(122)“光盾”と黒いうさぎ(1)
さわさわと風に揺れるのは夏の青々とした木の葉。その音が緊張した面持ちの汗流れる頬を撫でていた。
抑え込んだ呼気の合間に遥か遠い山や空で鳥の声が響いて聞こえている。
どこぞの草の合間で小動物が動き、カサリと音をたてて気配を顕にする。
──静かにしてくれ……ッ!
些細な事だが苛立ちを誘う。
緊迫した空気の中、みっしみっしと木々を押しのけて大地を踏みしめる音が近付いてきた。落ちている枝や葉が重く押しつぶされている。
夏の日差しは木々が広げる葉の隙間を縫うように差し込んでいる程度で、地べたを生きる人間にはそれほど明るくない。
見通しは効くもののやや薄暗く、風の具合で強い日差しの差し込む場所が変わる。
森の中を移動する胞子や小さな虫に日光は反射してキラキラと星のように浮かんでは踊る。
地表からわずかの距離しかない昼の人の視界まで、森の息遣いが満ちていた。人が作り出すことの出来ない、自然が時の流れと関わりながら生み出す幻想的な風景。
だが、心を奪われる事はない。
もう見慣れた。
森に入ってから4日も歩き続けた。
ここまで深い森になると人間はまず入って来ない。
草木を分け入るのにも注意を重ねなければ、どこからどういった獣が飛び掛ってくるか知れない。
ごくりと唾を飲んだ。
幹が人の体よりも何倍も太い木の陰に立っていたが、20歩程離れた木の枝、樹上に居た仲間の一人がこちらを睨みつけてきた。
喉の音が聞こえたとでも言うのだろうか。だが、味方に聞こえなくとも、こちらへ近付いてきているヤツには聞こえてしまうのかもしれない。
下唇を噛み、静かに息を殺して背後の木にもたれかかると耳に神経を集中した。
足音が近付いて来る。
同時に、獣特有の土っぽい臭いも風に乗って流れてくる。
優秀な狩人ほど臭いは無い。標的に気付かれずに近付く為だ。
だが、今こちらに近付いて来るヤツにはそんな小技は必要が無い。
こっそりと木の陰から見る。
やや長い焦げ茶の体毛に全身を覆われた、巨大猪──あれがこの森の“主”だ。
どれほど巨大かと言えば、その頭が木々の上にちょろっとはみ出る程だ。
建物4階分は軽くある。
この“主”の特徴は巨体と下顎から生えた頭の先にまで届きそうな4本の牙。あれが何百何十という冒険者達の命を奪ってきた。懸賞金も馬鹿高い値にまで釣り上げた凶悪な牙。
“冒険者ギルド”というものが人間世界にはある。
国の境無く世界に根を張り、ただの旅人を“冒険者”という職業に昇華してくれた存在だ。
各街にギルドの拠点があり、“冒険者”らはそこで情報交換から仕事探し、物資補給を行う。
胡散臭く、後ろ暗い過去の無い人間は居ないと言われる“冒険者”──ギルドはその後ろ盾となってくれている。
冒険者ギルドと密接に関わりを持って組織的に動いている冒険者集団を“クラン”と呼ぶ。
クランは冒険者ギルド側から特に規定を設けられているわけでは無く、それぞれに掟を持って彼らは行動している。
2人から10人程度の集団をパーティと呼び、それらが集まって連携して行動しているさらに大きな冒険者集団を“クラン”と呼ぶ事が多い。
今回、“青刀”というクランの内6名がこの森へ“主”を狩りに来ていたのだが……。
“主”の姿を見て、怖気づかずにはいられない。
でかい。また、唾を飲みそうになった時──。
どぶっと派手な音がして“主”の背中から首の間、茶色い体毛の上で何かが跳ねた。
上から何かが降ってきたらしい。驚いた“主”が頭を一度大きく上げ、首をぐるんと振り回す。
「うぅっわっ! あ!? と! ちょ! な!? えぇえ!?」
男の声が聞こえた。
必死で“主”の毛を掴んでいるのか、しかし振り回されている足らしきものが下からでも見えた。“主”の背中に落ちてきたのはどうやら人間らしい。声は若そうだ。
“主”が頭を振り回す度、しがみついている人間の足が持ち上がっては蛙のような姿勢で着地、飛び上がってはびたんと踏ん張っている様子が見えた。
じわじわと慣れてきているらしい。「ほっ」だの「えい!」だの「よいやさ!」だの聞こえてくる。挙句「へへっいける!」と笑い声まで混ざっている。しぶとい人間のようだ。
仲間と目配せをし、この隙に一気に近付く。
最初の一撃で仕留めなければ、獣というものは瀕死になったその時からが恐ろしい。ここまで背負って持ってきていた巨大斧に手をかけ構え、振り上げた瞬間──。
風を切る音がいくつか聞こえ、獣の腹辺りにジャベリン(投げ槍)が10数本突き立った。
茶色の毛並みの間を縫い、赤い血液が噴出した。
“青刀”の面々は顔を見合わせた。号令どころか、まだ誰も何もしていない。
“主”が前足を大きく上げ、豚鼻の下から甲高い奇声を上げた。次の瞬間、真っ赤に剥いた目がこちらをギロリと睨んだ。
「やべ! 逃げるぞ!」
仲間の一人が叫んで踵を返す。
“主”が地面を前足で何度も均し、突進の準備をしている。
「くそ!」
「あと少しだったってのに!」
仲間と叫びあい、でこぼこした地面を“主”から離れるように駆け抜ける。
木の根に足を取られないよう、時々歩幅をずらすがその度地面に手を付くはめになる。その手で地面を強く弾いて再び駆ける。
「くっそ!!」
背後から土煙を上げて草木を蹴り上げる“主”が猛然と牙を左右に振り回し、突進してくる。
あわや追いつかれる、という所で仲間と左右に散って飛び避けた。
同時──。
ごんっという大きな音が響く。
ほぼ同じタイミングで地面が揺れた。一度ぽんと体が浮いた程だ。
うつ伏せに倒れこみ抱えていた頭を持ち上げて後ろを見れば、“主”の牙にがっちりとその角を絡ませて押し止めている同じ位の大きさの巨大な獣が居た。
「──ありゃ……カトブレパスか!?」
上半身を鋼鉄の筋肉に、背を硬い鱗で覆い、頭には長い鬣が垂れ下がっている。この牛のような獰猛な獣──カトブレパスが地面をごりごりと擦りながら“主”を押し込んでいる。
巨大猪と巨大牛がぐるぐるもぐふぐと荒い息を噴出しながら力比べをしている。
「そのとーりさ。“青刀”程度のクランがさ、なーにしてんの? こんな所で」
「へ?」
頭のすぐ上から声が降ってきた。
半身起こして見れば軽装の女が立っているのが見えた。
声の主は背の高い色黒の女。
冒険者というには装備が肩と胸、腰を護る程度の鎧で腕や脚は剥き出しだ。
見えている筋肉質の肌には白や赤の塗料で線や模様が描いてある。髪は目の覚めるような金色をしていた。それを後ろで一つに束ね、編みこんで団子状にして、溢れた長い髪は細かい三つ編みにして垂らしている。
年は二十代半ばであろう。堂々とした佇まいは女らしからぬ貫禄を放つ。
“青刀”の面々はこの女の名を知っていた。
「げ!? “光盾”の長!? ──ルトゥ!?」
慌てて立ち上がって指差し名前を叫んだ。その手はぱちんと払っわれた。女──ルトゥはにんまりと笑う。
「雑魚はさっさと帰ってテチの草でも集めたらいーのさ」
テチの草は王都周辺でもたっぷりと生えている薬草の一種だ。需要も高く、初心者冒険者の小遣い稼ぎには持って来いの採集仕事として有名である。
「てことは、あのカトブレパス、召喚獣……?」
「ルトゥ、主の頭の上、人いるょ」
鈴でも鳴ったかと思わせる高い声が足音とともにやってくる。舌足らずで、しかも発音はなまっていた。
駆けてくるのは下唇が少し大きな10代前半の少女で、血管さえ透けそうな白い肌をしている。薄い茶色の髪を頭の高い位置で二つに括っていた。これもお団子にされて、そこから三つ編みが垂れている。ルトゥが結ってやってるのがわかる、同じ形だ。
「レーニャ、カトブレパスはまだ耐えられそうかい?」
「んっと……」
少女──レーニャは一度だけ巨大猪と巨大牛を見上げたが、すぐにルトゥを見て「大丈夫」と言った。
ルトゥに頭を撫でられると巨大な召喚獣カトブレパスの召喚主レーニャは、白い頬をほんのり桃色にしてにっこりと微笑んだ。
ひとつ頷くと“光盾”の長ルトゥは足元に血色の魔法陣を広げた。
すぐにその内側から真っ赤な鳥が姿を見せる。馬よりも少し大きい。
ルトゥは腰にぶら下げていた縄を召喚した鳥の胴に巻きつけそれと自分を固定し、レーニャを小脇に引き寄せて抱えると怪鳥の背に前かがみに立つ。それをほんの数秒でやってのけると縄の片側を引っ張った。
「いくよっ! ステュム!」
ルトゥの掛け声に赤い怪鳥は一鳴きした。
空にあっては敵の体をも切り裂く硬い翼が地面を打ち、怪鳥ステュムは羽ばたき飛び上がる。
真鍮の爪が地面を抉り、蹴飛ばした土が“青刀”の連中の頭に投げつけられた。ぺっぺっと口に入った砂を吐き出す“青刀”の頭の上に声が振ってくる。
「死のうが無視するからね、邪魔すんじゃないよ!」
拳を握りしめ、“青刀”のメンバーは怪鳥の尻尾を見上げるしかなかった。
──この大陸でクランは最低でも5000はあると言われている。
それらの中で最強との呼び声高いクラン“光盾”の長であるルトゥに「邪魔だ」叫ばれては“青刀”の面々は渋々立ち去るしかなかった。