(110)罪悪(1)
(1)
それが姿を見せたという事は、まさに驚天動地、世界中の人々が肝を潰しそうな出来事なのだ。
“アルティノルド”は、この世界の“神”だ。
アルティノルド叙事詩など、数々の神話からなる創世物語によって、人々に浸透している。召喚術の根源は、アルティノルドにある。召喚士の住む世界で、それを信奉しない者はない。
アルティノルドと名乗って神を騙ったなら、処刑されて終わる。“神”は死という概念の外にあると言われている。殺してみれば良いのだが、処刑された者は皆死んだ。人間だったのだ。
結局、降臨したという記録は1つも無い。
今、シュナヴィッツとミラノの前に居るこの男は、クーニッドから飛んで来た大岩、“アルティノルド”の突端と言われる大クリスタルの中から、現れた。それも、形無き光として現れてから、人の形を取った。今も、光の粒がその白い姿の端々からこぼれ落ち、宙を浮き沈みしながら、きらきらと輝いている。七色の光が、人の姿になってもじわじわと染み出しているのだ。輝きは、溢れて止められない、そのように見受けられた。
神々しい姿というものを、初めて目の当たりにした。シュナヴィッツは、兄ネフィリムがここに居たならばどうしただろうと、妙な方向に思考が飛んでしまいかねなかった。それを現実に引き戻したのは、アルティノルドの目だ。
表情は、筋肉の使い方をまるで知らないかのように無表情だが、その目はじっとミラノを見つめている。
相手が“神”だとわかっているのに、眉間にぎゅっと皺を寄せて睨んでしまった。何だこいつ、としか考えられなかったのである。
アルティノルドは、白く艶やかな肌をしている。それに皺を作る事もなく、薄桃色の唇を動かす。
『あなたが我々を置いていかれた時は、必ず戻って来てくださると信じていました』
2人の正面に居たアルティノルドだが、さらに一歩足をすいと進め、ミラノの正面に立った。“あなた”と言う際には、そっと右手を動かして、ミラノを示して見せた。
『ですが、いつまで経ってもあなたは戻られなかった。季節が、一つ、十、百、千、万、億を巡っても……』
思い返しているらしく、一瞬動きが止まる。だがすぐにまた、その口は開く。
『──幾度巡っても、あなたは戻られなかった』
ミラノは溜め息を堪えて、目を伏せた。意味が全然わからない。
十の季節とやらまでは許容できても、百も千もの季節、つまり百年も千年も待たれる事はあり得ない。いくら適齢期を過ぎているとはいえ、ミラノはまだ27歳だ。百何歳やら何万歳やら、想像を遥かに超えた年数は生きていない。そんなに生きられるか、とミラノは表情を変える事なく心の内で呟いている。
なぜなら、アルティノルドはこちらが口を挟む間も無い程、無表情のまま、声にも感情無く、延々と喋り続けているからだ。
『不思議な事に、待ちわびる気持ちというものは、萎みません。これはとても大きな発見でもありました。だってそうでしょう? それだけ私の力が増すという事なのだから。この想いは、ゆっくりと、しかし確実に、深く大きくなるばかりでした』
アルティノルドは、ずい、ずいと近寄って、ミラノの半歩前、シュナヴィッツの真横まで来た。
『あなたに焦がれ、あなただけを想ってきました。これからも日々募る想いをあなたに……その傍らで伝え続けたい。お慕い申し上げております』
「………………」
「………………」
ミラノは息を吐いた。
どうやらただの愛の告白のようだ。しかも、間違いなく人違い。
別次元の誰かと、勘違いしているのだろう。この“アルティノルド”とかいう光から人の姿に形を変えた、自分以上に正体不明のこの男は、どこをどう切り取ってみても、変人、いや、人とさえ思えない。変だ。
アルティノルドは一つ息を飲み込み、さらにミラノをうっとりと見つめた。
傾げたままの首を、ミラノは元に戻した。隣のシュナヴィッツは、男──“神”アルティノルドに顔を向けたまま、凍りついている。
ようやっと一言発することが出来そうだ。
やり取りも面倒なので、人違いを訂正するよりもさっさとフッた方が早そうだ。ミラノも、アルティノルドに負けぬ無表情かつ、淡々とした声で言う。
「私はあなたが何を言っているのかわからないわ。今、初めて会ったばかりだと思うの。アルティノルド……さん? 申し訳無いけれど、あなたの気持ちには応えられないわ」
こういう断り方は、ミラノにとって初めてではない。いつも通りの台詞。ある日突然、知らない男に『ずっと前から好きでした!』と言われるのは、学生の頃によくあった。
アルティノルドは無表情のまま、誰も居ない方を向いた。
『………………』
「………………」
「………………」
しばし間を空けて、アルティノルドは再びミラノを見た。
『……そうですか、あなたのおっしゃりたい事はよくわかりました。それで、人間の言葉で誤り無く言うと、ですね──』
アルティノルドは、丁寧にミラノへ右手を差し向けた。
『──つまり、わたしは、あなたが、好きです』
「……いえ…………あなたのおっしゃりたい事も、私には通じています。区切って、砕いて言って頂かなくても結構です」
ミラノは顎を上げて、しっかりとアルティノルドの黒い瞳を見て続ける。
「私は今、誰に対しても、好きという感情を、持てません」
ミラノの言う“好き”という言葉は、恋愛感情としての意味だ。ミラノは、シュナヴィッツの頬がひくりと動いているのを、視界の端に捕らえていたが、ややこしくなるだけなので無視を決め込んだ。
『……そうですか……ですが、わたしの好きという気持ちは、変わらないのですが、ご理解頂けますか』
「……ええ……理解しました。私がその気持ちに応えられないというのは、理解してもらえていますか?」
『…………え?』
「…………ですから、私はあなたの気持ちに、応えられません」
『…………え……え?』
「………………」
アルティノルドは、うまく聞き取れなかったと言わんばかりに問い返してくる。ミラノに向けられていた右手は、少し下げた頭の、耳の後ろへ回されている。
ミラノは無表情のまま、そっと目を逸らした。
このリアクションは、初めてだ。何の会話を、どういった話をしていたのか、よくわからなくなってきた。
何と言って帰ってもらおうか。ミラノは、一刻も早く、パールフェリカが居るであろう屋上へ行かなければならない。こんなところで遊んでいる暇は無いのだ。そんな事を考えていると、アルティノルドが、やはり無表情のまま、叫ぶ。
『ああっ、うるさい!!』
大声に、ミラノもシュナヴィッツもつい、きょとんとアルティノルドを見上げた。
『これは、驚かせてすいません。どうにもレイムラースがうるさい。こっちへ来い来い、わたしを何だと思っているのだか。親に向かってあの口の利きようときたら、長男のくせにわがままで、しかも反抗的で困ります。最近など容姿まで変わって不良にでもなるつもりなのだか。少しお待ちください。レイムもあなたに用があるとは言っていましたが……わたしが先に会って来ますね』
白い燕尾服の男──アルティノルドは、地を軽くトンと蹴り、少し飛び上がった辺りでしゅっと消えた。
「………………」
「………………」
その消えた辺りを、ミラノもシュナヴィッツもただじっと見る事しか出来なかった。今のは一体何だったのか、と。
「あの……今の人について、何かご存知ですか?」
ミラノの問いに、シュナヴィッツはついと視線を逸らした。
「いや、人ではない。この世界の、唯一絶対の“神”だと、教わった。世界そのものであり、その力で世界は満たされ、召喚術は成り立っていると……」
「…………それ、本当ですか」
ただの、いや、変なナンパ男ではないのか。
「いや……僕も少し、自信が無くなりそうだ」
ミラノはこの“世界”とやらが、ひどく胡散臭いものに思えてきた。




