(010)うさぎとネフィリム(3)
(3)
念の為トエド医師に診てもらう予定である旨を伝え、パールフェリカは謁見の間から退いた。その際、ネフィリムは再び玉座の向こうに消えた。
玉座の向こうには幾重にも金糸銀糸で刺繍を細かく施された色とりどりの厚手の布が垂れ下がっており、その向こうには扉がある。
ラナマルカ王の執務室があるのだが、ネフィリムもそこで手伝いをしている時間が一日の中でも長い。
今日、そこでは副宰相ゼーティスが書類と人と仕事を捌いている。
普段なら彼にも執務室があるのだが、今日はパールフェリカの生誕式典でどたばたとしている為、王の補佐としてここへ来ている。宰相キサスの方は家族団らんの間だけ席を外しただけで、既に謁見の間に戻っている。代わる代わる姿を見せる来賓と王と共に挨拶を交わしているだろう。
副宰相ゼーティスは50絡みのシルバーグレーの髪をした紳士然とした男である。ネフィリムはゼーティスに声をかけ、パールフェリカの召喚披露が中止になった事を伝えた。ゼーティスは驚いた風も無く手はずを整え、再び人を捌いていく。元々、召喚披露が中止される事は、その時のパールフェリカの体調に拠る為、想定内で特に問題は無かったのだ。
ネフェリムは「後は頼む」と言って、別の扉からいくつか部屋を跨いで、廊下へ出た。そこにうさぎのミラノを両腕で抱きかかえ、エステリオとリディクディを従えたパールフェリカが角を曲がって姿を現した。玉座の裏にはいくつも部屋がありそれらには廊下が無い、入り組んだ謁見の間付近の廊下を通ってくるよりこちらの方が早いのだ。
「ネフィにいさま。あれ? さっきとうさまの執務室に戻ったんじゃ……?」
「おや? シュナは?」
「シュナにいさまは……なんかよくわかんない、話しかけても返事しないし……ブレゼノとどっか行ったみたい」
ブレゼノはシュナヴィッツの後ろを付いて回っていた護衛だ。
少し口を尖らせ、パールフェリカはうさぎのまだネジネジの皺の残る左耳を弄った。それを聞いて、ネフィリムはぷっと噴出しそうになるのを堪えて、ほうほうと顎を手に当ててニヤリと笑うに留めた。だがそれも直ぐに消した。
「心配しなくていいよ、パール。今日、パールの召喚お披露目が無くなったろう?そうなると、あとの注目は飛翔ドラゴンでの空中演舞だからね、あれはシュナのティアマトが主役だ。打ち合わせに行ったのさ」
そしてぱちっと妹にウィンクした。
「そっか」
パールフェリカはばっちり納得した。そしてにこっと微笑む。
「シュナにいさまは私の為に頑張ってくれてるのね。なんか変な感じって思っちゃって私ったら失礼な子になるところだったわ。ネフィにいさま、ありがとう!」
素直に笑みを見せるパールフェリカに「うんうん」と笑顔で頷いてネフィリムはその頭を撫でた。一緒に視界に入るミラノを見て、笑いを堪えている。
もし、空気を吐き出せるのであればミラノはパールフェリカの腕の中で溜息をこぼしていただろう。
実際にシュナヴィッツの態度を見たミラノは、ネフィリムの笑いの正体を大体把握している。ネフィリムも、気づいているのだろう。
自分を抱えるパールフェリカの両腕にミラノはそっと触れた。
「パール、降ろしてくれる?」
「どうしたの? 重くないよ?」
それなりに重量のある“うさぎのぬいぐるみ”だったが、パールフェリカはいつも振り回していたので、重いとは感じない程度に腕力がある。
うさぎは赤い目をネフィリムへ向け、見上げた。
「王立図書院……という所に行くのでしょう?」
ネフィリムは目を細めて微笑んだ。彼にはその一言で通じてしまったらしい。
「パール、ちょっとそのうさぎ借りていいかい?」
「え……でも」
「どうせ今から支度で侍女に囲まれるのだろう? ミラノはきっと暇になるから、今手の空いてる私が軽く案内をするよ」
「そう……?」
将来の王にそこまで言われてはお願いするしかない。
誕生式典の衣装に着替え、手順を確認して国民らの前に出て挨拶をする。実際その間ずっと“うさぎのぬいぐるみ”は、部屋に置いておくしかないのだ。ただのぬいぐるみだった時はよかったが、今はミラノという人格のあるうさぎだから……もし自分が置いてけぼりで放ったらかしになったならと、パールフェリカは考えた。
「それじゃあネフィにいさま、おねがいします」
そう微笑んで“うさぎのぬいぐるみ”を両手で差し出した。
「……降ろして……もらえる、かしら?」
繰り返されたミラノの小さな言葉は無視され、“うさぎのぬいぐるみ”はネフィリムの腕に抱えられる事になった。
ネフィリムはパールフェリカ、リディクディ、エステリオに軽く手を上げて見送った。
ふうと力を抜くミラノに溜息の気配でも感じたか、ネリフィムは赤い目を見下ろした。
「式典が終わるまではとりあえず“ぬいぐるみ”のフリをしておきなさい、ややこしいから」
そう言って“うさぎのぬいぐるみ”は荷物のように脇に抱えられたのだった。
入り組んだ廊下を右へ左へ曲がり、何度か部屋を通り抜けた。これは簡単には覚えられない、そう思ってミラノは記憶しようと試みる事を止めた。
「王立図書院に、興味がある?」
カッカッカッと──絨毯は音を鳴らさないが──ネフィリムは足早に歩く。
「今は知識が欲しいと思っています。そこで本を読ませてもらう事は可能でしょうか?」
「なるほど」
感情の無い声、というより思案している声だった。
「今日、本を探したり読んだりは無理だろうから後日また、紹介してあげよう。今日は眺めるだけになるがいいかい? あそこの連中は頭が硬いのが多いが、君なら大丈夫だろうね。ただ、ニホンの文字とガミカの文字は、きっと違うだろう」
「ああ……そうね」
うさぎはそれだけを淡白な声で言った。意味がわかってるのだろうかとネフィリムは思ったが、ミラノが続けた。
「覚えればいいだけだわ」
その淡々とした様子に、ネフィリムはくくっと喉を鳴らして笑った。
「あー……面白い。シュナは確かにこういうのには免疫無いだろうな」
「……面倒は押し付けないで下さいね……大体私は“召喚獣”です」
うさぎは遂にぐったりしたように力を完全に抜いてしまったのだった。15,6の乙女ではないのだ、シュナヴィッツのこちらを見る目が少し変わった事位、気付かないわけがない。
ミラノがそう言うとネフィリムはますます面白いと笑うのだった。