(128)キョウと黒いうさぎ(1)
(1)
パールフェリカはくりくりの目を一層大きく見開く。口もキョウを見つけたときよりもっとあんぐりとして顎を落とした。
黒い“うさぎのぬいぐるみ”を指差し、何度も瞬く。声を「あ、あ」と出おうとして、しかしうまくいかず、ただ空気だけを絞り出した。口の中を乾かしているばかりだ。夢の中のようなもどかしさでパールフェリカは下唇を噛んだ。
これじゃいけない──と、堅く口を閉じ、もごもごと舌を動す。無理矢理乾いた口の中を湿らせ、パールフェリカは小さな声で、やっとの思いで「……ミラノ」と呟いた。
黒い“うさぎのぬいぐるみ”は赤い瞳だけではなく体ごとパールフェリカに向けた。たるんと長い耳が揺れる。
パールフェリカは顔を左右に振りながら、眉間にくっきりと皺を寄せた。
涙声のような息を長く吐き出す。とにかく言葉に繋がらない。何から言っていいのかわからない。気ばかり急いた。
だから、終いには口元を両手で覆い、ぎゅっと目を瞑った。
隠した口は揺れながら『あいたかった』と動いた。
付き従っていた護衛騎士のエステリオとリディクディは、眉尻を下げて困ったような笑みを見合わせた。
ガミカ存亡の危機となった神の召喚獣大事件から──ミラノが居なくなってから、3ヶ月近くが経っている。パールフェリカがどれだけミラノを恋しがっていたか、2人はすぐ近くで見ていたから……。
ミラノがいなくなってから、パールフェリカは人形師クライスラーに作らせた白い“うさぎのぬいぐるみ”を大事に扱うようになった。ミラノは人の姿の時以外、その“うさぎのぬいぐるみ”の姿をしていたから。片手で振り回したり、ぽーんと放り投げたりするような事は無くなり、今は形見か何かのように寝室に置かれている。寝相のあまり良くないパールフェリカは夜中自分で蹴飛ばしている事を知らない為、時々ほつれを見つけては「なんで!?」と嘆いていた。その事も、護衛騎士の2人は知っている。その寝相はどんな恨みがあるのかと聞きたくなるほど、耳を踏みつけ、もう一方の足で頭を何度も蹴っていたりするのだから非常にタチが悪い。
とはいえ、意識がちゃんとある間のパールフェリカは以前からするとほんの少し変わった。
はっきりと「ミラノに会いたい」とは言わなかった。ただ、ミラノの痕跡を大切そうになぞっては溜息をつく。そして一人でにぎり拳を作って「──私、がんばるわ!」と真面目な顔をして呟いていた。
護衛騎士2人は声をかける事無く見守ってきた。ずっと、パールフェリカがミラノに会いたくてたまらないでいた事を──兄らの事もある──素振りを隠し、一言も言わず我慢していた日々を。
エステリオもリディクデイも、パールフェリカのように態度には示さないものの、気持ちはそう変わらない。世界だけでなく、主だけでなく、それぞれ自分達の命の恩人だ。礼なら何度か言ったが、とても足りる気はしないのだから。今ある平穏な日々は、姿こそ“うさぎのぬいぐるみ”というひょうきんな格好だが、救世主とも呼べるミラノのおかげなのだと思っている。
「ミ、ミラ……ノ……」
パールフェリカは「本当にミラノなのか」とは聞かない。今、本来の人の姿でも、以前の白い“うさぎのぬいぐるみ”の姿でもなかったが、わかるから。
かつて、召喚士と召喚獣の絆で結ばれた事があった。
パールフェリカにはちゃんと、わかる。どんな姿をしていたって、これはミラノだ。
なんでこんな黒い“うさぎのぬいぐるみ”なのかとか、なんでそっくりな男がいるのかとか、あっちで結婚しちゃったのか、それじゃあもう兄様達をからかえないとか……聞きたい事やら言いたい事は山ほどあった。が、ぎゅうっと目を瞑って全部飲み込んだ。
そうやって力を溜めて、パールフェリカは勢い良くキョウを両手で突き飛ばし、黒い“うさぎのぬいぐるみ”に覆いかぶさるように抱きついた。
「──ミラノォ!!」
「……ちょっ──」
ミラノが声を出す暇もなく、パールフェリカの両腕は黒い“うさぎのぬいぐるみ”の首に伸びて──それはもう力強く締めた。
「あー……それじゃしゃべれなさそう……ぬいぐるみだとどうなんのかな」
見かねたキョウが尻餅をついたままぽつりと言った。
「……えぇ?」
感動の再会を邪魔され、パールフェリカは不機嫌な表情をキョウに向けた後、手を緩めて黒い“うさぎのぬいぐるみ”を見た。支えを失った“うさぎのぬいぐるみ”の首は、後ろへかくんと折れ曲がった。
「わ、わわっ!? ミ、ミラノ!? ご、ごめんなさい!!」
へんじがない、ただのぬいぐるみのようだ。
「ミラノ……! ミラノ!?」
パールフェリカは両膝をついたまま黒い“うさぎのぬいぐるみ”を抱きしめていた両腕を外した。くたりと、長い耳にひっぱられるように後ろへ倒れていく黒い“うさぎのぬいぐるみ”を横抱きにしてそっと支え直した。それからたっぷり60秒……待った。もちろん名前を呼びつづけ──。
「……だ、大丈夫だから。大きな声を耳元で出さないで」
ゆったりと黒い頭が持ち上がり、聞きたかった声が聞こえた。
「よかったー」
パールフェリカはほっと息を吐いてにこっと微笑んだ。
エステリオは口元にそっと手を当て、申し訳なさに顔を背けた。
──復活にこれだけ時間がかかって……さぞ苦しかったでしょうに、ミラノ様。
黒い“うさぎのぬいぐるみ”の姿をしたミラノは、身の危険を感じたわけではないのだろうが、その小さな歩幅で2歩退がり、パールフェリカから距離をとった。パールフェリカは気付く様子も無く立ち上がると膝の砂を払った。
ミラノとパールフェリカの「お久しぶり」の挨拶もほどほどに、その場に居た全員が距離を縮めて声の届きやすい位置に自然と移動した。
パールフェリカの後ろ、左右に青い鎧を身にまとったエステリオとリディクディが控える。両者ともに腰に長剣を佩いている。
ミラノの隣にキョウが立っており、その半歩後ろに“光盾”の長ルトゥとレーニャが歩み寄った。
改めて全員が顔を見合わせてから、輪の中心に居た黒い“うさぎのぬいぐるみ”が顔をあげる。
黒色のベルベットを思わせる素材感の丸い手でゆるくキョウを示す。
「──見てわかる通り、弟よ」
「っはぁあ!?」
「ミテワカルトオリ!?」
パールフェリカが声を発する前に、キョウの背後で2種類の声が上がった。“光盾”のルトゥと訛りに訛ったレーニャだ。
冒険者というアウトドア全開の狩りで鍛えられた声量に、黒い“うさぎのぬいぐるみ”の頭がゆっくりとそちらへ向いた。赤い瞳が日に焼けた“光盾”長ルトゥの顔をひたりと見上げる。うるさいという事らしい。
「い……いや、な、何でもない」
ぬいぐるみに睨まれ、謎の畏怖を感じてルトゥは首を小刻みに振った。黒い“うさぎのぬいぐるみ”は微かに頷いて、今度は隣のキョウを見上げる。
「京、挨拶」
「あ! ども、はじめまして。ヤマシタキョウです」
お姫様に口きくってどんなもんだろうと思いつつも、山下京は普段のままの笑顔で名乗った。
キョウの笑みにはミラノのような柔らかさよりも、さっぱりした爽やかさが前面にあったが、2人の顔が似ている事に違いは無く、パールフェリカの心を一気に解きほぐしてしまう。
山下姉弟は目元が特に似ている上、ナチュラルメイクのミラノとノーメイクのキョウでは大きな差も無く、睫毛と目の縁、張りのある白い肌と潤んで光を返す黒目のバランスの絶妙具合はとろけるような印象で、これこそ瓜二つと言って差支えがない。
ミラノの笑顔は雪解けの春──未だ残る雪やせせらぐ小川に煌く朝陽がきらきらとふりかかり、神秘的な輝きを放つ虹色の光。
キョウの笑顔は夏の日差しの中に吹きこむ、澄んだ湖の上を自由自在に駆け抜ける風と強い反射光のよう。
どちらも整った顔立ちに心根の良さが滲んで人の印象に強く残るものだ。
だが、今、2人は“うさぎのぬいぐるみ”と人間の男にすぎない。
パールフェリカは2人を見比べ、両肩をきゅうっと上げると満面の笑みを浮かべた。すぐに溜息のような歓声を上げ、顎の下で両手をぱんと打つ。そのまま手を組んでうっとりと言うのは──。
「そっくり!」
──どこが!?
絶叫したいつっこみをこらえ、ルトゥとレーニャはただ目をまん丸にして顔を見合わせた。
冒険者2人はパールフェリカに頷いて見せる黒い“うさぎのぬいぐるみ”と人間のキョウをこっそりと指差しチラチラと見比べている。
外野の反応はおかまいなしで、パールフェリカはふっと手の力を抜いて黒い“うさぎのぬいぐるみ”を見下ろす。
「でもミラノ、何でまた“うさぎのぬいぐるみ”なの? 誰かに召喚された?」
言葉にはしないが『私以外の誰に召喚されるっていうの?』という心の声がはっきりと表情に出ている。不服そうだ。
パールフェリカの蒼い瞳を受け止めて、黒い“うさぎのぬいぐるみ”はゆっくりと首を傾げる。
「そういうわけではないのだけど…………私の方が、知りたいのだけど」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”は困っているらしいのだが、相変わらずの淡々とした声で話していて、パールフェリカやエステリオ、リディクディにほんわりとした笑みを誘ったのだった