(103)未来の希望(3)
(3)
黒く濡れたような6枚の翼を器用に揺らして、持つ堕天使レイムラースは、巨城エストルク屋上、王都全体を見渡せる、火の無い聖火台に降り立った。
巨城エストルクから離れるように飛んでいたのだが、七大天使長アザゼルの強い光が見えて、戻って来たのだ。
「……どうやって“七大天使“を召喚している?」
驚きは言葉として表現されるが、それを聞く者は居ない。
レイムラースの腕の中、パールフェリカは青ざめた顔でぐったりと気を失っている。
パールフェリカの首には、黒い墨のようなものが一周、塗られている。これはレイムラースの血、彼の施した力──“呪い”だ。
城前広場を縦横無尽に駆け巡る7人の天使を、レイムラースは見下ろす。
天使は一様に、白銀色の長く豊かな髪を肩の辺りでゆるくまとめており、それを4枚の翼の間に流している。翼の色は、それぞれ異なる。
真紅の翼をしたイスラフィルが悠然と城前広場を一周すると、空は弾けるようにオレンジ色に輝いた。我此処に在りと、その存在を大きく示せば、モンスターらの視線を一身に浴びた。
蛾が我先にと光へと集うように、飛翔モンスターはそちらへ体を捻る。
巨大な炎の槍を掲げ、すれ違うワイバーンや他の空を舞うモンスターを、イスラフェルは次々と打ち倒していく。吹き上げる炎を辺りに振りまいては、近寄りがたい神聖な姿を顕示した。イスラフィルは、七大天使の中、火を司り、神の先鋒を務めると言われている。文字通り疾風の如く駆け抜けては、ワイバーンの群れを一撫でして、炭と化えていく。
2番手、涼し気な表情に変化はなく、ついとモンスターの合間を飛び抜ける。いずれの天使よりも強い光を放っている。白色の4枚の翼と、同色の尾羽から、溢れるように光の欠片がきらきらと散って、大地に降り注ぐ。輝きの主は、アザゼル。
広場の中央、宙空でアザゼルは片手をゆるやかに天へかざし、上空に光の矢を生み出している。
光の矢は1本1本が人の背丈程ある。
アザゼルはひたりと狙いを定める。悠々と空を舞う、両端に頭を持つ大蛇アンフェスバエナ。あちらこちらへ火炎を吹き出し、恐怖をばらまいている。
今にも、大きく息を吸い込んで大火を吐き出そうとしていたアンフェスバエナに、数十、数百本の光の矢が、一斉に放たれる。
四方八方から、1本1本意思を持つが如く飛び来る光の矢を、アンフェスバエナは避ける事が出来ず、直撃を受け、串刺しとなった。
体を捻りながらひび割れた奇声を上げ、苦痛に耐えるものの、長大な体は重力に捕らわれ、近くの建物へぐたりと落下、轟音とともに倒れる。建物はその重さに耐え切れず、蛇の形で崩れ、粉塵を巻き上げながら倒壊した。アンフェスバエナがまだ空に数匹居る事を確認すると、アザゼルは静かな眼差しのままそちらを見る。アザゼルは光を司る、七大天使の長。
そのアザゼルの背に、シェムナイルが佇む。
アザゼルとは対をなす存在で、闇をまとっている。厳粛な様子で宙空に立つ。その翼は、墨を落とし込んだかのように黒い。翼を含んだ姿から生まれる影はするすると伸び、王都内のあちらこちらで吠え声を上げる巨大な青狼のクルッドを掴み上げる。
身をよじり、飛び退って逃げようとするクルッドの巨体を、影は追い、捕まえては空へ持ち上げると、闇に包み込む。闇がクルッドの四肢を蝕み、ついにはぐしゃりと押し潰す。闇の隙間から、粘り気のある青黒い液体がどばっと溢れ、大地に滴り落ちた。鋭い目つきを半眼にして見やった後、シェムナイルは次の標的を求める。シェムナイルは七大天使の内、闇を司り、アザゼルの影として神の密命を受ける、懐刀。彼の姿を見たことがある者は、ほとんど居ない。エレメント召喚術の契約儀式で、シェムナイルを呼び出せる召喚士が現れる事も、数百年に一度あるかないかという。
火のイスラフィル、光のアザゼル、闇のシェムナイルが仕掛け、生き残ったモンスターからの一斉反撃があるが、その前へ颯爽と割り込んで行くのは、ミカル。
深い緑、光が差し込むとエメラルド色に輝く翼を大きく広げ、両手をかざすと、眼前に巨大な盾を作り出す。モンスター達のどんな火炎にも、突撃にもその盾はびくりともせず、人々を、また他の天使らを護る。ミカルは七大天使の中、土を司り、神の法を伝え守護する存在であると言われている。盾は天使ら、また地上の各所へ次々と生み出された。
その盾の裏で、怪我をして動けなかった者達のもとへ、ひんやりとした冷気が吹き込み、青い羽がふわりふわりと舞い落ちる。見上げれば、4枚の青い翼が包み込むように降りて来る。青の翼の持ち主は、アズライル。
穏やかな眼差しで現れては、何も無い場所で手の平を寄せ、すくい上げる仕草をする。その手を怪我人の上で広げると、ポタリポタリと光を含んだ水滴が零れ、怪我を歩ける程度に癒した。アズライルは七大天使の中、水を司り、命の泉の守護者として癒しの役割を担い、その役目から多くの人々に信奉されている。
戦いの空よりは下、人々の目に映る場所で、蜂蜜色の翼がばさりばさりと風を生み出している。唯一女性の形をした天使ダルダイルが、4枚の翼と両手を広げ、目を瞑り、透き通るような歌声を周囲に響かせている。その声は柔らかく、吹き込む風に乗って王都中を駆け巡る。恐慌状態にあった人々の心へ、ぽつりぽつりと温かな希望が灯る。ダルダイルは七大天使の中、風を司り、静かな優しさと慈愛を神に代って伝えると言われ、絵師の描く天使画において、その美しさから高い人気を誇っている。人々の見上げる容貌とその歌声は、どれほどの絵画よりも華やかで麗しい。
このような状況でありながらダルダイルをうっとり見上げる者もあるが、穏やかさを取り戻した人々に、ジブリールは割り込んでその姿を見せる。
光を受けると白く、影が差すと重く黒く変化する鋼色の翼を、柔らかに羽ばたかせて喧騒を駆け抜ける。冷静に判断するよう説いて回る。あちらこちら、ふわりふわりと舞い飛んでは手招きをして、人々安全な場所へと誘導している。白と黒に点滅して見える翼を、人々は目印として追いかけた。ジブリールは七大天使の中、無を司り、神へと導く役割を持つと言われており、これもまたシェムナイル同様、今まで召喚士らに姿を見せる事は稀だった。
豊かに長い髪を風に舞わせ、個性ある4枚の翼で空を飛び、方々で人々を救う天使の姿が、ある。エレメント召喚術の契約儀式の折りにのみ姿を見せる七大天使。
伝承にある七大天使が揃い、その力をガミカの為に惜しみなく振るっている。
その事に、人々は大いに勇気付けられた。
一方、聖火台では、梟のような首をぐるんと回して王都を見渡すレイムラースが、その光景を苦々しく見つめている。
レイムラースは“人間”にはほとんど伝えられていない。彼は、獣達を守護する天使。
“神”には“封じる”役割を与えられていた。今はその役割を放棄し、堕天使となって醜い姿を晒している。
レイムラースの蛇の口がわなわなと揺れる。七大天使が片っ端から殺して回っているのは、レイムラースが連れてきた獣、モンスター達である。
七大天使がなぜ召喚されたのか、わからない。
「……なぜ、召喚術が使えた?」
レイムラースはパールフェリカの喉の、自ら施した黒い刻印を見る。力を遮断しているはずなのに。“封じ”たはずなのに。現在、“あれ”の力の源となっているであろう召喚士の力は、封じてあるというのに。
梟に似た丸い目はどこを見ているのかはっきりしない。淀んだ瞳が、はたと気付いて揺れた。
「……そうか、今ある“実体”を使っているのか。そこには確かに、力が残っているだろう。器用な真似をする。さすが、と言うべきか。だが……」
──だが、体を維持出来なくなったとき、どうなるのかわかっているのだろうか。
そうして、にやりと蛇の口を歪めて笑う。
「その方が、私には好都合だ」
七大天使によって助けられた人々は、その召喚主を人伝てに聞いて知ると、声を上げる。
既にバルコニーに姿は無いが、そちらを向き、歓声を投げかける。
──ミラノ、ミラノ! と。
その声に背を向けて、ミラノは広間の中程に居るラナマルカ王の傍へ行く。レザードに言われたという事もあるが、護ってもらうという点での効率を考えるならば、傍に行いくべきだとわかる。
すれ違った大将軍クロードが、ミラノを見て目だけ伏せてお辞儀をし、また別のモンスターへ駆けていく。
シュナヴィッツは少し離れた所で、召喚術を交え、刀を振り上げ暴れている。彼の方へは左半身が見えないように、ミラノは移動した。──きっと心配する。
ミラノを除いて、皆鎧に身を包んでいるが、兜は外しているようだ。広間のような室内では、視界がさらに悪くなるのだろう。敵は巨大なものではなく、人より少し大きい程度で、何より速い。視認性と敏捷性を上げる為、兜を捨てたのだ。彼らは手に刀や剣を持ち、構えの姿勢を崩さない。
ミラノがざっと見ても、広間にはモンスターの数の方が多い。さらにまだ、バルコニーからこちらへ上がってくる。
城前広場さえ片付けば、レザードが来てくれるか、七大天使を呼び戻せるのだが。
「……助かった。ありがとう」
王の手にも刀が握られている。周囲に注意を配りながら、ラナマルカ王はミラノに礼を言った。修練を怠らないネフィリムやシュナヴィッツの父というだけあって、彼もまた年齢を感じさせない練達の動きで、敵モンスターと相対している。
ミラノはと言えば、どうしたらいいのかわからず、結局いつものモデル立ちである。一番偉そうな立ち姿だ。
「いえ……パールの力です。それをちゃんと覚えておいて下さい。あの子を、褒めてあげて下さい」
「…………わかった。だが、もう一度来てくれるとは思わなかった。あなたは、自分の力で無い事で、面に立つのを嫌がると思っていた」
一国の主だけあって人を見る目は確かなようで、少ない接触ながらミラノの性格を多少は把握していたようだ。
「──でも今、そんな事を言っていられる状況ではないでしょう」
気分が乗らないから嫌だ、などと言うのは簡単だ。やりたくないからしない、と我侭を通そうとする事も、周りさえ見なければ案外容易い。だが、当然ながら、そんな子供じみた甘えに振り回されない程度には、ミラノは年を食っている。
ミラノはバルコニーの外を見る。七大天使が思い思い飛び回り、それぞれの能力を遺憾なく振るっている。
広間内、ミラノの周囲では、大将軍クロードやラナマルカ王の護衛騎士の打ち下ろす剣の斬撃音と、黒い狼のようなモンスターの唸り声が聞こえている。
ミラノは、目を伏せる。
そうすると、簡単にはっきりと、鮮やかにエステリオの最期が蘇る。
やらなければならないと、強く思う。
早く、パールフェリカのもとまで行かなければと。パールフェリカの護衛騎士であったエステリオの仕事を、せめて、やってやらなければと。
ミラノはすいと、瞼を上げた。
「必要で、出来る事があるのにやらないでいるのは、自分で許せません。──私の名も、好きなだけ呼ばせてあげます」
ミラノは笑みさえ浮かべる。パールフェリカらに見せてきた柔らかい微笑みではない。強く、人の心を抉る、はっきりした意思のある笑み。それは造作に関係なく、鮮烈な美を放つ。
ミラノはラナマルカ王を見る。彼もまた、その蒼い瞳でミラノを見ている。
「私の名前、あちらで“未来の希望”という意味があるのです。好きなだけ、叫んでおけば良いのです。それで、気が済むのなら」
「…………彼らには、それしかできない」
「だから、好きにすれば良いのです。でも、私も、好きにします。文句は、受け付けません」
廊下の向こうに居るであろう重鎮らに、視線をくれてやる事は無い。外野でぎゃーぎゃー言うだけの、結局何もせず、出来ず、悪態ばかりつく連中は、無視だ。
今自分がやれるだけの事を、やる。
とはいえ、そう強く思っていても、やはり不安はある。
パールフェリカから供給されていた“召喚士の力”が、絆が途絶えた事で無くなった今、残されたこの実体を形成する“力”を使えるのかどうか、確証は無かった。魔法陣を生み出す、そう強く願い、“やってみた”。出来たが、同時に体は、魔法陣を生み出す度に消えていく。
──かえれず、元の自分も、今もこの自分も消えてしまったら、私はどこにいくのかしら、ね。
ミラノは左袖を淡々とした目で見た。右手で何も無いそこを緩く2度さすり、袖を引っ張って隠した。無駄だと、わかっていても。
再び、バルコニーの向こう、青い空を見た。
遠く、敵ドラゴンら居た辺りには、2枚の巨大な魔法陣が広がって、ぎゅるぎゅると回っている。
その内の一枚から、“神の召喚獣”リヴァイアサンが、その巨体をすべて、見せようとしていた。
絶望的な状況は、さらに苛烈なものへと深まる。
ミラノは唇を噛むのを、我慢する。
──未来の希望? そんなもの知らない。先の事なんてわからない。ただ、未来へ繋がる為に、手を伸ばす為に、今、やるだけ。