れて、霊界と繋がる。
ミラノの居た世界では魔法陣を生み出せても霊界には繋がらないので、こちらに来る時は両方に魔法陣を置き、この世界からアパートに張った魔法陣に道を作ってやって来ている。
シュナヴィッツらでは伺い知る事の出来ない霊界の中を、ミラノは通って来ている。
「アルティノルドがどうかしたのか?」
シュナヴィッツは神の召喚獣のベヒモス、ジズ、リヴァイアサンが同時に現れた時、アルティノルドと対面した。その時は腕を失ったミラノと一緒に居た。
「いえ……」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”は改めてシュナヴィッツを見上げた。
「もしかしたら、とても大きな問題かもしれません。王様やネフィリムさんにも話を聞いて頂きたいのですが」
シュナヴィッツはすぐに頷いた。
「わかった、僕もちょうど謁見の間へ行くところだ。一緒に行こう」
「ありがとうございます」
並んで歩き始めた時、黒い“うさぎのぬいぐるみ”が正面を向いたまま言った。
「お久しぶりです。お元気そうで安心しました。シュナヴィッツさん」
柔らかい声にシュナヴィッツは前へ出しかけていた足を戻した。
前方、小さな足3歩分のところで足を止めた黒い“うさぎのぬいぐるみ”がこちらを振り返った。
シュナヴィッツは顔を少しだけ逸らして、笑ってしまった。それは自嘲のようだったし、幸福でも愛惜でもあったし、また悲愁でもあった。
──ミラノが“人”の姿をしていなくて、よかった。
もしも“人”の姿をしていたら、きっと駆け寄って抱きしめて、隠そうと思っていた気持ちをさらけ出していただろう。もう何も想っていないと伝える計画も何もかも、台なしにしてしまうところだった。
「シュナヴィッツさん?」
「ああ、久しぶりだな。挨拶を最後にするだなんて、妙な感じがする」
挨拶とは会ったら始めにするものだ。
ほんの数秒の間──ミラノの「そうですね」という声には微笑が含まれているような気がして、シュナヴィッツは胸が痛かった。
──もう、止めるんだ。
自分に言い聞かせ、シュナヴィッツは複雑な物思いを振り切るように大きく息を吸い込んだ。
カツカツと足を進め、黒い“うさぎのぬいぐるみ”を拾い上げて小脇に抱えた。
「以前と同じように、ぬいぐるみのフリをしていろ」
後をブレゼノがついてきた。
吸い込む空気は冷たい。早く、簡単に体の熱が上ってしまう癖を直さなければ。
謁見の間の前に着いたが、通されなかった。
衛兵が言うにはラナマルカ王は急な用事で離れているという。ネフィリムの執務室の方で待つように言われ、また階を移動した。
廊下を足早に進むと両開きの大きな扉が見えた。
扉の両側に居た衛兵はシュナヴィッツの姿を認めるとすぐに敬礼して扉を開いた。
ミラノのものさしで言うならば20畳程の部屋。
毛足の長い濃紺の絨毯にはうぐいす色の糸で巨大な鳥が描かれている。堂々と部屋の真ん中に敷かれている。
扉のある側を除いて書棚が壁を覆い、部屋の中央から奥寄りに大きな木製の机がある。その後ろにははめ殺しの窓が見えた。窓の向こうでは、柔らかな緑が風に揺れている。
机と窓の間に置かれた椅子は、背もたれが高く、木枠には立体的な彫刻が掘られている。その椅子を大きく引いて、部屋の主が立ち上がる。
シュナヴィッツと同じ濃紫の上衣は丈が長く、膝辺りまである。
金糸に銀糸を混ぜたグラデーションで、大ぶり羽根のような刺繍が背中から正面に向けて抱き込むように描かれている。前は開いていて、下に着ている濃紺の薄いシャツが見えている。それを隠すかのように金の装飾具があちこちから留められていた。
下衣も色あいのやや異なる濃紫で、こちらも大ぶりの刺繍が入っている。膝から下は動きやすそうな革のブーツだ。
衣服の生地はいずれも粗めに編んであって通気性が良く涼しげだ。
部屋の主は机に手を置いたまま立ち上がっているので、肘辺りに移動していた銀の腕輪は数本さらりと手首に流れた。
扉のすぐ横で、ブレゼノとよく似た衣装のレザードが緩やかに右手を左肩へ当てた。衛兵と同じ敬礼だ。
アルフォリスではなくレザードが側に控えているのは珍しい。シュナヴィッツは栗毛の中性的な護衛騎士をちらりと見てから、奥へ入った。
部屋の主は椅子を回りこんだ。
くすみの無いはっきりとした蒼色の瞳を扉に投げた。室内に入ろうとする面々を確認したのだ。
机から手を離して、扉の方を向くと執務室の主は口元に笑みを浮かべる。
「シュナ、半月ぶりか」
執務室の主──ネフィリムはほんの少し首を傾げた。完全に真っ直ぐのシュナヴィッツの髪とは違い、全体的に緩い癖のある亜麻色の前髪がはらりと揺れる。
「兄上、お忙しいところ──」
半ば駆けるようにしてネフィリムの1歩前まで近寄ったシュナヴィッツ。
黒い“うさぎのぬいぐるみ”を抱える腕を、ネフィリムが勢い良く掴んだ。
「これはなんだ?」
「え、ああ、これは……」
言いながらシュナヴィッツは腕を緩めた。
黒い“うさぎのぬいぐるみ”は音も無く華麗に着地し、ぺととっと二人の間に移動した。
ネフィリムの視線はベルベット地の黒い“うさぎのぬいぐるみ”に縫い付けられたように固定されている。
「………………」
「さっき廊下で会いました」
シュナヴィッツの言葉を聞いているのか、ネフィリムは黒い“うさぎのぬいぐるみ”をじっと見下ろしたままだ。
「…………」
大股で歩いていたシュナヴィッツに振り回されて、黒い“うさぎのぬいぐるみ”の耳はねじくれている。くるくるに曲がった耳を左右綺麗に並べなおし、最後にぺしっと後ろへ払うとネフィリムを見上げた。
「お久しぶりです、ネフィリムさん。今日は──」
言いかけたミラノの言葉を、ネフィリムの爆笑が遮った。
「…………」
「…………あ、兄上?」
しばらく、ネフィリムの笑いがおさまるのを二人は待つ。
ネフィリムは数分ひーひー言いながら体をくの字にして笑い倒した後、姿勢を正した。
「いや、す、すまない。まさか今度は黒とは……く、くくっ──形そのまま──くくっ。ミラノは本当に、ぬいぐるみが好きなんだなぁ」
笑いをおさめきれずに言うネフィリムから、黒い“うさぎのぬいぐるみ”はこっそりと顔を背けた。
「……好きでぬいぐるみになっているわけではないのですが」
ネフィリムは目を細めて一瞬で笑みを消した。
「じゃあミラノ」
一度ゆっくりと瞬いてから、ネフィリムは右手を腰に当てると再び口元に笑みを浮かべた。
細められた、蒼い瞳が黒い“うさぎのぬいぐるみ”をそっと見下ろしている。
「何故また……“うさぎのぬいぐるみ”なんだい?」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”の頭がゆっくりと斜め左、斜め右と揺らいでから下を向いた。答えを躊躇っている。
見かねてシュナヴィッツがネフィリムに声をかける。
「兄上、父上は?」
すぐにネフィリムはシュナヴィッツへと視線を移した。
「プロフェイブ王から特使があった。急にな。……モンスター減少から、ガミカも立場が苦しい」
強力な召喚獣を召喚する者が生まれるガミカだが、モンスター侵略の矢面に立たされ、その戦力は耐えしのぶ事に回されていた。が、今は余剰戦力も出来つつある。他国との関係が、長く続いていたものから変わり始めている。
特使との事で、王の執務室に居たネフィリムは一旦この自室に退いた。
現王と第一位王位継承者両方が居て、いらぬ警戒を生んでもよくない。あちらには宰相らが詰めているだろう。
「それでシュナ、サルア・ウェティスからの報告というのは、例の漁師からのもので間違いないか?」
やはりネフィリムの耳にも、北の大陸モルラシアからこちらへ渡るモンスター軍団を消滅させた、光る6枚の翼で空を舞う少年の話が入っているようだ。
一人二人の証言ではなく、別の航路を通っていた船員も見ていたので、ネフィリムも信用した。
「ええ。6枚の翼を持つ少年が、モンスター達の船が人の大陸アーティアへ渡るのを妨げていたとの事です」
「ふむ、6枚の翼というのが──」
「それでしたらレイムラースです」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”が再び顔を上げてシュナヴィッツとネフィリムを見た。
「…………」
「…………」
「……何か、おかしな事を言いましたか」
「いや……そういうわけではないが」
ネフィリムは言葉を濁した。
レイムラースという名のバケモノに、二人は命を奪われた事がある。
堕ちた証に刻まれる醜い姿──ぎょろりとした目に巨大な蛇のような口を持っていた。全身どす黒く、6枚の翼も硬質で爬虫類を思わせる黒いものだった。
ネフィリムやシュナヴィッツだけでなく、多くの人の命が、レイムラースの暴走に巻き込まれて奪われた。肉体を壊されて霊界に叩き込まれた。
例の神の召喚獣騒動の最後の日の事だ。
「レイムラースは元々“はじめの人”が先に作った──強力な獣をあちらの大陸に押し留める役目の“天使”でした。ですが、長い時に使命を忘れ、モンスターがこちらの大陸へ渡るのを手伝っていました。侵略者になっていたのです。“私”がこちらに召喚された事に驚いて混乱しきったアルティノルドをそそのかしたらしいのです。それが、先日の“神の召喚獣”が連続で出現した原因です。レイムラースは堕天使……化物から天使に戻し、力を奪って赤ん坊にしました。成長が早いようで、さっき会った様子では人間にすると12、3歳ぐらいの見た目になっていましたが」
「…………」
「……ミラノ、それを聞くのは初めてだが?」
「私もこの事を人に話すのは初めてですが?」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”から淡々とした声が出てきて、ネフィリムは返す言葉を見つけきれず、適当な相槌で誤魔化す。
「……それならば、初めて聞いたという記憶に誤りは無いのだろうな」
ネフィリムは困惑した。
別の世界からやって来たミラノの話すこちらの世界の話だが、自分の世界の事とはとても思えなかったのだ。ミラノは、この世界の何をどこまで知っているのか。
──“神の召喚獣”事件から3ヶ月余り……自分たちもミラノも、変わったのだろうか。
ネフィリムが親指と人差し指で顎を撫でて思考に沈みかけた時、黒い“うさぎのぬいぐるみ”が動いた。
ぐっと頭を下げた思うと正面を見据える。何かを決したように。
ネフィリムは手を下ろし、シュナヴィッツ共々黒い“うさぎのぬいぐるみ”を見下ろした。
「私がまた“うさぎのぬいぐるみ”でいる理由ですが──」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”は丸い右手をそっと胸に当て、顔を上げてネフィリムとシュナヴィッツを見た。
それは、いつもどおりの淡々とした声で。
「──体を、なくしました」