(124)“光盾”と黒いうさぎ(3)
(3)
空から森の木々の緑を抜けると、血の臭いが充満していた。
本来は茶色の土も水気をたっぷり含んで黒く変色し、その範囲を広げている。
森の“主”から10歩程離れた場所にペガサス2頭が並んで足踏みしていた。
ペガサスの傍らには血塗れた長槍の柄を地に付けて立つソイとオルカの姿がある。それぞれの髪や頬、鎧やマントには返り血が散っており、勢いのある点線を描いている。
槍で突き刺すに止まらず、飛翔系召喚獣の中でも俊足のペガサスで駆け抜けながら切り裂き、“主”の体力を削りに削ったのだろう。大量の返り血はその為た。
その結果が……茶色の被毛をぐっしょりと血で濡らして、自重から前足を体の下に潜らせて倒れこんだ“主”の姿──。
“主”の全身を抑え込んでいた召喚霊ピグミーの盛り上がっていた土も消え失せている。
意識のない“主”の両目は開かれたままだが、張りのあった眼球表面にはいくつも傷が出来ている。球面全体が波打って白く淀み、部分的に膜は破れて垂れている。目の淵からも大量の血が溢れたようだ。
辺りは踏み散らかされ、周囲の木々も十数本が半ばで折れて倒れている。
折れてささくれ立った樹の皮の内側がむき出しになっており、杏色の生木の臭いが血の臭いと少しだけ混ざっていた。
コルレオと女長ルトゥは前のめりに倒れた“主”の上を一度旋回してから、ソイとオルカの横へそれぞれの召喚獣を降ろした。
怪鳥ステュムと斑ペガサスにそれぞれ騎乗していた4人も大地に立つ。
ルトゥの縄を解く速度は驚く程早く、手慣れた様子が伺える。解ききった縄は地面にたらりと伸びるが、端を片手でひゅっと上下に振るだけで一気に巻き上げた。
まばたきの間に縄は手元で綺麗に数重かの輪にまとまってしまった。ルトゥは見ずにその束を腰のベルトに留め具で固定してぶら下げた。
一連の動作をしながらルトゥは返り血まみれのソイとオルカに歩み寄り声をかける。
「ソイ、オルカ、ご苦労さん」
ルトゥの労いにソイが槍を少し持ち上げてニマッと笑った。
「おう! 久しぶりに気合入れてがんばったぜ!」
オルカが頷く。
「内臓のが高く売れるからな、血抜いて倒すってのも骨が折れる、いや、骨は折ってないんだがな?」
報告を聞き流しつつ二人の前を素通りしてルトゥは“主”の面を見上げた。
「しっかしデカイね、こりゃ。心臓だけ運ぶってのも厳しそうだ。……そうだね……あたしとレーニャでみんなを連れてくるから、ソイとコルレオでさばいといて」
ルトゥは腰に下げた鞄の紐をしゅるしゅると解き、乾いて角がボロボロになった黄ばんだ紙を取り出してコルレオに差し出した。歩み寄ってコルレオは受け取ると目を通す。ルトゥも一緒に覗き込みながら言う。
「部位と値段の一覧、高いヤツ優先して残しといて……こいつの肉は硬くて安いだろうし、運ぶだけ無駄かね。捨てていいよ。森の獣が食うだろ。あと牙、なるべくこの形、大きさのまま運びたい、ネフィリム殿下辺り喜びそうだからね。あの人が高く買ってくれる」
「──ん。わかった」
その隣へ、ルトゥが“主”の背中から助け出した男がゆらゆらと歩いて来た。“主”を見上げている。
「俺こんなのに……へぇ……」
小さな声で何かしら呟いている。
さばかれたばかりの獣が珍しいのか、背伸びをしたり下から覗き込んだり、土に染みた血の臭いを嗅いで肉の切り口を見ては顔をしかめたりしている。
ルトゥは男をちらりと見た後、鎧が黒色で返り血がほとんどわからないオルカに視線を投げる。
「オルカ、あんたは血の臭いに集まる雑魚を片っ端から追っ払っといて」
「おう! 任せとけ!」
「よし、決まり。じゃあ──」
そう言いかけた時、唐突に男が体を翻した。大きく開いた右手で口の閉じきらないルトゥの脇腹辺りを、左手でコルレオを掌打の要領で突き飛ばした。
「……っ!」
弾き飛ばされながらルトゥが見たものは、両眼から血の涙を噴き出しながら立ち上がって牙を突き上げてくる“主”の姿。
──生きてた!?
たたらを踏んで距離を取らされたルトゥとコルレオの後ろで、ソイとオルカがペガサスに飛び乗る。
一方、ルトゥとコルレオを逃がした男の眼前、その腹を突き破るべく牙が迫らんとし──。
「ぅげ」
次の瞬間、漆黒の魔法陣が音もなく牙と男の間に割って現れた。
本来なら魔法陣が物質を通さないなどという事は無いのだが、牙は透けない魔法陣にがつんと弾かれた。
勢いで“主”は2歩分どすどすと後退した。
「え!?」
「なんだ!?」
ペガサスを走らせかけて慌てて止めるソイとオルカ。
「黒い……魔法陣?」
「大ぉっきー……!」
ルトゥとレーニャの声に呼応するように、追加で黒の魔法陣が“主”の頭上、地面に対して垂直に3枚現れた。間をおかず魔法陣はすこんすこんすこんと落下してきて“主”を輪切りにする形で地面に縫いとめる。
それだけの大きさ──建物5~6階分の直径がある常識破りの巨大な魔法陣である。
何が起こったのかわからず困惑しているのは“光盾”の面々や男だけではない。
“主”も牙を左右に振り、血の垂れる見えない眼で辺りを探る。失われた視力を聴力が補ったか、すぐに気配を見つけだした。
牙ごと顔を気配の方へ向け、顎を大きく開くと咆哮で空気を振動させた。
導かれるようにルトゥや男もそちらを見る。
森の中、折れた木々の横から小さな黒い影がひょっこりと、姿を現した。
かろうじて動くらしい“主”の前足と後ろ足が濡れた地面を削り上げる音──同時に、傷口から血液が噴き出す音の響く中、その黒い影は2本足でひょこひょこと歩いてルトゥらに近寄った。
黒い影の背丈は人の3歳児、幼児程と低い。
「え? なにこれ? 黒い、うさぎ? ぬいぐるみ??」
巨大猪の牙の餌食になる寸前であった男が、現れた黒い影を指差して言った。
男の言葉通り、それは真っ黒で艶の無い生地から作られたらしい“うさぎのぬいぐるみ”だった。それが、ひょこひょこ歩く。
ひゅうっと風を切る音がして、巨大な牙が再び振り下ろされる。
が、“うさぎのぬいぐるみ”の手がするりと牙の方へ持ち上がると、そこを中心に巨大な黒い魔法陣が生まれる。牙はまたしても大きな音をたてて魔法陣に弾かれてしまった。衝撃で辺りの砂が舞い上がる。“うさぎのぬいぐるみ”の耳も風圧に揺れた。
静かに“うさぎのぬいぐるみ”が赤い刺繍の目でゆっくりと巨大な猪を見る。
「す、すっげ! なにこの“ぬいぐるみ”! 高性能すぎねぇ!? 未来のネコ型ロボットみたいじゃん! なに今の!? ひ○りマントじゃないの??」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
“光盾”の面々が言葉無く立ち尽くすのに対し、男は興奮気味に“うさぎのぬいぐるみ”に詰め寄った。
男は“うさぎのぬいぐるみ”と呼んだが、うさぎと言える特徴は長い耳と赤い目位で、あとは酷くシンプルな人型に近いぬいぐるみだ。顔の中身も目以外の口や鼻は作られていない。手足も丸いだけ。
「や!」
男が1歩の距離で“うさぎのぬいぐるみ”に片手を上げる。“うさぎのぬいぐるみ”の方も肘あたりで腕を折り曲げ、片手を上げた。
操り糸の類は見えない。自立歩行して、挨拶にも応じた。
男は「おもしれー」と呟いてにこっと笑い、腰を曲げ、両手を両膝に置いて前かがみになる。
「ありがとう! 助かったよ!」
黒い“うさぎのぬいぐるみ”は持ち上げた丸い手で男の耳をひっぱり寄せた。
「──……え?」
数秒して“うさぎのぬいぐるみ”は男の耳から手を離した。
男はゆっくりと曲げていた腰を伸ばして立ち上がり、黒い“うさぎのぬいぐるみ”を硬い表情で見下ろす。
「……──えっと?」
「………………」
男を見上げていた黒い“うさぎのぬいぐるみ”はふいと自身の足元を見る。即座に小さな黒の魔法陣が生まれた。
“うさぎのぬいぐるみ”は再度、男を見上げ、そのまま魔法陣に飲み込まれるようにして姿を消した。その魔法陣もすぐに地面に溶けるように消えてしまった。
「なんだってんだ……?」
コルレオがようやっとで呟き、ルトゥはその声にはっとした。背後でペガサスに騎乗したまま動きを止めていたソイとオルカを見た。
「ボサッとしてないで、今のうちにさっさとトドメを刺しな!」
満身創痍の巨大猪“主”を縫いとめる黒い魔法陣が、じわじわとその色を失いつつあるのだ。誰の目にも効果切れを予感させた。
「お、おう!」
「ソイ、爪だけ残して足潰すぞ」
「ん」
ソイとオルカは視線を交し合い、ペガサスを走らせ宙に舞った。
「…………」
微動だにせず“うさぎのぬいぐるみ”の消えた辺りをじっと見下ろしていた男の腕を、ルトゥがぐいと引っ張って“主”から距離をとらせるように数歩下がった。
「助けてくれてありがとう──だけど、細かい事は“主”が片付いてから聞く。いいかい?」
「…………」
男性にしては長さのある黒い睫を3度瞬き、ゆらりと視線を泳がせてから、男は顔を上げて笑顔を見せる。
「……いいよ」
男の返事にルトゥは頷くと、一人赤い怪鳥ステュムに飛び乗り、ソイとオルカに混じって“主”の上へと飛び上がる。
男は特にルトゥを見送らず、再び魔法陣の消えた辺りに視線を落とした。
先程、耳元で囁かれた声が脳裏に蘇る。
そう──黒い“うさぎのぬいぐるみ”は、声を発したのだ。
『今は忙しいの。後で迎えに行くから、生き延びてなさい』
「あの黒い“うさぎのぬいぐるみ”……何なんだ……」
聞き覚えのある声だった事が、男の表情を奪っていた。