(115)“はじめの人”(3)
(3)
空から王都を見下ろす。
『最初から最後まで、わけがわからないままだわ』
ミラノは風の中、呟いた。
結局、体が半透明になったという以外、どこが変わったと自覚するものは無かった。途切れていたパールフェリカとの“絆”とやらも、戻らないまま。それも、既に断ち切れたという。
死んだなんていう自覚もない。
確実な変化としての“半透明の姿”が意味するものは、今、ミラノの存在が“霊”であるという事。本当の体は、死んだという事。
事実、“霊”らしく、空を飛べた。驚きはしたが、体が透けている時点でもう理解の範疇を越えている。むしろ、飛べて当たり前だとすら思った。
下着が透けていない事に『ほう』と唸る自分に気付いた時には、動転してるのか冷静でいられているのか戸惑った。自分の心理状態も読めない状態らしいと、悟った。
結局、半透明になったからといって物質に触るという必要を迫られていない現状、どうでもよかった。あれやこれや気を揉まず、困った時に困れば良いのだと結論付けた。
城下町は7割が火炎に飲まれている。その上空で、ミラノはアルティノルドに手を預け、風の中に立っている。多くの命を奪ったレイムラースも、6枚の翼を羽ばたかせ、隣にいる。
いつの間にか“七大天使”も集結していて、背後にずらりと揃っている。
召喚された存在としての“七大天使”は、ミラノの死によって強制解除されており、彼らは本来の在り方と意思で、ここへ来ている。それは、ミラノの知るところではない。
王都の中心に来るまでの間、ミラノは力いっぱいアルティノルドから顔を逸らしていた。
半透明のミラノの手を、実体を持っているように見えるアルティノルドは、掴んだまま離さない。感触があるのは不思議だったが、もう理屈を考える気はなかった。シュナヴィッツが“神”だと教えてくれたアルティノルドは、口を開けば耳を塞ぎたくような『あなたのまっすぐな心が好きです』だの『何億年と無かった安らぎを感じています』だの、とにかく『ずっとお会いしたかった』と、しつこい程『好きです』と繰り返して言う。言いたいだけ言って、こちらのリアクションは全て無視するのだ。止めようもない。
──相手にしてられないわ……。
自分も大概無表情を通すが、これほど扱い難い存在だったのかと、ミラノは珍しく反省をしている。
何を考えているのかわからないので、とりあえずその口が止まるのを待って、ミラノは問う。
『──本当に、出来るの?』
『あなた次第です、何もかも。この世界に満ちるわたしの力をどれだけ引き出す事が出来るか、“霊界“にどれだけ干渉できるか、要は召喚士としての能力次第です』
アルティノルドはきっぱりと言い、手を離すとミラノの正面へまわった。
『つまるところ、あなたがわたしを置いていかず、だれのものにもならず、わたしの想いを受けて入れてくれるならば……。わたしと、永遠をともにあるならば、この世界で不可能な事はありません』
何を言っているのか相変わらず理解しがたい。
ミラノは、皮肉気に口角を上げ、小さな声で呟く。
『その……健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか──』
アルティノルドが顔を覗き込んでくる。
『何ですか? それは』
『……暗示の言葉……。でも、私の覚悟はまだ、足りていないみたい。返事が、出来ないもの。──いいわ、始めましょう』
ミラノは肩をすくめ、さらりと言った。
『……返事もその内、出来るようになるわ』
ここまで珍妙な“片想い”をされたのは初めてだったが、付き合うしかない。
それで、失われたものが戻ってくるのならば。“価値”を得られるのならば。
死を受け入れ、“山下未来希”である事も捨て、彼らの言う名無しの“はじめの人”になるだけで、王都が、彼らが戻ってくるというのだから。
──奇跡の代償が私の存在ひとつで済むのなら、随分と安いわ。
王都を半眼で見下ろしていたミラノの視界を、黒い翼が遮った。
化け物の姿をした元“天使”、レイムラースだ。
顔を上げると、目があった。
『その前に、確認したい事がある。今はまだ人間のままだろう? 早く“はじめの人”として、降臨して頂きたい。“はじめの人”……いや──』
レイムラースの丸く大きな目が、ぎょろりとミラノの黒い瞳を見下ろした。
『──アルティノルドの召喚主……はじまりの召喚士たる“神”として』
ミラノは表情を変えず、レイムラースを見る。
目的を達成するまで、レイムラースに邪魔をされるわけにはいかない。適度に相手をし、適切にあしらっておかなければ。
『そうだったわね。あなたは、世界の不公平な現状を“神”は修正すべきだ──と、主張していたものね。私がその“神”だと言うけれど、相変わらず“山下未来希”。それでは、あなたの望みは叶わない、そういう事ね」
『その通り。早く“はじめの人”として自覚をして頂かなくては。その“罪”を、思い出して頂かなくては』
人違いだと訂正をしたってこいつらは聞かないだろうが、トライ位はしておいた方が良かったのかもしれないと、ミラノは後悔をする。
『……罪といわれても……』
思い当たる罪は、彼らの言うものではないだろう。
『アルティノルドも責め問うたらどうだ』
ミラノはアリティノルドを見る。
アルティノルドには相変わらず表情が無い。レイムラースの面も化け物なので、ミラノが一番情感豊かに見えてしまう。眉をほんの少しひそめたミラノを見て、アルティノルドは『そんな悲しそうな顔はしないでください』と言った。悲しいのではなく、目的以外の事が面倒臭いだけだ。
『──随分と昔の話です』
アルティノルドはそう前置きした。
『水晶の形が一番楽なので、それでどこともない空間を浮遊して、暇を持て余していました。その頃のわたしには、わたしたる根拠も何も無い、ただの岩であったかもしれません。そこへ、あなたが、降りてきました』
『私……? いえ、“はじめの人”?』
『ええ。覚えてらっしゃらないのですか?……長すぎる時を挟みましたから、仕方が無いのでしょうか。“あなた”は、両手を上げて言いました──さぁ、私と一緒に楽しい事をしよう!……と』
それは、創世神話アルティノルド叙事詩の冒頭の部分になる。
『“あなた”は、わたしに世界を創る能力があるとわかると、あれこれどうこう、これこれこんな世界を創ってみないかとわたしに持ちかけ、わたしも暇でしたから、言われるまま、創り上げました。“あなた”は遊び心の塊のような人で、次々と案をだし、わたしが何を創っても目をキラキラと輝かせ、両手を叩いて喜んでくれました。そうして出来たのが、この世界です』
偉大な創世神話のはずだが、親バカと幼児の光景しか脳裏に浮かんでこない。ミラノは水を差すようなマネはせず、黙って頷いた。
『ところが……出会って7日経った頃、“あなた”は忽然と姿を消してしまいました。わたしと、2人で生み出した世界を、遺して──』
ミラノは目を逸らす。
7日。その“はじめの人”……人間もまたどこからか迷い込み、本体が死にでもしたか、あるいは察して慌てて元の世界へかえったのかもしれない。
『今も、はっきりと覚えています。最後に、この世界の理を、遺されました。戻ってくる為のものだと、おっしゃっいました。──この世界の理……召喚の理を』
『召喚の理?』
アルティノルドは語った。
ある日“はじめの人”が──今ではクーニッドの大岩と呼ばれるアルティノルドの化身──大水晶の上に降り立ち、共に世界を創造した日々を。
『──名前が無いなんて不便、そうね……アルティノルド! あなたは今からアルティノルドよ!』
アルティノルドという名も、その時発生したのだ。
だが、世界のあらかたが出来、生物も大小様々な獣を次々と生み出した後。6日目──“はじめの人”は言った。
『そろそろかえらなくてはならないと思う』
自我と言える自我も無く、ただ空っぽだった水晶には既に心が宿っていた。そこは、“はじめの人”で埋め尽くされていた。突然の別れに、アルティノルドは抗した。
『わかってるわよぅ。私もまだまだ楽しみたい事があるの。でも、もうかえらなくては。だから、また、私がここへ来る為の“理”を創っておきましょう? アルティノルド』
そうして、最後の種、“はじめの人”を模した人間が創られた。
“はじめの人”は、召喚の儀式を幾度も練習しているうちに、アルティノルドの元へ飛んでしまったのだという。“逆召喚”をしてしまったのだと告げた。
魔法陣からどこかの何かを喚び出すのではなく、自分が飛んでしまったと。
はじまりは、偶然だった。だが、次なる必然を“はじめの人”は望んだ。“はじめの人”は、自力でこの世界へ渡る事が出来なくても、召喚してもらえる理があれば良いと考えたのだ。 そして生まれたのが、“召喚の理”。
世界を埋め尽くすアルティノルドの力によって成り立つ、召喚術。全ての人間──召喚士に使うことを許された力。
たった一度、偶然成功した“はじめの人”の逆召喚の能力を、反転させて確かな召喚術とし、アルティノルドは人間に植え込んだ。
アルティノルドらに勘違いをされた理由になる。この世界の召喚士達の召喚術と、ミラノの使う召喚術には違いがあった。その際たるものが逆召喚の能力。これが“はじめの人”と同質のものだった。
『わたしは“はじめの人”のかえりを待っていました。毎日ここへ来る為の“逆召喚”を試すと、“あなた”はおっしゃいましたし。わたしには、創造と再生の力しかありませんから、この世界に生まれる人間の召喚士に、召喚させるしかなかった。重要なのは、目標を“はじめの人”と定めて召喚する事が出来る召喚士。すなわち、“あなた”ともこの“わたし”とも同調出来る召喚士の出現が、必要不可欠でした』
『……それが、パールだったと? だけど、私はやっぱり“はじめの人”ではないわ』
何億年も前の話をされて、ピンとくるわけがない。さっさと人違いを認定してもらわなければと、ミラノは言ったが、アルティノルドの方は珍しく変化を見せた。厳しい顔をしたのだ。
『…………いえ……あなたはわたしの“はじめの人”です。この世界を創造したわたし、アルティノルドが全てを許すのは“はじめの人”以外、無いのだから。わたしが、“あなた”を、間違える事は無いのだから』
アルティノルドは、顔の部位を別々に動かし、不器用な微笑みを浮かべた。
『この世界の“召喚の理”を自在に、かつ“新たな理を生みながら”操れるのは、“はじめの人”たる“あなた”だけなのです』
『………………』
ミラノは俯いた。
『……うーん、人間の姿にはどうにも、表情というむつかしいものがありますね、まだ慣れません』
アルティノルドは、ぐにぐにと目や眉、口を左右非対称に動かし、不気味な表情をしている。とぼけた様子に見えるが、今、重要な事を言われた気がする。
今まで“やれば出来た”事は全て、誰もがあり得ないと口を揃えた。誰も見たことのない前代未聞の召喚術と言われたのも、“はじめの人”と同格であったせいだ。
だがミラノには、“山下未来希”と“はじめの人”をイコールで結ぶ事がどうしても出来ない。
27年生きた記憶と経験しか身の内に無いから、当たり前と言えば当たり前である。
だのに、レイムラースは“はじめの人”の“罪”を思い出せと言う。その上で世界を“修正”しろと言う。
──……それは、ずっと後でもいいわ。
ミラノはひっそりと考え巡らす。
“はじめの人”とやらにしか出来ないのならば、なるしかない。アルティノルドを受け入れろというなら、黙従するしかない。“山下未来希”として成し遂げたい事を、達成する為に。
アルティノルドは、“なる”だとか“ならない”の問題ではなく、既にそうだと言うかもしれない。
ミラノは改めて、心を決める。
失われてしまった人達の、ネフィリムの、シュナヴィッツの姿が脳裏に蘇る。
黒い煙に包まれる眼下の王都が、現実を突きつけてくる。
それは、足が止まってしまいそうな程、体が凍り付いてしまいそうな程の絶望。あまりに悲しい出来事だ。己の存在──名前に与えられた意味、未来の希望などとよくぞ言うたものと、脱力と共にすべてを否定する誘惑に負けそうになる。だが、ミラノは受け入れた。残酷な現実を見つめ、絶望を飲み込んだ故に、アルティノルドの囁きはあまりにも眩しい光を放って見えた。
胸の奥底で渦巻く諦めと期待はないまぜになって、ミラノの信念さえへし折った。
自分自身であるというミラノのアイデンティティは歪み、自分を捨てるという覚悟を、考える隙なく強いた。