(126)パールフェリカと黒いうさぎ(2)
(2)
空に飛び出ると咽るような血の臭いから開放された。
気温は夏のそれだが湿気はない。それでもじっとしているだけで汗が浮いてくる。
青空には薄い雲がところどころあるだけで陰は無く、快晴と言っていい。暑いが、髪がばさばさとあちらこちらへと暴れ回るほどに風が吹いていて爽快だ。その風にも湿り気は無く、気温よりは涼しく感じられた。
大空に舞い上がった赤い怪鳥は先ほどより大きくなっている。
3人が乗っても十分余裕のある、2階建ての建物程の大きさだ。広げた翼は言うまでもなく左右に伸びている。小回りは悪くなるだろうが、人の乗る場所も広がって安定する。
ステュムの胴に跨ぐようにして先頭からルトゥ、レーニャ、最後にキョウが翼の付け根の頭寄りに座っている。
風は後方へ流れていく。レーニャは後ろからキョウに話しかけられても「え?」と返事をするだけだった。その度、キョウは曖昧な表情を浮かべてにこっと笑うと緩く手を振っていた。
ステュムが静かに飛行する間、暇になったキョウはそうやってレーニャと会話を試みたり、眼下の夏の森──今が盛りと生い茂った緑を眺めた。あるいは白鳥より4倍はあろう鳥がほんの少し高いところで群れをなして飛んでいる様を見上げては溜息を漏らしていた。
高所に対する恐怖が無いというより、ステュムの性能を見た事で安心をしている──例え落ちても巨大猪を切り裂いた時の速度があるなら助けてくれるだろうと不安にならずに済んでいる。
ふと、キョウは腕時計に目をやる。
全体がスケルトン仕様で精緻な歯車が見える腕時計だ。
盤面全体が12時間時計になっており、盤面の空いたところに丸が4つ──月時計、日時計、24時間計、曜日計が針で日時を示す。大学生のキョウが手にする時計としては手頃な価格の、それなりに年相応で格好イイかなと本人が満足しているデザインだ。
全体がシルバーで表からも裏からも中身が透けて見えてお気に入りだ。
──その時計は、10時30分を示している。
「──昼には帰れるのかな。今月、金欠だから昼飯作ってもらうか、おごってもらうかするつもりだったのに」
キョウの心許ない呟きはあっさりと風に飲み込まれた。
その風が、少し変わる。
怪鳥ステュムがバッサバッサと羽ばたいてその場で滞空した。キョウが顔を上げると前方に灰色の怪物が見えた。
ぎょっとしたがあちらにも人が乗っており、ルトゥが手を振ると拳を掲げて返事をしている。敵ではないらしい。
灰色の怪物は蝙蝠に似た翼を広げ、滞空していた。大きさは今のステュムよりやや小さい。凶悪な面構に怖気付きそうになったが、あちらの背に乗っている人もルトゥに応えて大きく拳を振っている。襲ってくる様子はさっぱり無いのでキョウはじっくりと事の成り行きを見守る事にした。
怪物をよく見れば、獅子に似た頭を騎乗している人物に撫でられており目を細めている。全身はでこぼことした岩のような灰色の鱗に覆われ、爬虫類を思わせた。が、全体の印象をキョウは最近映画で見た西洋のドラゴンのように感じた。恐竜というよりはシャープでクールに見えたのだ。
ルトゥが灰色の怪物に乗る人物に「何でここにいる!」やら「自分の仕事はどうした!?」と声を飛ばしているが、風の音で聞き取れないらしい。大げさな動作で耳に手を当てて聞こえない事を訴えている。
ルトゥは腕を高く掲げ、相手の視線を引き寄せるとすぐに腕を振り下ろし、森の中の開けた岩場を示した。灰色の怪物に乗った人物が頭を大きく前に2度倒して頷いた。
灰色の怪物は翼で空を打ち、一気に降下した。
ステュムもそれを追う。
木々の間を抜けた先にある岩場は怪鳥ステュムが翼を大きく広げられる余地がたっぷりあった。ステュムは砂埃を舞い上げつつ静かに降り立つ。すぐさまルトゥが「すぐ飛ぶからそこで待ってな」と言って一人地面に飛び降りた。
すぐ近くに川があるのか、どこからかせせらぎの音と鳥の短い声がいくつか聞こえていた。
レーニャとキョウに負担をかけないようにとステュムは頭を下げて背が平らになるようにしてくれている。キョウは笑みを浮かべて「いい子だなぁ」と小さな声で呟くとステュムの背中をさすってやった。ひとしきり撫でた後、キョウは背筋を伸ばしてルトゥが近付いた灰色の怪物を見た。
ルトゥの駆け寄る先で、いかつい体格の男が灰色の怪物から降りて来ている。日に焼けた手を軽く上げているところだった。
「あの人は?」
「え? あー……んと、セイル。ルトゥのだんな様」
キョウの問いかけにレーニャが半身をひねってこちらを向いた。
レーニャの言葉を探りながら答えてくれる様子は、この国の人間ではないため言葉が不自由だと紹介された事をキョウに思い出させた。そうして、自分の方がよっぽどこの国の人達からは遠い存在のような気がした。
人の外見の特徴はともかく、太古の巨大生物のような、伝説の生き物みたいなものがウヨウヨしているなんてどう考えたって日本じゃない。
日本……もっと根本的な何かがちがう。
言葉がわかってしまっている点も考えてみたが、答えなど出てきそうも無い。ならば“考えない”方が良い。キョウはあっさりと方針を決した。
「へぇ──……なんか、お似合いってカンジだね」
ステュムもあちらの怪物も人より遥かに巨大だ。灰色の怪物はステュムから20歩は離れた場所に降り立っていた。
怪物たちの足元で話すルトゥとセイルの声は聞き取れなかったが、2人並んでいる姿ははっきり見えている。
“光盾”女長ルトゥは男のキョウと変わらない身長だが、灰色の怪物から降りてきた男──夫セイルとやらはそれより頭二つ分高く、横幅は筋肉で3倍以上はありそうだ。
「え? んー……えっとぉ、ソイはー『セイルが尻に敷かれてる』って言ってた!」
「あ……そ、そう?」
赤い鎧に身を包んだセイルという男は巨大な怪物に相応しい、いかつくいかめしい男だ。それが、10代前半の子供──レーニャに“尻に敷かれてる”と認識されている……キョウは同じ男として半笑いでしか返事が出来なかった。
「ね、あの灰色の怪物は何? てかさ、俺全然わかんないままなんだけど、この赤い鳥も何なの? すっごい手懐けられてるよね?」
「あの灰色の怪物──は、セイルの召喚獣よ。ガーゴイル。この赤い鳥はー、ルトゥの召喚獣ステュム」
「えっと……あー……召喚獣?」
キョウは声をひそめて聞き返した。
「え? うん、召喚獣」
「…………」
「…………」
レーニャはくいっと首を傾げる。
「キョウはー、何が聞きたいの?」
「……えっと………召喚獣??」
「うん? うん、召喚獣」
レーニャの柔らかい声音は先程から変わらない。
「…………」
キョウは考えこむようにレーニャから視線を逸らした。吸い込んだ息は微かにひらいた唇の上ですーっと音をたてる。
──“召喚獣”ってなんだ? ゲーム? エフエフ? ファイファン? 俺、9とDS版の4しかやった事無いんだけど……。
キョウがこめかみと髪の間に左の人差し指をそっと当てた時、ルトゥが戻ってきた。彼女は慣れた態でステュムの首の付け根にひょいとよじ登る。
レーニャの前に先程と同じように跨ると、ルトゥはキョウを振り返る。
「キョウ、悪い。王都への帰還はちょっと先になった」
「え? 何かあったの?」
「いや……」
明朗で男勝りなルトゥの言葉が濁った。
「あ、俺、別に遅くなっても平気ですよ?」
連れて行ってもらうのに迷惑はかけたくないと、キョウはにっこりと笑みを作った。
「そうかい? 助かるよ。ちょっと、ね。セイルには──ああ、あたしがさっき話してた男ね──あいつにはあいつの仕事をして欲しいからさ。中途半端に残してここに来てんだよ、今。現場の指揮を任せられるのはガミカにゃセイルしか居ないってのにね。セイルが受けた依頼、別の奴に回したかったんだが、セイルを除いたらもうあたしが行くしか無い」
レーニャがルトゥを見上げ、問う。
「“光盾”の皆を呼ぶのは?」
「セイルに頼んだ」
ルトゥはレーニャの頭をわしわしと撫でながら答えた。レーニャはその手をどけつつ、さらに問う。
「依頼?」
「なに、簡単な仕事なんだ。だけど、下っ端にゃ任せらんないのさ。ただの道案内だけどね」
ルトゥは再び赤い怪鳥を空へと飛ばし、同じく空へ駆け上がって来た灰色の化け物ガーゴイルに騎乗するセイルに大きく手を振った。それを合図にステュムとガーゴイルは45度異なる方向へと向きを変えた。
ステュムは空を滑るように飛び、キョウが腕時計で10時45分を確認した頃、森に沿うようにそびえ立つ山に近付いた。山には緑がほとんど見当たらない。
人が登る事を拒むような断崖絶壁の山の急勾配に、ぽっかりと空いた横穴が見えてくる。
ステュムは大きな横穴のへりに爪をひっかけ、翼をたたんでから奥へ歩いて進んだ。
巨大な横穴と思われたが、広いのは入り口だけだった。ステュムが降り立てるぎりぎりの広さしかない。その先には穴が3つある。
人が3人ほど横に並んで歩ける程度の小さな穴が奥へ伸びている。
ステュムはなるべく開けた場所で脚を止めると肩を下げ、ルトゥらが降りやすいよう姿勢を変えた。
穴は人工的に開けられたものだとわかる。
穴の上下左右は木組みで固定もされている。キョウはテレビで見た事のある使われていない炭鉱というものを思い出していた。
穴の奥からはひんやりとした空気が流れて来ている。快晴の空で夏の太陽光を浴びていたため、こうして日陰に入ると心地よくて落ち着く。何か飲み物でもあれば言う事は無いのだが、キョウは我慢を決めた。
「ステュム」
3人がステュムから飛び降りた後、ルトゥは腕を伸ばして召喚獣の名を呼んだ。赤い頭を小さく縦に揺らした後、ステュムの体が一気に縮んだ。
「っえぇ!?」
驚きの声を上げるキョウを、小鳥程の大きさになったステュムを肩にとまらせたルトゥとレーニャが顔を見合わせ、不審そうな目で見た。
「そういえば聞くの忘れてたけど、あの時の“黒いうさぎ”、あれは何なんだ?」
「──え? え?」
小さくなったステュムを控えめに指差しながら、戸惑うキョウは瞬きを繰り返している。
「聞いてるか? キョウ」
「え? あ、うん、聞いてる、聞いてるけど、けどさ──いやぁ……なんていうか……俺……えー…………俺……うわぁ……ちょっと……待ってちょっと……えー……まじかよ……参った……ちょっと、休みたい……」
半笑いを作ってキョウはどさりと腰を下ろしたのだった。
どうしたものかと腕を組んだルトゥをレーニャがつついた。
「ん?」
レーニャが反対の手で空を指差していた。ルトゥはその空を見て、にんまり笑う。
「キョウ、悪いが休憩は無いよ。仕事だ」
「──え……」
顔を上げたキョウは、ルトゥとレーニャの視線を追って青空に目を向けた。
三騎の獣が勇壮に空を駆けてくる。
上半身が鷲で下半身が馬のヒポグリフ。
柔らかな翼持つ空色のペガサス。
そして──その二体に挟まれて翼を持たずに空駆ける獣──陽光を照り返す一本角を額に持つ馬がキラキラと光のかけらを散らしながら駆けてくる。
──うっすらと桃色に輝き、美しいたてがみを風に揺らめかせるユニコーン。
3騎の美しく幻想的な召喚獣が空を割ってこちらへ飛んで来ていた。