(114)“はじめの人”(2)
(2)
ミラノは息を吸い込み、両腕を回してこちらの足に抱きついているパールフェリカを見下ろした。
「パール」
ぐすぐすと、彼女は上を向く。ミラノは片膝を折ってしゃがむと、目線をあわせた。そうして、はっきりとした口調で言う。
「こんなにも、犠牲が出ているの。私が、この世界へ来た事で、少しずつ動いていたレイムラースは、一気に行動を起こしたそうよ……」
「…………」
ぼんやりと、パールフェリカはミラノの瞳の奥を覗き込んでいる。
ミラノは、ちらりとレイムラースを見た。促されるようにパールフェリカもそちらを見たが、体をびくりと揺らし、再びすがるようにミラノを見上げる。ミラノは、震える蒼い瞳と目を合わせた。
「レイムラースは、人間の殲滅と大地すべてを獣のものにしたかった、そうよ。そうする事で“神”も戻ってくるはずだとアルティノルドに詰め寄っていた。結局、アルティノルドは力を貸してしまった……」
『わたしは力を貸すつもりは無かったのです、本当ですよ? ただ、あなたの召喚術で、気が動転してしまった──舞い上がってしまったというか……』
アルティノルドは指先を揃えた手でパールフェリカを指す。その手に気付き、パールフェリカは視線を持ち上げ、アルティノルドの顔を見た。
『まさか本当に、“人間”が“はじめの人”を召還してしまうなんて、考えもしなかったから』
「………………どういう……意味?」
この白い服の男がアルティノルドなのだろうかと、パールフェリカはまずそこから把握していない。“アルティノルド”とは“神”で、先ほど飛来した大クリスタルこそそれにあたるのではないか、と。混乱したままの頭では、うまくピースとピースが繋がらない。
「……“はじめの人”?」
アルティノルド叙事詩の冒頭に、唯一出てくる存在だ。彼の手が示す先の者が、“人間”を指すならば、“はじめの人”を召還したのは、パールフェリカ本人だという事になってくる。ならば、“はじめの人”は、ミラノだという事になりはしないか。
考えながら、パールフェリカの涙は止まらなかった。彼らの言う事が、まだ、どうでも良い事に感じられたせいだ。
ミラノも、この白い服を着た男も、パールフェリカには何を言っているのか理解しきれない。また、それほど理解したいとも願っていない。
パールフェリカはもう一度ミラノを見た。
「私は“山下未来希”であって、“はじめの人”とかいう存在でない事は確かだけど、それを勘違いの一言で片付けてしまうには、事が大きくなりすぎたの」
そしてミラノは、先ほど言った言葉をなぞるようにもう一度「こんなにも犠牲が出ているの」と言った。
「──召喚された私を、アルティノルドは“はじめの人”だと思ったみたいなのだけど、これを勘違いだと、もう言えないの。だから、私は“はじめの人”というものでなければ、ならなくなった……」
「……わからない」
その理屈はわからない。パールフェリカは首を横に振った。無表情にも見える顔をしたミラノの気持ちを、パールフェリカはちゃんとわかる。彼女は酷く、悲嘆にくれているのだ。そんなにも苦しそうに、何を言うのだろうか。
「アルティノルドさえ力を貸さなければ、“神の召喚獣”さえ介入していなければ、こんなにも大事にはならなかったと思うわ。レイムラースも結局影でこそこそと暗躍するだけだったんじゃないかしら」
人間の冒険者組織“飛槍”を支配し取り込み、あくまでモンスターらの力で人間の大陸“アーティア”へ襲撃しようとしていた。そもそもモンスターは人よりも強い、それは確かだ。“神”の介入は必要無かった。だが、ミラノがこの世界に召喚されてきた。それを“はじめの人”と思い、アルティノルドは動揺し、探し出す為の手先として“神の召喚獣”リヴァイアサンを放ってしまった。
「私が何であれ、ここに来た事で沢山の犠牲が出てしまったのは、事実なの。こうなってくると、私が何をしたというわけではないけれど、存在そのものが……“罪悪”のように感じる……。私の存在が招いた結果ならば、私はその責任を取る必要がある」
ミラノはさらに「こんなにも、犠牲が出ているのよ」と言った。4度目のこの言葉は、涙の代わり──語尾が潤み歪んでいた。
犠牲……“神”の為に捧げられた“生け贄”はあまりに多く、ミラノの思考を停滞させている。
こぎざみに震える息を長く吐き出して、だが次に発する声はもう、背筋の伸びたものに変わっている。
「私は、この先、楽をしてはいけないわ。楽しんでは、いけないの」
ミラノは一体、さっきから何を言っているのだろう。
「そんな事ないわ! 生き残ったら、生き残ったのなら、生きられなかった人達の分まで、その人達が得るはずだった分まで、幸せを見つけなきゃ、生きなきゃいけないわよ!」
パールフェリカは正面にしゃがんでいるミラノの上着を掴んだ。
ミラノはその手を見下ろしてから、パールフェリカの蒼い瞳を覗き込む。そこに映る自分へ、告げる。
「無理だわ」
──歯止めがかかるもの。
パールフェリカの瞳の中に居る己へ語りかける。暗示のように。
「こんな私は、自分から楽しんではいけないの。また、罪を重ねる……」
──たまたまパールフェリカによって召喚されてきたにすぎないが、アルティノルドには“はじめの人”を扱いされている。“神の召喚獣”がミラノを求め暴れ、レイムラースもまた“はじめの人”をあぶりだすのにガミカを襲った。このような現実ならば、“はじめの人”とやらを盛大に恨んでもいいのだろうけれど……いや、あまりに運が悪かったのか。
そこまで考えて、ミラノは目を伏せた。
自分の問題を、他の誰かや何かのせいにしようとしている。
ミラノはひっそりと誰からも目を逸らした。それらは、許さない。
誰のせいにもしない、この結末は自分の選び続けた過去の、その延長線上にある。自分の選んだ、結末だ。
「何が!? どこが!? 居るだけで罪って何!? 仕方なかったんでしょう!? ミラノ! おかしいわよ! それはミラノじゃないでしょ?? ミラノ、自分の事じゃないでしょう!?」
ミラノの上着を、パールフェリカはぐいぐいと引っ張る。言葉が通じない事に、苛立ちを覚えているのだ。
「事実、私が居る事で招いた結果、もう過去なの。既に動かし難い、起こってしまった出来事なの。それが示すのよ。私が幸せを得ようだなんて、思ったらいけないの」
目を伏せて言うミラノを、パールフェリカはまじまじと見た。愕然とするしかない。
ミラノは今、“自分”を見失っている。目を逸らしている。手放すことを、決めている。
あれだけ“今の自分”というものをパールフェリカに説いたミラノが、“自分”というものを否定する事を選んでいる。それがわかる。確かに、今のミラノはミラノと言えない。
正直なところ、頭を整理しきれていないパールフェリカには、ミラノの言っている事の多くがわからない。
ミラノは“はじめの人”というものに、なろうとしている。
これだけ酷い事を引き起こした彼らに、“はじめの人”たる事を望まれて、受け入れている。ガミカに来て沢山の命を奪い、物を壊したのは彼らなのに、それを自分のせいだと言っている。
ミラノが来た事で起こってしまったのだと思い込んで、罪の意識を感じている。ミラノではなく“はじめの人”だと勘違いされての事なのに、自分自身の事じゃないとわかっていながら、犠牲の大きさを前に、自分を見失っている。
被害を引き起こした元凶として、その罪を、自分のものにしようとしている。
一番初めは──そうじゃない。
ミラノをこの世界に召喚したのは、パールフェリカだ。だが、ミラノはパールフェリカのせいにしない。誰のせいにもしない。その代わり、自分を責める。
「ミラノ、私のせい──」
「ちがうわ。たとえあなたがきっかけでも、それは私にとっては“仕方のない”事なの。私は私の意志で生き、私は自分で取り戻す必要があった。この場合は、アルティノルドやレイムラースに“召喚された事”に気付かれる前に、さっさとかえるべきだった。それが出来なかったのだから、私に力が足りなかっただけ。やっぱりこの“今”を招いてしまったのは、私なのよ」
知りようなんて無い事だった、これだけの事が起こったから、レイムラースだとかアルティノルドだとかが動いているとわかったようなもの。召喚されてきたばかりの時に、ミラノはもちろん、召喚をしたパールフェリカにも、誰にも何もどうしようもなかった事だ。
ミラノのせいでも、誰のせいでもない。
「でもミラ──」
「でもパール」
パールフェリカの声にかぶせるミラノの語調は強い。押されて顎を引いたが、それでもパールフェリカはミラノを見つめる。
「……」
「自分の招いた結果で誰かがつらい、大変な目にあうのを、ましてや死んでしまうだなんて、私は見過ごす事が出来ない」
ミラノの黒い瞳を見つめたまま、パールフェリカの両の眼にまた、涙が溢れた。なぜ、涙がこぼれるのか、わかる。
ミラノの決断が悲しいのだ。彼女の強さを、心から「可哀想だ」と思う。
あまりにも強すぎて、自分を護る事が出来ないのだ。決めた事に、目指すものに手を伸ばす為に、自分の価値を作り上げる為に、自分を犠牲にする事にも耐えられる程の強さが、ミラノにはある。パールフェリカにはそれが可哀想でならない。犠牲にしている“自分”から、あえて目を背けている。今、ミラノは遥か高みにある価値を目指して、“今の自分”を捨てているのだ。
──逃げたらいいのに。逃げてもいいのに。逃げてくれたらいいのに。もっと、自分の事だけを考えて、卑怯になってくれたらいいのに!
伝えなくてはならないのに、今のミラノにはどんな言葉も通じない気がした。ミラノはそれほど頑なに、自分であろうとする。自分である為に、自分を捨てる覚悟をしている。パールフェリカにはそれを否定するだけの言葉が、積み重ねたものが無くて、言い表す事が出来ない。
だからただ、涙をこぼして何度もその名を呼ぶ。
「ミラ……ノ……ミラノ……」
ふっと、ミラノが微笑んだ。
「私は、だから、取り戻すの。こんな状況になってもまだ、間に合うと言うから。パール、あなたにももう、負担をかけずに済むと言うから。アルティノルドは出来ると、言うから」
ミラノは一瞬目を細め、真面目な顔つきに戻った。
「私が、“はじめの人”という、“神”になれば──」
パールフェリカは瞬きをした。
ミラノがもう、“神”という高みを覚悟していた事は、わかっていた。パールフェリカが気付いたのはそれではない。考えて答えが出たというより、ぴんと来た。
ミラノは、パールフェリカとの間の、召喚士と召喚獣としての“絆”をも、絶つつもりだ。負担をかけないとは、そういう意味だ。
パールフェリカが召喚をした、返還できるのもパールフェリカだけなのだ。それを中途半端に断とうとしている。そんな事をすれば、ミラノはかえる道を完全に失ってしまう。もっと言えば、ミラノが、本当に死んでしまうという事だ。かえらなければ、体に戻れず、待っているのは死のみ。
自分であろうとし、自分の価値を高めようとしているのに、高みに届く瞬間に、全部捨てるという事だ。自分らしくある事を望みながら、己からミラノでなくなるという意味だ。
「ミラノ、それは……! だめよ!!」
上着にしがみ付くパールフェリカからミラノは顔を逸らし、ぐいと肩を動かして払いのけ、立ち上がった。
「ミラノ!!」
「……アルティノルド」
名を呼ばれ、アルティノルドは静かに膝をつき、ミラノの正面に手を差し伸べた。そこへ、女性の手が、指先を揃えて置かれた。それは半透明で、あちらが透けて見える。いわゆる“霊”のもの。
無くなったはずのミラノの肩の付け根から、それは生まれていた。
アルティノルドの手とミラノの手が触れ、そこから立体構造を輪切りにするように光が走った。軌跡の後のミラノの体は、半透明へと薄く変わった。パールフェリカが用意したこの国の衣装から、再びグレーのスーツ姿で、結い上げた髪留めも元に戻った。
半透明の姿となったミラノの足元に、血塗れた衣服と装飾具が音をたてて落ちた。
──パールフェリカは、がくりと肩を落とし、息を吐き出した。
パールフェリカの召喚術によってミラノに与えられていた実体は、消え去ったらしい。パールフェリカがミラノを召喚していた術は今、“神”アルティノルドの手によって強制的に解かれたようだ。何しろ、パールフェリカにしても、過去を照らしても、いずれの召喚士も経験した事のない、断絶だ。
パールフェリカの身には、言葉にし難い喪失感が頭の天辺からつま先まで駆け抜けた。体の表面を縦割りにストンと包丁で2分割されたような、あまりにあっさりとした感覚で切り離され、剥き出しになったところへ薄ら寒い冷気が吹きつけてきているようで、吐き気さえした。
『これで“絆”もきれました』
アルティノルドの言葉に、出会った時と同じスーツ姿のミラノがしっかりと頷いた。異なるのは、半透明になってしまったという点。
呆然と口を半開きにしているパールフェリカをミラノは見下ろした。
『さよなら』
それらを、パールフェリカはとても遠い出来事のように見ていた。時間にして10秒以上、頭の中が完全に空っぽになって、身動き一つ取れなくなっていた。
そうして、頭の端っこの方から、少しずつ力が戻り始める。
「……なんで? なんで!? なんで!? 召喚士と召喚獣の“絆”…………なんで消えるの!?」
そんな理屈は知らない。聞いた事がない。誰も教えてくれていない。
顔を上げたが、そこにもうミラノは居なかった。
「やだ……ミラノ……ミラノ……!」
ネフィリムの体から膝を引き抜き、飛び去ったミラノ、アルティノルド、レイムラースを、屋上の柵まで追いかけた。足に、ついさっきまでミラノが身につけていた白銀のアクセサリーが絡まった。つま先を振って蹴飛ばした。外れてくれないのが、あまりにも悔しい。こんなもの──。
ミラノと“神”と“堕天使”は、空の向こうに飛び去ってしまっていた。彼らが見えなくなると、柵に両手を付き、そこに額を当てた。視界には、ネフィリムの血に濡れたズボンと、つま先から取り払いきれていない、シュナヴィッツの血が絡みついたアクセサリーがある。腹の底から込み上げてくるものがあって、うっと呻いた。
「私の……せい……私のせいだ……なのに、私だけが、私だけが、一人生き残って…………」
脳裏に、まるで耳元で囁かれているかのように、声が蘇る。
──自分に価値を与えたいなら、そこでどういう態度を取る人に自分が価値を感じるか、考えなさい。
パールフェリカは全ての動きを止めた。
奥歯をぐっと噛み締めた時、涙は根っこから止まった。
「……“今”……私が……!」
小さな声で呟いて、勢いよく振り返った。
屋上中央に残っている闇色の扉を、そこに写る、もう動かなくなったミラノの本体を、見た。