(108)アルティノルド(2)
(2)
シュナヴィッツの後ろを、ミラノは置いていかれまいと駆ける。片腕が無いだけで、こんなにも遅くなるなんて。バランスをうまく取れなくて、転ぶまいとするとスピードを落とすしかない。
ミラノは、はっとして足を止めた。
肩を上下させて息を整えながら、廊下の壁に触れる。
少し先で、シュナヴィッツが気付いて戻って来てくれる。鎧がガシャっと音をたてている。あれだけ重そうなものを身につけているのに、息をほとんど乱していない。ミラノはシュナヴィッツがこちらへ来るのを待ちながら、右手を廊下の壁にそっと当てる。手は開いたまま、中指で壁をなぞる。
「どうした?」
一歩の距離、隣に立ったシュナヴィッツをミラノは見上げる。
「今、何か聞こえた気がして……」
それは虫の知らせのように、心がざわりと波打つような感覚だった。確かな声とは言えず、説明が難しい。ミラノは壁に当てた手を見る。
「表が見たい、何か、大変な事が──」
シュナヴィッツは一つ頷いた。
「召喚したものからの知らせか? あっちから外が見える」
そう言ってシュナヴィッツは来た道を戻って行く。いくつか階段を降りた。
召喚したものからの知らせ、その言葉を聞いてミラノは、ネフィリムが“炎帝”が敵の臭いを嗅ぎ付けたと言っていた事を、思い出した。
その類のものなのだろうか。しかし、自分はパールフェリカの召喚獣のはず。だが同時に、自分も七大天使やベヒモスを召喚してしまった。慌しい状況であるので考えないようにしているが、やはり“正体不明の存在である自分”というものは、ミラノの頭に不安という形でもたげてくる。その度に、自分は“山下未来希”だと、言い聞かせた。
東の渡り廊下へ出ると、視界が開けた。バルコニーに居た時より斜めになるが、城下町を見下ろせる。
このまま少し進めば、昼前にパールフェリカの居た空中庭園がある。似たり寄ったりの廊下が多い上、1度しか通った事が無い道なので、ミラノには迷路でしかない。
2人は、城下町側の回廊の手すりに駆け寄る。今まさに、巨大な影が城下町へ倒れ込んでくる瞬間だった。
ミラノは、息を飲み、きゅっと眉間に皺を寄せて睨みつける。慌てていたので、無意識に開いた右手を伸ばした。
王都側、城下町へ倒れ込んでくるリヴァイアサンがある。既にバランスを崩していて、片足が空へ向いて、翼は地面に付きそうだ。あの山1つ分の巨体が倒れたら──。
ミラノは伸ばした手で拳を作って、一気に引っ張り上げる。
次の瞬間、リヴァイアサンの落ちる辺りに、ぎゅわっと巨大な七色の魔法陣が展開。きらきらとした光の粉をばら撒いて、魔法陣は急速に回転する。リヴァイアサンはそこに倒れ込み、吸い込まれるように、消えた。
いつもはイメージを描いてから魔法陣を展開するのだが、咄嗟の事で手を動かしてしまった。ミラノは、特殊撮影変身ヒーローシリーズのキメポーズを思い出してしまい、恥ずかしくなって目を伏せた。
隣のシュナヴィッツが、安堵の息を吐き出している。
ミラノはふと、胸元まで引き寄せた右拳の親指が、じわじわと色を失い、消えていくのに気付いた。瞬いて顔を上げ、怪鳥ジズを踏みつけこちらを見るベヒモスと目があった。
これだけ離れていても、あまりの大きさからそれらの姿ははっきりとわかる。
ベヒモスからの知らせだったのかもしれない。ミラノに外の様子を確認させようと、“絆”とやらで知らせてくれたのかもしれない。
ミラノはベヒモスの丸い目を見る。ベヒモスはジズを4本の足で踏みつけたまま、動く気配が無い。腹にはジズから白い光線を何度も放たれているのだが、びくともしない。ミラノは引き寄せていた右拳を開いて、そのまま胸に当てた。声は出さず、口だけで『かえりなさい』と動かす。
すると、リヴァイアサンを飲み込んだ魔法陣が、回転したままベヒモスの頭上へ移動し、下にすとんと落ちた。ベヒモスとジズを丸ごと飲み込んで、魔法陣は消えた。
“神の召喚獣”らが居た方を見ていたシュナヴィッツは、首を左右に振りながら「ははっ」と小さく笑って、肩をすくめた。
「すごいな、ミラノの召喚術、というのか。本当にすごい」
そしてミラノの方を向き、目を見開いた。
ぱさりと、ミラノの肩から下の髪が、消え去るところだった。
ミラノはそっと右手の肘を上げた。髪に触れる事は、出来なかった。ミラノには確認が出来なかったが、毛先はすいたようにランダムで、ばらばらだ。おかっぱというよりは、前下がりボブのような、前髪は長さが残り、後ろが首の付け根辺りまでの短い髪型になった。
鼻で小さく息を吐いて、ミラノは右肩を下ろした。上げたつもりの右手だが、肘から先が無く、髪に触れるられなかったのだ。
左腕も、髪も右手も無くなって、体はえらく軽くなった。
「ミ、ミラノ……」
シュナヴィッツの声は震えている。ミラノの髪と、それに触れようとした右手の肘から先が、無いのだ。シュナヴィッツの声から顔を逸らして、ミラノは相変わらずの声で言う。
「足でなくて本当に良かった。行きましょう」
先を歩き始めたミラノの右の二の腕を、シュナヴィッツが乱暴に引っ張った。着地するはずだった足がふわりと簡単に持ち上がり、無理矢理、シュナヴィッツと向かい合わせになる。ミラノは彼の顔を見上げる。
「痛いのですが」
シュナヴィッツは下を向いていて、ミラノに表情を見せない。そのまま近寄って来て、ミラノをその腕の中に包み込んだ。紫の鎧は、少しひんやりとしている。
「もう、インターネットゲームとか、無理ね。タイピングが得意だったのに……本のページも、めくれそうにないわ」
シュナヴィッツは、いつもの淡々とした声を聞きながら、自分の頬をミラノの首筋に寄せた。右手で一層ミラノを抱き寄せながら、先の短くなった後ろの黒髪をぎゅっと握った。
ミラノの体の一部が次々と失われていくのが、シュナヴィッツにはたまらない。代われるものならば代わってやりたい。胸の下辺りをぎゅうぎゅうと締め付けるような痛みが、酷い。
汗でべたついたままの頬を、シュナヴィッツはミラノの首に押し当て、目を瞑った。
心の奥で、何度も何度もミラノの名を叫ぶ。その想いを、どうやって伝えたらいいのか、わからない。ミラノに想いを返して欲しいわけでもないので、どんな言葉を使えばいいのかわからない。幼い子供のように、泣いてだだをこねて、この現実を全部つっぱねて元に戻せと、叫びたい。だが、そんな事は無意味だと、わかっている。
そっと目を薄く開いて、シュナヴィッツはそのまま真正面を見、もう一度強く瞼を閉じた。
次に目を開いた時には、ミラノに触れた頬を、そっと首の上へとずらして、震える唇で耳の下辺りに口付けた。そのまま唇を這わせると耳たぶに当て、低い声で呟く。
「ぜったい、ぜったいに……護る」
「…………ありがとう。無茶は、しないでくださいね」
その声は、シュナヴィッツが今まで聞いたどんな声よりも柔らかく、優しい。召喚主のパールフェリカに向けられたものではなく、間違いなくシュナヴィッツへとかけられた声だ。シュナヴィッツは下唇を軽く噛んで、目を瞑った。目は悲痛に歪む。しばらくそうしていたが、ぱっと離れた。
「それは、僕のセリフだ」
片眉をきゅっと下げて、困ったような、泣きそうな笑みを、シュナヴィッツは見せた。
その笑みに、シュナヴィッツの想いの全てを見て、ミラノもまた、ただ微笑んだ。