(109)アルティノルド(3)
(3)
暗かった視界に、薄ぼんやりと光が差す。それが自分の瞬きで起こっていると把握して、ようやっと目を覚ました。
パールフェリカは気だるく首を持ち上げて、周囲を見渡す。すぐに、嗅いだ覚えのある臭いが鼻をついた。
──……血だ。
頭の芯がぼやけていた事もあり、何気無しに臭いのする方を見て、パールフェリカは喉の奥から悲鳴を上げた。
見下ろした先にあったのは、目を見開いた状態でこちらを向いたアルフォリスの首だった。
あちこちに腕やら足やらが落ちている事に気付き、それがアルフォリスの死体だとわかると、再び意識が暗転するままに任せようとした。
「パール!」
その意識を呼び戻す声は、聞き馴染んだ、低音ながらはっきりした奥行きのある声。
慌てて視界を回して、パールフェリカは兄ネフィリムの姿を認める。
「に、にいさま! にいさまぁ!」
もぞもぞと体を捻ってなんとか片手を引っ張り出すと、その腕を兄に伸ばす。5歩は離れているのでパールフェリカが腕を伸ばしたところで届かない。
そのパールフェリカを、化け物はぐいと自分の顔の横にひっぱりあげた。パールフェリカの頬に、ちくちくと梟の羽毛が刺さる。柔らかくない。人の髭より硬そうだ。
『娘、聞こえるか』
「…………え?……」
軽く片腕で引き寄せられており、腰が化け物の肩に乗るような形だ。足はぷらんぷらんとぶら下がる。
間近で見る化け物の目は大きかった。手の甲程の大きさはありそうだ。その丸い両目が、パールフェリカを睨む。
『アルティノルドの声だ』
「……へ?…………アルティノルドって……“神”様……」
声が聞こえるかと言われてピンとくるものはあるが、今は聞こえない。それが“神”の声だったのだとしたら、自分はなんてものを聞いていたのだろうと、驚いた。同時に、畏れを感じた。
化け物は、黙して考え込むパールフェリカを毛深い獣の両手で包み込む。パールフェリカの横っ腹を、肉球らしきふかふかした皮膚が軽く圧迫する。
そのまま両腕を持ち上げ、化け物はパールフェリカを掲げる。
「え!? ちょ!? や! 離して! 離してったら!!」
じたばたと両手両足を動かして、化け物の腕をがつんがつん殴るがびくともしない。化け物はネフィリムに背を向け、黒い6枚の翼を一度しならせると、聖火台まで飛び、そこへゆっくりと、パールフェリカを降ろした。
「離して!! 降ろして!! 降ろ……?」
すとんと、1人、聖火台の上に立つと、パールフェリカは化け物の丸い目を見下ろす。
感情は一切読めない。真っ直ぐに横に長い口元は蛇のそれで、薄く開いている。びっしりと生える細かな歯の間から、白い息が漏れているのが見えだけた。
ぽかんと見下ろすパールフェリカから手を離し、化け物は聖火台の側面をトンと蹴って、屋上へ着地をする。
それは、駆け出そうとしたネフィリムの正面。
『邪魔だと言った』
丸い目で見下ろされ、ネフィリムは前へ出しかけていた足を戻した。化け物の黒い6枚の翼は、ネフィリムの頭上、全身を覆うように大きく広げらる。視界はぐっと陰り、暗くなった。
翼の先端の爪は、瞬きの間でも、ネフィリムの体を容易に貫く事が出来そうだ。
ネフィリムは直立の姿勢で、肩を下げ、首を小さく左右に振った。
「邪魔はしない。妹を返してくれれば、何もするつもりはない」
今、目の前に居るこの化け物は、あまりにも危険だと感じる。
人間の使う召喚術をあっさりと封じて、それを“闇のシェムナイルも出来る事”と言った。七大天使級の、神の遣いか何かである可能性が出てきた。
『“神”の召還さえ済めば用は無い』
化け物はそう言って、パールフェリカを見上げる。
『娘、アルティノルドの声は聞こえるか。こちらへ向かっているはずだ』
パールフェリカは、城の中でも一番高い場所にある聖火台の上に、1人立たされ、熱気と煙の臭いの混じる風を全身に受けている。
1人になって、思い至った。
自分の召喚した召喚獣であるミラノとの“絆”が、感じられない。召喚したばかりの日、ワイバーンの襲撃が終わった後の、召喚が完全に途絶えていた時のように。
震える両手を胸元へ寄せて、擦り合わせた。ミラノが触れてくれたこの手を合わせると、それだけで思い出す事が出来る。
“絆”でその存在を感じられなくても、ついさっき握ってくれた手の感触は、残っている。
パールフェリカは下唇を噛んで、震える手で涙を拭う。せっせと拭っている間に手の震えは収まった。
なんで、いつの間に、泣いてしまったのか、それは相変わらずわからない。だけど、止められる。しゃくりあげそうな喉の奥を、眉間に皺を寄せながら押し込む。
「ちょっと待って! 今、耳、澄ますから!」
パールフェリカは化け物に叫び、王都を見下ろす。
「あ!」
リヴァイアサンが、ベヒモスとの揉み合いに滑って巨体を半回転させながら城下町へ倒れ込んでくるところだった。
その巨体が大地に激突して大きな振動が押し寄せてくるかと思われた寸前、七色の魔法陣が割り込む。
「……ミラノ……!」
リヴァイアサンは、その七色の魔法陣に吸い込まれ、姿を消した。
──ミラノがどこかに居る……!
“絆”から伝わる気配は途絶えたままだが、あんな魔法陣を生み出せるのはミラノしか居ない。どこかで、護ってくれている。
七色の魔法陣は移動をすると、ベヒモスとジズも取り込んで、消えた。
パールフェリカは2度瞬きすると、鼻で深く息を吸い込んで、呼吸を落ち着かせた。
「……あなたは、すごいわ」
両手を耳の後ろに当てた。
──今、私に選択出来る事。
アルフォリスが、酷い状態で倒れていた。やったのはあの化け物だ。エステリオもアレに殺された。今、兄ネフィリムがその腕の内にある。
言う事を聞いて、どうなるのかは知らない。
わけがわからない事ばかり。
突然の事ばかり。
「……だけどミラノ、あなたはそれでも平然と、立っていたわね」
異世界からいきなり召喚して“うさぎのぬいぐるみ”に放り込んだ。ミラノは動揺を見せる様子も無く、端然と振る舞って見せた。
今もきっと、ミラノの方がわけがわからないだろう。それでも、王都を護る為に召喚術を使ってくれている。
“絆”が途切れた今、パールフェリカから“召喚士の力”は抜けていかない。ミラノが今、与えられていた実体を代償に魔法陣を展開しているという事までは、パールフェリカにはわからない。だが、ミラノがどうにかして力を振るってくれているのだと、察する事は出来た。
だから、すごいと思える。右も左もわからないはずのこの世界で、次々とやってのける、誰も出来ない事。はじめての事。それがミラノの選んだ価値なのだ、と感じる。自分にはそこまでの事は出来ないかもしれない、だけど──。
少しずつ落ち着き、考えが答えを見出すと、頭の中のもやは消えていった。
エステリオの、アルフォリスの悲しい最期をついさっき、たった今見たというのに、淵が曇りかかっていた視界が開けて、平静な状態を取り戻していく。初めての不思議な感覚に戸惑いながら、パールフェリカは耳を澄ます。
──こちらに、おられたか──
シュナヴィッツの肩越しに、何か光るものがあった。
ミラノは右腕の肘で東の空を示す。ひゅわひゅわと、光を振りまきながらそれはこちらへ飛んでくる。
ミラノの動作に気付いて、シュナヴィッツは振り向いた。一瞬目を細めたが、すぐにはっとした。
「クリスタル……リディクディの言っていた、クーニッドの大岩だ。 ここまで来たのか……!」
上空に、肉眼でも確認出来る大きさで、濃紺の、光を受ければ白や透明に透ける巨大な縦長の岩が、何の力かどういう原理か、ひゅるひゅると飛んでくる。ゆるやかに、右回り左回りを繰り返して、こちらへ向かって来るようだ。
大岩は、きらきらとオレンジの炎の灯火を照り返しながら、シュナヴィッツとミラノの頭上を超え、この回廊へ降りてくる。
大きさは5,6階建ての建物1戸分。上下に細くなり、中央が1倍太い。その太い部分の周囲は、この回廊の幅を超える。
青と白の光を放ちながら、クーニッドの大岩、大クリスタルは、3階の回廊の床を破り、さらに2階の床をぶち抜き、1階の床へと深く突き刺さる。
回廊全体が轟音をたてて大きく揺らいだ。
3階に立っていたシュナヴィッツは、左腕と右腕の大半を無くしてバランスを保てないミラノに手を伸ばし、自分に引き寄せ、もう一方の手で刀を抜くと床に突き立て、堪えた。
2人の目の前に、クリスタルの1番太い、中心部分がある。そこまで突き刺さってやっと、大クリスタルは回廊を貫き、地を割るのを止め、動きを停止した。
水晶の中心奥で、白い光がゆらゆらと縦に揺らめきはじめる。それが少しずつ、こちらへ染み出てこようとしている。
揺れも収まり、シュナヴィッツはミラノの半歩前に出ると、床から刀を引き抜いた。
この大岩を過去に何度か、数日前もクーニッドの神殿で見た。だが、このような変化を見たのは初めてだ。
白い光は、水晶から溢れて出て来る。
大クリスタルの内側で、光の粒が時に跳ね、澄んだ音をたてる。
声が、響く。
光は、形を固めつつある。
『──人の形を取るのは、久しぶりです。それもこれも、ちゃんと言葉で伝えたくて──』
こちらへ近付いて来ながら、光は人の姿に変じる。
人の1.5倍程の大きさである点は、七大天使と共通する。雰囲気もまた、天使らと同様、厳粛な空気を辺りに払っている。
それは、真っ白の燕尾服のようなものを、着ていた。顔立ちは整いすぎる程に整っている。悪く言えば平均的な、しかしそれ故に美しい造形。
髪は今のミラノと同じ位の長さだが、やはり白。開いた瞼の奥の瞳だけが、黒色をしていた。
性別は中性的だが、男であろう事が体型でわかる。声も中性的というところより、少し低い程度だ。
ミラノの記憶している燕尾服というよりは、ごちゃごちゃとボタンや装飾、鋭角にカットされた生地が腰周りにぶら下がっていて、どこかやり過ぎたアレンジコスプレ衣装を想起させた。上衣の尻尾部分も床を引きずる程長い。
水晶の中から出てきた光が変化して人の形を取ったそれは、3歩、間を空けて止まり、シュナヴィッツの後ろに居るミラノを見下ろした。
「……あなたは?」
関わりたくないと少しだけ目線を泳がせた後、ミラノはそれを見上た。その問いに、全身白色に光る派手な燕尾服男は、真顔のまま答える。
『アルティノルド──あなたのつけた名です』
ミラノは何度か瞬きした後、首をゆっくりと傾げた。






