(100)遺す(3)
(3)
ネフィリムとシュナヴィッツがパールフェリカの部屋に着き、控えていたエステリオと顔をあわせた時、寝室から聞こえていた慟哭は、少しずつおさまっていくところだった。
2人は部屋に入ってすぐの所で扉を閉めると、エステリオにミラノは来なかったかと問う。
エステリオは、ミラノが突然部屋に現れ、パールフェリカの居る寝室へ入った事を告げた。パールフェリカの声は、寝室の扉越しにまだ、はっきりと聞こえている。
「…………昨日から姫様はどこか落ち込んでいらっしゃっていて、おそらく今ミラノ様と……。あのお2人の間には、“絆”がございますから」
首の後ろまで覆う帽子と、口元には垂れ布があって、エステリオの表情は目元しかわからない。その眉はひそめられていて、力及ばない己を恥じている。気付いてやれても、護衛騎士にすぎない自分では、パールフェリカの心に近付く事は出来ない。このエステリオの心配を、パールフェリカは知らない。サリアも気付きながらそこにある身分という壁を前に、気遣う声を上げられなかった。
パールフェリカを心配する存在は、いつもそこにあったが、パールフェリカの平気な素振りを見せる態度が、身分が、両者のきっかけを奪った。パールフェリカが本心から甘えるきっかけを、エステリオらにはそれを受け入れる準備があると示すきっかけを。誰が悪いという事はない、時間の積み重ねが築いた、パールフェリカの環境だ。少しずつ、すれ違った。
すすり泣きも聞こえなくなった寝室の扉へ、ネフィリムもシュナヴィッツも目を向ける。
「パールはパールなりに、といったところか。父上も、私もシュナも、パールとは性別が違うから、どうしても踏み入る事が出来ないところはあったからな……。──エステル、ミラノは何か言っていなかったか?」
「“うさぎのぬいぐるみ”を探しておいででしたから、“人”から“ぬいぐるみ”になるおつもりだったのではないでしょうか」
ネフィリムは顎に手を当てて目を細める。
「レザードが言うには、ミラノは“うさぎのぬいぐるみ”ではまともに身動きが取れなくなっていた、と聞いたが?」
エステリオの瞳が数瞬考えに沈み、すぐにその色を取り戻す。
「歩くのは困難そうには見えました。ですが、足の裏のクッションをご自身で取り除いてからとの事で、クライスラーに修理をさせるようでしたが」
ネフィリムは一つ頷くと、シュナヴィッツを見る。
「……シュナ、ミラノはパールの位置を把握できなかったと言っていたな? ユニコーンに連れて行かれ、探しに行った時の事だ」
「ええ、わからないと。そういった感覚そのものが無い様子でしたね」
「今日、ミラノはパールの居る場所がわかったらしい」
「え?」
「──妙な感じがするな。クッションの問題だけならいいが。ミラノは本当に大丈夫かな……。そもそも召喚獣か霊か、まだはっきりしていない」
かえりたいと、いや、かえるつもりだと言っていた。出来るならば、望むままかえしてやりたい。しかし、召喚されてくる以上、ミラノは“霊”という存在。かえるべき場所は、はじめから無い……。微かな希望さえ、消えようとしていないか。
「……その上“召喚士”として、祭り上げていましたから……先程のアレは、やはり“神の召喚獣”の魔法陣に、ミラノの魔法陣が破られたから、ですか?」
シュナヴィッツの声に、ネフィリムは心の中からミラノの影を消した。父と話していた時のように、目の前の事柄に対する思考を止めてしまわないように。
──“神の召喚獣”を還しても、誰も“神”に逆らっているとは考えなかった。だが、目の前でその召喚術を、魔法陣を破壊されては……──視覚効果は絶大で、人々に“過ち”だと、“罪”だと、一瞬で刷り込んだ。
「皆、“神”が怖いのさ。仕方が無い。だが、“神の召喚獣”……リヴァイアサンとジズが召喚されるようなら、またミラノに頼むしかない。我々にはどうにも出来ない事だと、誰もが身に染みてわかっている。“神”の意思のままガミカは滅ぶか、“神”を退けるかの二択しかない」
リヴァイアサンとジズを追い払ったのは結局、ミラノに違い無いのだ。生きる者の権利として抵抗しようとするならば、“神”に逆らうしかない。
「……ですが、ミラノが引き受けてくれるかどうか。さっきのあの言葉は随分と、投げやりに聞こえたんですが……」
腕を組んで考え込むシュナヴィッツの脳裏には、鮮やかすぎる程『好きにすればいいわ』と言ったミラノの声が残っている。ネフィリムはすっと目を細める。
「あれでは、腹を立てているのか、ただ面倒になったのか、わからないからなぁ。ミラノの考えている事は……予測ならつくが、気持ちの方は本当にわからない。──しかし、クーニッドの大岩までこちらへ来ていては……」
「え!?」
「それは本当ですか!?」
ネフィリムの言葉に、シュナヴィッツとエステリオが驚いて目を見開いた。調子を変えずにネフィリムは答える。
「リディクディにクーニッドを張らせていた──何かあればその最速の聖ペガサスで知らせるようにと。クーニッドの大岩は、神殿を破壊してこちらへ来ているそうだ。あれは……あの大クリスタルは“神”の一部。“神の召喚獣”どころか、“神”が来てしまうというのはもう、私も対処法が思いつかない。我々の召喚術の源は、すべて、“神の力”なんだ。“神”と戦えるはずがない、抗えるはずがない」
「──ですが、ミラノならばなんとかなると、兄上は考えていませんか」
シュナヴィッツは腕を下ろし、真面目な顔で言った。
「あまり頼ってはいけないと思ってはいるんだが……」
そう言ってネフィリムは困ったように笑う。
「他人の召喚獣を勝手に還してしまったり、“神の召喚獣”さえ還す事、また“神の遣い”たる七大天使さえ召喚してしまうミラノは、さっきも言ったように、我々とは違った召喚術を使っているのではないかと、考えている」
「別の召喚術が存在する、と?」
「いや、全く別というわけではないのだろうが……確かに力の源はパールフェリカが引き出す世界に満ちている“神の力”なのだろうが、それを使うのはミラノだ。“神”への“祈り”や“願い”……信仰から引き出された力を用いて、“神”に逆らう事は、我々には出来ないだろう?」
矛盾があって、大きな力になるはずがない。召喚術という“神の力”で“神”と戦うという事は、自分の顔を自分でぶん殴れと願っているようなものだ。
「だが、ミラノは“神”を知らない。信仰も無い。異世界の存在であるミラノは、“神”に逆らっているという意識なんて薄い……いや、ほとんど無いだろう。無意識というやつだ。だから“神”の力の流れに背いて、我々には想像さえ出来なかったような召喚術を使う事が出来ているのではないか」
シュナヴィッツは再び腕を組んで考え込み、しばらく間を置いて口を開いた。
「……リヴァイアサンもジズもいずれ、姿を顕します。やはりミラノのご機嫌をとって、還してもらうしかなさそうですね」
「そうなるな。パールのご機嫌も、私達でとらないと。パールにはまた、我慢を強いる。ミラノの成している事はつまり、パールの力なのだが、それを人々に知らせる事は出来ない。こうなった以上、ミラノに“召喚士”として力を振るってもらわなければ、パールフェリカが“神に逆らう召喚士”として、あの非難の矢面に立つ事になる。それは避けたい」
「ミラノが汚名を被ってまで、ガミカを助けてくれるかどうか……」
シュナヴィッツは言った後、ネフィリムと揃って溜め息を吐き出した。
たった一度拒まれた位で消える想いなら、召喚獣相手なのに、とっくに自分で押さえ込めていた。今だって、はっきり断られても、想いは変わらない。呆れる程、この現実を無視するかのように、ただその傍に行きたい。後ろ姿でも何でもいい、ただその姿を見たい。遠くからでも声を聞きたい。
そんな相手に、なんて“お願い”をせねばならないのか。嫌な顔を、ミラノは見せないかもしれないが、思われる可能性はあるから、それが酷く、重く苦い。
そこに考えが至ると、“神”に問いただしたくなる。
パールフェリカが“ミラノ”を召喚してからの、変化ではないのか。
リヴァイアサンにしろ、ジズにしろ、本体たるクーニッドの大岩までガミカへやって来るなど。
“ミラノ”の存在が、その召喚術が、本当に“神の怒り”とやらを買ったのか、と。